帰 還
〜〜空の色 after〜〜







「すみませんでしたッッ!」
 初夏の蒼い空の下。桃城の声が響いていた。
手塚の前で頭を下げている桃城を、遠巻きに見ている外野が、手塚の次の科白を見守っていた。
 感情の波を顕さない手塚の内心を量れる者など、青学テニス部の中では不二くらいのものだから、誰もが桃城に対する手塚の対応を見守っていた。けれど桃城は知っていた。外野の普段と微妙に違う、空気と言うものを、桃城は肌身で感じ取っていた。


『そんな無責任発言、トトカルチョの対象にされてるの知らないから言えるんだろーし』


 昨日のリョーマの科白が脳裏に甦り、桃城は周囲から流れてくる気配と言うものを感じ取っては、内心脱力していた。
 それでも、迎えてくれた皆の笑顔は偽りではなく、心底からのものだったから、その程度のものは甘んじて受けようと思う桃城だった。


「今までのデータから行くと、50周は行くな」
 フェンスに凭れ、レギラユー陣が固まって成り行きを見守っている中、相変わらず表情の見えないメガネで、乾がそう口を開いた。
「狡いっスよ、乾先輩。50周賭けてるの、俺と不二先輩っスからね」
「オチビ……シビアだねぇ。桃が心配じゃないのかにゃ?」
 リョーマの科白に、呆れた英二が、桃の奴も可哀相と嘯いた。
「戻ってきて、心配なんて必要有るんスか?」
 昨日だって、ちゃっかりストリートテニス場で、女とラリーをしていた桃城だ。今更心配など必要はないだろう。戻って来ると自ら決めたのなら、桃城は手塚が何百周のランニングを告げても、淡々と走りきるだろう。誰だって、そんな心配、してはいないのだ。その程度の事なら、リョーマにも判る事だった。
「菊丸先輩は、30周でしたっけ?」
「コラ英二、お前達は、俺や手塚が居ないと、何やってるんだか判らないな」
 トトカルチョなど初耳だと、大石はリョーマと英二の会話に、ガクリと肩を落とした。
 桃城がレギュラー落ちして以来。何かと苛ついていた大石は、それでなくてもテニス部副部長であり、クラス委員もしているから、生徒会長をこなしている手塚と二人揃って、不在が多い。そして部長、副部長と二人揃って不在の時。英二か不二が、何か言い出す事が概ねである事を、大石は知っていた。
「大石だって、気になるだろ?」
 フェンスに凭れた英二が、隣に佇む大石に問い掛けた時。二人は同時に笑い合った。
「ゴメン」
 タイミングを外す事なく、同時に謝罪が口を付くのも、ゴールデンコンビと言う事なのかもしれない。 
「英二は、桃の事、判ってたんだよな」
 安易な言葉に出す事だけが心配ではないのだと、知らない訳ではなかった。けれど、自分はその安易な方法を選んで、周囲に苛立ちを投げ付けていたと、大石は素直な謝罪を口にする。
 英二は、判っていたのだろうと、大石は今更思う。
軽口を叩きながら、その本質は繊細で、桃城と良く似て、他人を踏み込ませない領域を持っている英二の事だ。桃城がテニスを簡単に捨てる事などできない事を、端から判っていたから、自分で納得して戻って来るのを、待っていたのだろう。そう思えば、試合では後方を見守り、英二のサポートをしている自分は、コートを一歩出た場所では、見守る余裕もない事を、大石は痛感した気分だった。
 桃城に懐いているリョーマが、3日間桃城を放置していたのも、英二と似たり寄ったりの思考回路だったのだろう。でなければ、他の誰より先に、リョーマは動いた筈だと思うのは、自分の勘違いではない事を、大石は判っている。
 互いの関係や距離と言うものを、リョーマ以上に慎重に扱う桃城の、けれどレギュラー陣の中では筒抜けの二人の関係を考えれば、桃城に関しては、良いも悪いもリョーマが一番先に動くだろう。それを考えてみても、自分の苛立ちは、随分見当違いの方向性をしていたのかもしれないと思う大石だった。
「大石は、優しいからだよ」
 大石の科白に、英二はネコのような仕草で笑った。
桃城の事を、心配していた大石を、英二はちゃんと判っている。信頼をしていないとか、桃城のテニスに対する情熱を見誤っていたとか、そういう事ではないのだろう。心配の仕方は、人各々だと、英二は判っているのだ。
