| 光 陰〜〜ゆく年くる年
邂逅の情景 act1
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つい一週間前に誕生日を迎えたばかりだと言うのに、気付けば今日はもう大晦日で、 あと一時間もすれば今年が終わる。師走の時間は、流石に坊主も走るという譬えどおり、 慌ただしく過ぎていく。常に一定の方向と速度で流れていく時間に、早いも遅いもないだ ろうが、誰にとっても師走は師走というだけで、気忙しく慌ただしい代物になる。なるから 不思議だと、ベッドに俯せに寝転がりながら、読むともなく開いているテニス雑誌を眺めな がらリョーマは思う。その懐には、母親の胸元に潜り込んだ幼い子供さながら、愛猫のカ ルピンが居て、前足でカリカリテニス雑誌を引っ掻いている。それを別段咎めるともなく、 リョーマは愛猫のフワフワの長毛を撫でてやれば、相変わらず愛嬌のある鳴き声が、心 地好げに返って来る。その愛嬌のある鳴き声は、ここ最近とみに『ママ』と鳴いているよう にしか聞こえない。それは自分だけかと思っていれば、桃城や南次郎にもそう聞こえるら しいから、自分だけの幻聴ではなかったのだろうと、リョーマは愛猫を眺めた。 「ホァ〜〜〜」 何かと忙しい大晦日の昼間から丸半日、遊んでもらえなかったカルピンは、夜になって 漸くリョーマに構ってもらい、ご満悦の様子でユラユラ尻尾を揺らしている。そんな愛猫に 眼を細め、リョーマは眺めていたテニス雑誌を放り出すと、コロンと態勢を入れ替え仰向け に寝転がり、愛猫を胸元に抱き上げれば、 「ママァ〜〜〜」 カルピンは甘えた鳴き声を上げ、リョーマを緩やかに笑わせる。程よく暖房の効いた室 内は、外の冷気が嘘のように温かく、冬の夜の柔らかい日常を映している。 「パパ遅いね」 愛猫の鳴き声に、リョーマは桃城が聴いたら、盛大に脱力するだろう科白を躊躇いもな く口にした。 哄笑でも揶揄でもない部分で、リョーマと桃城、カルピンの三人が揃っていれば、どうに も親子の肖像にしか見えないその光景を、南次郎が端的に述べたのが災いしてか、もう 随分前から、リョーマは愛猫相手に桃城をこう呼ぶ時がある。それは概ねで、桃城に対す る悪態と同義語ではあったのだけれど。 リョーマの台詞に、カルピンは不思議そうに小首を傾げ、 リョーマより遥かに濃い蒼瞳がまろくキョトンと瞬いている。それはなんとも愛らしい姿だ。 「もうすぐ、今年も終わるのに」 あと一時間もすれば今年は終わり、新年になる。そのあまりに不鮮明な境界線の一体 何処が区切りになるのか、リョーマには判らないものだった。今年が新年になっても、社 会は何一つ変わらない。相変わらず経済は不況で、犯罪件数は減少しない。世界は不 穏な動きを見せ、それこそ今の時代が、ゆっくり少しずつ、終焉に向かっている薄気味悪 さまで感じ取れる。 完全失業率は更新され続け、中年層の自殺は日々数を増している。経済不況が犯罪 件数と比例するのは明らかな事実で、社会全体が何処か少しずつ病んでいるその証拠 のように、少年による凶悪犯罪が多発している。それは新年になったとしても、何一つ変 わらないだろう。時間の流れとは、そういうものだ。そういう部分を考えれば、今年と新年 の落差など何処にもない、不明瞭な領域だ。伸ばした手の先に触れられもしなければ、 温度一つ感じられない、曖昧な線にすぎない。 一体何が区切りで何が始まるのかさえ明瞭にならない、曖昧な線引きのこちらと向こう で、それでも人はまるで一縷の望みを託すかのように、新年に祈る。 そんな病んだ社会の中、不眠不休で仕事をする父親の体調を桃城が口にしたのは、い つだったろうか? 刑事警察の聖域である、警視庁刑事部捜査一課で管理官をしている桃城の父親は、 多発する都内の凶悪犯罪に対応する為、毎年、年末年始の休みはないという。それこそ 犯罪に年末年始の区別はないだろうから、警察事情を考え、犯罪に手を染める人間はゼ ロだ。それこそ何かと物入りで、大晦日から正月三が日まで金融関係がストップする為、 普段なら置かない金額の金を、手元に置く人間も多くなる。その為空き巣や強盗被害は 年末に掛け上昇するというのも桃城から聴いた。その為、リョーマ自身、日々発生する凶 悪犯罪に視点がいくようになってしまった。それは何かの会話時に桃城が、不眠不休で 犯罪と対峙している父親の躯を気遣う科白を口にしたからだった。 桃城自身、父親が警察官であることは理解していても、実際その属する組織の中、どん な仕事をしているかの理解は薄い。外側から眺めて簡単に判る組織ではないのが警察 組織だ。 父親の階級は理解していても、それが組織の中でどういった意味を持つのか、桃城は 知らない。警察の持つ最大の権力は逮捕権だ。まして桃城の父親の所属は、広域捜査 権を持つ警視庁であり、刑事警察の中枢だ。そして現場捜査員を束ね、捜査方針を立案 し指揮する指揮権を持つ立場だ。けれど桃城はその階級が行使できる権限も当然知らな い。捜査方針一つで、被疑者を逃がしてしまう。あるいは誤認逮捕を生み出してしまう難 しい立場であることなど、当然知らない。管理官という役職上、行政官との調整役もこなさ なくてはならない立場だとも知らない。 それでも桃城が判っているのは、父親が犯罪と対峙しているということだけで、それが 何より誇りだった。 だから父親を気遣う科白を桃城の口から聴いてしまった時。リョーマは桃城の父親が生 死と表裏一体で対峙しているものを、無視出来なくなってしまったのかもしれない。桃城 は、だから父親の後を継ぐ道を行くのだと思っていた。