Signifiant
A5/100ページ
5月3日スーパーコミックシティ新刊
イベント頒布価格:1000円
R18
*サイト掲載の為、本とはレイアウトが異なります。
*サイト掲載の為、本とはレイアウトが異なります。
「シズちゃん、いいの?」
静雄の羽織る黒いロングコートに包まれるように寄り添いながら、臨也は精悍な横顔を凝視し、静雄
に問い掛けた。どうしても躊躇いが口を重くさせるのは、この結果が、臨也にとっては、不本意なものだ
ったからで、想定外だったからだ。俺の育てた養い子は、こんな策士じゃなかったのに、と胸中で悪態を
吐く。
静雄の髪は、異形となった今も神々しい金色を放ち、エクソシスト時代、魔物を畏怖させたものと一切
の遜色がない。本来なら静雄は、この広大な領地を治める伯爵として、何不自由ない生活を送れるは
ずだった。その倖せを壊してしまったのは全て自分だと、臨也はこの局面になってさえ、自分を責めて
いる。そんな臨也に苦笑すると、静雄は安心させるように、細い肩を抱く腕に力を込める。そうすれば、
臨也が不承不承といった態で、細く吐息する。
静雄と触れ合って初めて、臨也は温もりと言うものを知った。正確には、思い出したといっていい。ど
れだけの人間と肌を合わせようと、それは感じられなかったものだったからだ。孤独に生きてきた時間
が長すぎて、温もりに餓えていることさえ忘れていた。
たった独りで無意味に生きる時間。その絶望を、人は決して理解できない。死ねないという孤独と苦
痛を、寿命を持つ人間は、決して理解することはできないのだ。けれど今静雄に触れられ、寄り添って
いると、躯の芯から温かい気持ちが湧いてきて、それが漣のようにゆったりと全身に広がっていく。
これが愛している、てことかな?と初めて知った。そんな優しい温もりを与えてくる静雄を巻き込んでし
まった、という負い目を、臨也はどうしても拭い去ることができない。まるで胃の腑に重い石の塊でも詰
め込まれてしまったように、心が重い。けれど静雄は何処吹く風だ。むしろ清々しい表情さえしているか
ら、癪に触った。自分はこんなに真剣に悩んでいるのに、理不尽だ。
そう内心で讒謗を吐き出していると、臨也の胸中を見透かしたように、静雄の腕がそっと伸びた。痩身
を覆うマントが捲られ、左腕を掬われる。黒いスーツの下に着た白いシャツのボタンを外すと、静雄は手
首に視線を落とした。
「もう、痛くないか?」
そっと柔らかい手首の内側を撫でると、静雄は静かに問い掛けてくる。凝視してくる視線には気遣い
が滲んでいて、臨也は金色の前髪を軽く引っ張って、指に絡めて薄く笑った。
「痛い」
まっすぐ見上げると、静雄は焦ったように手首を凝視する。その場所には、数日前まで、静雄自身が
ナイフで傷つけた傷跡があった。
一体いつから計画していたのか?聞かされたのは、その傷をつけられたときだ。自分の育てた養い子
が、とんでもない策士で、悪い男に育っていたのだと実感したのも、そのときだった。綿密な計画を練っ
て行ったくせに、心配するのだから性質が悪い。
「おい!」
穴が開きそうなくらい凝視してくる静雄の声と視線が、焦燥を滲ませている。彫り深い端正な貌が遽
然とするのに、臨也はぺろり、と赤い舌を出して笑った。
「なーんてね」
「あのな……」
俄かに焦った表情を覗かせた静雄に溜飲を下げ、臨也は小さく笑う。そのことに、静雄はあからさまに
ホッとした吐息を吐き出したが、ホッとしたのは自分の方だ、と臨也は思う。
本当にホッとした。ホッとしたのだ。静雄の変化が訪れるまでの数時間は、それこそ永遠のように感じ
られた。まるで底なしの沼に沈み込むような、地獄の時間だった。その間臨也が自分の存在を呪い、静
雄を育てたことを後悔し、気の遠くなるような死に至る病に直面していたのか、静雄は知らない。
数日前は、静雄に傷つけられた手首はじくじくと疼く痛みを訴えていたが、今はその痕跡を白い手首