 人一倍、部員を心配する大石だから、テニス莫迦の桃城が、部活に顔を見せない事が、単純に心配だったのだろう。
 桃城と自分は、ムードメーカと言う点で似ていると、英二は思っていた。
 気さくな笑顔が、実際は盾と同義語の桃城の笑顔。内心を綺麗に隠す為の桃城の笑顔は、けれどそうと気付ける人間は限り無く少なく、実は誰には無関心な事も判っている。だからこそ誰にでも優しい。けれどそれが部内では確かにムードメーカなのだ。場の空気や気配、他人の内心を見透かす事に長けていたから、できる芸当だった。
 そんな桃城の事だから、他人との距離感が独特で、自らの思考を他人に読ませない事も、英二は正確に理解していた。それは多少なりとも、他人との距離感が自分と似通った思考回路をしているから、理解しやすかったと言う事も影響しているのだろう。
 1年前、明るい笑顔で入部してきて、先輩としてなら、きっと桃城と一番近しい距離にあったのは、英二だったのだろう。だからというのはおこがましいだろうが、桃城は自分なりの答えを出したら戻って来るだろうと、英二は疑ってはいなかったのだ。多分誰もがそう思っていただろう。
 他人を気遣う意味を知っている大石が、珍しい程周囲に半ば八つ当たりのように苛立ちを隠さなかったとしても、彼とて桃城が戻って来る事を疑ってはいなかったのだから、部長の手塚など、心配さえしていなかったのかもしれない。
「さぁてと、手塚は何周、走らせるつもりかにゃ」
 興味津々で英二と不二が笑い合う。
たかが三日、されど三日。ムードメーカーの不在は、やはりそれなりに部内を落ち着かなくさせたから、この場合は、最大限に愉しむしかないと、英二や不二ばかりか、きっと誰もが思っていただろう。
「俺、50」
 桃城が時折他愛なく言うリョーマの空の瞳は、揺らぎもなく、ただ桃城をまっすぐ凝視している。
 結局昨晩は、父親の晩酌に付き合って、散々桃城に機嫌を取らせたのだ、リョーマは。
放埒な恋人に翻弄されたのは当然桃城で、それでもそれがリョーマなりの言葉に出される事のなかった不安なのだと、桃城が判らない筈はなかったから、リョーマの悪態に脱力してみせたとしても、結局最後の最後では目一杯甘やかしてまうのだ。
「僕も50ね。英二と乾は40だっけ?」
 莞爾と笑って、とんでもない事を吐くのは不二の性格だろう。今もリョーマの科白に清涼な雰囲気で、莞爾と頷いている。
「ぅんにゃ、乾は48周とか、中途半端な数字だったにゃ」
「でも失敗だったな。手塚の性格考慮すれば、50以上だろうな」
「今までの最高記録更新で、よかったじゃん。オチビ」
「どーして俺に振るんスか」
 大体ランニング走らされ記録を更新しても、ちっとも嬉しいものではないだろうに。
「心配だったくせに」
 チョンッと、英二がリョーマの白い額を小突いて見せると、リョーマはシレッと口を開いた。
「あんなテニス莫迦、心配するだけ損っスよ」
「ラヴラヴだねぇ」
 シレッと言いつつ、桃城から視線を外さないリョーマに、不二が笑った。
 リョーマにとっては無自覚だったのだろう3日間。けれど周囲のレギュラー陣は気付いていた。無自覚だからこそ、リョーマは桃城に感情を預けてしまっている。それはフト痛々しいものも滲ませていた。
 今まで周囲にも自分自身の感情にも無頓着だっただろうリョーマが判るから、他人に預ける感情の在処を知ってしまった今。これから迷う事も多いだろうと、言葉に出さない部分で、レギュラー陣は思っていた。
「オチビも素直じゃない、ない」
「余計なお世話っスよ。仲直りしたんなら、もう俺に八つ当たりしないで下さいよ、菊丸先輩」
「オチビ生意気〜〜〜」
 それもこれも、桃の躾がなってないからだと、英二は嘯いた。フェンスの一角で笑い声が響くのに、レギュラー陣以外の面子は、何事かと視線を移した。その矢先だった。





「規律を乱す事は許さん。暫くお前にはラケットは持たせない。球拾いからだ!3日も無断で部活を休んだ罰はいいな」
 大した大きさではない手塚の声は、けれど端然とコート内に響き渡る。
「すいませんでした!」
 頭を深く垂れた桃城の大きい声が、放たれる。



