Air〜空気の存在の定義







 開け放たれた窓。切り取られた視界に広がる深夜の蒼。瞬く星の光と、落ちて来そうで、落ちてこない石の球体。包まれている毛布の温かさより、布越しに触れる体温が、何より温かいと感じる初冬の深夜。


『星のシャワー見せてやるよ』

 そんなタラシの笑顔で告げられてしまっては、小生意気に笑って見せても、断る術など見当たる筈もなかったから、結局こうして桃城に背を預け、夜空を見上げる時間を満喫している事になる。 
 簡素な住宅街。開かれた窓。建ち並ぶ家々の屋根の上を這う電線。更に上には、濃い蒼に包まれた沈黙に佇む深夜の光景。
 蒼い夜空に切り取ったように浮かぶ石の球体。投げ掛けて来る凍える程の冴えた光に、隠し持つ内面を綺麗に写し出されて行く気がして、怖くなる。明るすぎる月の光は、一人で見上げていれば尚更で、足許が不意に喪失する恐ろしさに似た、不安定な気持ちに襲われてしまう。それは日常では意識しない間にも、案外身の裡に巣喰うって根付いてしまったものに思えた。
 隣に在る存在が、不意に喪失する喪失感。アノ3日間と言うものは、自分が思っていたより遥かに精神の深奥に、負担を掛けていたのかもしれないと、こんな時になって気付かされる。
 明るすぎるから怖いと言ったのは、多分大した時間も掛からず訪れる、その時を不意に考えてしまったからなのかもしれない。


『俺は自分がプロになったから、お前もその途歩けなんて、そんな下らない事言う気はないからな。自分の途は、自分で決めろ』

 それは決して嘘ではないだろう、父親の科白だ。
大抵の親は勘違いする。自分と同じレールを由として、歩かせようとするものだ。けれど腹の立つ程他人と自分の区別の付いている父親は、決して自分にプロの途を強要したりはしなかった。有りがたい反面、指針が欲しい時には困りものだ。相談しても、自分で答えを出すしかないだろ、そう言われる事など、百も承知している。


『ねぇねぇ、リョーマ君は、小さい頃からみっちりコーチつけてやってたんでしょ?』

『負けた事、ないんじゃない?』

 本当に勝ちたい相手に、勝てた事など一度もありはしない。自分を取り戻す為に始めたテニスで、乗り越える壁の大きさに気付かされて、勝てた事など未だ一度とてない。


『リョーマ君、プロとか目指してたりするんでしょ?』

『別に…あんま興味ない…』

 無邪気な友人の科白は時折理不尽な苛立ちを煽りはするけれど、彼らはプロという意味を知らない無邪気な子供なのだ。
 プロと言う厳しさを、幼い時から肌に触れるように見てきた自分は、プロになるという意味さえも理解していたから。
 プロになるつもりはなかった。少なくとも、青学に入学するその時までは。今はどうだろうかと考えれば、内心は揺らいでしまう。


「怖いな……」
 月の光は明るすぎて、隠し持つ身の裡を、綺麗に映し出されて行くようで、怖くなる。
 得て失う怖さ。桃城が、自分に対して慎重になる意味が、漠然と判った気がした。
 その時自分はどうするだろうか?桃城は、どうするだろうか?
最後の最後には、決して甘えさせてはくれない男だと知っている。自分が桃城の存在に囚われ、歩くべき道を見失ってしまったとしたら、思考を限定してしまう己を意識して、離れて行く事など、告げられなくても嫌と言う判っている。
 他人を構えさせない気安い笑顔が盾なのだと、こんな時に思い知る。その盾を、向けられた事など一度もないけれど。けれど、もし、歩く道を見誤ったら、選択するべき方向を偽ったら、きっと向けられるのだろう。盾のような笑顔を。


『枷じゃないよ、あの人は』

 枷ではない。ただ、今ではもう、失ってしまう事が恐ろしい、空気のように穏やかな存在。ただそれだけだ。言葉に出して、告げる事は未だできないけれど。狡くて卑怯で、臆病な自分の言葉のその先を、桃城はいつも上手に繋げてくれるから。



