桜 願わくは 黒々と天に伸びる枝に咲き誇る、薄紅の花弁。夜に見れば周囲を圧倒する異彩さえ放つとい うのに、陽射しに透ける花弁は、まるで天女の衣が隠れているかのように閑舒な空気を滲ませ る。 男ばかりが起居する屯所の庭にも、何本ものの桜樹が植えられ、それは屯所に美しい色合 いを添えている。春爛漫というに相応しい光景は、何処か郷愁を誘う哀切が入り混じる、なんと も不思議な花だ。 今が盛りとあって、そこかしこに桜が咲き誇り、周囲は煙花のように春特有の春霞を醸し出し ている。そのなんとも安舒な光景に、土方は自分が疲れていたのだと自覚する。 書類を書くばかりの仕事は使う筋肉も限られ、こうして外の空気に触れると、神経も筋肉も極 自然に弛緩するのが判る。けれど、だからといって、付け入られる隙は微塵もない。 晴れた空には薄い紗のような白い雲が棚引いていて、空は何処までも淡く薄い青をしている。周囲のそこかしこで咲き誇る桜に、全体的に空気が朧になっている。まさに春特有の韶光だ った。そしてその光景の中に、まるで沈みこむように歩いている総悟の後ろ姿。 どんな危険に曝されようと、決して俯かない綺麗な顔。そして綺麗な顔に嵌められているとは 思えない凛とした双眸。 姉のミツバと振り二つの面差しをしているくせに、決して脆弱に映らないのは、その一対の眼 の強さの所為だ。凝視されれば、何もかも見透かされてしまいそうな視線の強さは、おそらくそ の眼が永久に閉ざされるときまで失せないだろうと、土方は確信していた。 「綺麗ですねィ」 数歩前を歩く総悟が、珍しくも軽やかな声で笑い、片手を宙に差し出している。その手の中に、はらはらと花弁が落ちてくるのを楽しんでいる様子は、武州時代の幼い頃を思い出させた。 剣を極めているからなのか、総悟は外を歩くとき、気配を絶つ癖がある。その所為で、朧な空 気の中に、綺麗に溶け込んでしまっていて、訳もなく焦燥してしまうのは、毎年のことだった。 それは武州の田舎にいた頃から、総悟が未だ自分の腰辺りの身長しかない幼い頃から感じて いるものだ。それを総悟も判っているから、ふわりと舞う桜と同じような有り様で、振り返って淡 い笑みを覗かせる。 「……魅入られるなよ」 「アンタ、昔からその科白言いますねぇ」 「危ねぇんだよ、お前みたいなのは」 桜は二面性を持つ花だ。昼と夜とでは見せる表情が真逆に位置している。まして桜は境界線 に佇む花だ。それは生と死の境界線に佇む自分たちに、よく似ている花だ。 「俺は桜に浚われたりしまやせんよ」 アンタ昔から過保護で困りまさぁ。可笑しそうに呆れると、総悟は再び前を向いて歩き出す。 その華奢な後姿に、万華鏡のような葉影が落ちる。まるで落ち葉衣のような韶光だと、ふと思 う。 はらはらと舞う花弁が陽射しを透過し、天使の輪を描く亜麻色の髪に振り注ぐ。まるで今にも 桜に溶け込みそうな気配のなさに、得体の知れない焦燥に誘われるのは、毎度のことだ。だ からついつい咎めた口調で呼んでしまうのも、いつものことだった。 「総悟」 「アンタおっかない顔して、ロマンチストなの困りやすよ。桜に浚われるって、一体どんな御伽 話しですかィ」 「桜の下には、死体が埋まってるって言うからな」 「人斬り隊長の俺は、血に魅入られるって言うんですかィ?」 「そんな綺麗な深淵じゃないだろうが、俺もお前も」 所詮どんな理由をつけたとしても、自分たちのしていることは、人斬りだ。綺麗な花を咲かせ る死体程度の深淵は、持ち合わせていない。それでも、そうと理解して、境界線に凛と佇む切 っ先みたいな姿は、美しい花を咲かせる二面性を持つ花と何処か似ている。だから桜に魅入ら れるな、と言いたい。もう十分、剣に魅入られ、愛されてしまった子供だ。これ以上、余計なも のに愛されるな、と願ってしまう。 「お前なら、物の怪にも愛されちまいそうだなぁ」 「なんですかィ」 「なんでもね」 莫迦莫迦しい発想に自嘲すると、土方は総悟の隣に並ぶ。ぽんぽんと小作りな頭を撫でると 、行くぞ、と歩き出す。 