の上に見付けることは難しいだろう。臨也の細胞は、常に自己複製を繰り返す。それ故の不死だ。
細胞分裂が、ヘイフリックの限界を無視している吸血の種族。寿命遺伝子のテロメアが確実に複製さ
れているがための不死。要は細胞分裂における細胞老化が行われず、テロメアがアメーバー化してい
ると言っていい。言わば単細胞の自己複製と、臨也の不死は似たようなものだ。それが他の吸血種族
との違いだ。
その臨也の正体とも言うべき事実を推測し、しれっ、と静雄に語って聞かせたのは、伯爵家の医師で
あり、静雄の幼馴染でもある新羅だった。その裏に隠されている謀略の要。新羅を突き動かしたのは、
一重に彼の愛した妖精との時間を埋めるためのものだ。
清々しいほど、そして忌々しいほど、新羅は人間の核とも言うべき、利己というものを持ちえていた、
そういうことだ。そして静雄は新羅の口車にのっかり、結局はしたいようにした、その結果が今に繋がっ
ている。
やれやれと溜め息を吐き出すと、臨也はぽつり、と呟いた。
「無茶するよね……」
本来ヴァンパイアは、日光や湿気、というものには脆く弱くできている。銀など論外で、十字架や聖水
といった類のものも、弱点の一つだ。弱いアンチキリストなら、十字架を見ただけで、塵になってしまう可
能性だってある。けれど臨也は違った。
始祖の血を色濃く継いでしまった臨也にとって、太陽の陽射しや雨や水、湿気といったものも、別段恐
れるに値するものではなかった。臨也にとって、魔物を撃ち殺すと言われる銀の弾丸さえ、致命傷を与
えるには至らない。だから臨也は自分を殺す、自分を殺すことのできる相手として、後に稀代のエクソシ
ストとして、教皇庁にまでその名を轟かせる静雄を選んだのだ。
死ぬことのできない臨也にとって、静雄という存在は、銀の弾丸そのもので、希望と祈りが具現化し
た存在だったといっていい。けれど臨也は知らなかったのだ。静雄の愛情と執着と独占欲の深さを。そ
れが臨也に初めて、失敗という敗因を味あわせた。そしてそれは不死に近い時間を生きるヴァンパイア
にとって、永久に消えない刺となる。
七歳の誕生日。ある事件を切っ掛けに、静雄のエクソシストとしての血は覚醒したが、それはある意
味、突然変異と言って差し支えない、異端の膂力だった。
先祖返りは先祖返りだろう。代々女王の特務機関として、王室の、というよりは、英国の暗部を支える
平和島家には、突出した能力を持つ者がよく生まれた。それが魔物を排してきた代償であるかのように、ブルーブラッドの流れを汲む家系には、魔物に近しい能力を持つ者が生まれた。当主になる人間には、必ず何かしらの特殊な力が宿っていた。逆に言えば、それが当主の資質といえる、と言われているくらいだ。
王室の暗部を支える血は、連綿と人知れず受け継がれてきた。静雄の父親もまた、呪術に長けたエ
クソシストで、詠唱破棄で魔術を使うことができる逸材だった。その所為で、巷の渾名は、エクソシスト、
というよりは、ウィザード、として、その存在が際立っていた。静雄の祖父は、強い言霊の力を持ってい
た。言霊により、魔物さえ従わせるほどだった。けれど連綿と受け継がれてきた家系の中でも、静雄ほ
ど異端の力を開花させた者はいなかった。彼の高祖父もまた静雄と同じ桁違いの膂力の持ち主だった
が、静雄の膂力には及ばなかったことを、臨也は良く知っている。
『……待ってろよ、今度こそ絶対に、殺してやるから……独りに、しないから……待ってろ……臨也……』
遠い昔の記憶が、胸の奥で疼くような切なさを伴ない、甦る。
滴り落ちる血、迫り来る彼の死期。これで自分を殺してくれる者はいなくなってしまった、という言い知
れぬ底のない絶望。
血に濡れた金色の髪。ひたむきな一途さで、死ぬその瞬間まで、自分の身を案じてくれたエクソシス
ト。
