序章 砂上の足跡


 









 倖せでいて
 
 バカみたいに、そればかり願う
 だってもう、それしか願う事もないから
 願う事しか、できないから

 だからどうか、倖せでいて








 蒼い空。白い雲。空の蒼を映す碧い海。水平線の彼方でそれらは綺麗に混融し、輝きと深みを増して行く。
「珍しく人居ねぇな」
 海から吹く風は、夏の匂いを運んで来る。
「そうっスね」
 観光前の季節は、それでも珍しく人の姿がなかった。
ただ静かな波打つ音だけが、規則的に繰り返されて行く。
 輝く蒼い光彩。崩れていく砂の音。波打ち際ギリギリのラインを、リョーマは危なげない足取りで歩いて行く。
 連なる足跡を、波が砂を崩して攫って行く。
「なんか、波の音って、鼓動みたいっスね」
 桃城より半歩前を歩いて、リョーマが笑う。
「どした?」
「何がスか?」
「否、大凡お前の言う台詞じゃねぇから」
 静かに寄せ返す波の音。崩れる砂の音。砕けて行く波の音。海から吹いてくる風が、夏の香りを運んでくる。その風は緩やかにリョーマの髪を揺らし、通り過ぎて行く。その静けさが、桃城に何か奇妙に不安をもたらしていく。
「そりゃ俺だって、たまにはそう言う事くらい言います」
 クルリと振り向いて、少しだけ呆れた顔をしてみせると、桃城はひどく安堵したような溜め息を吐いた。それがリョーマを憮然とさせる。
「それとも、俺がんな台詞言ったら、可笑しいって、あんた言うんスか?」
 確かに、自分は小生意気で、先輩に対しても生意気な口ばかり叩いて、テニス以外に対しての感性や情緒なんて言うものとは、大凡かけ離れている自覚くらいリョーマにもあった。けれどだからといって、安堵する程驚く事はないだろうと思うリョーマは、思えば、内心の腹立ちと苦笑と言う整然とした矛盾を、綺麗に混在させている事にも気付かない。
「心臓の音みたいに、聞こえる」
 ひどく静かな声が、桃城の耳に落ちて行く。
誰に聴かせるでもなく、それは半歩だけ後ろを歩く桃城に聴かせるでもなく、ただ独語のように静かに零れ落ちた。その声の静かさに、桃城が言葉にできない不安を煽られる事も知らないで。
 砂の上に立ち止まり、切れ長の眼を細めて先を視る。
蒼い空、白い雲。碧い海。流れる波。繰り返し、繰り返し、自然の法則の中で繰り返される崩れ砕けて行く波と砂。
 何かあったのだろうか?
言葉に出さず、ただ綺麗な横顔を桃城は眺めた。凝視すれば、人のそういう面には驚く程聡いリョーマは簡単に見透かして笑うから、桃城は覗き視るように綺麗な横顔を眺めては、思考を巡らせた。
 何が、あったのだろうか? 
理由の所在を尋ねた所だ、決して話しはしないだろう性格を知るから、自分勝手な思考を巡らせるしか、桃城に術はなかった。
 ナニが?
普段の癪になる程小生意気な声じゃない。けれど不安はそんなものではないだろう。
らしくない言葉の幾重でもなく、気配が違う気がした。
 言葉より、越前リョーマと言う存在を明確に伝えてくる気配は、多分少しだけ蒼味がかった切れ長の双眸だろう。まっすぐ前を凝視する冷ややかな眼。けれど今はそれがない。
ない事に、桃城は可笑しい程不安を煽られて行く。
 そんな事は、知り合って、こうして付き合って、幾らでも見てきた筈だ。きつい双眸がフワリと和む緩やかな気配。抱き締めた腕の中。急速に快楽に溶けて行く気配と妖冶な眼差しの淫蕩さ。
 別段リョーマを構成する要素の中に、その双眸こそが全てである存在だとは言える筈もない。けれど何より明確にその存在をソコに在ると主張するものは、冷ややかな研ぎ澄まされた硬質な眼差しなのだとも思えた。
 華奢で細すぎる姿態が、決して脆弱に映らないのは、その双眸の冷冽なまでの深さと、活力だからだ。
 けれど今は奇妙な違和感を感じずにはいられない程、桃城の肌身に伝わる気配はナニかが違う。
 ナニかが違う。けれど、ナニが違うのかは判らない事が不安だった。言葉と言う伝達手段を用いて、明確に言語構成されない不安。ヒトはそういった漠然とした不安の中にこそ、より深く強い恐怖を抱くものだ。だから怖い、だから不安は増長する。
「まぁ…」
 眺めている視線の先は、一体何処を視ているのだろうか?
海の向こう。海と空が交わる彼方、だろうか?同じものを視界に映しながら、まったく違うものを見ている気分にさせられて、桃城は言葉が詰まった。
「まぁ…海は、ヒトが生まれて還る場所だって言うからな」
 だから、心臓の音がしてても、不思議はないんじゃねぇ?精々自分の不安を打ち消すのに、そんな軽口で場を取り繕う事しか、桃城には出来なかった。
「フーン」
「お前さ…」
「別に何もないっスよ」
「って言う程度には、何かあったんじゃねぇ?」
 訊きもしないのに予防線を張る程度には、何かあったのだろうと推測できる程度には、リョーマの性格を知っている桃城は、だからそれから先を尋ねる事はできなくなった。
