孤高の王




 いつか何処かで 溢れ落ちる涙を
 拭きもせずに 流したいと思う

 この瞬間の為に、あの日の痛みは有ったんだと。
 思う日は、きっと来るから。




 元々リョーマの寝起きの悪さはいつもの事で、知り合い朝迎えに行く様になってから、リョーマが迎えを待っていた事など、考えればなかった。朝食を食べていればマシな方で、大抵リョーマの部屋の窓を見上げ外から叫べば、数秒後に寝起きの寝ぼけ状態のまま窓を開け、慌てて支度をするのが日常だった。下手をすれば、窓を開けた状態のまま桟に凭れ、再び眠り出してしまう事が、まったくないとは言えない程、リョーマの覚醒は果てしなく悪い。
 だからいい加減リョーマの寝起きの悪さというものを理解していた筈だったが、それは筈の理解だったと、正月から三が日の今日、二日続け一緒に朝を迎えた桃城は、無防備な寝顔を曝し熟睡しているリョーマを凝視し、苦笑のまま溜め息を吐き出した。
 すっかり身支度を整えた桃城は、起きる気配一つ見せないリョーマを眺め、ベッドの端に腰掛けた。ギシリと、鈍いスプリングの音が、静かな室内に異様に大きく響いた。
 昨日と変わらぬ朝の光景。けれど昨日とは確実に違う精神的な部分が有る。
初詣から帰ってきた夜。何かに怯えるような仕草で縋り付いてきた指の細さ。相反し、爪を立てる痛みを孕む力。身の裡の激しさと痛ましさを混在させ露呈させながら、愉悦に崩壊していった幼い姿はこれから先、脳裏から離れる事はないだろう。それは脳裏というより、桃城の身の裡の深い部分に、確かなカタチとして、焼き付いてしまったから尚更だ。
 泣き出しそうな表情のくせに、溢れ落ちる事のない涙。
泣いてくれた方が安心できると思える程、切なさと、それ以上に痛々しさを滲ませていた華奢な姿。
 今年も来年も再来年も、一緒に居よう。
それはリョーマからの初めての言葉だった。その言葉が、リョーマの覚悟の言葉だと気付かない桃城ではなかったから、言われた時、心臓が握り潰されたて行く痛感が、一瞬、生々しく意識を刺していった。
「ったく…起きろよ。襲っちまうぞ」
 ひどく優しい声で微苦笑を滲ませ、乱れた前髪を梳き上げれば、尚幼い寝顔が無防備に曝される。
 リョーマの意思とは無関係に、幼い内側に宿る天の才。その天の才故、リョーマの思考は一極集中型なのだろうと、穏やかな寝顔を見ながら、桃城は思う。
 手塚のような不器用な器用さを、リョーマは持ち合わせてはいない。手塚は、リョーマとはまたタイプの違う稀代さだ。
 手塚に関して言えば、確かに他人からその表情は読みにくく、何を考えているのか窺い知れない部分はあるが、天が二物も三物も与えまくったと言われる稀代のプレーヤだ。
 その場に居るだけで、誰彼の視線も集めてしまうカリスマ性。卒なく部長職を勤め、全校生徒だけではなく、教師からも信用の厚い生徒会長をこなし、学業の面では学年首位を譲った事のない天才。そしてテニスの技術は、全国に名を知られたプレーヤー。此処まで揃っていれば、僻みや妬みなど意味も持たない。そんなものはするだけ無駄で無謀で、やはり無意味なものだろう。何事も、相手の力を見極める眼を持つ事は、必要不可欠の要素だ。
 そして高校生級と言われる手塚のテニスの才能は、昨年夏の全国大会で遺憾なく発揮され高校生級以上の資質と、無責任な批評家からではなく、第一線で活躍しているプロから言われた程だ。尤も、それはリョーマとて、決して例外ではなかった。有る意味、リョーマの方が、マスメディアの扱いは大きかっただろう。中学一年で、名門と言われる青学のレギュラーになり、地区大会から全国大会を通じ、連勝で通過しているから尚更だ。
 良いも悪いも、今の日本のテニス界で、一番レベルが高いのは中学生だと、全国大会を観戦に来た幾人かのプロに言わせしめてしまう程、昨年夏の全国大会は、稀代、天才の大安売りのように、実力とそれ以上のものを持っている選手が集まり凌ぎを削った。