「アンタ本当に、心配性で困りまさぁ」 総悟が呆れ顔で肩を竦めるが、嫌がっている様子は微塵もない。むしろ毎年のやり取りに、 軽く口を楽しんでいる様子が窺えた。 屯所から五分程度の公園には、四木折々の花が咲く。春には桜や藤が色美しく咲き誇り、梅 雨には色とりどりの紫陽花が、夏には賑やかな向日葵が、秋には紅葉が色をつける。 今は桜が咲き誇り、花見を楽しむ花見客が賑わいを見せ、それを当て込んだ的屋が軒を連 ねている。 「土方さん、綿菓子買ってくだせぇ」 「お前なぁ……」 総悟は自分と出掛けるときは、財布を持たない。元々姉と二人で寄り添い、慎ましやかに育 ってきた所為か物欲がなく、買う物と言えば、駄菓子や団子の類が大半を占める。けれどそれ さえ自分と出掛けるときは、支払わない。完全に財布代わり扱いだ。 「アンタ俺の財布なんだから、文句言わねぇで、さっさと買って下せぇよ」 「財布かよ」 「アンタにいつだって最初に、姉上からの着物見せてる俺に、何か文句でも?」 悪戯を思いついた子供のような瞳で下から覗きこまれて、土方は半瞬見惚れた。こんな時の 総悟は本当に楽しそうで、何処まで判ってやっているのかと思うが、楽しそうだからいいか、と ついつい許してしまう。所詮惚れた弱味だと自覚している。 ミツバからの着物を一番最初に着て見せる相手は、他の誰でもない、自分にだ。そのことが 土方を倖せにしているのだと、総悟に自覚は薄い。言えば安い倖せだと、きっと笑うだろう。け れど死線に身を置いているから、手近に転がる倖せが大事だというのが、土方の持論だ。 江戸に出てきて最初の一年、総悟が姉からの着物を見せる最初の相手は近藤だった。それ が土方に最初に見せるようになったのは、総悟の中の気持ちが動いたときだ。互いに気持ち を確認し、肌を合わせたときから、総悟は近藤にではなく、土方に一番最初に見せるようにな った。その意味程度、ちゃんと理解しているから、甘いと言われようと、多少の我儘は許してし まうのだ。 「文句なんてねぇよ。っつか、俺以外に見せんな」 「そりゃ我儘ってもんでさぁ」 だったらアンタのその着流し、俺以外に見せんなって言ったら、どうするんでィと、何処か拗ね た総悟の口調に、土方は半瞬瞠然となり、次に笑みを深くすると、華奢な躯を抱き締めたい衝 動に駆られた。 「お前なぁ……」 これだから無自覚はタチが悪い、と土方は内心で遠い眼をする。本当に桜みたいな奴だな、 と思う。性質は猛禽のくせに、性格はネコで、桜なんてタチが悪い。こうして昼間無邪気な面を 見せるくせに、夜の褥で見せる妖冶な気配は、花街の女より艶やかで始末に悪い。そのくせ 印象は何処までも清潔なのだから、土方の苦労は並大抵ではないだろう。 「文句はいいから、さっさと綿菓子買ってきて下せぇ」 綿菓子を売っている店の前には、子供が数人群がっている。 「面倒くせぇな。金やるから、自分で行ってこい」 「嫌でィ」 「お前が食いたいんだろうが」 「俺の一番最初、見せてやった駄賃でィ」 「ったく手前は……」 どうせどう言い繕っても、総悟に甘い自覚は嫌と言うほど持ち合わせている。土方は深く嘆息 すると、前方に見える店に足を向ける。 「そこで待ってろよ」 「待っててほしかったら、さっさと行きなせぇ」 「お前なぁ……」 一体どんな言い草だとぼやきながら、土方は総悟から離れていく。その後姿をひらりと五指を 振って見送った総悟は、はらはら舞う花弁を見上げた。 黒々と天に伸びる枝に咲き誇る薄紅の花。陽射しを透過し舞う花弁は、淡雪のように儚い美 しさを持っている。 「綺麗だねィ」 引き寄せられるように両手を差し出すと、皮膜のような花弁がはらはらと掌に落ちてくる。 「あの野郎、昔から俺が桜に見惚れるの、嫌いだったからねィ」 花のような口唇に薄い苦笑を浮かべると、総悟は静かに思い出し笑いを浮かべた。 「チッ……あのくそガキ」 言ってる傍から、桜に取り込まれそうにしやがって。と、土方は綿菓子片手に、ひどく苦りきっ た表情をして、足音も荒々しく、大股で歩き出す。