 柔らかい拒絶。聞き入るなと言う。踏み込むなという強烈な拒絶ではなく、『何もない』と、柔らかく告げてくる拒絶。
「別に」
「なら、いいけどな」
 肩を竦めて、苦笑する。
柔らかい拒絶。『何もない』だから心配はしなくていいと言う、柔らかく優しい拒絶に、立ちいる事など出来る筈もない。土足で他人の内在に踏み込む程、桃城は無知な子供でもなければ、馬鹿な大人でもなかった。ただ、誰にでもそういう距離と言うものが存在すると知っている、人間だった。
 どれだけ触れ合う親しい関係の中でも、他人に話せない事など幾らでもある。道端に落ちている石ころ程度に、転がっている。親でも、兄弟でも。友人でも、恋人でも。
 人は誰だって自分だけの領域と言うもの持っていて、一定ラインから向うは、他人が土足で踏み込む権利など、持ってはいない。どれ程親しい関係でも、むしろ親しい関係であればある程、話せない言葉と言うものは存在する。他人になら気楽に話せる内容も、近い距離に佇む存在に、話せない事は幾らでもある。秘密ではない。けれど気安く話せない事なんて、誰だって腐る程持っている。
 バカみたいに優しい男だと、リョーマは内心毒づいた。
本当に、バカみたいだ。誰にでも優しいフリして、誰にも関心なんてないくせに、こうして放射してくる気配は大切にされている事が判ってしまうから、不意に気付けば立ち尽くして、泣き出したくなる。
「どした?」
「何?」
「なんかな…」
 泣きそうに見えた。
「海が綺麗で、空が眩しいから」
 眼に鮮やかな程、哀しい程に蒼い。
「お前の眼ってさ、少し蒼いよな」
 不意に桃城がリョーマの双瞳を覗き込むように腰を掲げて顔を伏せてくる。
「そりゃ、俺、あっちの血、入ってるから」
「お袋さん、ハーフだもんな」
「だから蒼くても、不思議じゃないっスよ。でもよく見ないと、判らない程度の蒼だけど」
 よく気付いたと言うのは、この際愚問だろう。
間近で顔を寄せる関係であれば、瞳を覗き込む機会なんて幾らでもある。
「空閉じ込めたみたいに、視える時、あんだけどな」
「なんスかそれ?」
 時折こうして桃城は、自分の知らない面を見せてくる。
青学のクワセ者と、部長の手塚に言われてしまう桃城は、誰にでも優しい。誰にでも優しいから、誰にも無関心なんだと、リョーマが知るのは早かった。笑顔だ盾だと気付いたからだ。けれど自分にそういった面を覗かせる事のない桃城は、掛け値のない愛情、みたいなものを与えてくる。
 けれどこうして、時折感傷的な言葉を口にしては、リョーマを落ち着かなくさせる事もあった。その都度桃城の知らなかった一面を発見しては、何でもない事を見付けて喜びはしゃぐ子供みたいに、内心ひどく喜んでいる自分を意識して、『まだまだだね』と自嘲する。
「お前の眼、空映してるみてぇーに綺麗だから」
 覗き込んで、瞼に口唇を寄せると、自然と長い睫毛に縁取られた双瞳は閉ざされる白い瞼の奥に消える、水晶のような綺麗な蒼。
「ただ単純に蒼いから、なんじゃないスか?」
 交睫し、触れた温もりに相変らずの台詞を返す。
「蒼って言えば桃先輩、HEAVENLY BLUEって知ってる?」
 触れてすぐに消えた温もりに、蒼い双眸が再び開かれる。
「直訳で『天国の蒼』だな」
「別に直訳しなくてもその通りです」
「なんかさ、アレ、そういう気、しません?」
 アレと、スラリと長い腕が、とてもテニスをしているとは思えぬ瀟洒な指先が、海を指差した。
「ありゃ水平線だろ?」
「桃先輩って、時折詩人っぽい事言うくせに、夢ない」
「なんだよそりゃ」
「不思議な色に、溶けるじゃないスか」
「空の蒼と海の碧。交じると、なんか深みの増す蒼になるし。天国の蒼って気ぃしません?」
「なんで天国なんだよ」
「ちなみにね、夕暮れ時の空と海は、『地獄の緋』」
「お前、たとえ極端すぎるぞ」
「SKY BLUEって言うと、安っぽく聞こえるけど、『HEAVENLY  BLUE』って言うと、何か趣あるし」
「ソレ何処かで聴いた事あると思ったら、花の名前だな」
「…花?」  
「朝顔だよ朝顔」
「morning-face?」
「morning-glory。アメリカにだってあるだろ?西洋朝顔。その花の品種の名前だよ。お袋が好きで、毎年夏になると花咲くんだ」
「ヘェー」
「ってお前、本当に知らねぇのかよ」
「多分…」
 些か自身はない。花には興味などないから、もしかしたら知っている可能性はゼロではない。
「夏になったらまた咲くから、見に来いよ」
「……そうっスね…」
 夏……。
真夏の中で咲く花。天国の蒼。きっとこの蒼い空のように、綺麗な蒼なんだろうと、リョーマは思った。思い、半瞬だけ眼差しを閉ざした。
「ねぇ桃先輩、また夏に海来ようよ」
「そうだな…ってお前、何してんだ?」