 その中で、手塚とリョーマを始め、桃城が知る幾人かは、秋に実施されたワールドスーパージュニアへの選抜メンバーに選ばれていた。しかし手塚は痛めた肩を理由に辞退し、リョーマは周囲に理由を明かす事はなく辞退した。
 中学一年生で未成熟な躯。それとは反比例し、卓越する技術や精神力。テニス後進国と言われる日本で、リョーマの存在はある意味貴重だ。だからリョーマが周囲に理由もなくジュニア選抜を辞退した時、JTAの人間が心底残念がったと、嘘か誠か、桃城の耳にも下らない噂は回ってきた。けれどそれが『下らない噂』の一言では片付けられない事を、桃城は判っていた。 テニスに関しては、一種動物的な嗅覚を持っているリョーマだ。下らない噂ではない事など明白だ。それはきっと事実に他ならないだろう。
 それでもと、桃城は無防備なリョーマの寝顔を眺め微苦笑し、乱れた前髪を梳き上げた。
寝顔だけ見ていれば、とても天の才を持っている、稀代の選手の印象は微塵もない。
「俺は、此処に居るからな」
 無防備に眠る寝顔に、莫迦みたいに愛しさが湧く。湧くから、大事で大切で、自分でもらしくない程慎重になっていると判る。 眼に入れても痛くないと思っていた。けれど今ではもう半ば、眼に入れてしまっているだろう自覚はあった。
「お前は、歩いていけよ」
 これからますます、リョーマの天の才は際立って行くだろう。それは全国大会という一部の部分では収まらない程、磨き抜かれて際立ち、切っ先はますます鋭利になって行く。ネコのような性格と剽悍さ。けれど本質は、細く幼い指先の先に、猛禽の鉄爪を隠し持っている事を、桃城は知っている。
 どれ程の想いを紡いで関係を形成していたとしても、誰もが同じ道を歩く事はできない。そんな程度のちっぽけな事実。桃城は誰に言われるまでもなく正確に理解していた。
 そしてリョーマも理解していた。理解してしまったからこそ、迷ってしまったのだろう。そしてリョーマを見守っていた桃城が、リョーマの迷いや悩みが何処に有るか、気付かない筈も、見逃す筈もなかった。それでも口に出す事なく、リョーマが自ら答えを出すのを待っていた。その精神値の高さなど、到底簡単に真似のできる代物ではなかった。
「お前は俺より十分優しいよ。だから、罪悪なんて感じるなよ」
 迷い続け、それでもテニスしか選べない自分と言うものを理解してしまったからこそ、リョーマの内部に生まれた罪悪感。そんな事、桃城はリョーマが自覚するより以前に、気付いていた。けれどリョーマは知らない。リョーマがテニスを選び取ってくれた事が、桃城にとってどれ程安堵をもたらすものかなど。 リョーマの迷いの一端が、自分に有る事を桃城は判っていた。だから必要があれば、その手を離す覚悟はしていたつもりだった。必要が有れば、消えてやる事など簡単な事だと思っていた。現に、昨夜必死の面差しで告げてきたリョーマの科白を聴いた瞬間。親不孝にも、それでもいいとさえ思ったのだ。


『俺が死んでって言ったら、死んでくれる?』


 思考領域を限定してしまう枷になるつもりはなかった。
リョーマが望むなら、それでもいいと思った。消えてやる事も、命を差し出してやる事も、余り大差ないだろう。 
 リョーマはリョーマの道を歩いて行く事しかできない。そして自分は自分の道しか歩けない。
誰もが自分の道を歩いて行く事しかできないのだ。だからこそ、桃城の願う願いは深い。
この年齢で、其処まで悟れるのは有る意味稀代だと言う事に対しての自覚は、当然桃城に有る筈もない。
「その為の努力程度、安い努力だからな」
 それぞれの道を歩きながら、重ねる時間を持つ努力を、桃城は惜しむつもりはなかった。
 これから先、半歩後ろに佇む距離を起き、リョーマの見る光景を共に見たいと願う。だからこそ、その為の努力を惜しむつもりは、桃城にはなかった。
 いつからそう思っただろうか?考えても、もう思い出せない気がした。物理的距離が精神的距離を遠ざけてしまう事は判っていた。遠距離恋愛が長続きしない理由は其処だとも良く聴く事で、何処にでも転がっている有り触れた事実だろう。それでも、夏あたりまでは、足掻く努力など、考えてはいなかったように思う。
