星の余韻








 四方に切り取られた視界から見える、小さい世界。寝静まる深夜の時間帯では、それだけが全てと言うように世界中の音が消え失せ、深閑とした沈黙が、凍えそうな音を響かせている。
「桃先輩、見えた?」
 初冬の深夜。開いた窓を眺め、半分目蕩みながら、リョーマが思い出したように、座椅子と化している桃城に声を掛けた。背に触れる温もりが心地好く、深夜の時間帯で欠伸が漏れる。
「今年は不作だな」
 蒼い闇夜と地平線を隔てる境界線は、沈黙に閉ざされた空間で、明瞭さを欠いて行く。空気に氷が張る冷ややかさが、聴覚を振動させていくかのような錯覚に囚われる。
そんな中。桃城は華奢な姿態を背後から緩やかな抱擁で抱き締めていた。
 日常では滅多に見せない無防備さで、自分の胸板に薄い背を預けて来るリョーマの躯ごと厚い毛布で丁重に包み込んで、桃城は高い空を見上げた。
 硝子戸半分開いた切り取った視界。簡素な深夜の住宅街は、何処の家も寝静まり、空気の振動が耳に痛い程冷ややかな沈黙が、却って心地好い程だ。寒ければ寒い程。
抱き締めた腕の中の温もりが、愛しく思えるから尚更だ。
 一人ではない心地好い温かさが、パジャマ越しに体温を伝えて来る。どちらかと言えば、体温の低いリョーマが、眠いのだろう。幾分体温が高く感じられる。子供のようだと思えば、子供なのだと思い出しては、桃城は苦笑する。
 幼い子供の性を開いた罪悪は時折感じはするものの、感じている罪悪を表面に出せば、勝ち気なリョーマが怒る事も、桃城は十分承知している。
 欲しいから欲しい、単純な事だと笑うのはいつだってリョーマだから、桃城は甘やかしたいのに甘やかされている気分に陥るのだ。
 情事の最中は放埒なリョーマも、けれどこうしている今は色香など欠片もなく、甘えるでもなく預けてくる背に、互いに触れる体温が、ただ心地好い沈黙だった。
「桃先輩、やっぱ詐欺師」
 もう半分眠りに入っているリョーマが、日常では滅多見せない舌足らずさで、それでも言葉だけは悪態を吐いてくる姿に、桃城は、今までの相手になら感じた事のなかった愛しさを感じ取っては、倖せに浸っていた。
 これこそ真っ当な中学生の恋愛だと、世間から見れば、十分道を踏みは外している中学生の恋愛だと言う意識は、けれど桃城に生憎自覚は薄い。
 告白しようか、告白して相手に避けられたらどうしようか、そう迷い、迷った末に一大決心で告白して、登下校を一緒に帰る帰り道。ファーストフードでデートをすると言うのが、順当な中学生の恋愛の筈だ。セオリーを思い切り踏み外した揚げ句、サクサク肉の関係を築き上げてしまった、有る意味、怠惰な時間をこうして過ごせてしまえる程。二人の関係は、中学生の可愛い恋愛関係からは、大きく逸脱している自覚は、けれど二人共に薄かった。
 テニス以外の事には、周囲にも自分にも無頓着な、悪意のないリョーマの周囲への無関心さは、今では周囲も納得づくで、今までなら帰国子女というラベルが張られていたリョーマにも、気安く告白して来る女子の数が増えている事も桃城は知っているから、尚更の苦笑が湧く。
 周囲にも自分の事も含めて無関心な無頓着ぶりの筈が、こうして腕の中に在れば、それがいつ色香を滲ませた年不相応さに変じるか判ったものではないのがリョーマだ。それでも、リョーマのこんな無防備さを知る者の数の少なさに、桃城は傲慢な倖せを感じるのだ。
「去年は、大量だったんだよ」
 獅子座流星群も、もう珍しいものではないのか、ニュースでも去年のようには騒がれなくなっている。
 桃城がソレを思い出したのは、偶然だった。たまたま手にした新聞のコラム欄に、獅子座流星群の話題が掲載されていて、去年のその時期は、騒ぐ弟妹に付き合わされ、朝方まで流星群を眺めていた事を思い出したのだ。
 流石に去年は流星群の当たり年だったのか、ニュースでも騒がれただけあって、近所の公園には俄か天文マニアと化した近所の人間が、双眼鏡片手に集まって、最後には結構な人数で天体観測になっていた。けれど今年はもう騒がれる事はないから、去年天体ショーの舞台と化した公園に、人は集まってはいないだろう。良いも悪いも、熱しやすく冷めやすいのが、国民性なのかもしれない。 
 その時、思い出したのだ。誕生日の夜。リョーマが見せてくれた光景を。