 見れば隣でリョーマは靴と靴下を脱ぎ捨てて、ポイッと背後に放り投げた。ショートパンツから覗く、スラリと伸びた白い脚が酷く印象的だ。
「折角の海なんだし」
 そう笑うと、リョーマは裸足で波打際を歩き出した。
踏み締めた砂の感触は少しだけ擽ったくて、けれど波に濡れて冷たくて、不思議な感触だった。
「冷たい〜〜〜」
 崩れて行く砂。足下の砂を崩して波が攫って行く。波と砂の崩れる音が、ひどく柔らかく耳を打って行く。泣き出したい程だ。
「ったりめぇだって。未だ夏じゃないんだから、冷たいに決まってるんだ」
 転々と付いて行く足跡。規則的に打ち寄せる波に掻き消されて行く上に、残されて行く砂上の足跡。その足跡を眺め、桃城は呟いた。
「僕の前に道はない。僕の後ろに道はできる」
「桃先輩?」
 半歩後ろ、波音に掻き消されそうな声で呟かれた独語に、リョーマは立ち止まり、振り返る。
「何?」 
 視線が下を眺めている。それをリョーマは不思議そうに眺めた。
「詩。俺の好きな」
「もう一度」
「ン〜〜?僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る」
 ホラ、見てみろよ。桃城はリョーマの付けた砂の上の足跡を示してやった。
「『道程』って言う詩。なんかいいだろ?道は常に歩いてきた足跡を残していて、未来に向かう道は決まってないっての」
「未来への時間に道はない?そーいう意味?」
「自分で切り開くもんだろ。決められてると思えば腹も立つ。軌跡の上を辿るだけってのはどうもな〜」
「フーン、らしいっスね」
「お前だって、そうだろ?」
 第一お前なんて絶対そうじゃねーか、桃城は笑った。
「確かにね、決められた未来なんて腹立ちますから」
 決められた未来。決定されてしまう道。けれど、どう足掻いても、逃れられない未来というものは存在する。無心に未来を信じられる人間と、できない人間と。無心に未来への時間を願いながら、どうにもならない限界を知る事も。
「なぁ越前」
 不意に、桃城の笑顔が消えた。
「何スか?」
 海から吹く風が、柔らかく髪を弄んで行く。
空の蒼が、泣き出したい程眩しい。    
「離さなくていいか?」
 真摯な声。それ以上に、真摯に語り掛けてくる眼差しの深さに、リョーマは半瞬息を飲む。
 波音が嫌に大きく耳を打った。
真剣なナニかを湛えて見詰めてくる眼差しから、視線が放せなくなる。
 立ち尽くして塞がれる空を、連想させる。崩れて行く時間。足下から喪失していく未来。切り取られていく視界。鮮やかな蒼。何処までも続く、綺麗で哀しい、天国の蒼。
 桃城が、不意にリョーマの左腕を掬い上げた。
「この腕、離さなくていいか?」
 細い手首。どうしてこんな細さで、あんな鋭いショットが打てるのか?疑問になる程、細い骨格をしている。
 テニスに対しては、天の才がある。天から与えられた才。
努力もなしに手入るものなどないけれど、確かにリョーマのテニスの感性は、天性のものだ。けれどそのひたむきさがなければ、どれも培われる事のないものだっただろう。
 父親の名に押し潰されても、足掻いて手にしていたひたむきさ。原石のままで終わらない情熱なくして、リョーマのテニスは完成しない。その事をリョーマに伝え、気付かせたのは手塚だった。リョーマのテニスに力を与えたのは、手塚だろう。
それでも、こうして掴んだ手を、離さなくていいだろうか?
「バカだね」
 苦笑する。本当に大馬鹿で、残酷な程優しい男だ。
「離したかったら、離してもいいけど」
「お前は?」
「あのね桃先輩。自分で言っといてマヌケすぎ。未来は限定されてないんでしょ?別に俺はね、テニスをしてる先輩がそりゃ一番いい男だって思うけど、でもそれだけでこうしてるんじゃないっスから。色々引っ括めて先輩でしょ?タラシなのも、人でなしなのも、悪党なのも」 
 深く溜め息を吐き出し、リョーマは桃城を凝視し、口を開いた。
「……えらい言い方だな」
「確かに媒介はテニスでも、こうしているのは、俺の意志だから。道が別れていくのは当然だし、でも関係が続くか壊れるかは、それこそ自分達次第でしょ?道が別れて終わる関係なら、所詮その程度の関係だったんだろうし。俺は嫌な事は嫌っていうし、ダメならダメって言うし。俺がプライド高いの、知ってるでしょ?まぁ離したいって言うなら、別だけど」
「違う」
 柔らかい声が、身の裡に落ちる。真摯で柔らかい声と眼差し。深まる苦笑に、たった一つの年齢差を突き付けられる気がして、リョーマは薄い口唇を噛み締める。
「口唇噛むなよ。血ぃ出るぞ」
 俯き噛み締める口唇に、桃城は苦笑する。
「桃先輩が、らしくない事言うから」
 大切に…大切にされているのだろう。自分のらしくない言動や行動に、こうして気付いてしまう桃城だから。もっと鈍かったら、哀しませなくて済んだのに。それでも、掴んだ手を離す事はできない自分の傲慢な願いに、自嘲しかできない。