 七夕の夜。天の川を見上げ、戯れに交わした会話は、今とは180度違ったものだった。
 天の川を挟み、年に1回しか逢えない恋人達と自分達は違うから、逢いたければ逢える。
そんな戯れの会話を交わした。けれど今は違う事に、桃城自身、身の裡の変化の有り用というものがいつ起こったのか、明確なラインを持ってはいなかった。
 それは丁度全国大会が終わり、リョーマが本格的に自らのテニスというものを模索し始めた姿を眼にした時からなのかもしれない。
 自らのテニスというものを、全国大会で称賛されながら、慢心せず模索しだした時から、リョーマの迷いが生じている事も、桃城は知っていた。
 そんなリョーマを見てきたからこそ、桃城は自らのテニスを再構築させる為に、模索し始めたのだと、きっとリョーマは知らないだろう。それは別段、リョーマが知る必要もないものだと、桃城は穏やかな寝顔を眺め、微苦笑する。
 まだまだだね。
それはリョーマの可愛げのない口癖だが、案外それは自らに刻み付ける為に吐き出されていた部分も有ったのかもしれない。口を開けば吐き出される小生意気な口調とは裏腹に、内側は読めない。リョーマの感情を読む事は案外と簡単にできる。けれど、その内側に持ち続けているものを読む事は、できない。
「越前、起きろよ」
 もう少し、この穏やかな寝顔を堪能していたい気分も内心ではあるが、そうもいかない。いい加減起こさなくては、リョーマが完全に覚醒するのは一時間後だ。既に時計は正午を指している。
「んっ……」
 桃城の穏やかな声と肩を揺する感触に、癖なのだろう。自らを抱き締めるように寝ているリョーマは、コロンと桃城に擦り寄る恰好で寝返りを打った。
「コラ」
 ネコのような仕草だとフト思う。もう幾度となく重ねてきた時間の中。リョーマの覚醒がドロ沼的に悪い事は知っている。眠る仕草がネコのようでもあり、同時に、孤独の中、自らを抱き締める腕だけが頼りというように眠る姿は、時折桃城に愛しさと憐れさと切なさと言う、整然とした矛盾を突き付けてくる。
「起きろ」
 軽く揺り動かしても、一向にリョーマが起きる気配はない。起きている時に見せる小生意気な態度とは相反した無防備さに、やはり桃城は莫迦みたいに大切だと思うから、大概眼に入れてしまっている自覚の一つや二つ程度、持ち合わせていた。
 尤も、周囲から言わせれば、10や20自覚しろと言う事になるから、桃城の自覚は未々なのかもしれない。
「…もう…少し……」
 寝言のように呟くと、リョーマは揺すられるままに任せ、毛布の中に潜り込んでしまう。
「昼だろうが」
 確かに、昨夜は散々睦んだ自覚はある。華奢な躯を二日間連続で酷使してしまった自覚も多大だ。それでも、もういい加減起きなければ、リョーマの泥沼的な寝起きの悪さを考慮すれば、これから支度をして家を出る頃には、2時近くになる可能性も否定できない。
 桃城は大仰に溜め息を吐くと、威勢良くケットを捲り上げた。上げた時。舞うと思っていたケットの端を、リョーマはしっかり握り込んでいた。
「越前〜〜起きてんなら起きろ」
「……桃先輩…日本語変……」
 半覚醒状態で、それでも桃城にしっかり反駁する事を忘れないあたり、リョーマの性格なのかもしれない。
「変って認識できる程度に起きてるなら、起きろ」
「起きてるなら起きろって変」
 おやすみなさいと、リョーマは再びケットをしっかり抱き込み、潜り込む。
「もう昼だぞ」
 オイオイと、桃城は潜り込むリョーマを引き上げるように、上半身を強制的に起こしてしまう。
途端、リョーマは寝起きの不機嫌さと、強制的に覚醒させられた事で、憮然と桃城を睥睨する。
「…いい夢観てたのに」
 色素の薄い綺麗な蒼。けれど睥睨は長くは続かなかった。
未々半覚醒状態のリョーマは、再びコトンと桃城の肩口に顔を埋め、小さい欠伸を漏らしていた。
「どんな夢だ?」
 桃城も元旦の夜。リョーマを抱き締め眠った時。ひどく柔らかい夢を観た事を覚えている。