「ホレ」
 ご所望の品だと、そんな風に笑って差し出された桃城のマグの中身は、要求したココアがネコ舌の自分の為に温度調整されているのだろう、冷めやすい時間帯とあって、舌には少しだけ熱い温度で淹れられているのが瞬間に判った。
「Thanks」
 受け取り、両手で包む様に持つと、掌中にとっての暖房になる。心地好い温かさが、手を通し、全身に広がって行く気がした。
 たった数分失せていた温もり。要求したココアを淹れにキッチンへと向かった桃城に、けれど失せた温もりに、らしくない心細さが湧けば、自分が要求した事だというのに、桃城に対しての理不尽さが湧いた。
 甘い香りを立ち上ぼらせるマグの中身を一口口に含めば、甘い温かさが染み渡っていくかのようだった。
 失せていた温もりが、急速に甦り、無自覚にホッと躯が安堵するのが可笑しい程だ。
無自覚に弛緩する精神や神経を意識すれば、とある試合最中を思い出す。
 きっと、今思えば、あれは二度目の分岐だったのだろう。











 ギリギリ限界まで引っ張られた精神と言うものは、後ほんの僅かでも外部から力を加えられれば、脆く弾け切れてしまいそうな程、緊張しきっていた。
 コートの隅から隅まで走って、ボールを追い続けた。相手は珍しくも自分をかなりてこずらせる厄介さを持っていた。
 長身から繰り出される鋭い打球。同時に、柔軟な姿態は自由自在に筋肉を操り、無理な態勢からでも、正確にポイントを決めてきた。
 厄介な相手だと思った反面。意地でも負けられないと思った。石をぶつけられた友人の為、先輩の為。そして多分誰より自分を心配していたくせに、そんな表情など欠片も覗かせず、自分の背を押し出してくれた桃城の為に。そして何よりも、自分のプライドの為、負けっ放しで終わるつもりは毛頭なかった。
 石をぶつけられ、そのままで終わらせてたまるかと言う意地。けれどその意地が、未完成だったステップを完成させてくれた。たとえ怪我の巧妙に近い状況であったとしても、いい踏み台だと言ったのは、偽りではなかった。
 息一つ付けない緊張の連続で、苦しい試合だった。けれど、その反面。心の奥底では、楽しくて仕方なかったのも事実だ。斃し甲斐の有る存在に、出会えた歓喜。緊張の連続で、倒れてしまいそうな程苦しくて。けれど、意地と、それだけではない楽しさに、確かに心はワクワクしていた。きっと初めて、勝利というものに執着したのかもしれない。強い相手を斃し、試合最中で進化する楽しさ。知ってしまったら、もう手放せない。


「越前ッッ!」


 聴覚を振動させ響く声は、誰が叫ぶより力を秘めているものだと思えた。
走り続けて苦しくて。思い返せば、そんな余裕などありはしなかったアノ状況で、桃城の姿だけはハッキリ認識できていた。アノ苦しい試合最中。半瞬でも気を抜けば、息苦しい緊張の中。ボールから、相手から視線を外す事などできなかった状況だったと言うのに、桃城の必死な表情だけは、何故か突き刺さる程、見えていたし、理解出来ていたから不思議だ。
 何処か苦しげな必死な顔をしてフェンスに掴まり、誰より心配していただろう内心を含め、凝視して来る視線の意味は、判っているつもりだった。


『ダメっスね大石先輩。こいつ自分でカタつけてやるって顔してますよ』

 そう笑って、肩に触れてきた手。その時感じた言葉にも表情にも出される事なく、笑顔と言う盾で綺麗に身の裡に隠していた桃城の怒りが、判ってしまった。
 腹の奥底に、切っ先を秘めたような冷ややかな怒りを抱えていると思えた。その怒りが、自分の為のものだとも判っていた。けれど自分を過保護に庇護する事なく、自分の行動を予測していてくれたのも桃城だった。
 止められるかもしれないと思っていた彼が、笑顔の盾の向こうで、誰より心配しながら、それでも止める言葉の一つもなく、背を押し出してくれた。あの時の桃城に、応えないわけにはいかなかった。
 思い出せば、瞼の上を傷つけた不動峰との戦いでも、桃城だけが判っていた。止める言葉の一つもなく、理解されていた。 どれだけ見守られていたのかと思えば、その強さは計り知れない。僅か3日という期間。黙って見ているしかなかったアノ時の状況を思い返せば尚更だ。