カタチの見えない社会正義を模索 するのは、何処か桃城に似合っているとも思えたからだ。けれど実際桃城には、あの組 織は窮屈なものだろうと、桃城の父親が考えていたことまでは、遠く及ばないリョーマだっ た。 「NEW YEAR……か……」 人間が勝手に区切る線引きに、毎年周囲が呆れる程、感慨の湧かないリョーマも、今 年は少しばかり状況が違っていた。それは、今年が終わり年が明ければ、残された時間 はあまりに少ないと、意識しない訳にはいかなかったからだ。 たった一日で隔てられていく今日と明日。それでも、一時間後に控えた新年から先は、 急速に時間が削られてしまうのを、リョーマは嫌という程判っていた。 時間という眼に見えないものを、引き千切ってしまいたくなる衝動や焦燥。足許を竦ま せていく恫喝を、リョーマが強烈に意識するのは決まってこんな時だ。それはまるで、足 音を忍ばせ、背後から忍び寄る影のように不意に訪れては、突然目の前でカタチを成し ていく。リョーマにとってその恫喝は、そんな感覚に近いものだった。味わう状況も毎回呆 れる程に変化がない。そのくせ毎回訪れる後に、言い様のない焦燥だけが取り残されて いくのだからタチが悪いにも程があると、リョーマは内心桃城に悪口雑言を吐き出して行く。 そんなリョーマの不安定さを、桃城はリョーマ以上に正確に把握しているだろう。そして 何がリョーマを不安定にさせているのかなど、百も承知しているだろう。それでも桃城は 何も言わない。何も言わず、時折どうにも不安定になるリョーマを眼にすれば、深い苦笑 と共に、慣れた仕草で髪を梳くだけだった。 此処最近の桃城は精悍さに加え、同学年の3年生より遥かに強く青年の気配を滲ませ ている。其処には中学生という子供じみた空気は、一切感じ取れなくなっている。そんな 桃城が深い苦笑を浮かべれば、それはもう最低的に悪い男の見本のような気配しか滲 まない。それも意識してそんな気配や雰囲気を作り出せてしまう桃城は、それこそ天性の 詐欺師に近いだろう。普通そんなものは、意識し簡単に作り出せるものではないのだ。 『笑ってろ。お前は笑ってテニスしてろ』 穏やかな深い微苦笑と同時に、髪を梳く節の有る指。大人の男の長い指のくせに、触 れてくるものは柔らかいものばかりを与えてくる。 最後にはテニスしか選べないと、嫌という程理解して、そのくせまるで等分に分け与え るかのように、傾く桃城への恋情と。そんなリョーマに莫迦みたいに見せる桃城の深い笑 みが、どれだけ残酷に胸の何処かを切り刻んで行くのか、当人は知っているのかいない のか、リョーマには判らない。判っているのは、繰り言同様、繰り返される、桃城のたった 一つの言の葉だけで、それは祈りの言葉と変わらぬ願いだ。そのくせ決して桃城は、リョ ーマに手の内を覗かせるような真似をしない。 「俺は、壊れ物じゃないって、あんた何処まで判ってるの?」 それは何も、情事の最中、莫迦みたいに気遣われる部分だけに有効な台詞ではない のだと、何処まで桃城は判っているのだろうかと思えば、きっと全部判っているに違いな い。気遣うのは自分の為だと桃城は笑う。告げる言葉に欠片も逡巡がないのは、其処に 嘘がないからだ。 「俺は一体いつまで、待てば言い訳?」 望めばどんな言葉も躊躇いも見せず、惜しげもなく口にする桃城は、けれどたった一つ の質問には決して答えない強靭さを持っていた。 曖昧にはぐらかすことは幾らでも可能だろうに、その質問にだけは答えないという明確 な意図を曝しながら、綺麗なものに包み込むように、リョーマから隠してしまう。誤魔化す 仕草はして見せるくせに、決して答えてやらないという意図が明瞭に見えるやり方で、桃 城はたった一つ、リョーマが何より望む問いには答えない。 壊れ物同様に扱うくせに、肝心な部分は一切何も見せない。そんな男の一体何処が最 低じゃないんだと、リョーマは内心毒づいた。それが恋人となれば、それはもう最低以外 の何者でもないだろう。 「俺は、あんたの宝物で居たい訳じゃないのに…」 半歩後ろに佇んでいるくせに、精神的には自分の遥か前に立っているのだと思えた。 南次郎が今年の初め、笑わない眼をして告げた言葉の意味を、嫌という程感じさせられる のも、決まってこんな時だ。 『一体何がそんなに、お前の内側を、守ってるんだろうな?』 笑う口許。相反し、一つも笑っていない眼の底。突き付けられたのは、大凡初めて眼に するに等しい、刃と牙を持つ父親の姿だった。襟首を摘み上げられるような、底冷えする ような感触は、それが不世出と謳われた『サムライ』のものだと、初めて理解させられた。 守られていると、今まで感じていたことがない訳ではなかった。莫迦みたいな慎重さと 過保護さで、いつもいつも大切にされてきたことなど、リョーマには今更だった。けれど守 られていたのだと、明確に感じることは少なかったように思う。 守ってくれた者、内も外も、リョーマという存在をテニスごと守ってくれた者。テニスと等 分に分け与えられてしまった恋情を知って尚、容赦ない辛辣さで、テニスを棄てさせては くれない。 「ねぇ……」 訊いても答えてもらえない問いを、繰り言のように繰り返すのも癪で、口に出すことはな くなっしまったものの、言葉に出さなくなった分だけ、リョーマの身の裡で湧く不安定さを、 誰より理解しているのも桃城だろう。けれど桃城はたった一つの問いには答えない。その 強固さは一体なんだろうかと考えても、リョーマに判るものはなかった。判るのは、笑顔 の印象の強い桃城の、そんな部分が実際日常的には見せられることのない、本質なの だろうということだけだった。 「何処に、行くの……?」 桃城は一体何処に向かおうとしているのか?