昨夜激しい情事に曝し、熱の引かない躯で目蕩みに戯れながら、他愛なく笑った夢の在処。
「ん〜〜」
「コラ越前」
 間延びする声に、苦笑する。リョーマの仕草は本当に眠いのだろう。睦言を囁く事もなければ、背に腕を回してくる事もない。力の抜けきった腕は、華奢な胴体にくっついたままだ。
「マジで起きないと、帰るの夕方だぞ」
「……別に」
「別にじゃない」
「いいじゃん。どうせ皆帰ってくるの、明日なんでしょ?」
 正月元旦夕方から、桃城の母親と弟妹は鎌倉の母親の実家に帰省していた。警察官である父親は、犯罪件数が鰻登りになる年末年始帰って来る事などできる筈もなく、だから桃城とリョーマは、夏休み以来珍しくも、二日間連続で朝を迎える事ができた。尤もそれは比例して、セックスに勤しんでしまう事にしかならないから、リョーマの躯は疲労していた。眠いのは嘘ではない。二日間連続しての行為は、確かに幼い躯には負担が大きい。だからこそ桃城が加減をすれば、桃城の理性を綺麗に砕くのは、いつだってリョーマの方だった。
「そういう訳に行くか」
「うちなら、別に何も言わない」
 息子と桃城の関係を逐一知っていて、敢えて現物支給と桃城に笑ってしまう南次郎だ。心配など、今更する筈もない。
「ダメ。正月くらい、少しは家族と過ごす事覚えろよ」
「何それ。大体それだったら、あんただって同じじゃん」
「俺は今更だからいいんだよ」
「むかつく。一つしか違わないくせに」
「アホ。お前久し振りに帰ってきた日本での正月だろうが」
「フーン。俺より将来の舅に、媚び売っとこうって?」
 漸く肩口から顔を上げたリョーマは、桃城を眺めた。けれど言葉程眼差しは睥睨など欠片も浮かべず、ただ柔らかいものが滲んでいる。
「正解」
「腹立つ」
「ホラいいから、支度しろ」
 桃城は今度こそリョーマを引き剥がすと、リョーマは渋々ベッドから這い出て、身支度を始めた。
 冬の柔らかい日差しの差し込む室内。適温に調整された暖房の中。羞恥もなく曝されたリョーマの白すぎる裸体に、桃城は深々溜め息を吐き出した。








「………越前…お前なぁ…」
 遅い昼食の後片付けをして部屋に戻ってみれば、リョーマは桃城の部屋のクローゼットに頭を突っ込み、何やら喜々として引っ張り出し、当人の許可なくソレに腕を通していた。
「何?」
「それは誰のでしょう?」
「あんたの」
「お前、確かクリスマスもそう言って奪ってったよな」
「あの時は、たかがシャツ一枚じゃん」
「それじゃ今のそれは?」
「だって、あんたコレもう小さいでしょ?だから全然着て無いんじゃないの?」
 リョーマの科白は、疑問符を付け問いかけながら、確認の肯定でしかないのだから、タチが悪い。
「だから俺に頂戴」
 莞爾と笑い、リョーマはクローゼットの扉を閉めた。
リョーマがクローゼットから引っ張り出して着たものは、黒いハーフコートだ。リョーマには確かに大きく、指先が半分以上隠れてしまう代物も、桃城には若干小さいのだろう。
「ったく」
 深々溜め息を吐き出したその苦笑が、了解の合図だった。
「サンキュ、桃先輩」
 苦笑する桃城に、リョーマは笑った。












 漸くリョーマを送る為に支度を終え、二人が桃城の家を出た時は1時半近かった。
此処からリョーマの家は、自転車なら、15分程度の距離だ。2時を過ぎると思っていた時間から比べれば、1時半に家を出る事が出来たのは、有る意味、晴天の霹靂に近い。
 リョーマを先に出し、玄関に鍵を掛け、振り向いた視線の先に在る姿に、桃城は言葉を失い、瞠然となった。
 桃城の家の門を出た位置で、リョーマは立ち止まっていた。冬の穏やかな昼下がり。正月三が日の所為か、日曜の昼下がりなら聞こえてくる筈の周囲の喧騒も、今日は聞こえてはこなかった。そんな静かな空間に、リョーマは静謐に佇んでいる。佇み、立ち尽くす事なく、冷ややかな静謐さに満たされ立っている。その姿に、桃城は半瞬魅入る様にリョーマを呼ぶ為に開いた口唇を閉ざした。閉ざし、そんなリョーマを眺める事なく、凝視もせず、ただ、見ていた。