擦れ違った子供が土方の纏うオーラに怯え ていたが、そんなことは知ったことかと、桜の袂に佇む総悟に近付くと、総悟がふわりと花のよ うな笑みを浮かべて、振り返った。それは煙花に紛れて現れた佐保姫のように、違和感のない 笑みだった。 ――だから始末に悪いから、近づけたくねぇんだよ。 閑舒な春霞の中に埋没している総悟の姿は、副長を副長とも思わない暴挙とも、一番隊隊 長として、討伐に戦陣切って駆けて行く姿ともかけ離れていて、土方を落ち着かなくさせた。 出会った当初から、総悟は桜に溶け込みそうな気配を纏う子供だった。気配を断つことをあっ さりとして除ける総悟にしてみれば、桜に溶け込んでいること事態が恐ろしかった。まるで連れ てゆかれそうな雰囲気だったのだ。少なくとも土方にとっては。 普段クソ生意気な子供が、桜を見上げて無邪気に笑っている姿は、微笑ましいの一言に尽き るが、ほんの一瞬垣間見せた溶け込みそうな気配に、土方はゾッとしたことを今でも覚えてい る。間違いなく桜に魅入られている、と直感してしまったくらい、その時の総悟の気配は、桜に 魅入られていた。それからだ、総悟が桜に近付くことに神経質になったのは。元々桜は美しい 反面、伝承の類に含まれるものは、何かと血腥い悲哀が多い。 「総悟」 「アンタのそれはもう病気ですぜ」 苦りきった土方の表情に心底呆れると、総悟は土方の手に在る綿菓子を奪い取る。赤い舌 がペロっと舐めて、甘ぇと嬉しそうに笑う姿は、年不相応に幼い。それは武州時代の幼い総悟 と大差ない。土方の中には、成長した今の総悟と、いつまでも宝物のように腕に閉じ込めて誰 にも見せたくない幼い総悟が混在している。 クソ生意気なガキが、蛹から羽化して綺麗な蝶に成長したような錯覚に陥るとき、いつだって 土方は総悟を腕の中に閉じ込めたまま、誰にも曝したくない独占欲に駆られるのだ。桜にだっ て、剣にだって、渡したくない。そんな碌でもない独占欲だ。けれど剣に愛された総悟は、それ が存在しない場所で生きていくことは難しいことも判っている。 「お前は剣に愛されてんだ、それで十分だろうが」 「ふーん?俺はアンタに一番愛されてると思ってやすけどねィ?」 アンタ俺の男じゃなかったでしたっけ?と綿菓子を舐めながら臆面もなく言い切られて、土方 は盛大に紫煙に噎せた。 綺麗な顔は面白がっているくせに、冗談を言っているようには見えない。つまりは本気でそう 思っている、ということだろう。確かに幼い総悟を自分のモノにした自覚があるから、言い切ら れて嬉しくないはずがない。 「旦那に言わせれば、アンタが俺を呼び戻してるらしいですからねィ」 旦那も判らねぇお人だ、と総悟はひらひら舞う桜を眺めながら、綿菓子を堪能している。 「嫌な野郎だ」 「アンタと旦那は同属嫌悪でしょ。似てやすよ、アンタら」 「似てるか!」 「似てやすよ」 似すぎてて、判らないだけでさぁと、総悟が綿菓子を食べつつ、歩き出す。その後を追うよう に、桜がひらひらと亜麻色の髪に落ちていく。 「何もかも一人で背負い込んで、誰かに預けようとしない部分なんて、とくにね」 アンタら二人とも、性質っていうか、根っこの部分がよく似てやすよ。総悟が可笑しそうに笑う のに、土方は苦虫を噛み潰したように眉を寄せ、深く紫煙を吸い込むと、吐き出した。 「珍しいな、お前が俺に対して過大評価するなんざ」 「そうですかィ?」 「じゃなかったら、俺を副長の座から蹴落とそうなんてしないだろうが」 「そりゃ過大評価ってもんでさぁ」 「……お前、過大評価の意味判ってるか?」 「アンタ俺を莫迦にするんですかィ?」 「事実を過大評価って言われたら、そりゃちと心配すんだろうが」 剣の腕は真選組随一とはいえ、幼い頃から剣にのめりこんできた反動で、頭脳となると、平 均か、それ以下だというのが隊内の共通認識だ。尤も、戦陣に関しての勘は、理屈を抜きにし て冴え渡るから、土方の布陣に対して誰より飲み込みが早いのも総悟だ。 政治的な問題は抜きにして、物事の本筋を視るチカラは、剣の腕同様、生来の才だろう。その 反動で他のことが後回しになるのは、引き換えだろうと土方は知っていた。 