相変わらず漠然とした部分でしか判らな い。けれど曲者の父親と何かを企んでいるのだけは嫌でも判る。その企みの一端が何か をリョーマが知ったのは、本格的な足音が近付く11月の終わりだった。 感情を廃棄した無機質な活字から伝えられた南次郎の言葉。其処に秘められていたの は、桃城と変わらぬ願いのようだった。 コートという戦場に立つ選手とは別の、大局的な視野の広さで物事を捕らえた父親の内 心を、伝えてきたのは井上が手掛けた無機質な活字からだった。けれどそんな無機質な 活字から伝えられた父親の言葉に、リョーマは適わないと痛感したのだ。それこそ、背筋 が凍り付く沈黙の中で、理解した。 適わないと思った時。桃城が向かおうとしている場所が垣間見えた。テニス後進国の日 本で、父親が何をしようとしているのか、無機質な活字から語られた時。桃城が父親の企 みの一部だと判ってしまった。それは推測の域は出ないものの、まったく見当違いでもな いだろうとリョーマには思えた。 「……俺を…置いてく訳?」 意識しない細い声が漏れ、それは酷く感傷的な台詞だろうと、口に出してしまってから、 リョーマは自嘲する。 桃城のテニスが明らかに眼に見える形で変化したのは、去年の夏だった。当時のリョー マには、それは全国大会に出場する選手としては、ある意味求められる最低条件でもあ るように思えたから、桃城の真意は大会終了後まで気付かずにきた。 桃城のテニスが変化したのは、確かに全国大会に出場し、実力も技術も上の選手と戦 ってきた結果だろう。全国大会を勝ち抜くには、進化は当然のように必要なものだったか らだ。けれどそれは何も、全国という大きい入れ物の為だけの変化ではないのだと、リョ ーマが気付いたのは、大会が終わり、青学テニス部の部長職が、手塚から桃城へと引き 継がれた後だった。 それでも当時のリョーマには、桃城の明確な真意など簡単に見透かせるものではなか ったから、去年と今年では、リョーマの不安定要素は、カタチが違っていた。 だから桃城のテニスの変化が、根底の部分で何が原因かと考え答えが出た時。その答 えはあまりにリョーマには衝動が大きすぎた。当時リョーマが受けた衝動の大きさを、きっ と桃城は今も知らずにいるだろう。 それでも、時折ひどく不安定になるリョーマを知って尚、答えを与えない桃城は、彼の内 部でも揺らいでいる何かがあるからなのか、それはリョーマにも判らなかった。それでも、 曲者な桃城が、一度決めた道に、揺らぎが生じているとは思えなかったから、まだ隠され ているカードが何か有るのかもしれないと、リョーマには思えた。 「人でなし……」 リョーマはボソリと呟いて、次に大きく溜め息を吐き出した。新年が明けてしまえば、残さ れた時間はあまりに少ない。それこそ今までの時間軸を裏切る威勢で、それは急速に過 ぎていってしまうだろう。それは秋も深まっていく十月の終わり。次代の部長にテニス部を 託し、去っていった時の桃城をリョーマに思い出させた。 街を焼くような秋の深い夕暮れの中。桃城はテニス部を次代の部長に譲り、部を去った。それは部長になっても健在だったムードメーカーの桃城とは相反する程、静かな引退だった。勿論慣例化された引退試合はあったし、下級生に泣かれて豪快に笑ってはいたものの、去り際が酷く静かだったのをリョーマは覚えている。逆にだからこそ、太陽の断末 に校舎が焼かれるように赤く染まった時。見慣れた筈の背がコートを出て行く姿が、リョー マにはひどく大きく見え、同時に遠く感じられた。それはリョーマが今まで感じたことのな い感傷で、淋しさと同義語のものだった。 『頼むな』 耳に落ちる静かな声。精悍な貌に刻み付けられた深い笑み。髪を梳く節のある長い指 先。振り返らない背。 今まで当たり前に存在していた姿は、明日から同じコートに立つことはない。そう意識し たら、泣き喚きたい衝動に駆られた。まるで身の裡の何処かをバッサリ切り離されてしま った、心細さが湧いた。 そして春も早い3月初旬には、桃城はテニス部どころか、中等部を卒業していくのだ。 その時どれだけ冷静に桃城の背を見送ることができるだろうか、リョーマに自信はなかっ た。まして桃城のこれから向かおうとしている場所が垣間見えてしまった今、身を引き千 切っていく感傷は更に深い。それが誰かに何かを傾けてしまう代償なのだと、今リョーマ は明確に悟った気分だった。テニスだけを無心にしていれば、そんなものは、知らなくて 済んだ筈のものだった。そしてタチの悪いことに、知ってしまった今。手放してしまえるも のは何一つない。 桃城という男にだけ溺れていく精神。女より浅ましく雌にされた肉体。生温い愉悦に漬 かり込み、崩壊する心地好さを覚えてしまった今、それは到底身の裡から引き剥がせな い、自分の一部になってしまっている。 「本当、あんたって最低」 削り出されていく時間。それでも最後の最後まで、告げてはもらえないだろうことも、リョ ーマは予感していた。それは今となっては予感ではなく確信だった。そして何一つ失えな いものを身の裡に置き去りにされて、桃城は背を向けていく。今年の春先、手塚達がテニ ス部を託し去ったように。自分の身の裡に削り出せないナニかを置き去りにしながら、桃 城はなんともない表情で、中等部を卒業していくのだろうか?誰にでも見せる明るい笑顔 と、等分に分け与えられる、自分だけが知っている深い穏やかな苦笑を刻み付けて。 桃城は静かに背を向けて行くのだろうか?考えれば、胸が軋む思いをリョーマは味わうこ とになる。 「ホァ〜〜〜」 愛猫の鳴き声に、リョーマは我に帰ったように半瞬室内を見渡した。