 何を考え、その華奢な身に蓄え、刻み付けているのかと思う。閉ざされた蒼い瞳の奥。
小柄で剽悍なネコ科の小動物のようなスピードと、卓越したテクニック。否応なく与えられた天の才。閉ざされた表情の内側に、一体何を刻み付けているのか。憂いもなく静かに閉ざされたその表情の内側に、何が宿っているのだろうか?判らないと思うのに、判るという整然とした矛盾が、桃城の内部には有った。
 リョーマは澄み渡る空を見上げ、瞳を閉ざしている。ピンと芯が入ったかのように伸びやかに背を伸ばし、気負いの欠片もなく、まっすく空を見上げ、切れ長の双眸を閉ざしている。
 桃城から奪った黒いハーフコートのポケットに両手を突っ込み立っている綺麗な立ち姿は、何処か敬虔な祈りを掲げているかのようにも見える。
 深呼吸するかのように伸びやかに、そして身の裡に何かを蓄えるように高い空を見上げ、リョーマ静かに瞳を閉ざしている。そんなリョーマの姿を、桃城は一度も見た事はなかった。
 つい先刻見詰め続けてきた寝顔からは察せられない静かなものが、リョーマの横顔には滲んでいる。それは普段の小生意気なリョーマからは、何処か掛け離れた部分を露呈させている。幼さなど微塵も浮かべてはいない静謐な横顔は、今の今まで見せていた幼さをその身から殺ぎ落とし、内側から研ぎ澄まされていく凛然さを滲ませている。それはこれから益々研ぎ澄まされ冴え渡り、誰をも惹き付け止まない切っ先の強さとなるのだろうと、桃城にはリョーマの歩む道が見える気がした。
 そうで有ってほしいと願うし祈る。罪悪など抱く事なくまっすぐに。迷う事なく目指す場所に、回帰されてほしい。
 リョーマの意思とは無関係に生み出されていくその天の才が、最も綺麗に切っ先を映し、躊躇いなく鉄爪を下ろす場所に。
 こんなリョーマの姿は、父親の南次郎でさえ、見た事はなかっただろう。リョーマ自身にさえ、自覚はないのかもしれない。今自分がどんな表情をして、立っているのかなど。
 痛々しい程透明な静謐さに満たされている姿。真冬の冷ややかな冷気と共鳴するかのように、身の内側から削り出され、殺ぎ落として行く何かと引き換えに、リョーマは益々透明さを増して行く。水晶で出来た切っ先ような綺麗な生き物に、これから群がる人間の数の多さは、桃城とて簡単に想像できる。
 どれ程の群れの中でも、その印象的な水晶のような透明さと、相反し、猛禽の鉄爪を躊躇いなく振り下ろす孤高の姿。だからこそ、誰もが魅入られるのかもしれない。
「越前」
 静かに桃城がリョーマを呼んだ。
時間にしたら、それは多分2分とない時間だっただろう。
幼い筈の内側に刻み付けられたテニスへの情熱と、等分に与えられてしまった桃城への想いと。綺麗で強くて、そして哀しい程痛々しい生き物。同じ秤で計れない事など誰より承知して、切り捨てる事もできず、傷つきながら、歩こうとしているその強さは、細身の躯の一体何処から生み出されてくるのだろうか?桃城には不思議でならない。
 静かに呼ばれた声に、リョーマは閉ざしていた瞳をゆっくり開いて行く。その瞬間が、桃城には鮮烈な印象で、身の裡に刻み付けられていく。
 色素の薄い綺麗な蒼い双眸が開かれ、まっすぐ空を見上げる。細身の内側に、とてつもない大きいものを蓄えるかのように、リョーマは空を見上げ、そしてゆっくり桃城に視線を巡らせた。 綺麗な生き物。真冬の月の光を凝縮し、氷に漬け込みカタチを作れば、きっとこんな姿をとるのかもしれない。少しだけ冷ややかで、痛々しい程綺麗だ。 
「何スか?」
 巡らせた視線の先。何とも言えない表情で自分を見ている桃城に、リョーマは細い首を傾げ、覗き込む様に桃城を凝視する。けれど桃城は何も言わない。
「桃先輩?」
 今まで自分が呼び、桃城が応えなかった事などないから、リョーマは尚更不思議そうに桃城の名を口にした。
 その瞬間、不意に視界を横切る影が、リョーマの白い貌に落ち、次には視界が閉ざされた。
 桃城の仕草を咎める事なく、リョーマは告白な口唇に弧を刻んだ。