「アンタを蹴落とすのは、俺が近藤さんの横に立ちたいからでさぁ」 「俺はお前の男じゃないのかよ?」 「だからアンタには俺の背中預けてやってるんじゃないですか」 俺はアンタ以外に、背中なんて預けないって知ってるでしょ?と笑われて、土方は肩は竦め た。桜に負けるとも劣らない柔らかい笑みは、事実しか語っていない。 斬り込み隊長である一番隊隊長の背中は、誰にでも守れるものではない。それは絶対的な 信頼と、同等の剣の持ち主でなければ、到底補えないものだ。その背を預けられているという ことは、普段どれだけの暴挙を差し向けられたとして、信頼されている、そういうことだ。でなけ れば、総悟が一番無防備な姿を見せるはずもない。戦いの最中でも、夜の閨でも。 「俺の初めてをアンタにやってばっかりでさぁ」 アンタ初物食いって嫌いそうに見えんのに、と揶揄われて、土方は再び噎せる羽目に陥った。これは総悟と初めて関係した夜にも、言われた科白だ。 初物なんて手間隙かけるだけ面倒だと思っていたから、関係してきた女は、男と関係するこ とに慣れた女が多かった。遊びを遊びと割り切れた女の方が、後々に後腐れがない。そう思っ ていた自分は未々青かったと思い知らされたのは、総悟への気持を自覚したときだ。 総悟を手に入れたいと悶々と悩んだ月日。誰かにかっ浚われる前に自分のモノにしてしまい たいと悩みながらも、ずっと手を出さずにいた苦労を、初物食いが面倒だから、の一言で片付 けられては堪らない。真剣だからこそ、衝動に任せて手を出すことはできなかった。 慣れた女と適当に関係していた土方にとって、恋愛はそれこそ初めてと言ってよかった。 それだけにどう接して良いのか、悩んだのだ。関係した最初の夜にそう言ったら、ヘタレだった んですねィと、総悟は可笑しそうに、それでも嬉しそうに笑った。 「これからも、初めては貰うぞ」 四季折々に贈られてくる着物を一番に見たいと思う。誰にも見せずに閉じ込めて、自分だけ のモノにしたいという執着と独占欲を、それで帳消しにしてやっているのだから、安いものだろ うと、土方は身勝手にもそう思っているのだ。 総悟が一番ラクに呼吸ができる場所は、おそらく人の命が行き交う場所だ。桜の下に埋めら れた死体みたいに綺麗な深淵では生きられない。そういう子供だ。真っ赤な血の中で、真っ白 い花を咲かせられる、稀代の生き物。それが総悟自身を苦しめたとしても。剣から愛された子 供は、そう運命付けられている。そんな物騒な場所から引き離したいと思いながらも、そうでき ない。だったら自分は精々守るしかないのだ。死線で俯くことなく、凛と佇む切っ先みたいな綺 麗な姿を。誰よりも傍で。 「どうせ嫌だって言っても、アンタは勝手にそうするでしょ?」 食べ終わった綿菓子の串を近くのゴミ箱に放り投げて、総悟は振り返る。 「ああ」 紫煙を吐き出し、細い腕を引き寄せれば、薄い躯は抗うことなく腕に収まった。 「アンタねぇ……」 心底呆れた、という表情を見せる総悟は、けれど嫌がっていない。呆れてはいるが、陽射しを 透かして瞬く赤い虹彩は、楽しそうに笑っている。 「俺が桜に近付くの由としないくせに、どうしてこういうことだけは手が早いんだか」 花見客で賑わう公園の一角、咲き誇る桜の下に薄い躯を太い幹に押し付けると、圧し掛かる ようにして腕を回す。 公園の敷地をぐるりと囲む桜樹は、それでも人が集まるのは中心部が多い。二人が居る場所 は其処から外れて、入り口から一番から一番遠い場所だ。だから人は少ない。賑わいからは 少しばかり離れている。 「だから、見せ付けてやるんだろうが」 さらりと亜麻色の髪を梳くと、淡雪みたいな薄い花弁がひらりと落ちる。足元には花弁が絨毯 のように散っている。 節だった指で幾度も髪を梳けば、総悟はネコのように喉を鳴らしそうに眼を細め、気持ち良さ そうにしている。そのくせ開く口は、憎まれ口を叩くのだ。その真逆さが可愛いと思うのだから、 恋は盲目だな、と土方は内心で自嘲する。 「ガキですか?