天には祈りを
地には光を
愛する人には、柔らかい抱擁を
未来の風景








「桃先輩、降ってきたよ」
 見慣れた景色が、徐々に白く色付いて行く。雨戸に閉ざされない近所の窓に灯る柔らかい明かり。見慣れた住宅街の屋根。そして更に上に有るのは、雪の降る夜独特の白い空。まるで冷気を閉じ込めたかのような白く凍えた空から、チラチラ雪が降ってくる。
「天使の羽か?」
 適温に保たれている室内は、薄手のパジャマでも寒くはないが、窓際は硝子を通して外の冷気が伝わるから、桃城は昨年初雪の降った日にリョーマが笑って言った科白を思い出し、口にする。しながら、ベッドの上の薄いケットを方から巻くと、窓際に経つリョーマの背後から胸元に緩やかに抱き締め、ケットの中へと閉じ込める。
「お前、冷えてるぞ」
 触れた肌は、パジャマをきているにもかかわらず、窓際にいた所為か、冷えていた。
「覚えてるんだ?」
 背後を振り返る事なく、リョーマは笑って薄く細い肩を竦めた。らしくな科白を言い、桃城を苦笑させたのは去年の事だ。
「そりゃな。お前の言った科白なら」
 暖冬だと言われつつ、12月中旬に降った雪。らしくない感傷さで、雪の降る静かな夜。やはりこうして雪をみながら、リョーマが呟いた科白だった。
「あんたやっぱ、タラシじゃん」
 何でもない事のように、桃城は簡単に再現してみせるから始末に悪いと、思うリョーマだった。
 いつだって、言葉より何より、雄弁に提示されていた居場所だと、今なら判る。理解できるのは、情欲を孕まない触れる体温だったり、莫迦みたいに慎重にされる距離だったり。何気ない仕草の中。それは痛い程に伝わってくる。
「オッと」
 不意に小さい電子音が鳴った。聞き覚えのあるソレは、桃城のリストウォッチのものだ。
「HAPPY BIRTHDAY 越前」
 リストフォッチの時刻を確認すると、流暢な英語で穏やかに笑う桃城に、リョーマは盛大に溜め息を吐いた。
 知り合ってから益々、大人の男のような笑みをするようになったその笑みの在処を、リョーマは嫌と言う程知っている。そしてそんな笑みを浮かべる桃城に、自覚がない事も、リョーマは判っていた。だから尚更始末に悪いのだと言う事も。
「何だ?」
 腕の中の相変わらず華奢な姿態の持ち主が、盛大に吐き出す溜め息の在処など百も承知して、深い笑みを浮かべてそう問うのだから、確かに桃城はタラシの要素をふんだんに持ち合わせているのだろう。
「そーいう科白をサラリと笑って言うあんたは、だからタラシで悪党って言われんだよ」
「あのな、そんな事言うのは、お前だけだって」
 入学当初から、先輩を先輩とも思っていないような言動をしてきたリョーマしか、自分に対してそんな科白を吐く人間はいなかった。
「自覚してるタラシのくせに」
 自覚しているタラシ程、最低のものはない。誰にでも優しいフリをして、笑顔の内側に全てを綺麗に隠している。
「アホ」
 肩を竦め苦笑すると、スルリとリョーマの前髪を梳き上げ、掌中で瞳を隠す。
「そんな顔、してんな」
 天使の羽さながら、チラチラ降る雪を映す窓硝子。その窓硝子から、こちらを凝視してくるリョーマの視線。
 二人だけだという気遣いのなさが手伝ってか、今のリョーマの瞳は、何度となく垣間見た彼を思い出させる。リョーマの一番始末に悪い表情というなら、ベスト1でこの表情だろうと思う桃城だった。
 情事の最中の自由奔放な放埒で妖冶なものより幾分も、桃城にとっては始末に悪いリョーマの表情だった。
「Thank you な」
「去年も言われた」
 去年も、日付変更線と同時に鳴った携帯で告げられた科白だ。その時は、宿題の答えが判ったんだと軽口に誤魔化しはしたものの、こうして束縛しない緩やかな抱擁に包まれ告げられると、照れと同時に、切なさが胸を軋ませる。
「毎年、言ってやるよ」
「嘘ばっか」
 あんた詐欺師だからね、目許を隠されたリョーマの口許だけが象る薄い笑み。
「詐欺師は、最後まで嘘つき、そうだろ?」