「癖になってるね、これ」
 背後から引き寄せるように瞼を覆う腕。時折桃城はこんな仕草をする。それは大抵、リョーマが泣き出す何かを必死に怺えている瞬間を見逃さない桃城が、する仕草だ。まるで泣いていいと言うかのように、その表情を綺麗に隠されて行く。けれど今はそれとは違うだろうと、リョーマは思った。
「そうか?」
 不意に閉ざされた視界の中。リョーマは薄い肩を竦め、瞬き一つしていない。
「今はあんたが、泣きたい?」
「そうかもな」
「嘘つき」
 周囲のものに無関心で無頓着なリョーマでも、背後から引き寄せられる気配の中。桃城の苦笑が読取れない程鈍くはない。
「少し、こうしてろ」
 泣き出したいと言うのとは言葉は少し違うだろう。けれど感傷的な部分を抜きにして、何かを身の裡に蓄えるように空を見上げていたリョーマの姿が痛々しい程印象的で、初めてリョーマの中の孤独を見た気分だった。
 自分は一体何を知っていたのだろうかと、桃城は思った。同時に、何を知らなかったのだろうかとも思う。
 逃れられない才能と熱情。テニスへの熱意と、等分に与えてしまった桃城への熱と。リョーマの内側でせぜめき、罪悪を抱かせてしまう程、リョーマを苦しめ。一体何が出来るだろうか?
「大丈夫さ」
 リョーマにと言うより、自分に言い聞かせるように、桃城は呟いた。
「お前は、前に進める。飛んで行ける」
 昨夜から変わったラインを、互いに見誤ってはいないだろうと桃城は思う。初めて言葉に出された昨夜は、気付かなかったリョーマの変化。それは言葉に出した分だけ、更にリョーマを追い詰めてはいないだろうかと、不安になる。
「莫迦だね」
 あんた本当に莫迦、リョーマはクスリと小さい笑みを漏らすと、呆れた様に肩を竦めた。
「飛んでかないよ」
 嫌にはっきりとした淡如な言葉が、桃城の内に落ちる。
「言ったじゃん」
 きっと桃城には随分前から見透かされ、逆に桃城を心配させただろう。身の裡に抱き締めている罪悪の在処というものを。それでも、だからこそ、桃城を枷にする事はできなかった。
できない程、桃城と言う存在に餓え、内部まで浸食されていたのだと、こんな時、奇妙にハッキリ気付かされて行く。
「俺に、羽なんて、必要ないんだよ」
 羽など要らないと言ったクリスマスの夜。ホワイトクリスマスになったリョーマの誕生日。桃城と迎えた夜の始まりに、リョーマはそう言った。


『羽なんて邪魔なだけだよ。俺は別に空を飛びたい訳じゃないんだから。羽なんて、毟り取って捨ててく』



 自ら、羽など毟り取って捨てて行くと言ったリョーマの端然とした言葉と、比例し、切っ先のような冷ややかな面差しを、桃城は今も鮮明に覚えている。その時桃城は痛感した気分を味わった事を、リョーマは恐らく知らないだろう。
 切っ先を湛えるリョーマの色素の薄い蒼い双眸。研ぎ澄まされた鋭利さと、等分に綺麗なものを滲ませ、何故、誰をも惹き付ける強烈な印象を放つのか。桃城は酷薄に告げるリョーマに、その意味を諭された気がした。
「下らない感傷で、言ってるんじゃないんだぞ」
「そんな事、判ってるよ」
 桃城は一度とて、軽口に誤魔化してはいても、下らない感傷を求めてきた事はなかった。
寧ろ求めて、桃城を苦笑させてきたのは、自分の方だとリョーマは知っている。
「桃先輩、ピーターパンの話し、したよね」
「ああ」
 リョーマの誕生日。淡如に笑った刹那、リョーマは何とも言えない表情で、そんな話しを戯れにした。けれど実際その科白に込められたものは、下らない感傷ではなかった事くらい、桃城にも判る事だった。


『俺はね、ピーターパンじゃないから。夢の中だけでは生きられない事程度知ってる』


「俺の肩に、今も羽は見える?」
 いつまでも、子供のままではいられない。羽があったと言われる肩。きっと夢を見る子供には、有るのかもしれない。ただ、夢を見ていればいい子供には。
「飛んでく姿は、見えるな」
 飛ぶ程綺麗な姿でまっすぐに、歩き出した足は、疾走するだろう。それでもと、思うし願う。この半歩の距離が続くように。