アンタは」 「いつだってお前相手に余裕なんざあるか」 「だからヘタレって言うんでさぁ。花街の帝王が聞いて呆れらぁ。ガキ相手に」 「おーおー、総悟君は大人だな。ガキの自覚がやっとできたってか?」 「アンタの中じゃ、俺なんていつだって成長しないガキのままでしょう?近藤さんもそうだけど 、二人とも過保護すぎまさぁ」 俺はね、と、総悟が下から覗き込むように笑って、花のような口唇を綻ばせて口を開く。 「俺はね、別にアンタの宝物でいたいんじゃないんですよ」 「お前が宝物で満足してくれてたら、俺も近藤さんも、ラクだって話しだな、そりゃ」 そうしたら幾重もの宝箱を重ねて、その中心にしまってやるのに、と、土方は苦笑する。 「俺がおとなしくそんなものに納まったら、アンタ満足しないでしょ?なんだかんだ言ったって、 アンタは剣振り回してる俺が大好きなんだから」 だからアンタの屈折した執着とか、独占欲は判ってるから、精々好きにしなせぇ、そう笑う総 悟に、土方は目を点にする。何やらとんでもない科白を聴いた気がする。 「俺だって、アンタ甘やかす程度のことはできるって話ですぜ」 してやったり。そんなふうに笑う総悟に、土方は複雑そうな貌をする。ガキだガキだと思って いたら、いつのまにか大きく羽化していた。随分と化けたものだと思っていると、内心を読んだ かのように、総悟が再び口を開く。 「これからも振り回してやるから、精々おたおたしてなせぇ」 「……お前が本気で俺振り回すのってタチが悪すぎるから、勘弁してくれ」 総悟が本気で自分を振り回して遊ぼうとしたら、タチが悪すぎる。ハッキリ言って、敵うと思え ない辺り、情けない。 「俺が全力で振り回すのなんて、アンタだけですよ」 「他の奴とは遊べないってか?」 さらりと亜麻色の髪を梳く指先が、滑らかな輪郭を描く頬に触れる。数回撫でるように触れて から、やんわりと節だった指は口唇に近付き、親指の腹で、そっと薄い口唇をなぞっていく。 「おや?土方さんは、俺が他の奴と全力で遊んでも構わないってことですかィ?」 くすりと笑うと、口唇をなぞる指を、小粒の歯で甘噛みされる。まるでネコが戯れるような甘噛 みは、却って土方を煽るだけだ。 「煽るなよ」 「見せ付けてやるって宣言したアンタが今更」 だからアンタ、ヘタレなんでさぁと、細い腕が挑発するように土方の首に回る。 「閉じ込めてやろうか?」 瞬く白い瞼に口唇を寄せれば、極自然にそれは閉じられる。長い睫毛が陰影を落とす。慣れ た仕草と間違えないタイミングに、二人で紡いできた時間の長さを思う。密着する躯から、ゆっ くりと体温が伝わってくる。 口唇を離して正面から見詰めれば、下から上目で見詰められ、だからこいつは始末が悪い、 と内心で毒づいた。威力がありすぎるのだ、総悟の双眸は。これじゃぁ、そこいらの相手は吸い 寄せられてしまうだろう。 「アンタにそんな甲斐性、ないでしょう?精々が過保護に甘やかして心配するだけで」 「そうでもないけどな」 甲斐性、甲斐性とくるかい、と、土方は遠い目をした。総悟の中で自分は一体どんな評価を受 けているのか、放り投げられた科白に、今ひとつ自信がなくなる。 「飽きるまで俺を閉じ込めて、好きなだけ抱いて、愛してるって言うくらい、アンタ平気でやれる でしょうけど」 「……お前の俺への評価はそんな奴か?」 「男って総じてそうだろィ?」 「あのなぁ、お前そういう話し、誰から聞くわけ?そんな子に育てた覚えないぞ、俺も近藤さん も」 「だからアンタは俺に夢見すぎって言われるんですよ。男所帯で育って、それくらい知らなきゃ 箱入り息子でしょうが」 「その箱入り息子に育てた自慢してるぞ、近藤さんは」 「だったらアンタは、近藤さんの掌中の珠の俺に手を出した時点で、切腹でさぁ」 近藤には、二人の関係は秘密だ。総悟のことを我が子みたい可愛がり、大切にしている近藤 に、我慢しきれず手を出してしまいました、と白状することは憚られた。いずれは話すときがくる としても、今は未だ次期尚早だろう。近藤事態が子離れできていない親みたいな部分がある のだ。