『天然のプラネタリウム』


 蒼い帳に、天地の境界線が不明瞭になって行く、深夜の時間帯。白く細い綺麗な指が指し示した、星々の光と石の球体。


『カタチとか、そういう物より、いいかと思ってさ』
                     
 月の光に濃い影を落として行く、建ち並ぶ見慣れた住宅街。並ぶ家々の屋根、屋根の隙間に垣間見える電線。更にその上に有るものは、濃い蒼に染まる夜の空だけだ。


『桃先輩、俺が笑ってれば、倖せなんでしょ?』
 

 誕生日に贈るものなら、品物よりも、焼き付けるものがいいと、リョーマは思ったと言う。
 心に焼け付く綺麗な光景。日常の延長線に位置している、有り触れた筈の光景が、一番綺麗だと教えてくれた柔らかい笑顔。誰かと視る光景が綺麗なのだと、教えてくれたリョーマに、だから見せてやりたいと思ったのだ。
 輝く星が落ちて行く光のショー。決して人工では生み出す事のできない、自然の奇跡と星の軌道。
「綺麗だったんだぜ」
「フーン」
 桃城の肩口に頭を預け、半分交睫している蒼い眼差しが、それでも高い空を眺めている。
 星が流れて来る気配はなく、沈黙に閉ざされた蒼い闇を映す空は、冴々とした白い月が切り取ったように雄大に浮かんでいる。


『見せてやるよ』

『仲秋の名月』

『遅くなっちまったけどな、誕生日のお返し』



 季節によって見える光が違う石の球体は、冬の足音が近付くにつれ、日毎夜毎に白い 光が冴えて行く気がした。
 七夕の夜、桃城の誕生日、仲秋の名月、夫々に見上げた月は、こんな風に周囲の音さえ吸収してしまいそうな、凍て付く光を放出してはいなかった。
「怖いな……」
「どした?」
 ポツリと呟かれたリョーマの独語に、桃城は背後から覗き込むように白皙の横顔を凝視する。
「月が明るすぎる」
「アア」
 苦笑する。滅多に覗かせる事のないリョーマの感傷的な一面を、桃城は知っている。
それは素直に口に出す事の方が珍しい、リョーマの繊細な一部だ。
「冬は空気が澄んでる分、光が綺麗に見えるからな」
「桃先輩は、何を願うの?」
「ん〜〜?」
「流れ星って、消える前に願いを掛ければ、叶うって言うじゃん」
 だから、あんたは何を願うの?
リョーマは背後を振り返る事なく、周囲の光を吸収して輝く月を見上げたまま、呟いた。
「七夕は、レギュラー復帰願ったよね」
「そりゃお前だろ」
 こいつはと、桃城はリョーマの髪をクシャリと掻き混ぜる。
紙切れに掲げて叶う願いなど無いのと同じで、星に願いを掲げる程、ガキではなかった。言われるまで、忘れていた程だ。
 桃城にしてみれば、リョーマに綺麗な星の消える軌道を見せてやりたい。ただ単純に、そう思っただけだったから、願う願いなど、考えてもいなかったと言うのが本音だった。
「そうだな、お前は?」
「アッ」
「ン??」
「やっと見えた」
 リョーマが指差した方角には、蒼い闇の中。スゥッと尾を引いて、流れて行く星が有る。
 寒い夜空。空気の凍り付く音が、水晶のように綺麗に響きそうな夜空の中。一瞬で燃え尽きて行く青白い炎。
「桃先輩、寒いからココア飲みたい」
 終焉を迎え、消えて行く星の軌道。けれど余韻はちゃんと残っている。
 背に触れる温もりの暖かさ。頬に触れる指。擽ったい程の温もりが触れてくる。それは時折泣き出したい程のものを滲ませていると、意識したのはいつだっただろうか?
 未だ、言葉に出して、素直に伝えてはいないけれど。桃城が判っていてくれると思うのは、勝手な思い込みだろうか?
 上手に伝わらない言葉のその先を、繋いで欲しいと思うのは、欲深い狡さで、卑怯だろうか?
「ア〜〜?」
 唐突に告げられた科白に、桃城は面食らう。
背後から覗き込めば、リョーマは相変わらず夜空を見上げたまたまだった。
「ちゃんとバンホーテンで淹れてね」
「贅沢もん」
「だって、あんたちゃんと俺の為に常備してるじゃん」
 桃城の家のキッチンには、リョーマの為に桃城が買ってきたココアがある事を、リョーマはちゃんと知っていた。
「ちょっと待ってろよ。ホラ、これちゃんと被ってろ」
 どう言い繕っても、桃城はリョーマに甘い。ねだられれば、否とは言えないから、リョーマの躯に丁重に毛布を巻き付けてやる。やりながら、もうおしまいだと、窓を締めようと伸ばした腕を、リョーマが遮った。
「風邪引くぞ」
「今更でしょ。今まで見てて、あと数分眺めてたって、大して変らないよ。桃先輩は、早くココア」
「ヘイヘイ」
 桃城は少しだけ窓を閉めると、それでも未だ見ていたいと言うリョーマの為。細く窓を開けておいてやる。
 更に狭められた切り取られた視界。続いて星が流れて来る気配はなかった。
 桃城は、ちょっと待ってろとクシャリと髪を撫でると、足音を忍ばせ、キッチンへと向かった。
 パタンと、背後で静かに閉められた扉の音を聞きながら、リョーマは
「バカ」
 ポツリと呟いた。