『俺も、見てるよ』

 見守ると言う表現は、とてもおこがましいものではあるだろうが。アノ3日間、桃城が自分なりの決着を付け、戻って来るのを、向けられた背を、黙って見てきた。
 隣に在る筈の存在が、不意に失せてしまった、アノ、言葉に表現できない喪失感。
3日間、多分あの時間が限界点だった。あれ以上待たされれば、心理的不安がテニスに影響していただろう。きっと聡いレギュラー陣には、悟られていた筈だ。
 走り続けて、息も苦しくて、それでも負けれないから、走るしかなかった。研ぎ澄まされた精神は、引き攣る程限界ギリギリに引き絞られて、あと僅かでも力が加われば、呆気なく切れていただろう。
 そんな自分を救ってくれていたのは、多分桃城だっただろう。押し出してくれた背。
届く声。そんなものが、あの状況では何よりの力だったのだから。
 フェンス一枚で隔絶されている世界だったのだと、不意に思えたのは、桃城の笑顔を見て、無自覚に安堵してしまった所為なのかもしれない。
 鈍い金属音を響かせ開かれたフェンスの向こう、見慣れた笑みを見付けてしまった時。たった一枚のフェンスが隔てる距離が、その時急速に隔絶されている世界だと思えた。
 コートの中では誰もが孤独と戦わなくてはならない。自分自身の孤独と戦わなくては、勝利など到底ありはしない。けれどその為の力を与えてくれるのは、多分声援だろうし、見守ってくれる存在なのだろうと、らしくなく思えるのは、桃城の影響なのかもしれない。
 一人だけれど、一人では無い安堵。今までなら、知らずに過ごしてきた筈だ。ダブルスでない限り、テニスの試合はコートの中ではたった一人の戦いだ。誰の助けも必要とはしないし、欲しいと望んだ事もなかった。けれど、違ったのかもしれないと、不意にらしくない程の感傷が湧いた。湧いた感傷の在処など莫迦莫迦しい程明確で、けれどそれは悪い気分はしないけれど、知ってしまったものは、同時に弱さをも引き連れて来る気がして、直視すれば、少しだけ怖い気もした。
「お疲れさん」
 当たり前のように笑ってくる笑み。触れてくる手。伝わる体温。桃城に合う以前なら、きっと気付く事はできなかった。
隣に在る存在が、けれど何より大切で、きっと失っても当たり前としか思えない程、当たり前の存在だったのだと。だから確かにアノ3日間は、きつかったのだ。気付さかれてしまったと言う意味も含めて。
 触れてきた手に、その慣れた温度に、急速に精神が弛緩したのが、可笑しい程判った。生々しい程の急速さに、内心呆れさえした。欲していたのはこの腕で、試合最中にたった一人の声だけが届いていた原因が判った気がして、やはり呆れた。
 これが愛していると言う事なのかと思えば、yesともnoとも答えらない気がした。
 自分との距離を慎重に扱って来る桃城に、大切にされている想いとは裏腹に、時折その臆病にさえ感じられてしまう慎重さに、自分が理不尽な苛立ちを感じている事を、桃城は何処まで理解しているのかと思える。
 理不尽だけれど、心地好い距離。大切にされているのだと、やはりこんな時の桃城を見上げて思う。
 思い返せば、桃城は出会った当初から何かと構って来た。
何故なのか考えても、判らないけれど。問い掛けても、はぐらかされてしまうのが判りきっているから、訊きはしないのだけれど。
「まったく、お前って奴は」
 深い苦笑を伴う穏やかな笑みで、クシャリと慣れた仕草で髪を掻き乱された。
 試合中は神経も精神も張り詰め、研ぎ澄まさなくてはならないから、不安定な方向で中途半端に高揚した意識を、試合後元に戻すのは案外と苦労する。まして今回は中々厄介な相手だったから、もうこれ以上は限界だと思うまで、精神が張り詰めていた。だから、試合後も元に戻すのは容易ではなかった。
 迎えてくれた声援に、応えるのにも苦労がいった。本当は、もう立っているのさえクタクタで、疲れて倒れ込みたい程だった。けれど半端に高揚した意識や、限界まで張り詰めた精神は、容易に倒れる事を許してはくれなかった。その中には、意地と言うプライドも当然存在してはいたのだけれど、容易ではない半端な高揚感は、けれど桃城の手が肩に触れた瞬間、ゆっくり四散していった。きっと桃城も、気付いていたのだろう。
 日常と何一つ変らぬ気安い笑顔で、先刻の何処か張り詰めた必死な表情など笑顔の下に綺麗に隠し、笑い掛けてきたのがその証拠に思えた。
「勝った褒美に、ファンタ買ってやっから」
 そんな言葉を、サラリと吐き出せてしまうからタラシの悪党だと言う事に、何処まで気付いているだろうか?
 桃城には、完全にバレてしまっただろう。自分の緊張しきった精神状態を。肉体は心底くたびれきっているのに、半端に高揚して緊張しきった精神は、試合終了後も巧く切り返らない。 息苦しい緊張感が立ち去らないから、呼吸が苦しい。けれどその緊張も、桃城が触れてきた時。ゆっくり四散していった。その事を、桃城は理解しているだろう。いるから、気安い笑顔で、触れてきたのだろう。
 きっと手塚も気付いていたのだろう。桃城の科白に、咎める言葉が出てこなかった。
いつもなら「何をしている」と咎める声が、聞こえてはこなかったのが、その証拠だ。
「ホレ、行くぞ」
 問答無用で引きずられて、
「桃先輩、閉会式」
 口を開くのも億劫で、けれどそれだけは建て前にも言っておかなくてはならないから、口を開いたけれど、桃城に当然効力などなかった。