精神の眼差しを内 側に向け過ぎたのか、さして時間は経過していないものの、意識が固定されない不安定 さが有った。 我に帰れば、今の今まで耳に入らなかった音が落ちてくる。緩やかな風を送り込む暖房 機具の小さい音と、さして面白みのない年末恒例の歌番組が、画面の向こうで盛り上が りを見せている。そこは間違えようのない日常で、今脳裏を過ぎっていたものは過去の残 像だ。そのくせひどく鮮明に、未来を焼き付けているようにも思えた。 胸元に抱かれているだけでは飽きだした愛猫に、リョーマは幾分眠たげに右手に視線 を走らせた。 「遅い……」 リョーマの細い右手首には、銀色の光を放つ時計の文字盤が、11時を示している。 問答無用に奪い取ってから一週間。桃城の手首に合わせて大きかったものは、当の桃 城の手により、リョーマの細さに合わせられていた。当然其処に桃城の温度が残っている ことはないが、リョーマはテニスや風呂以外では、大抵室内でもそれをしていた。それは もう長年愛用していたかのように、リョーマの細い手首に馴染んでいる。その時計が誰の ものか一目で判ってしまった南次郎は、哄笑より呆れるよ先に苦笑を漏らした。 「ったく、学習機能がないんだから」 時計を眺め、些か憮然となりながら、リョーマは桃城が聴けば、その理不尽さに脱力す るだろう科白を吐き出して、夕刻の桃城を思い出していた。 桃城は去年同様、アルバイトの巫女さんにいらない愛想を振りまいて、当然のようにリョ ーマの不興を買った。 一度は巫女さんの恰好をしてみたいと、リョーマにはまったく理解不能な趣味をしている 女子高生は多いらしく、南次郎が声を掛け集まったアルバイトの巫女さんは、南次郎の好 みがしっかり反映された、どうにも顔で判断しただろうとしか思えない、容貌だけは水準以 上に満たされた女子高生や、女子大生が揃っていた。そんな彼女達が、私服になってし まえば中学生にはまったく見えない桃城に眼を付けない訳はなく、結果。桃城は愛想を 振りまいて、いらない勘違いをさせた顛末が付く。 「タラシのくせに、爪が甘い」 それが領域に踏み込ませない盾と同義語のものだとしても、それを知らない殆どの人間 にとって、開放的な笑顔は一級品に映る。他人に構えさせないその笑顔の効果は絶大な のだから、下手に愛想を振りまけば、どういう結果になるかくらい学習しているだろうにと、リョーマにしてみれば、面白くないのは当然だろう。 「判っててやってるんだから、最悪」 諸刃のような笑顔で愛想を振り、女達を勘違いさせながら、桃城は結局『今度お茶をし ましょう』云々という科白を、それは見事に丁重に、リョーマの前で断って見せた。その手 並みの鮮やかさは、詐欺師に近い手練手管だ。どうりで今まで縁を切ってきた女達と、殺 生沙汰がおきなかった訳だと、やはり桃城が聴いたら脱力するだろう感想をリョーマが待 ったのを、当人は知らないだろう。 「俺も今日一日、ほっとかれたって、忘れてるんじゃないの?」 くずる子供のように、胸元で鳴き声を上げる愛猫を開放すれば、カルピンは音一つ立て ずフローリングの床に下り立った。室内の定位置に置かれている、愛用のクッションの上 に置かれているネコじゃらしと一人遊びをするように、戯れ始めた。それを横目で見なが ら、リョーマは憮然と呟きを漏らす。 「頼まれたって………」 一人遊びを始めた愛猫を眺め、リョーマはコロンと軽い動作で姿態を入れ替える。俯せ になり、クッションを抱え込む。 『越前、お前は青学の柱になれ』 去年の春先、手塚に告げられた言葉だった。その真意は告げられた瞬間には判らなか ったものの、全国大会を戦い抜く過程で、それは嫌という程理解させられた。 ある意味、人柱に近いとさえ思えたそれを、手塚は一人で支え、歩いてきた。その科白 に込められた願いに触れた時。リョーマは手塚の大きさに適わないと思ったのだ。 手塚はまさしく青学の柱だった。手塚と同じものになれるとは思えない。けれど託された 言葉より何より、そこにより強く願いを感じ時。リョーマは柱になろうと決めたのだ。 手塚が背負ってきたもの。託されたもの。それは氷帝戦の手塚と跡部の試合を見た時 だ。好敵手という姿はああいうもので、互いに全力を注いで力をぶつけられる相手という 意味を教えられた。手塚が青学の柱なら、まさしく跡部は氷帝の柱だった。華美に身を置 く傾向は眩暈ものだが、裏付けされた実力があるからこその姿でもある。 戦場という言葉がこれ程似合う試合は、なかったのかもしれない。まるで真剣で切り付 け合うかのような気迫。波を打ったように静まり返った会場。誰もが魅入られた試合だっ た。正面で二人の試合を凝視していたリョーマが感じたものは、激痛を超えた場所に在る 手塚と、負傷している手塚に最後まで手を抜くこともなく、その気迫と情熱に応えた跡部 の姿だった。 託されたもの。語られたもの。手塚と跡部の試合を真っ正面で凝視しながら、血と肉の 奥を抉っていったのは、試合をしたいという滾るものと当時に、託されたものの大きさに凍 り付く衝動だった。結局、手塚に託されていたものは、後に跡部にも託されていたのだと 気付いたのは、去年の軽井沢での合宿の時だった。試されているのだと気付いたのもあ の時だ。そして手塚はきっと、跡部に信頼を託したのだ。 そして今度は部を去る桃城に告げられた。頼むという端的な科白からは、手塚が願った ようなものは一切感じ取れなかった。 桃城は来年も全国に導けとか、頑張れとか、そういうものは一切言わず、ただ頼むとだ け、深く笑った。 浅緋色の夕暮れに埋没しながら、深く笑った姿に映し出されていたものは、言葉にされ ないままの願い色に思えた。 