「ホレ」
 足音を忍ばせ戻ってきた桃城は、湯気の立つマグをリョーマに差し出した。
「Thanks」
 横着に答えマグを受け取ると、リョーマは一口口に含んだ。桃城が消えてたった数分。
それでも今まで背に触れていた温もりが失せ、急速に体温が奪われた気がした。けれどそれは甘い物が好きなリョーマの為に、通常より更に甘く淹れられたココアにより、末端まで温もりがしみじみ行き渡った。
「星、流れたか?」
 再びリョーマの背後に座ると、毛布を巻き付け、改めて抱き締める。
「全然」
 再び背に触れてきた桃城の体温に、無自覚に肌身がホッと弛緩する。ホッとした時。
リョーマはある事を思い出した。
 限界ギリギリまで引き伸ばされた糸のように、緊張していた時間。一瞬でも気を抜けば、逆に命取りになる息苦しい高揚とする試合最中。試合後も、中々その高揚が消え失せる事はなく、クタクタになっている神経と、緊張しすぎた精神とのアンバランスに、どうにもならなかった時。触れてきた温もりに、限界まで引き伸ばされていた神経が、急速に弛緩した事を思い出す。桃城は、そういう存在なのだ。
「今年は本当不作だな。去年天体ショーだったんだけどな」
 夜空は落ちる事のない星と月が、輝いている。けれど流星が降る事はなかった。
「でも一つ見れたからね。それにこうしてるのって、何かいいじゃん。月や星の瞬きが聞こえてきそうで」
 凍り付く沈黙に閉ざされた世界は、輝く月と星の光だけが、冷ややかに響いてきそうで、綺麗で静謐で、だから怖い。まるで心根の奥を、見透かされて行く気分になる。
「お前、国語不自由なわりに、たまに言うのな」
 輝く音が響いてきそうだとは、随分感傷的で、小説家じみている。
「桃先輩、Thank you」 
 両手でマグを持つ手の中。温かかったココアは、徐々に冷めて行く。
 そういえば、仲秋の名月では、『月見酒』だと笑って、桃城が浅いグラスに注いで月を映して飲み干した事を思い出す。
「ん〜〜でも見せてやれなかったからな」
 リョーマの手の中に有るマグを、リョーマの細い手首ごと引き寄せると、桃城には甘すぎるココアを口に含んだ。
 やっぱ甘いな、桃城はそう笑う。
「一つ見れたし」
 俺の、手首ごと掬われたマグを奪い返すと、リョーマは一挙にソレを飲み干した。
「去年は、スゲー流れて、流星シャワーだったんだぜ」
 見せてやりたかったなと、桃城は夜空を見上げた。
誕生日の夜。切り取られた視界の中。綺麗な光景を見せてくれたリョーマに。けれど今はもう星が流れて来る気配はなかった。
「Many seasons,many scenes」
「越前?」
「同じ景色は、二度とないって事」
 それは同じ時間は二度と存在しないと言う事と、同義語だろう。こうして見上げている時間は、今だけのものだと、リョーマは笑う。そのリョーマの科白に、桃城は半瞬言葉が繋ぐ事ができなかった。
「お前、ここ一番って時は、大技出すよな」
 言葉ではなく、こうして感情を伝えてくるリョーマの言外の意味を、桃城が見誤る筈はなかった。
「桃先輩は、此処一番って時は、致命傷的に外すね」
「お前なぁ〜〜」
 やっぱ小生意気だと、桃城はグシャグシャとリョーマの髪を掻き乱す。
「そいや、越前」
「何スか?」
 不意に泊まった指先の動きに、リョーマが怪訝に背後を振り返る。視線の先、桃城は奇妙に真摯な表情をして、リョーマを見ている。
「桃先輩?」
 不思議そうにしているリョーマの瀟洒な輪郭を、桃城の大きい掌中で撫でて行く。その少しだけ擽ったい感触に、リョーマは肩を竦めた。
「What you really want?」
「知ってたんだ?」
「当然だろ?」
「やっぱタラシ」
 可笑しそうにクスリと笑うと、リョーマは桃城の腕の中、姿態を入れ替える。
「桃先輩、約束、覚えてる?」
「約束?」
「ホラ、不二先輩が、前に言ったじゃん」
「って………臨死体験…」
 思い出して、桃城は不二のタチの悪さを噛み締める。天才と言われる不二は、けれど桃城の中では、手塚と競って、内心が図れない人物だ。
「約束が強ければ強い程、三途の川から戻ってくれるって」
「………お前、こいう場面で、そーいう縁起悪い事言うなよ」
 ふざけてはいないリョーマの科白に、桃城は意図を読みあぐねていた。
 闇の中でも空の色をしているリョーマの双瞳は、奇妙に真摯なナニかを滲ませているように、桃城には感じた。
「それでいいよ」
「……お前、この状況でそーいう事言うと、俺は好き勝手に解釈するぞ」
「だからいいって。ただし、一つはね。もう一つは、考え中」
「二つかよ」
 リョーマらしさに、桃城は苦笑する。
12月24日のプレゼント。一つはリョーマの誕生日、一つはクリスマス。
「そいやお前、無宗教だって、散々言ってなかったか?」
 だから自分には関係ないからと、夏はよくリョーマの実家の本堂で、情事に没頭していたのだから。
「世界的なイベントに参加しない程、俺、世間と折り合い悪くないっスよ」
「まったくお前は」
「だから二つね」
 楽しみにしてますよ、リョーマはそう笑うと、トンッと桃城の胸元に顔を伏せる。
「眠い…」
「お前にしちゃ、よく起きてられたな」
 机の上の時計に視線を向ければ、もう2時はとっくに超えている。今日が休日で良かったと、桃城は薄く笑った。朝に弱いリョーマの事だ。昼までは寝ているだろう。
「桃先輩」
 半分眠りに入っているかのように、それでいてハッキリと呼ぶ声に、桃城はどした?
そんな風に覗き込んで呼んでやる。けれどリョーマは顔を上げず、
「See you tomorrow」
 流暢な発音で綴られた科白に、桃城は考える事なく、アア、と短い返事をしてるやると、
「約束、覚えててよね」
「覚えてるよ。二つだろ」
「違う……」
「んじゃ何だよ」
「判らないんだったら、俺の誕生日まで考えててよ。も一つ、宿題あるんだし」