「さぁて、出るぞぉ〜〜〜何周かにゃ〜〜」
「コラ英二」         
「大石先輩も、大変っスね」
 ネコのように笑う英二を窘める大石を見て、自分と桃城の事は決して言えないだろうと、リョーマは笑った。
「オチビ、生意気だ」
「俺の教育係は桃先輩だって事らしいスから、苦情は桃先輩に言って下さい」
 生意気とも思っていないだろう英二の軽口に、だからリョーマも軽口で応酬する。大概大した科白だろう。



「グランド100周だ。行ってこい」

 カリスマと言うのは、こういう事なのだうろ。技術だけでは到底補いきれないものが、手塚には有るのだ。決して高圧的でも、威圧的でもない端然と響く手塚の声には、人を従わせる何かが備わっているのかもしれない。
「はいっっ!」
 手塚の端然とした声に、桃城は大きく頭を垂れると、威勢良く走り出した。
「桃城、俺達は必ず全国へ行く。次のランキング戦で、戻ってこい」
「ヘーい」
 それが手塚の激励だと判らない桃城ではなかったから、軽口で返すと、軽い足音を立て、フェンスの外へと消えていった。



「嘘……」
「どした?オチビ」
 些か呆然と呟くリョーマの声に、英二が不思議そうに視線を移す。
「親父の言った通りだ」
 グランドを軽快足取りで走り出した桃城に焦点を絞ったまま、リョーマは英二に答えていた。