あれだけ志村妙にストーカーしているというのに、総悟に対しては過保護な親以上に過 保護だ。その証拠に、近藤は未だに総悟は性に関しては無関心で、何も知らないと思っている のだ。その総悟が、まさか自分に抱かれて気持ちよく喘いでいると知ったら、憤死しかねない。 「閉じ込めておとなしい俺なんて、アンタはすぐに飽きちまいますよ。言ったでしょう?アンタは 剣振り回してる俺に惚れてるんだから、閉じ込めておとなしい俺なんて、すぐに興味なくす」 俺も、俺を閉じ込めて、愛してる、なんていう土方さんには興味なくしやすぜと、総悟は可笑し そうにくすりと笑う。 「まぁ、たまには愛欲の日々も悪くないかもしれないけどねィ」 「お前なぁ、だから誰からそんな話し聞いてやがる」 「主に隊士たちが見てる昼ドラですかねィ。ドロドロの愛憎渦巻く昼ドラって、案外人間の根っこ にあるもの映してて面白いですぜ」 紛い物の嘘くささしかないくせに、真実映してるみたいで、と笑う総悟に、土方は眉間に皺を 寄せ、額を押さえた。 「今度から昼ドラ禁止だ」 「今更そんなの禁止にしても意味ないですぜ。俺を一から十まで、自分好みに仕込んだ張本人に、説得力なんてありやせん」 映像で見る紛い物より、余程タチの悪い愛欲を植えつけておきながら、アンタも相当夢見が ちだと、総悟が呆れるのに、土方は苦りきった貌をする。 「まぁ、アンタがどうしてもって土下座するなら、一日くらいなら、閉じ込められてやりますけどね ィ。露天風呂付きの個室なら」 「温泉旅行に連れてけってか?」 「アンタも少しは骨休みしなせぇ」 だから一人で背負う部分が似ているって言うんですぜ?と総悟が言うのに、それ意味違うだ ろう?と土方は嘆息を吐く。それでも、総悟の中ではあの白髪だか銀髪だか判別の付かない 男と一緒なのかと思うと、些かげんなりする。得体が知れないという意味では、そこいらの攘夷 志士より得体が知れない男だ。 「まぁ、検討しとく」 「遠出しなくても、江戸にだって温泉はあるし、箱根あたりまで足伸ばせば、それなりにいい温 泉宿あるし。可愛い恋人のおねだりだ、一日、二日くらい、予定明けて付き合う甲斐性、見せ てほしいもんですねィ」 まぁシティホテルに一日閉じこもりっきりでも構いませんぜ。と、総悟の中では壮大な愛欲の 日々計画が進行しているらしい様子に、土方はそれも悪くないか、と満更でもない計画を立て ようと、脳内で今後の予定を反芻する。 「精々期待しないで、待ってまさぁ」 アンタ、ヘタレですからねぇと、白く細い指が土方の無造作に切られた黒髪に伸びる。土方の 黒髪にだって、淡い花弁は落ちている。それをさらりと除けると、 「土下座はしねぇぞ」 「俺が一日付き合ってやるってのに」 「可愛い恋人なら、可愛らしくおねだりしてみろ」 「リンゴ飴買って下せぇよ」 「……旅行の話し、してたよなぁ?」 「いつになるか判らない話しより、目先の楽しみでさぁ」 あっちにありますぜ、と細い指が示す方向には、確かにリンゴ飴という文字が見える。 「食い気が優先かよ」 だからガキなんだ、と卵の先端のよう形良い頤を掬い上げれば、総悟は一瞬だけ、夜の気配 を垣間見せる。 「昼間っから見せていいなら、見せますけどねィ?」 夜の褥で土方にだけ見せる、妖冶な気配。性とは無縁な顔をしているくせに、既に男を知っ て奔放に振舞うことも覚えている子供は、夜になれば別の生き物のように、土方を魅了する。 一から十まで、自分好みに躾けた躯は、生涯男としての機能を果たすことはないのだろう。 総悟に女を教えるつもりはない。自分だけの為に躯を開けばいい。その証拠に、総悟の粘膜 は既に自分の形を覚えたかのように、穿てば貪欲に絡み付いてくる。 「俺以外に見せるなよ」 昼間の顔も、夜の顔も、知っているのは自分だけでいい。対極の顔を持つ総悟は、だから桜 みたいだというのだ。同じものは、引き寄せられる。だから近づけたくはない。 「だったら文句言わずに飴の一つや二つ、買ってきなせぇ」 「俺にも食わせろよ」 「アンタ、甘いの苦手でしょうが」 「お前の躯は何処も全部甘いだろうが」 「アンタが花街の帝王ってガセじゃねぇの?」 