思いはどんなものでも通じとほしい。炎が周囲を焼くような鮮やかな情景の中、告げら れた言葉は、だから桃城の姿がそのまま、思いの色に思えたのかもしれない。 『頼むな』 越前……。 耳に落ちた静かな声。威風堂々と歩く姿は、そのくせ決して荒々しさは微塵も感じさせ ない静かな気配を湛え、コートを去っていった。 「早く……」 戻ってきてくれないと、思考は取り止めのない部分に突き抜けてしまいそうで、リョーマ には少しばかり恐ろしかった。残された時間は余りに少ないから、一分一秒無駄にしたく はなかった。 何だかんだと、去年の大晦日と変わらぬノリで、南次郎に寺の手伝いをさせられた桃城 が、南次郎から開放され、風呂から出てきたのは、11時を少し回った時刻だった。 ホカホカと湯気の立つ躯に、幾ら勝手したたるリョーマの家で、南次郎だけではなく、リョ ーマの母親の倫子や、従姉妹の菜々子にも半同棲状態と認識されているとはいえ、他人 の家で、真冬にTシャツに短パンという恰好でいられる程、桃城は世間知らずではなかっ たから、桃城はリョーマの部屋に置いてある濃紺のパジャマを来ていた。首には髪を拭い ていたタオルが引っ掛けられている。 「越前?」 物音一つしない室内に、怪訝に首を傾げ扉を開ければ、ベッドの中央で俯せに寝転が っているリョーマの姿に、桃城は盛大に脱力する羽目に陥った。 「ったく、なんて恰好してるんだ」 待ち構えていたように、悪口雑言を叩かれると思っていれば、当のリョーマは午睡して いるのか反応がない。反対に、一人遊びにも飽きたのか、どう聴いてもママと言ってると しか思えない鳴き声を上げ、カルピンが桃城の足許に、甘えるように即座に纏わり付いた。 「ママ、一人で寝ちゃったのか?」 リョーマもリョーマなら、桃城も桃城なのだろう。躊躇いもなくカルピンに向けそんな台詞 を言えてしまうのだから、十分バカップルだ。 桃城は足許に纏わり付くカルピンを抱き上げ、ベッドに近寄れば、リョーマは完全に午 睡している。寝ていれば勝ち気な瞳が閉ざされる分、寝顔は驚く程、幼い気配を曝してい る。 「風邪引くだろうが」 幾ら暖房が効いているとはいえ、ケットも掛けず寝ていれば、風邪を引く確立は高い。 ましてリョーマの恰好は、桃城のパジャマの上だけを羽織り、白く長い下肢は剥き出しに なっている状態だから尚更だ。幾ら桃城のパジャマがリョーマの身には余る程大きいと言 っても、その姿を完全に隠してしまう程大きくはない。そんなリョーマの姿に、惜しげもなく 曝された白い下肢に、桃城は苦笑する。 「ママァ」 桃城の腕からベッドに飛び移り、カルピンはリョーマの枕元で甘えたような鳴き声を漏ら す。リョーマを起こすように、小さい前足がリョーマに触れる。 桃城がリョーマの枕元に腰掛ければ、鈍いスプリングの音が静かな室内に響く。無防備 に投げ出されている細い右手首を飾るリストフォツチに、桃城は穏やかな笑みを漏らした。 ねだられたのは、24日の終わりも間近な時間帯だった。 リョーマの誕生日には、リョーマ自身が日付変更線で桃城に会いに行き、桃城に盛大に 呆れられた。だから桃城は、24日が終わる間近、リョーマを尋ねていた。 『俺の誕生日には、俺の好きにしていいって、そう言ったのあんたじゃん』 呆れる桃城に、面白そうに笑ったのはリョーマだった。それは桃城の誕生日の夜。ホテ ルでの会話をきっちり覚えていたリョーマが、意趣替えしした科白だった。 だから桃城は24日が終わる間近、リョーマに会いにいったのだ。その時愛用のリストウォ ッチをねだられ、半ば問答無用で取り上げられた。時計をねだるリョーマの言外を、判らな い桃城ではなかったから、桃城はねだられるまま、リョーマの細い手首にソレを嵌めてや ったのだ。 「俺の持ってるものの中じゃ、結構高い代物なんだぞ」 ハミルトンのカーキー。アメリカ軍の基準に従い作られたそれは、視認性、耐水性、耐衝 撃性などあらゆる基準が、一般腕時計の水準を遥かに上回って作られたものだった。 中でも特に耐水性が優れているカーキー・サブは、発売当時、カーキーシリーズの中、唯 一のブレスレットを用いた代物でもあった。 それは中学入学祝いに、父方の祖父に贈られたものだった。男は年齢に合せ、特別な ものを持つ必要があるという持論を持っている祖父は、頑迷な年齢だというのに、紳士の 品格を漂わせている人物だった。ブランド思考という訳ではなかったが、長年職人の手に より作られ、長く世間に愛用されてきたものは、愛用されるだけの価値が有るからだろう と言う持論も持っているから、生み出される流行に流されることなく、認めてきたものは長 年愛用できる好人物でも有った。そして同時に、幼い桃城に、テニスを教えた人物でもあ る。 「簡単に、奪ってきやがって」 気付けば、アッと言う間に手首から外されていた祖父から贈られたものを、けれど桃城 は咎めもせず、リョーマの細い手首に嵌めてやった。きっと祖父も、桃城の意志で相手に 贈るのなら、怒らないだろうと思ったからだった。 体格も一回り以上小柄なら、リョーマの手首はそれ以上に細かった。肌を合せているの だから、リョーマの細さや薄さなど認識していた筈が、桃城の手首にあわせられていた、 確実な比較対象をリョーマが身に付ければ、その落差は嫌という程実感できた。 桃城が嵌めてやったリストウォッチは、止め金を外す必要もなく、リョーマの手首に収ま ってしまったからだ。 細すぎる手首。その細さの一体何処に、鋭利なショットを打ち出す強さが秘められてい るのかと、桃城は毎回苦笑せずにはいられない。完全な比較対象を身に付けてしまえば、それは尚更、リョーマの細さを際立たせた。 