 倖せになって……。


「いや、なんとなくそう思っただけ。悪いな」
 大切で大事で、こんな事は初めてで。だから時折どうしていいか判らなくなる。こんな時、重ねてきた名前も覚えていない女達との関係など、ものの役にも立たないと実感する。
 大切で大切で、掴んだ腕が離れていく喪失の未来を考えたら、不安になる程大切で。小生意気な口を叩きながら、笑ってテニスをしていてくれれば安心できるのだから、自分も大概溺れていると思わずにはいれない。
「バーカ」
「お前なぁ、先輩に向かって」
 笑うリョーマ笑顔が、蒼い空に溶けていく。不意に桃城は呆れ反駁の声を上げた口を閉ざした。
「桃先輩が、あんまバカな事言うから」
 笑うと、リョーマは先刻放り出した靴を取りに、走って行く。
転々と白い砂浜に付けられる、白い足先が刻み付けていく足跡。視線を伸ばせば、リョーマは靴を履き終え、笑っている。
「桃先輩、そろそろ帰る時間」
「オ〜〜そうだな」
 笑っていてくれる事に、ホッとする。少しだけ様子が可笑しかったから、けれどその問いを口に出す事はできないから、こうして笑っていてくれる事に、バカみたいに安心する事しかできない。
 誰かの笑顔がこんなに眩しく心に痛い程優しいのだと、教えられた。
ゆっくりと砂の上に付けられる足跡。出来る道は常に後ろ。付いてくるものではなく、残していく足跡。
 道は常に後ろにできてくるもので、未来は自らが切り開くもの。道は作られているものではなくて、作り出すものなのだというアノ誌が、とても好きだった。可能性は誰にでも等しくあるものなのだと、言われている気がして。










「ねぇ桃先輩」
 笑うと、リョーマが桃城の腕を掬い上げた。
「手、繋ごうか」        
「珍しいな」
 情事と言う、切り取られ限定される時間の中でもない限り、リョーマがこうして手を繋ぐ事はない。
「桃先輩」
 リョーマは手を繋ぐと、グイッと桃城を引き寄せる。
危うく傾きかけた桃城の耳元で、リョーマは何事かを囁いた。
桃城の眼が見開かれ、綺麗に整った白皙の貌を凝視する。
「綺麗な冗談でしょ?」
 いっそ呆然としている桃城に、リョーマは笑った。
「綺麗な言葉程、嘘になって行くって知ってる?」
「越前…」
 初めて告げられた言葉だった。
こうして付き合って、それでも言われた事はない。きっと世界で何より綺麗な言葉。
「だからこれは、冗談で嘘、なんだよ」
 空を映したような蒼い双瞳が桃城を見詰め、綺麗に笑った。



 蒼い空、碧い海。白い砂浜。砕ける波。鼓動のように優しい波音がゆっくりと遠ざかっていく。
 きっと誰が幾百幾千失われても、波は砕けて砂を崩して海を象るのだろうし、空は何処までも蒼く続いて行くのだろう。



NEXT