「ちょっ…桃先輩」
 自動販売機を通り越し、緑に囲まれた茂みの中は、誰も近付いてはこなかったから、桃城にしてみれば打って付けの場所だったに違いないが、リョーマにしてみれば、些か面食らう状況ではあった。普段なら、人目の有る場所でこういう行為を仕掛けてはこない桃城だ。距離を慎重に扱うというのは、そういう事だと、判っている筈の桃城が、けれど抱き締めてくる程、自分は切羽詰まった表情をしてしまっているのかと、リョーマは桃城の腕の中で、内心溜め息を吐き出した。
 怒りも心配も言葉に出さず、ただ黙って見守ってくれた桃城に、自分は今どんな表情をしているのだろうか?鏡などないから、当然リョーマに判りはしないのだけれど。
「もういいぞ」
「……桃先輩……」
 情欲の欠片も映してはいないな緩やかな抱擁は、ただ柔らかく抱き締めてくるばかりで、労りを伝えてくる。
 ああ、桃城に隠し事はできないと、この時リョーマは痛感した程だ。緩やかに抱き締めて来る腕の感触に、クタクタになっていた肉体も神経も精神も、全てがダラリと弛緩してしまった。
 試合最中、精神も神経も張り詰めなくてはならないのは誰もが同じだから、今のリョーマの状態がどういう種類のものか、桃城は正確に理解しているのだろう。
 試合というものは、誰でも緊張と高揚が付き纏う。それなくして、勝利はない。けれど其処にオン・オフの切替えが巧い下手は当然存在するから、桃城はリョーマの精神状態と言うものを、良く理解していたのだろう。そう思えば、桃城がいつもいつも、見誤らない事を不思議にも思う。反面、見誤らないという事は、それだけ見守られているという事だと、痛感したリョーマだった。
 リョーマの発するシグナルを見誤らない正確な眼と言うものは、桃城が自らに課しているものだ。
 リョーマはテニス以外では自分自身の事にさえ無頓着だから、誰かが気遣ってやらなければならない面が存在する。過保護ではないさり気ない気遣いで、気遣える距離と位置を、だから桃城は確保している。
 相手の負担にならない程度の気遣い。どれ程の心配も不安も笑顔と言う盾の下、綺麗に隠す事に長けている。内心など悟らせず、桃城はいつもリョーマを気遣う事をやめられない。それは大切で大事で、失いたくないからだ。
 尤も、それは二人の関係が出来上がってしまった早い時期、リョーマに露呈してしまってはいたけれど、桃城の奥深い想いまでを、当然リョーマが知る術はなかった。
 そして手塚も判っているのだろうと、桃城は思う。
試合直後のリョーマの緊張しきった精神状態と言うものを。
そして、それを観ているしかなかった、桃城自身の精神状態も。判っていたからこそ、リョーマを連れ出した桃城に、手塚は咎める科白もなく、無言で二人を行動させたのだろう。
 手塚は、リョーマだけに限らず、部員の状態を誰より把握している。それはデータ収集が趣味の領域に達している人間PCの乾の、更に上を行くだろう。
 全国区の青学テニス部の部長で、テニスの技術は、高校テニス界からも一目おかれる高校生級のものだ。そして進学校でもある青学中等部の生徒会長だ。部活と生徒会長とを両立して、尚且つ、誰より部員の内心を理解している。それはもはや天性に近いだろう 真似ようと思って、真似られる芸当ではない。
「もう、いいぞ」 
 柔らかい苦笑じみた声で再度告げると、目の前の華奢な姿態を抱き締める。抱き締めれば、その細い姿態の一体何処に、あんな力を秘めているのかと思えた。
 試合最中、冷ややかな熱を宿す瞳の強さ。小柄な姿態に不釣り合いなパワーと、磨き抜かれた技術。崩れない強さ。
「よくやったな」      
 一体、何処から生み出されているのかと思う。決して頭を垂れない強さと勇気。見据える瞳は。小生意気な仔ネコを連想させる外見の印象を綺麗に裏切り、それは鉄爪を隠し持つ猛禽の強さだ。蒼い空を翼を広げ雄大に飛び続ける猛禽。そして狙った獲物は逃す事のない鋭利な眼光を閃かせ、鉄爪に掛ける。
「桃先輩」
 柔らかい抱擁を咎める程、今のリョーマに気力も余裕もなかった。桃城の腕の中。定まらぬ視線の隅に、自動販売機が見えた。誰が近付いてこないとも限らない。けれど、小生意気な口調で桃城を咎められる程、今のリョーマに余裕などなかった。
 クタクタになっていた肉体とは裏腹に、研ぎ澄まされている精神は緊張しきっていて、平行を失いつつ有ったから、桃城の腕が必要だった。
 柔らかい声と、その声を裏切らない抱擁で、急速に精神が弛緩して行くのがリョーマ自身、生々しく自覚している事だ。
「少し、こうしてろよ」