何その使い古された科白と、笑う総悟の口唇を、啄んで塞ぐと、憎まれ口とは相反し、総悟の 口唇は従順に反応する。 「ん……っ」 甘ったるい吐息が口唇から零れ、土方の首に回る腕が縋るように力がこもる。 「んん……っ、ん……」 薄く開かれた口唇から舌を忍ばせ、狭い咥内を堪能する。歯列の裏から柔らかい内部の粘 膜をぐるりと舐め回し、舌を絡ませる。縺れるように絡み合う舌を吸い上げれば、腕の中の華奢 な躯がびくりと引き攣るように顫えるのが判る。どれだけの憎まれ口を叩こうが、総悟はキスに 弱い。悪態を叩く口を黙らせるには、キスをすれば大抵の場合はおとなしくなる。逆に言えば、 悪口雑言は総悟からの挑発だと最近は思っている。 「あ、んん……っ」 顫える躯を幹に押し付け、後頭部に片手を回して思い切り引き寄せる。逃げ場などない場所 で拘束されて、咥内を征服される甘さに、総悟は甘ったるい嬌声を漏らす。 「ん、ん……あ、ん……」 狭い咥内で縺れる舌を千切れるほど吸い上げると、細い躯が靭やかに撓い、白い喉が上下 する。それを見逃さずに、撓う腰を抱き寄せれば、総悟の腕がしがみついてくる。密着する躯か ら互いの熱が伝わり、融けそうになる。脳髄に桜みたいな白さが漂い始め、それに侵蝕される 前に口唇を離す。これ以上甘ったるい咥内を貪ってしまえば、それだけですまないことは判りき っている。 「アンタ、サイテーだ……」 甘ったるい吐息を吐き出して、赤い虹彩は熱を浮かして瞬いている。吐息する呼吸はひどく 甘く、空気の色さえ変えてしまいそうだった。 「その眼やめろ」 目尻に浮かぶ涙を親指の腹で拭ってやると、総悟は淫蕩に煙る視線を眇めた。熱の浮く視 線で睥睨されても、それは却って男を煽るだけだ。 「煽ったアンタが悪いんだろィ」 桜にまで独占欲とか、アンタ本当にサイテーでさぁと、総悟はぶつぶつ文句を言うと、土方の 腕から抜け出した。 「さっさとリンゴ飴買ってきて下せぇ」 「へいへい、俺はお前のパシリか?」 不貞腐れた総悟の髪を梳き、耳元で、続きは屯所に帰ってからなと囁くと、白い頬が桜みた いに色づいていく。 「アンタやっぱりサイテーだ!」 讒謗を軽くかわして、可愛い恋人のねだるリンゴ飴を買いに、店に急ぐ。ちらりと背後を間視 すれば、桜の幹に寄りかかり、顔を赤くした総悟が見えて、土方は満足そうに笑った。 差し込む陽射しに煙花を醸して、周囲の空気が淡く染まる。微風に揺れるそれは一斉に枝か ら離れ、規則性も法則性もなく、淡雪のように宙を舞う。 ちらちらと万華鏡のように落ちる花影が、灰桜色した総悟の着物に落ちると、それは一つの 模様みたいに見える。丁度色合い的にも適したそれは、まるで柄のようだ。 「花衣だな」 「なんでさぁ?」 数歩前を歩く総悟が、振り返る。土方が買ってきたリンゴ飴を舐めている顔は、ひどくご満悦 だ。 「花衣」 「?」 小首を傾げた拍子に、さらりと亜麻色の髪が揺れる。その髪に薄い花弁が落ちる。 「桜襲の衣のことだよ、本来はな。昔は表と裏や衣と衣の色にも色々約束事があったみたいだ けどな。今は花見のための着物のことだ。俳句だと、確か春の季語だな」 「副長は無駄知識も多いんですねィ」 何処の誰に教えられたんだか、と総悟が一面白くなさそうに眇めてくる。 「妬いてんのか?」 「ここで妬かなきゃ、何処で妬くんでィ」 「こういうときだけ素直なのも考えもんだな」 鷹揚に笑うと、亜麻色の髪をやんわりと梳く。 「言ってきますけど、俺はアンタと同じく、独占欲強いんですぜ?」 「知ってるよ」 「アンタ本当に、ムカつく男だ」 「まぁ昔のことだよ。正確には、俺が言いたいのは落ち葉衣だってことだけどな」 「なんでィ、そりゃぁ」 リンゴ飴を舐めながら、それでも髪を梳く指を叩き落さないのだから、総悟も素直だ。 「紅葉とかな、葉陰が着物に落ちて、柄みたいに見えることなんだけどな、今のお前の着物が そうだって思ったんだよ。丁度灰桜で色もぴったりだしな」 「ふーん?」 