『俺なら、軽く200周は走らせるな』


 手塚の事は、殆ど知らないだろう父親が、ピタリと桃城が走らされる予想を立てたのだから、ギャンブル精神を発揮した勘なのか、根拠あっての事なのか、リョーマにも量りしれはしなかったから、かつての青学一の曲者は今も健在。そういう事なのかもしれない。
「越前」
 桃城がグランドに走り出したのを見送った手塚は、フェンスに凭れ、戯れているレギュラーの中から、リョーマを呼んだ。
「お前もグランド10周」
「何で」
 俺までと続く言葉は、けれど手塚の端然とした声に遮られる。
「お前、昨日部活抜け出しただろう。だからだ」
 それでも10周というのは、手塚にとっては破格だったのは間違えようがない。
「生意気言うからだぞ、オチビ〜〜〜」
 これも皆桃先輩の所為だ、ブツブツ文句を言うリョーマは、グランドに走って行く。走っていけば、猛スピードで走り出し、前を軽い足取りで走っている桃城に追いつくと、何やら八つ当たりをしてるのが、手塚達には見えた。
「菊丸。お前も走るか?」
「手塚〜〜俺何もしてないじゃん」
 横暴と、英二が悪態を吐くと、
「トトカルチョ、俺が知らないと思うな」
 とどめとばかりの手塚の声が響いた。
「不二〜〜」
 一緒になってトトカルチョをしていた不二に、英二が恨めしげな視線を投げれば、不二は莞爾と笑っているばかりだ。
「ダメだよ英二。手塚を誤魔化す事なんて、僕でもできないんだからね」
 眉目秀麗、学業優秀、転は二物も三物も与えまくったと言われる手塚は、人間PCと呼ばれる乾以上に、部員の事を把握している。実際手塚の驚異性というのなら、そういう部分だと不二は思っていた。
 生徒会長とテニス部部長の兼業で、それでも手塚は部員を驚く程正確に把握しているから、そんな芸当は誰にも真似などできはしない。
「それは、どうだかな」
 けれど手塚に言わせれば、テニス同様、性格の底など手の内を見せない不二の内心など、自分では量り知れないと思う手塚だった。
「越前も、漸くいつものペースを取り戻したようだな」
 底の見えないメガネの奥で、乾はグランドを並んで走る、リョーマと桃城を見ている。
 軽口を叩きあっているのだろう。下手をすれば、周囲からは戯れ走っているようにしか見えない二人のランニングは、それでもリョーマからも桃城からも、爽快なものばかりが滲んでいる。
「オチビの限界も、3日ってとこだね」
 言い合い戯れランニングしている二人を視界にとどめ、英二が笑う。
 桃城がレギュラージャージをロッカーに残し、姿を消した3日間。部活に来れば、無意識なのだろう。リョーマは周囲の部員の中に、視線を彷徨わせていた。その視線が誰を探していたのかなど、今更訊く必要もない程、一目瞭然だ。
 プレー前、いつもリョーマとストレッチをしていたのは桃城だった。入部当時から、実力だけでは渡っていけない体育会系の縦割り構造を理解していなかった帰国子女のリョーマに、何かと世話を焼きつつ、上手に部員の輪の中に溶け込ませていたのも桃城だ。
 物質的距離など無関係に、リョーマに近かったのは他の誰でもない桃城だったから、リョーマにしてみれば、桃城と離れている時間も、なかった事だったのかもしれない。そんなリョーマだから、無自覚に心理的不安定さがプレーに現れていても、それは仕方ない事だったのだろう。元より、テニスはメンタル面が大きく左右するスポーツだ。
「あの子は、自覚ない子だからね」
 どれ程無表情を装っていても、その心理的不安定さは、テニスそのものに現れていた。
 言葉に出す事が苦手なリョーマは、だからテニスに綺麗に内心が反映される。打ち合うボールは、時には言葉以上に雄弁にリョーマの内心を語って来るから、此処数日のリョーマの心理不安は、主要面子には明らかだった。その原因が何かなど、それこそ今更の代物だったから、手塚も昨日はリョーマがこっそりと部活を抜け出した場面に遭遇しても、気付かぬフリをして通り過ぎた。それはリョーマがレギュラージャージのまま、何処に行くかなど判りきっていたからだ。
「桃があんな事程度でテニス放棄する奴じゃないって判ってる事と、感情は別物だからにゃ」
 その言い例が大石だと、英二は前方で他の面子を指導している大石に視線を移して笑った。
「あーいうの見てると、桃の奴はオチビのものって感じだよにゃ」
 ゆっくり暮れる夕日の中。戯れ走っている後輩の姿に、妙に感慨深げに英二が穏やかな笑みを燃せる英二だった。
「普通逆だと思うけどね」
「だってさ不二。桃の奴、オチビにベタ惚れじゃん。あんだけ大事にしてりゃ、青学一の曲者の遊び人も、返上ってとこじゃん」
 誰にでも優しいフリは、だからこそ誰にも無関係だった桃城は、年上好みだった事を英二は知っていた。
 初体験が影響してか、桃城の好みは自立した年上の女だったから、付き合う人間も高校生以上だった。それが幸いしていたのだろう。リョーマと付き合う際、関係していた女性を切っても、誰からも文句の一つもなかった。お互い躯の関係以上の延長線はなかったと、遊びの割り切りができている付き合いだったのだろう。
「まぁどっちもどっち、なんだろーね」
 グランドを仲良く走るリョーマは、既に十周は通り越している気がした。軽口を叩きあいながら、それでもリョーマは笑っている。
 数日は翳っていた笑顔が無自覚なのだから始末に悪い。きっと言葉に出さないだけで、手塚も感じているだろうと、不二はこっそり隣を間視すれば、手塚は若干眉間に皺を寄せていた。
「越前!もう十周追加だ。まじめに走れッ!」
 追いつ追われつしながら走っているリョーマに、手塚が呆れて端然と放った。手塚の声に、リョーマは反駁の声を上げ、それは綺麗に桃城に八つ当たりにすり変わっていた。
「やるねぇ、手塚も」
「甘い、甘い」
「手塚も、相当甘いな」
 乾が、苦笑するよう肩を竦めた。
誰もがリョーマには甘い一面があるのは、ある意味で仕方ない事なのかもしれない。
 テニス部レギュラーは、現在三年生が中心に構成されている。二年で全国を戦える実力を持った選手が、実質桃城と海堂の二人だけと言う次世代の層の薄さが、常に彼等の危惧になっていた。そんな中、リョーマの存在は、一種の光明とも言えた。
 小生意気な態度に裏付けされた実力。その小生意気な態度は、けれど高慢なものではなく、コミュニケーションの苦手なリョーマ故と言う事を彼らは理解していたから、誰もが一番年下のリョーマを、ある意味可愛がっていた。そのリョーマが桃城のレギュラー落ち以来、自覚なく気落ちしている様子が窺えたから、フェンスの向こう。グランドで桃城と肩を並べ走っている光景は、彼らをホッとさせていた。
 桃城に悪態を吐き、それでも戯れるようにしているのは、テニス部では日常の光景だったから、彼等にしてみれば、漸く日常が戻ってきたと言う所なのだろう。だから手塚もらしくない甘さを垣間見せているのかもしれない。