 身動ぐ気力もないのだろうリョーマが、不意に痛々しく思える。思えて、少しだけ抱く腕に力を込めれば、腕の中。緊張しきっていたリョーマが、弛緩するのが判った。
「桃先輩」
 急速に弛緩した精神は、同時にリョーマに余裕をも思い出させたらしく、小生意気な口調まで綺麗に戻り、桃城の腕の中、咎める口調で、けれど拒絶しない声で、そう笑えば、桃城も安心した様子を覗かせた。
「俺も、怖かったんだよ」
 最初は心配した。リョーマが亜久津に傷つけられたと聞いた時。腹の底を冷ややかに熱した怒りの在処は、同時に心配もあった。けれどその心配は、リョーマの試合を見ていれば、恐ろしさまで生み出されて行った。
 隔絶されるフェンスの向こう。たった一人で戦うリョーマを、見守る事しかできない恐ろしさ。
 手助けとか、安易な言葉とかを欲しがる人間ではないと判っている。心配も不安も恐ろしさも、自分勝手なものだとは、桃城は百も承知していた。それでも、感情と理性は別物なのだと思い知るのは、きっとこんな些細な瞬間なのかもしれない。
 けれど判ってもいた。リョーマは、強い相手に出会って、進化した。引き絞られた糸のような、息苦しい緊張感の中。それでもリョーマは薄い笑みを湛え、進化した。テニスに掲げるリョーマの情熱は、既に最初の目的などとうに超えている。どれ程の強さと勇気と情熱があれば、追いつけるだろうか?桃城には判らない。考えれば、不意に足許を喪失する恫喝に見回れるから、理由を付けて、抱き締めていたいのは自分の方だと桃城は自覚している。
「桃先輩、やっぱ悪党」
 そんな言葉を出されてしまえば、悪党と毒づく事しかできない。
 怖かった。その言葉に、どれだけ心配させ、大切にされているのかを、思い知るばかりだ。
「ちゃんと、届いたよ」
「聞こえてたのかよ」
 張り詰めた緊張が連続する試合の最中。聞き分けられていたとは到底思えない。
「当然でしょ」
 聞こえないとでも思ってた?
嘘か本気か判らぬ声で笑い、リョーマは桃城を見上げた。
悪戯が成功した子供のような表情の中に、何処か妖冶な気配を覗かせた笑みに、桃城は苦笑する。
「ねぇ桃先輩、ファンタは?」
 ねだるように、細い腕が桃城の首に回った。
「欲しいのは、ファンタか?」
 ねだる仕草をして、大概の科白に桃城は苦笑する。
「ご褒美に、ファンタ買ってくれるんでしょ?」
「グレープか?」
 緩やかに首筋に纏わりつく指の感触に、桃城は細い頤を掬い上げる。
「今はね、ピーチって気分」
 中途半端なあの味がね、リョーマは英二に揶揄われファンタピーチを飲んだ時の事を思い出し、クスリと笑った。
「ったく、お前は」
 緊張が解けたのだろう。抱き締める腕の中の華奢な姿態の何処にも、余計な力は入ってはいない。軽口を叩けるのがその証拠だ。
「でもお前、楽しかっただろ?」
 痛々しい程、両端からひっぱられる程の緊張感を小さいからだに滲ませていた。けれど決して苦しいばかりではなかった事を、桃城は判っている。
 水を得た魚のようでもあったのだ。未完成だったステップを完成させ、確実にリョーマのテニスは進化した。何処まで一緒にいられるだろうか?不意にらしくない感傷が胸を過ぎった。
「楽しかったよ。俺、テニス好きだよ。前にも言ったけど」
「そうだな」
 空に翳した手。朝日の中。透き通る手の隙間から漏れる光。確かに握られている手の中の未来。
 リョーマのテニスに力を与えたのは、手塚だと言うのは疑いようがない。だったら自分は、リョーマに何をしてやれるだろうか?
「Air」
「何だって?」
 不意に呟かれた声に、桃城は掬い上げた頤を更に上向かせ、試合最中は冷ややかな熱を灯す空色の瞳を覗き込む。
「桃先輩は、Airってね」
 不意に思ったんだよ。リョーマは苦笑とも自嘲とも判別の付かない笑みを浮かべた。
 桃城の首筋に回っていた片腕が、精悍な頬を撫で、人差し指が口唇を淫猥な仕草で撫でた。
「空気ってお前、そりゃ存在感ないって事か?」
 昼日中、試合直後に淫らな仕草で口唇を撫でていく細い指先に苦笑する。
「空気って、誰にとっても生きる糧だよ」
 なかったら、間違いなく死ぬから。
 リョーマは嘯いて笑った。
「お前、この場でその発言は、フェイントじゃねぇ?」
 桃城の呆れた科白に、リョーマは綺麗に笑って応えた。
「ねぇ、ご褒美は?」
 早くしないと閉会式始まっちゃいますよ?桃城の口唇に触れる指先が、ゆっくり首筋へと戻っていくのに、桃城はリョーマの口唇に口吻けた。
「んっ……」
 初夏の木漏れ日が降る緑の中。甘い吐息が漏れた。