「毟り取った羽でも、あんたには未だ見える?」
 父親だけが壁だと思っていた。自分のテニスを見せてみろと、端然と言い切った手塚に教えられたテニス。超えるべき壁の大きさと意味と。その時から、羽など必要ないと思った。必要なのは羽ではなく、歩き出し、走り出す為の足。ラケットを持ち、見守ってくれる誰かを抱き締める為の腕。未来を掴み取ろうと、足掻く意思。
「毟るなよ」
 羽など要らないと、薄く細い肩に、自ら爪を立てた姿。
本当にあの時、羽を毟り取る嫌な音が、聞こえた気がした。
「もぎとる、でもいいよ。切り取るでも。抉るでも。ねぇ桃先輩。今の俺達に必要のない言葉は、限界なんでしょ?」
 桃城から告げられた言葉を聴いた時。その深い意味までは判らなかった。確かに限界を知った時点で、自分のテニスは終わってしまう事も、リョーマは知っていた。けれど父親に言わせれば、大概甘やかされていると言う事になるが、その科白から推し量られ、繋げられる言葉の意味など判らなかった。けれど、今なら判る気がした。それはほんの小さい、多少の理解だけれど、判らないより、幾分もマシに思えた。 
「あんた俺より一つ年上で、少しだけ沢山のもの知ってるくせに、肝心な事知らない」
「越前?」
 クスリと薄い笑みを覗かせている姿が、背後からでも桃城には鮮明に見える気がした。こうしてリョーマは、その表情の奥に隠されたものを見せてくれる。
「人にとって重要なのって、場所じゃないって事」
 走り出した先に目指すもの。望むもの。その困難さ。考えれば、足許が喪失しそうな程明瞭に判る進む道と、見据えた先への恐怖と。
「未来は決まってるものじゃなく、掴み取るものなんでしょ?」
 綺麗な夜景と、明滅するも光。 
どれ程の距離が開いてしまったとしても、桃城が見せてくれた綺麗な光景は、きっと一生忘れられないだろうと思う。
「大切なのは、辿り着く場所、じゃ、ないんじゃない?」
 一言一言区切り話される言葉。それはリョーマが自らに刻み付ける為のものだと、気付かない桃城ではなかった。
「場所じゃないなら、何だ?」
「莫迦だね」
 呆れて笑うと、リョーマは瞼を塞ぐ腕をゆっくり離して行く。
「羽なんてなくったって、誰だって歩いて行ける。歩いて行ける場所が、丁度いいんじゃない?」
 ゆっくり下ろした桃城の手。冷めない温もりは、そのまま肩から胸に回り、緩やかに抱き締めて来る。往来で何をやっているんだかと半瞬苦笑し、リョーマは先を繋げた。
 もう随分、弱い生き物になっていたのだと思う。同時に、いつからこんなに強く思っていたのかとも思う。
「俺ね、判ったと思うよ。少しは」
 テニスしか知らなかったし、テニスしか必要ないと思っていた。それは裏を返せば、テニスしかできない子供だったのだと、今な判る。
「必要なのは、人が居る場所だって。人っていう存在なんだって」
 隣ではなく、敢えて半歩の距離を置いてまで、自分と同じもの見ようとしてくれているダレかのように。大切なのは、場所ではなくて、その存在が居る居場所。
「お前さ」
 きっと、リョーマは忘れる事なく、覚えているのだろうと、今ハッキリと桃城は判った。
 明滅する光に浮き沈み、浮かび上がる光景。場所は常に人が形を作って行くものだ。行くものなのだと、桃城は父親から教えられた。                  
 喜怒哀楽。全てのものは、人の群れの中、触れ合う位置から生み出されて行くのだと。桃城は父親から教えられた。だからあの時、リョーマに見せたのだ。
「あんた悪党だからさ。俺と一緒に居る為に足掻くし努力するなんて言ってくれるし」
「悪党だけ余計だ」
「簡単に命捨てようとするし」
「俺の為、だからな」
「そういう事サラッと言う所が、悪党だって」
 リョーマはひどく可笑しそうに笑うと、次には口を閉ざした。まっすく見上げた視界に映る綺麗な蒼。
「桃先輩」
「ん?」
 静かな声が落ちる。少しだけ上を向くリョーマの視線の先に映るものは、何だろうかと思う。