「お前で、良かったよ」 命を傾けてしまえるような、身の裡に抱く激しさを覚える相手が、リョーマで在ったことを 誇りに思う。 「笑ってろよ」 密やかな誓いを秘めた静かな声が、室内に落ちる。精悍な面差しに刻み付けられた、 怖い程の真摯さをリョーマが見れば、きっと泣き出しそうに笑っただろう。そんな面差しを 宿し、桃城は無防備すぎる寝顔を眺め、白皙の貌にかかる前髪を緩やかに梳いてやる。 「お前なんて本当、ただ大切って存在だな」 大切な大切な存在。それは眼の中に入れてしまっても痛くないというより、既に眼の中 に入れてしまっている状態に近い。けれどそんなリョーマが、天から与えられてしまった才 を、桃城は誰より理解しているから、その才を取り上げてしまうことは、結局できなかった。 取り上げられる程度に簡単なものなら、きっと躊躇いもなく、桃城はリョーマからそれを 取り上げていただろう。けれどリョーマの才は、虚勢ではない天からのもので、個人が足 掻いて取り上げられるものではなかった。 室内は心地好い静けさに満たされている。小さく鳴る暖房機の音が、穏やかな空間を 象徴しているようにも感じた。 ベッドのほぼ正面に置かれているテレビは、年末恒例の紅白が放送され、画面の向こ うでは、そろそろラストに近付いているのか、燃え尽きる寸前の盛り上がりを見せている。 白い服を来た五人組のアイドルグループ。演歌ではなく、まして若手のアイドルグループ が、格式だけは高いその年末納めの番組で、トリを納めたことはないという。 白い服を来たアイドルグループは、桃城の妹も好きな歌手だった。歌う詩は、今の不安 定な世情に対し、メッセージ的な意味合いが込められたものだった。目に見えない不安 定な世情に、誰もが解離的になり、意識、無意識に問わず、癒しを求めている。だからこ そ、メッセージ的な意味合いが込められた歌が、愛されたのかもしれない。 「……桃先輩……?」 午睡していたリョーマが、ぽっかりという音が響きそうな印象で蒼瞳を開いた。寝起きの 舌足らずな声が、不思議そうに桃城を呼び、未だ眠たげな眼が桃城を眺めた。 「起きたか?」 「………遅い」 「誰の所為だ?」 「別に、俺の所為じゃないし」 脱力する桃城に、リョーマは憮然となった。 半身を起こしたリョーマに、カルピンが戯れ付いた。小さい躯を腕に抱きながら、リョーマ は憮然となる。 「去年も言ったけど、あんた愛想よすぎ」 親父に呼び出されてのこのこ来る所も、莫迦な女達に愛想ふるのも気に入らないと、蒼 瞳が桃城を睥睨すれば、桃城は深い苦笑を漏らすだけだった。 「俺も去年言った気がするぞ。未来の舅には、売れる時に恩を売っとくってな」 「あんたって、本当、サイテー」 結局、無駄に愛想振りまくのは、南次郎に恩を売る為のもので、振りまかれた愛想に勘 違いするのは女の勝手だと、桃城は言っているのだ。 「お前こそ、その恰好で寝てるなよ。風邪ひくだろうが」 冬生まれのくせに、リョーマは寒さが苦手で、だから冬は苦手だと桃城は知っている。 けれど苦手ではあっても、嫌いではないことも知っていた。 それは冬が四季の中で一番、人の温もりを感じやすい優しい季節だからだ。それは以 前冬の情景を、『倖せ色』とリョーマが呟いたことからも明らかだろうと桃城には思えた。 そしてリョーマは暖房の効いた室内で、無駄に服を重ね着することは嫌いなのだとも桃 城は知っていた。桃城が訪れるリョーマの部屋で、リョーマが自分の服を来ていることは 少ない。大抵桃城が置いておくシャツやセーターを着て過ごしている。 「だから、それは俺の所為じゃないから」 いつまでも自分をほっとく桃城が悪いと、リョーマは憮然としながらも、何処か面白そう に薄い笑みを漏らし、桃城を眺めた。それは情事の最中の忍び笑いを連想させる、妖冶 な気配を滲ませていた。 「ったく、お前は」 タチの悪いリョーマの笑みに、桃城は軽い仕草で眼前の細い躯を引き寄せる。それは 抵抗もなくあっさり、桃城の胸元に凭れた。 「あんたって本当、学習機能ない」 「悪かった」 「確か去年もそう言った」 そして盛大にリョーマの不興を買ったのだ。 「淋しかったか?」 やりとりは、去年と何一つ代わりばえしない、言葉遊びに転じている会話だった。その中 で確実に変わったものは、互いの距離だった。去年とはまた違う不安を抱き込んでしまっ たリョーマの内心に、桃城は緩やかに髪を梳き上げる。その慣れた仕草に擽ったそうに 薄い肩を竦めると、リョーマは正面にある精悍な貌を凝視し、 「莫迦な女達に愛想振りまいてるのに、腹が立つ程度にはね」 それは淋しいというより、腹が立つ方が先に立つものだった。桃城の笑顔の本質も知ら ないで、桃城の気を引こうとしている女達に腹が立つと同時に、憐れさを感じたのもまた 事実だった。桃城の笑顔の本質など、自分だけが知っていればいいという、子供じみた 独占欲を心地好く感じた。以前なら、そんな感情とは無縁で、知った当初は戸惑うばかり だった。けれど今は違う。変わってしまった有り様を意識して、リョーマはそれでも笑って いる。去年は近付いた距離に、戸惑いを感じていたのだから。同時に、最後にはテニスし か選べない自分を知って、恐れてもいたのだ。 「もうすぐ、今年も終わるな」 アイドルグループがトリを納めた年末恒例の歌番組は、どうやら白組の優勝で終わりを 迎える様子で、華々しいフィナーレが会場を湧かせている。この番組が終われば、すぐに ゆく年くる年の時間を迎え、それが合図のように、周囲から冬の夜の中。厳かな鐘の音 が響き出す。 「あと、20分」 一週間で手首に馴染んでしまった、アーミーウォッチ。 24日も終わる深夜に近い時間帯。