訝しげに眉を寄せ、総悟は着物の袖を見たり、胸元を見たりしている。さらりと振ってくる花弁 や、陽射しが差し込む花影が、着物にうっすらと影を落としている。 「自分だと判りづれぇかもしれないけどな」 「そんなもんですかィ?」 「ああ、綺麗なもんだぜ。一つの模様みたいに見える」 白とも紅とも判別の付かない綺麗な花弁が織り成す花影。差し込む陽射しにちらちらと万華 鏡のような影を落とす。それは一つとして同じものがない。 「だったら、来週の花見に、近藤さんに自慢しまさぁ」 姉上の作ってくれた着物は、センス抜群だって、と、総悟は嬉しそうにしている。 「来週の花見、俺は仕事だから、お前あんま羽目外すなよ」 真選組は毎年この時期、この場所で花見を行うが、全員で屯所を空にすることも、全員を非 番にすることもできないため、どうしても花見に参加できない者も出てくる。特に隊内のトップス リーの自分たちが全員揃って仕事を非番にできる筈もなく、大抵土方は自分を仕事に割り当て ている。局長の近藤を花見に参加させないわけにも行かないので、必然的にそういうシフトに なってしまうのだ。けれど花見に参加できない隊士のために、その日の昼はちょっと豪華に、 花見弁当が振舞われる。 「屯所から五分程度だ。心配なら、アンタ息抜きに来なせぇ」 仕事中の隊士たちだって、屯所から至近距離のこの場所に、順番でちょっとずつ顔を出して いるのだ。その日は副長の土方も、隊士のそれには目こぼしをしている。 「サボりを強要すんなよ」 仕方ない奴、と苦笑すれば、総悟は花笑みを浮かべ、歩き出す。 「過保護で心配性のアンタだ。桜の中に俺を放置はできないでしょう?だったら文句言わずに 休憩にくれば丁度いい」 そしたら花盗人くらいには、なってやりまさぁと、意味深に言うのに、土方は少しばかり関心す る。 「よく知ってたな?」 それも昼ドラ知識だろうか?花盗人は一般的には花を盗んだ男の狂言が有名だったが、盗 むという文字には、人目を忍んで物事を行う、という意味がある。つまりは総悟の言いたいとは 、隊士たちの目を盗んで、キス一つや二つはしてやる。そういう意味だろう。変な部分で情緒 がある。一体誰からの知識かと思う。ミツバとは考えにくいし、万事屋とも考えにくい。というよ りは、万事屋とこんな会話をされていたら、恋人として些か情けない。 「月が綺麗ですね、って言うのと、同じだって」 「お前、マジ誰に聞いた?」 剣以外には興味が薄く、世情には疎い子供だ。情緒とは無縁の筈だった。それなのに、と本 気で心配になってくる。一体何処の誰に植え付けられた知識だ? 「ザキでさぁ。あいつ監察の所為か、色々知ってて」 「山崎だぁ?」 ――あの野郎、何人のモンにいらねぇ知識植え付けてやがる! 「大体どういう状況でそんな話しになったぁ!」 「ん〜〜正確には、ザキだけじゃなくて、原田とか終とか居ましたけどねィ。アッ、近藤さんもい たなぁ」 「……」 ――近藤さん、アンタ箱入り息子に何教えてやがる? 「テレビ見てて、女の口説き方とかやってて、それで」 俺には未だ早いって近藤さん言ってたんですけどねぇ、ザキたちは面白がって色々教えてく れましたぜィ。 「今時そんな口説き文句通用する女はいねぇよ」 「でしょうねぇ。今は女も男も明け透けだから、風流とか無理だろうって原田とか言ってやしたし」 ただ花街の帝王の副長なら、あの手この手で女喜ばす手管にはことかかないだろうって笑っ てましたよ。総悟が面白そうに言うのに、土方はあいつら切腹だ!と、内心で苦々しく舌打ちす る。それを見透かしたのだろう。総悟がくるんと振り返る。 「アンタにしか盗まれてやる気ないから、精々頑張って花盗みに来る甲斐性ぐらい、見せなせぇよ」 花みたいに笑う総悟に、それこそ土方が敵う筈もない。リンゴ飴を堪能している赤い口唇に 魅了され、土方が一瞬を掠めて口唇を啄んでいく。さらりと緩い風に花弁が舞い、二人の姿を 周囲から隠すタイミングを見誤らず、甘ったるい口唇を掠め取ると、 「俺に盗まれるの、焦がれて待ってろ」 土方は悪い男の表情をして笑った。 |