「越前、後を頼んだぞ」
「鍵は、桃先輩に渡しとけば、いいって事っスよね」
 レギャラー陣が、未だグラウンドを走っている桃城をリョーマに任せ、全員制服に着替え、帰宅の支を整えていた。
 太陽は西に暮れ、周囲は夜の闇が降り始めていた。その中を、桃城は淡々黙々と走っている。軽快だった走りも、今は疲れが見えている。それでも桃城は走る事を放棄しない。
「容赦ないなぁ、越前は」
 リョーマの疑問符も付けない即答に、大石は苦笑する。
前方を走る桃城は、もう既に自分が何周走っているのかも記憶していないかもしれない。半ば足が交互に動き、走る動作を繰り返すだけになっているだろう。
 桃城に鍵を渡すと言う事は、桃城が部室の扉を開けると言う事で、それは朝一番の登校を意味している。それは今日の明日ではきついだろうと思える大石だったが、同情的なのはどうやら大石一人だけだったらしい。
「当然だ」
「ウンウン」
「甘やかしたら、それこそ来年度が大変だからね」
 三人三葉の科白に、大石は肩を竦めた。
「君に柱任せても、まぁ土台必要だからね」
 意味深に笑う不二に、リョーマは不二には全て見透かされていると肩を竦めた。
 誰も知らない筈だった。手塚とリョーマの試合は。けれどれを察する程度の理解はレギュラー陣にはあった。けれど、交わされた科白の内容まで知っているのは、不二が不二たる所以なのだろう。桃城とは違う意味で、底の読めない不二に、リョーマは呆れた。乾の分析能力を持ち出すまでもなく、レギュラー陣は、様々な意味で曲者揃いだ。その曲者達の中でも、桃城が一番と言われるのだから、やはり悪党で詐欺師だと、思わずにはいられないリョーマだった。
「柱がなきゃ家は建たないかもしれないけど、何事も土台だからね」
「………ちょっとって言うか、かなり嫌っスよ」
 意味深な不二の科白の言外が判らないリョーマではなかったから、大仰に溜め息を吐いて躱して見せる。それはとどのつまり、桃城に支えて貰え。そういう比喩でしかないからだ。それがなまじ揶揄ばかりではないから始末に悪い。
「それじゃ越前、頼むぞ」
 リョーマにしてみれば、今更手塚に念を押される程の事ではなかった。なかったから、言葉短に頷いただけだった。
 此処で桃城の事を他人に任せてしまえる程、リョーマにとって桃城は、ただの先輩と言う位置では収まらなくなっていた。元より、ただの先輩など言ったら桃城が脱力して泣くだろう。
『取り敢えず付き合う』と言った言葉の明確さなど、既に効力など失われている。此処最近、互いのラインは不明瞭になるばかりだ。取り敢えず付き合う関係でも、リョーマも人並みの独占欲は持ち合わせているから、桃城を他人に任せる事など、端から考えてもいなかった。元々、他人に任せる気などなかったから、わざわざストリートテニス場まで迎えに行ったのだ。行ったら、女と仲良くストリートテニス場でテニスなどされていて、面白い筈はない。だからリョーマは当分このネタで桃城に機嫌を取らせようと思っている事を、当然桃城は知らない。