桃城は会いに来るだろうと、リョーマは予感していた から、携帯メールの着信音に薄い笑みを覗かせ、リョーマが部屋を出たことを、桃城は知 らない。 もうすぐ24日も終わると思った時。リョーマは桃城の時計を問答無用で奪い取っていた。あの時何故あんな衝動的な行動に出てしまったのか、リョーマは意識していなかった。 ただ時計を覗き込み呟いた桃城の言葉に、欲しいと思ってしまった。けれどそれは意識 の表面の部分で、奥深い場所では、削り出されていく時間を、無意識は理解していたか らなのかもしれないと、リョーマは今更思った。 あと20分足らずで終わってしまう時間が過ぎれば、桃城と一緒に居られる距離は、削り 取られていく。そんな莫迦みたいな感傷に、リョーマは桃城の肩口に額を預け、薄い笑み を漏らした。けれどそれは泣き出しそうな歪に歪んだものだった。 桃城に恋焦がれてしまうと意識するのは、こんな瞬間だ。きっと一生この感情は持ち越 されてしまうものなのかもしれないと思えば、足許が竦む。甘やかされて我が儘になれば なるだけ、失う時間を意識しなくていならない。誰かを得ると言うことは、失う怖さと同義語 だからだ。 肩口に伏せられた場所から、クスリと漏れた小さい笑みが漏れた時。苦笑と同時にクシ ャリと柔らかい髪を掻き乱した。伏せられて見えないリョーマの表情など、桃城には簡単 に手にとるように判るものだった。こんな時リョーマが浮かべる表情など、一つしかなかっ た。 「そういえば、桃先輩、今年はいいの?」 不意に思い出した様子で、リョーマは埋めた場所から顔を上げる。そんなリョーマの言 葉に、桃城は半瞬も迷うことなく口を開いた。 「今年は、今日から祖母さん家で過ごすからって、出かけちまった」 毎年元旦の午後から桃城の母親と弟妹は、母方の祖父母の家で新年を過ごすのが慣 例化していた。だから去年桃城は、深夜の初詣を済ませた後、リョーマの部屋には泊まら ず、珍しくも深夜に帰宅して行ったのだ。桃城は母親の実感に出掛けることはなかったが、元旦の朝は一緒に迎えるようにと、母親からの厳命が下ったからだった。 普段自分の行動に一切口を挟まない母親が、元旦の朝くらい一緒に過ごしなさいと言う 言葉を、桃城は無下にできなかった。けれどその後、桃城の母親が、一緒に帰省しろと言 わなかったのは、中学生になった息子が、いつまでも母親や弟妹と行動するのは無理だ ろうと判断したからというより、親密な付き合いをしている後輩との時間を大切にしている 息子の姿を知っているからだった。 そして桃城の母親は、孫の成長を楽しみにしている祖父母に、来年は会えない可能性 も有るのだから、今年くらい顔を見せなさいとは言わなかった。来年会えない可能性が有 るからこそ、今年は親密な付き合いをしている後輩と、一緒に居たいと思っているのを知 っていたからだ。 そんな母親の潔さに、桃城は適わないと思う。親不孝だとは思うものの、今年の最後と 新しい年は、リョーマと過ごしたいという内心を綺麗に見透かした母親の言葉に甘えてし まった。 「フーン。だから去年以上に俺ほっぽっといて、女に愛想ふりまいてたんだ」 「越前〜〜〜」 「事実じゃん」 揚げ句、ちゃっかり風呂まで入ってと、リョーマは笑うと、お返しとばかりに、桃城の髪を クシャクシャに掻き回す。洗髪して整髪剤が落された硬めの髪は、生乾きだった。 「アッ、鳴りだした」 冷ややかな冬の夜気の中。厳かに響く鐘の音。裏に寺の有るリョーマの家では、鐘の 音は聴き慣れたものだった。けれど年の終わる深夜に聴く鐘の音は、普段聴き慣れた音 とは、随分違ったものに聞こえたし思えた。 周囲から連なるように鳴り出した鐘の音が、何処か荘厳な気配を滲ませ、響いて聞こえ てきた時、リョーマは桃城の腕から離れ、窓際に近寄った。同時にリョーマの腕に居たカ ルピンは、室内の所定のクッションに丸まりながら、窓際に寄ったリョーマを、まろい瞳で 眺めていた。 「コラ越前」 不意に失せた温もりに、桃城は少しだけ慌てて窓際に近寄ったリョーマの為、ケットを持 ってリョーマの背後に回った。 「風邪引くって、何度言わせるんだ」 暖房の聴いた室内とはいえ、窓際は、真冬の凍り付く冷気が伝わっている。そんな場所 に、薄着を通り越した半裸に近い恰好で窓際に近付けば、風邪をひくのは目に見えてい る。 自己管理は選手にとって初歩の初歩だ。ましてこれからリョーマの進む道を考えれば、 自己管理一つ出来なければ、周囲に掛ける迷惑は計り知れない。 「それ程ヤワじゃない」 リョーマはそれでも背後からケットごと包まれる温もりから、逃げ出すことなく、小さい笑 みを滲ませた。 「今年は初詣って、騒がなかったね」 「お前……人を子供みたいに」 「だって去年は、寒いから行きたくないって俺を、無理矢理連れ出したじゃん」 「お前が言い出したんだろうが」 「あんたが、日本の正しいゆく年くる年を教えてやるとか言ったからでしょ」 「……お前、どうあっても、俺の所為にすんだな」 「所為じゃなくって、事実だから」 けれど実際何が切っ掛けで、去年吐息も凍り付く寒い深夜に、酔興にも初詣になど出掛 けたのか、その切っ掛けを二人は覚えていなかった。ただ幼稚園卒園と同時に渡米した リョーマは、日本の正月を覚えていないこと。日本は除夜の鐘を聴きながら、深夜に初詣 に出掛けること、そんな会話を何かの拍子に交わしたのだけは、二人とも覚えていた。 新年早々、神頼みなんて悪趣味。そう笑ったリョーマの小生意気な科白と、相反する興 味津々な笑みだけを、桃城は覚えていた。 桃城に言わせればリョーマが行きたいと言ったからで、リョーマに言わせれば、お前に 見せてやると桃城が言ったと言うことになる。