幾度と度となく敵対し、そしてその中で生まれた奇妙な関係だったが、今思えば、愛し始めていたの
かも知れない。自分を殺してくれる、殺してやると言ってくれた彼を。
あのとき、死に逝く彼に血を与えれば、恐らく彼は死なずにすんだだろう。そして自分を殺してくれたか
もしれない。けれどそれは同時に、彼に自分と同じ孤独と絶望を味合わせる結果に繋がることを意味し
ていた。自分を殺したあとは、今度は彼が死ぬことのできない絶望を生きることになる。孤独を知りすぎ
ている臨也にとって、それはできなかった。だから待った。自分を殺してくれる存在が現れるまで。そして静雄と出会った。静雄はその彼と、生き写しのように似ていた。顔も、性格も、膂力も。
「おい、手前、誰のこと考えてやがる」
遠い約束を懐古していると、隣から剣呑な静雄の声が聞こえ、臨也はくすりと笑って肩を竦める。同属
になった所為か、元々鋭かった静雄の勘は、ますます冴え渡っている。これじゃぁ、うっかり過去を懐か
しむこともできない、と薄く笑えば、静雄の腕がくるむように薄く細い肩を包み込む。じんわりと、温かい
熱がしみこんできて、ああ、愛してる、と噛み締めるように胸の中で呟いた。けれど、これからのことを思
えば、甘い顔ばかりはできない。
「最初で、最後だよ。こんなこと」
「ああ?当たり前だろうが」
何言ってやがる?と訝しむ静雄に、臨也は苦笑を禁じえない。静雄は一体何処まで判っているだろう
か?自分のとった行動の危険性を。その軽はずみともいえる行動を。
代々英国の暗部を担っていたエクソシストの家系は、臨也のみならず、英国中の魔物の関心を集め
ているといっても過言ではない。その力量を測る、と言う意味に於いても、関心が高いのだ。だから人間
とは違う時間軸を生きる異形にとって、平和島家はある意味で特別だった。だから臨也だけではなく、
平和島家当主の技量を知らない魔物は存在しない。大なり小なり、魔物間で共有される情報というもの
があって、力の及ばないものは、平和島家当主の周囲では問題は起こさない。その当主が魔物側にな
ったのだ。
臨也は諦念と溜め息を吐き出すと、静雄の胸板に頬を寄せる。そのネコのような仕草に、静雄がさら
りと黒髪を梳いた。
闇の中に同化して尚、漆黒の美しさを放つ綺麗な艶髪は、昔から静雄のお気に入りだった。節だった
指が、髪から耳朶を宥めるように撫でていくのに、臨也は肩を竦める。
自分を抱き締める静雄の腕。静雄の温もり。ゆっくりと刻まれる鼓動。静雄の息遣い。そして濃い煙草
の香り。
連綿と受け継がれてきたエクソシストの家系の中で、静雄ほど、際立った力を持つ者はいなかった。
遠見の力でもなく、言霊の力でもなく、呪術に長けた力でもなく。静雄の力は直截的で、暴力的なまで
に、直線的な力だった。それは静雄のまっすぐな性格そのものだと臨也は思う。
エクソシストとしては、些か直線的過ぎる力ではあったものの、静雄は紛れなくエクソシストの才に溢
れ、血統の正しさを現わしていた。しかし自分の異端性をよく理解していた静雄は、人と交わることが苦
手だった。伯爵として表に出ることは殆どなく、爵位は弟に譲りたいとさえ考えていたくらいだ。エクソシ
ストとして、女王の特務機関に身を置く静雄にとって、爵位は何の興味もなかったからだ。何より静雄が
追い求め、欲したものは、名声や名誉ではなく、幼少時を一緒に過ごした育ての親、それだけだった。
そしてそれが異端の者、人間に害をなすヴァンパイアだと知っていたから、必然的に、静雄は職務にの
めりこんだ。けれどその意味を知る者は、新羅と、何かと勘の鋭い弟の幽だけだった。
女王の勅命で動くエクソシストの仕事でさえ、静雄にとっては手段の一つに過ぎなかった。エクソシス
トとして現場に出ていれば、いつか必ず臨也に会える。それだけを信じて過ごしてきた。名声や名誉は、後からついてきたもので、静雄にとっては何の興味もなければ、価値もない付属品にすぎない。そし