 最終地点など、何処かなど判りはしない。ただ、詐欺師と軽口を叩くリョーマの論法で行けば、詐欺師は最後まで嘘つきでなくてはならない。
そういう事になる。
 最後の最後まで嘘を願うリョーマの内心。包み、触れて、重ねる肌の熱さも何もかもを知り尽くして、それでも嘘を願うのだから、見ていれば痛々しくなるばかりだ。
「去年も、言った科白だけどな」
 毎年こうして『おめでとう』と告げる事。何処まで言いあえる関係でいられるかは、自分達次第だろう。大抵の場合、精神的距離と物理的距離は比例するから、離れていけば、それだけ精神的距離も離れていく。自分達だけは大丈夫などと、傲慢なものを持つ程、桃城は子供ではなく、らしくない程、理を理解している中学生だった。
「やっぱ、桃先輩、莫迦」
 軋む程胸が痛むなんと事は、桃城と出会う以前ならなかった事だ。
「簡単だろ?」
「何処が」
「お前がお前で、俺が俺だって事さえ忘れなきゃ、案外簡単な筈だぜ」
「何それ?」
「皆好き勝手に生きてるだけだし、好き勝手に関わってるだけだって事」
 桃城の科白に、リョーマの薄く象られた口唇が、不意に歪に歪んでいく。
「越前?」
 塞いだ瞼の手を離し、覗き込もうとして、反対に桃城の手は、リョーマの手により抑え込まれていた。
「最後の最後には、甘えさせてくれないくせに」
 枷ではないのだと、桃城という男の存在は決して枷にはなりはしないと、父親に言った事がある。
 アメリカから急に理由も明かされず日本の中学に放り込まれた意味は、リョーマにとって案外早い時期にその意図は判った。それは父親の言葉にだされない願いなのだと言う事は。
 父親が、迷ってほしいと願っている事も、傾ける想いをもってほしいと言う事も、判った事だ。けれど、だからこそ桃城は枷にできないと告げた言葉に、嘘はなかった。
 桃城は、慎重な距離で大切に甘やかしてくるからこそ、最後の最後には決して甘えさせてくれない男だと言う事も、リョーマには判っていた。
 思考を限定させてしまう己の存在を意識すれば、離れて行く事など、簡単に察しが付く。その程度の事が判らなければ、到底一緒になど居られない。
 こんな風な局面で、この言葉を告げる事は、卑怯な事かもしれないけれど、一度はちゃんと口に出さないと、何一つ伝わらない気がした。
「甘やかして、ほしいわけじゃないだろ?」
 本当は、甘やかしてしまっては、自分が駄目になる事を、桃城はちゃんと判っている。大切で大事で、その言葉が全てになってしまうから怖さ。歩くべき途は、誰一人として同じではない。束縛は、決して愛情には繋がらない。
「桃先輩もさ、もう少し中学生らしかったら、楽だったのに」
 普通中学生の恋愛なんて、周囲を見渡してさえ、独占欲と執着と束縛が出発点だろうに。
「お前も同じだ」
「俺は十分、欲張りだから」
 掴んだ手を、離す事など想像もできない。
「だったら俺もだ」
 その時が来たら、その華奢な背を押し出してやれる程度の理性を残しながら、それでも掴んだ手を離すような刹那的な事など、考えも付かない。リョーマがその手を降り払わぬ限りは。





「何が、見えたのかな?」
 僅かな沈黙の後、静かな声がポツリと漏れる。
 閉ざされた視界は暗いけれど、恐怖は当然微塵もない。触れてくる体温の生温い熱さと鼓動は、慣れた子心地好さでしかないからだ。
「Eloi,Eloi,lamesabachthani」
「何?」
 帰国子女のリョーマの英語は、流暢と言われる桃城の発音より更に流暢だ。
「磔刑にされた人類の救世主が、最期に叫んだ言葉」
「訳は?」
「知りたい?」
 意味深に笑うと、桃城の手を抑えていたリョーマの手が外される。同時に、桃城の手も目許から離れた。
「人類を救う救世主は、人類の手によって殺されたんだよ?」
 硝子の向こうから凝視してくる眼差しは、何処か意味深で泣きそうなものだと、リョーマは自分の眼差しを見返し、そして硝子に映る桃城を見た。
「絶望、しただろうね」
 その絶望の淵に、一体最期に何を見ただろうか?