 congratulations and Thanks


 桃城の誕生日、言った科白の意味を、自分の誕生日まだ考えておけと、リョーマは言ったのだ。
「The power of words」
「お前、今夜は謎々ばっかだな」
 言葉の持つ力。死さえ覆す約束。
「あんたが、物忘れ激しいから」
 勝手な解釈をすると言ったくせに、やはり此処一番肝心な時、致命傷的に外すのは、桃城なのだ。意図的な部分もあるし、無自覚な部分もある。今夜はそのどちらかと思えば、半々だろうと思えた。
「桃先輩」
「もう寝ろ」
 胸元から顔を上げたリョーマの顔は、ひどく眠そうだ。
「また明日ね」
 今度は日本語で告げられた言葉。それを最後に、リョーマはスイッチが切れたように、カクンと眠りに落ちた。
「また明日か…」
 最後にリョーマが伝えたかった言葉は、この言葉なのだろうか?そう思えた。
 何故か宿題が増えてしまった、そんな気分だ。
「お前こそ、覚えてろよ」
 完全に熟睡態勢に入っているリョーマを抱き上げベッドに横たえると、乱れた髪を梳いてやる。
 閉ざされた瞼の奥に在る空の瞳。とても綺麗で、いつまでも見ていたいと思う綺麗な瞳。彼を彼として位置付けている力を宿している双瞳の強さ。
「Precious time」
 二人でこうしている何気ない時間が、本当はとても貴重で、大切なのだと。
 言葉に出す事が苦手なリョーマの気持ちを、汲み取ってやれる時もあれば、やれない時もある。踏み込む境界線は不明瞭になって行くけれど、その分見えてくる一面が広がって行く。けれど逆に、近付く距離が、恐ろしいのだ。きっとリョーマは知らないだろう。
 大切な分。傷つけてしまう事がひどく怖い。今までなら、そんな感情とは無縁だった筈だ。大切な存在と言うのは、多分そういう事なのだろう。理屈ではなく、言葉にもできない。
「来年こそ、綺麗に見えるといいな」
 未だ見ていたいからと言うリョーマの為に、細く開かれたままの窓に近寄ると、桃城は空を見上げた。
 一度だけ見られた流れ星。掲げる願いなど今更で、綺麗に流れた星の軌道は、桃城の身の裡に、言葉にできない余韻を残していった。