て事実、彼らは出会った。
静雄は生涯を共にする相手として。ヴァンパイアの臨也にとっては、自分を殺してくれるエクソシストと
して。彼らは再会し、そして運命は静雄の手によって、臨也の思惑を大きく変えてしまった。不本意、と
いう悪態と同時に、倖せ、と言う、相反する言葉が、臨也の胸を鷲掴みにしている。
「拒絶反応だって、あるんだよ」
人間がヴァンパイアになるには、ヴァンパイアの血を飲むことが手っ取り早い方法だ。けれど逆に、ヴ
ァンパイアが人間を同種化させよとするには、手順が必要だった。そして静雄は、弱った臨也に付け込
んで、彼の左腕を傷つけ、その血を食むように飲み、臨也と同じ異端になることを選んだ。けれどそれは
必ずしも成功するとは限らない、危険な賭けだった。
異型輸血で拒絶反応に陥り、死に至るのと原理は同じで、人間とヴァンパイアの交配にも、拒絶反応
は存在する。ヴァンパイア化に失敗すれば、その人間はその場で塵になる。そして静雄は臨也の思惑
を大きく違え、今は臨也と同じ時間を生きる者になった。
時間を渡り、闇に生きる、夜の眷属。
本当なら、静雄はエクソシストとしてだけではなく、階級制度が絶対なこの英国で、伯爵として何不自
由なく生きていけるはずだった。運命の悪戯で出会ってしまったあのときすぐに、親元に戻していれば、
事態は変わっていたはずだ。自分を殺す者として、静雄を選ばなければ。過去と同じ過ちを繰りかえさ
なければ。
忘れていたのだ、静雄のまっすぐで直線的な性格を、自分は完全に見誤っていた。
そのことに臨也はひどく胸を痛めていたが、静雄にとっては初志貫徹の一言に尽きた。静雄にとって
はそれくらい、臨也は唯一絶対、何にも代えられない無二の存在だった。そのことに気付いてさえも、
臨也には不安が付き纏う。
「手前を二度と離してやらないって、決めたからな」
「身勝手だよ、そんなの……」
「どっちがだ?自分を殺してくれって言う手前と、どっちもどっちだろが。俺がそう簡単に、手前を殺すっ
て思ってたのか?そうだったら、手前の読みの浅ささが問題だったんだろ」
しれっ、と言う静雄に、臨也は何とも言えない表情をして、そうかもね、と自嘲する。そんな臨也に、静
雄が大仰に溜め息を吐くと、痩身を抱き締める。顫える瞼に口唇を寄せれば、臨也の気持ちが押し出さ
れるように、涙となって頬を濡らしていく。それは静雄を同属にしてしまった後悔と、それでも一緒にいた
いと望んだ欲深い自分に対しての涙だ。
「俺は、手前を遺いて逝ったりしねぇ。俺が死んだ後、手前が誰かと一緒にいるのを許してやるほど、俺
は心広くないんだよ。第一俺のもんが、他の男に抱かれるとか考えたら、腸煮えくり返って、墓場から
出てくるぜ」
「莫迦だね、シズちゃん……。俺になんか関わらなかったら、倖せに過ごせたのに」
ぽろぽろと溢れる涙を、静雄の口唇が優しく拭う。罪深い倖せだと、人間みたいな気持ちが後から後
から溢れ出て、ゴメンね、ゴメンね、と胸中で繰り返す。けれどもう静雄を手放すことは、絶対にできない。一度知ってしまった温もりを、臨也は決して手放すことはできなかった。死ねない孤独を永遠に独りで
生きるには、淋しくて、心は壊れてしまいそうだったからだ。
「あ?手前はバカか?賢者みたいに頭がいいって言われてるくせしやがって、養い子の俺の気持ひと
つ見抜けなかったんだからな。忘れるなよ。手前がいたから、俺はエクソシストとして生きてこられた。
臨也と会うって、決めてたからな」
第一立派なエクソシストになったら、会いに行ってあげる、と言ったのは臨也の方だ。その言葉だけを
信じて、静雄は修行に励んだのだ。優しい人たちを裏切って、エクソシストとして生きてきたのだ。エクソ
シストが、対するヴァンパイアに会う手段として、静雄はただひたすらに、エクソシストという生業を続け
てきた。