 夏の匂いを運ぶ風も、今の桃城には何一つの効力はないだろう。すっかり日の暮れた時間帯、百周を走り終えた桃城は、不正確とはいえカウントをとっていたリョーマの終了の声と同時に、もうダメだと、絶息して大の字に寝転んだ。
「あんた、俺に感謝の言葉はないんスか?」
 大の字に寝転んだ桃城の頭上から覗き込む恰好で見下ろして、リョーマは汗に浮いた額に、ポカリスエットの缶を押しつけた。
「…サンキュー」
 額に押しつけられた冷たい缶の感触に手を伸ばし、荒い呼吸で礼を言う。桃城にはそれ以上言う気力も今はなかった。忙しい呼吸が繰り返され、何か話そうとしても、言葉にならない。
ポカリスエットに伸ばした腕も、プルトップルを開ける気力もないのか、握ったままだ。
 繰り返される呼吸を聴きながら、リョーマは桃城の隣に腰を下ろし、腕を伸ばした。
 乱れた前髪は、整髪剤の効果もなく、汗でグシャグシャになっているが、こんな桃城を知る人間は数少ない。それは何処か情後の桃城を思い出させ、昨夜散々機嫌を取れと求めた桃城の肌の感触までリョーマに思い出させた。
 リョーマは、桃城の手に握られている缶を掬い上げると、プルトップルを開ける。
リョーマの無言の行動の意味が、察せられない桃城ではなかった。心配はしないと言っていたリョーマの、無自覚な心配や不安を、桃城はリョーマ以上に正確に読み取っている。そして同時に、『見ている』と告げられた言葉を思い出すそれは昨夜抱いた時、嫌と言う程思い知らされた。
 自由奔放で放埒な態で乱れながら、いつもより激しく抱き締める為に伸ばされた腕の力を肌の上に思い出す。
 昨夜リョーマに付けられた背や腕に付いている爪痕し、いつもより深く痛んだ。その分、桃城も、再現なくリョーマを求めてしまったから、結局お互い様と言う事だろう。
「桃先輩」
 意味深に笑うと、リョーマは桃城の頭上でゆっくり缶を傾けた。当然中からは重力に従い半透明の液体が流れ、桃城の頭を濡らしていく。
「お前〜〜」
 正面に甘い液体を掛けられ、桃城は脱力する。
「水、ほしいかと思って」
「水じゃないだろうが。大体コレってば甘いんだぞ」
 汗で濡れ、整髪剤など無意味になっている髪を、スポーツドリンクとはいえ甘い液体で濡らされれば、後が悲惨だ。
「シャワー浴びれば、落ちるっスよ」
「お前なぁ」
 名門私立で全国区のテニス部だから、当然シャワールームは完備されている。
「俺も付き合うから」
 シレッと言っては意味深に笑うリョーマに、桃城は少しだけ呆れた。
「学校じゃ嫌だって言ってなかったか?」
 当然桃城とて、校内で行為に及ぼうと思う程、浅はかでも莫迦でもなかったから、今まで一度とてリョーマと校内で肌を重ねた事はない。
「当然」
 だからシャワー浴びるだけだと笑うタチの悪い笑みに、桃城は深く溜め息を吐く。
「あんたの欲情してる表情なんて、俺以外知らなくていいんスよ」
「………其処かよ…」
 以前リョーマは情事の最中、確かに自分に欲情している桃城の表情が好きだと言った事があるが、何も論点を其処に置かなくてもいいだろうにと思う桃城だった。
「あんただって、俺の乱れた姿、誰かに見せたいなんて、欲のない事、言わないでしょ?」
 言われて桃城は確かにと内心頷いた。
リョーマの乱れきった妖冶さや、それでいて一瞬放心の態で無防備に乱れるリョーマの姿など、決して他人に見せたい代物ではない。
「だからね、校内じゃしないよ」
 勿体ないからと笑うリョーマに、桃城も肩を竦めて笑った。
「越前、ソレくれよ。俺脱水で死にそうだぜ」
 リョーマの手にある缶の中身は、半分は桃城の髪に吸収されなくなっている。
「そう言えば、乾先輩が、特性ハイリミッド乾汁飲ませるとか言ってたけど」
 もしかすると、桃先輩のロッカーに入ってるかもね、そう笑うリョーマに、桃城は顔色を変える。
「ありゃ人間の飲み物じゃねぇぞ」
 とても躯に良いと思えぬ乾汁の味を思い出し、桃城は苦り切った顔をする。
 笑っていたリョーマから不意に笑みが消え、何とも言えない表情で桃城を見下ろせば、手にした缶に口を付ける。それが合図のように、寝転んだままの桃城の腕が、リョーマに伸びる。


「桃先輩、おかえり」

 心配も不安も、テニスに対する桃城の情熱も、疑った事などなかった筈なのに、こうしていれば、言葉にできない切なさが、身の裡から湧いてくる。
 互いの境界線は、何処までも不明瞭で、不鮮明な事を、リョーマは初めて意識したのかもしれない。
 伸びた桃城の腕が、小作りなリョーマの頭に伸び、引き寄せる。甘い半透明の液体を口に含み、リョーマの口唇が桃城のソレに重なった。
 濃い影が、グランドに落ちる。蒼い静寂だけが支配する校庭に、二人の口吻を知る者はいない。
 それは何処か秘密めいた切なさが湧くものだと、思わずにはいられない二人だった。