『我が神、我が神、どうして渡しをお見捨てになるのですか?』そう叫ぶ程絶望した最果てに、一体何を見ただろうか?
「殺した救世主の誕生日を、こうして祝うのって、倒錯的だよ」
「世界的イベントに参加しない程、世間と折り合い悪くないんだろ」
 全く何を言い出すのかと思えばと、桃城は溜め息を吐き出すと、ケットの中の華奢な姿態を抱き締める。
「お前に会ってから、クリスマスイブなんて、お前の誕生日って事しか、頭にねぇよ」
 別段、クリスマスに意味などないと思っていた。他宗教の誕生後にのったイベント。その程度だ。少なくても日本では。けれどリョーマに出会い、12月24日は全く違う意味を持った。だからこそ、『Thank you』と、繰り返すのだ、桃城は。
「なぁ越前、これだけは覚えとけよ」
 願いの在処など、とても簡単で、有り触れている。
桃城の指が、スッと硝子に伸びる。外気と室内の温度差によって曇る硝子を手で拭えば、其処には互いの姿が歪な光景のように映っている。
その中にとどめられるリョーマの頬を、撫でるように触れて行く。
「俺の生きてく中で会う奴は、どんな奴でも、俺の人生に無関係じゃないって事」
 硝子に映る繊細な貌を撫で、そしてゆっくり再びリョーマの視界を大きい手が塞いでいく。
「お前なんて、俺にとっちゃ、運命そのもの」
 運命なんと言葉は、それこそ無意味な言葉だと判っている。少なくとも、桃城は運命論者ではなかった。その言葉は、自分の叶う限りの力の外に対しての言葉で、桃城にとっては逃げ口上に近しい言葉だと思ってきた。
「そんな科白、頭の悪そうな莫迦な女に言う科白だよ」
「お前は、そんな言葉欲しがる莫迦じゃないって、判ってるさ」
 だからこれは自分の勝手だと、桃城は笑った。
「人に会うって事はさ、まぁ擦れ違う程度の奴ってのは影響ねぇけど、程度の付き合いがあれば、何処かしら影響されるだろ?共感できる部分もあれば、できない部分もあって。そこからまた考えが出て。お前なんて、その才たるものだ」
「悪党…」
 巧く、笑えているだろうか?フトリョーマは不安になった。自分の内心の不安を、桃城は極簡単に、当たり前の事だと言うように見透かすから。笑っているだけでは駄目なのだ、桃城の前では。
「決めたんなら、迷うな」
「……」
 きっと、手塚も、こんな想いを味わったのだろう。置いていく事の辛さ。残していく強さ。求める未来を掴む為に歩く勇気。
「地球の裏側に居たって、ちゃんと言ってやるから」
 誓いのように囁き、桃城の手が目許から繊細に象られている輪郭を撫でて行く。
「Happy BIRTHDAY、越前」
 キリストの生まれた日ではなく、たった一人の大切な人の誕生の為に。


「あんたやっぱ、タラシで悪党で、詐欺師」

 泣きそうな顔で、リョーマは囁いた。