「Thank you」
 流暢な発音で綴られた言葉が、桃城の胸の奥に落ちる。
忘れないだろう。たとえ進む道が違ったとしても。
 降る様に柔らかい声を。願いを掲げ、見守れていた優しさを。差し出された腕を。何一つ忘れずに、全てを乗り越えていく勇気と力を。強さを。
 いつか、いつかでいい。振り返った時。この胸の痛みは、その日の為に有ったんだと思える程に強く。いつか、拭う事なく、涙を流せるように。
「忘れるなよ。三度は言わないからな。俺は、お前と居る為の努力は惜しまない」
 それでも、その言葉が枷とならないように、切り捨てられていいとも思う。疾走する早さで、その日に到達するだろうリョーマの背を、いつまで見ていられるのか判らないのだから。それでも、諦めてしまえる程、リョーマに対しての想いは簡単ではなかったから、足掻く事しかできない自分というものを、桃城は自覚している。
 大切にしてもしたり無い程大切。それは別段桃城にとって、大袈裟な比喩ではないのだ。
 これから、リョーマの歩く道は、険しさを増すだろう。リョーマの意思に関係なく与えられたその天性の才によって。それは益々際立ち、研ぎ澄まされていく切っ先の強さと脆さを抱くだろう。それでも、リョーマはもう立ち止まらないだろうと、桃城は思う。
 瞳を閉ざし、空を見上げていた静かな横顔には、決意の色が見て取れたからだ。きっと昨夜から今日に続く何処かで、リョーマの中で、吹っ切れたものがあったのだろう。
 静かな横顔に刻み付けれていた孤独の影。それでも一度決めた事なら、リョーマは完走するだろう。倒れても崩れても、困難な道を歩くだろう。得たものと等分に失うものに傷ついても。 進む事の困難さ。望む事の難しさ。それでも、頭を垂れず、まっすぐ前を見詰める切っ先の双眸を誇りに思う。その綺麗な生き物に誇れるように、自分もまた歩きたいと、桃城は願った。
「行くか」
 ゆっくり華奢な躯から腕を離す。
「越前?」
 それでもリョーマは動かない。リョーマはまっすく空を見上げている。
「どした?」
 微動だにしないリョーマに、桃城はクシャリと慣れた仕草で髪を梳き上げた。
「桃先輩」
「ん?」
「テニス、しようか」


『君は沢山のテニスを経験するといいですよ。盗んでコピーして、構築して、自らに還元できた時。もう一度出会ったソレは、随分違うものになっているでしょう。その時初めて、それは君のテニスになるんです』


 都大会の氷帝戦終了後、不意に現れた手塚の先輩だと言う、元青学テニス部部長だと名乗った大和祐大は、南次郎と似た飄々とした態で、底の知れない笑みを漏らし、そう笑った。


「そうだな」
 静かに笑ったリョーマに、桃城もその意図を察したのか、クシャクシャ髪を掻き混ぜ、鷹揚に頷いた。
 真冬の綺麗に澄んだ蒼。冷ややかに空気の感触と心地好さ。いつか振り返った時。この胸の痛みは、その日の為に有ったのだと思える様に。大切な人に誇れるように。
 未来へと進むのは、ただ一つ、進もうとする意思でしかない。先へ行く程細くなるその困難な道を歩き出そうとしているリョーマに、少しでも誇れる様に。これから先、孤独の中に沈み込むだろう彼に、少しでも誇りたいから。
 足掻く強さを。もがく勇気を。そして、この痛みを手放さない強さを何より願う。
「俺が勝ったら、ファンタね」
 空を見詰める瞳がゆっくり巡り、桃城を視界に映し、綺麗に笑う。
 桃城のクローゼットの奥を覗いた時気付いた事を、いつ暴露してやろうかと、リョーマは感傷に浸った今。その時を想像し、笑っている事を桃城は知らない。
 これからも迷うし悩むし、投げ出したいと思う時は有るだろう。それでも、半歩後ろを振り返れば、莫迦みたいに優しい悪党が在る。その悪党に誇れるように、崩れて行く背を曝す弱さや脆さ抱き締めて、歩いて行く強さを。
「んじゃ俺が勝ったら」
「あんたが勝ったら、また今晩も一緒に居て上げる」
「………それはお前がしたいんだろ」
 随分語弊の有る言い方に桃城は苦笑し、二人はゆっくり歩き出した。