「See you Tomorrow」
 その言葉に託された意味など、きっとこのタラシの悪党に、気付いている筈はない。
致命傷的に、肝心な時には外すのだ。 精々誕生日までには、気付いてもらいたいものだね。それでなくても、宿題は既に一つ有るのだから。
「もう寝ろ」
 柔らかく撫でて行く指の感触。引き込まれて行く睡魔。
「また明日ね」
 そう告げる人間の少なさに、そう告げる言葉の意味に、何時になったら気付くだろうか?この悪党は。詐欺師のくせに、肝心な時には嘘一つ吐けない悪党。
 嘘つきは、最後まで嘘つきでいなくてはならないっていう掟を、きっと知らないのだろう。
 その時が来ても、綺麗に嘘を吐き続けてくれなくては、先に歩けなくなりそうで怖くなる。
 選択を、他人に決定権を与えて決めるつもりは毛頭ない。
歩くのが自分である限り、当然決めるのも自分だ。けれど。


『枷じゃないよ、あの人は』

 枷じゃないけれど。変ってしまった存在の重さ。空気のように当たり前で、隣に有るのが当たり前で、だからこそ、たった3日。隣に居なかった喪失感がどれ程のものだったのか、この悪党自身にも判りはしないだろう。
 その時が来たら、選べる未来を。離れて行く距離に、押し潰されない強さをどうか……。
 感傷的に星に願うとしたら、今はそんならしくない願いなのかもしれない。

 離れても、崩れない強さを。