きっとどちらもどちらのバカップルなのだろう。 「まぁ、深夜の初詣は去年経験したしな」 「今夜は新年早々、姫始めに勤しもうって?」 背後をチラリと間視し、意味深な忍び笑いが薄い口唇に弧を刻む。 「あのな……」 意味深に笑う気配に、桃城はガックリとリョーマの薄い肩に頭を落した。 国語が苦手なくせに、リョーマはいらない言葉ばかりを覚えている得意技を持っている。 それは時折こうして桃城に放たれ、盛大に脱力させていく。 大仰に脱力する桃城に面白そうに笑うと、リョーマはカーテンをそっと捲った。確かに窓 際は部屋の中央と比べて格段に温度が低く、外の冷気が身がひき締る程入り込んでくる。 「せめてズボン履け」 ケットで自分の躯ごと包み込んだ薄い躯が、腕の中で慄えるのに、桃城は更に腕に閉 じ込めるように抱き締めた。膝からしたは剥き出しの白い下肢は、きっと冷えている筈だ。 「何の為に桃先輩いるのさ」 「暖房機具か俺は」 「知ってる?人の体温って、何度だったか忘れたけど、かなり暖められるんだって。抱き合ってれば、ちょっとした暖房機具の役目は果たせるって」 「ったく」 どうせ言い募った所で、おとなしく言うことをきく性格でないのは判りきっている。 「桃先輩、俺限定の暖房機だし」 「………お前、この局面でその科白は反則だろう」 意味深ではなく、至極当然だとでも言うように紡がれた科白に、桃城はリョーマの無自 覚さに苦笑する。リョーマにとって、今の科白に他意はないのだろう。幾分軽口は含まれ ているものの、声音は当然だというものしか滲んではいなかった。 「俺には今まで、暖房機具なんてなかったんだから」 今度こそ紡がれた声音は、楽しげな響きを滲ませていたから、桃城は少しばかりの衝 動と苦笑を漏らすと、薄く細い躯をあっさり反転させた。 「お前、ちゃんと食ってるのか?」 「あんたがそれ言う?」 リョーマの呆れた科白は、最もなものだろう。リョーマという人間を上辺しか知らない人 間なら、その華奢で小柄な姿態に誤魔化されてしまうだろうが、リョーマは桃城と遜色の ない食欲を誇っている。ただ桃城と違う点は、体質的に太れないのだろうという点だった。 桃城は食べれば食べた分だけ、消費エネルギーを削った残りが、ちゃんと身になるタイ プだ。食べてもちゃんと消費する為、太ることなく綺麗な筋肉が骨格に沿い付いている。 けれどリョーマはどうやら先天的に太れない体質らしい。それは小柄にリョーマの両親を 見ても明らかだ。けれど小柄な躯に比例して、体力や気力や精神力が、脆弱にならない のもまた遺伝だろう。リョーマは桃城と変わりない体力を持っていたし、一年でレギュラー に選出されてきてから今まで一度もその座を他人に譲ることのない技術と精神力を持っ ている。 「でもお前は軽すぎ」 「別にそれは、俺の所為じゃない」 身体的なコンプレックスがリョーマにない訳ではなかったが、ムキになって反駁する程コ ンプレックスを抱いている訳でもなかった。それはリョーマが自らのテニスを信じているか らだし、誰にも負けたくはないと日々努力しているからだ。だから身体的なコンプレックス が、劣等にスポイルされてしまうこともない。実際リョーマのテニスを知っていれば、体格 により窮地に陥ったことなどないと、理解している筈だからだ。それが判らないようでは、 リョーマのテニスを理解しているとは、到底言えないのだ。 「でも俺が食ってないって言うなら、食わせて」 反転させられた躯を桃城に擦り寄せ、リョーマは桃城の首に両腕を回した。綺麗な容貌 に、莞爾とした笑みが上るのに、桃城は微苦笑し、 「何食いたい?」 「俺の大好物が何か、知らないの?」 酷薄な口唇にニンマリとした笑みを浮かべ、リョーマは爪先立ちになると、正面の桃城 の目線に視線を合わせた。 「パフェにクレープにケーキだろ?」 ネコのように擦り寄る躯を抱き締めると、桃城は顔を傾けていく。 「あんたはエビかつバーカーばっか」 クスクス面白そうに笑うと、リョーマは引き寄せられるまま、細腰に回された腕に身を任 せた。 「んっ……」 耳を擽る甘い吐息が漏れ、桃城の首筋に回した腕が、背に回る。細腰を抱き腕に力が こもり、更にリョーマは桃城に引き寄せられる。 「んっ…んっ…」 濡れた粘稠の音が室内に響く。けれど其処に情事の最中の淫らな気配は少なかった。 貪婪に舌を絡ませ、桃城の舌は狭い口内を思う様弄っていく。その激しい口吻に、桃城も 餓えていたのだと、リョーマは初めて気付いた。 「んんっ……」 リョーマの膝から、カクリと力が抜けた時だった。 「ぁっ…んっ…桃…せんぱ…」 互いの舌の感触と、ゆっくり熱を増す体温を何より近く感じ、濃密な蜜を浮かべる空色の 瞳が、心地好さげに桃城を眺めた。 「もうじき、今年が終わるぞ」 キス一つで弛緩しきった躯を抱き締めたまま、桃城がリョーマの右手首を掬い上げれば、カジュアルなアーミーウォツチは、数分で日付変更線を告げていた。 「あんたって、本当サイテー」 激しいキス一つで自分は熱を灯されてしまったというのに、桃城は涼しい顔をしている。 それがまるで積んできた場数の違いだと語られている気がして、リョーマは面白くなかっ た。なかったから、リョーマはカーテンを捲り上げ、威勢よく窓を開け放った。途端、真冬の 冷気が室内に流れこんでくるのに、桃城は慌てて窓を閉めた。けれど、それはリョーマに より阻まれた。 「怒るぞ」 数センチだけ開かれたままの窓からでも、容赦なく真冬の凍り付く空気が入り込んでく る。パジャマを着ている自分はまだしも、半裸のリョーマは確実に風邪を引くだろう。それ が判っているだろうリョーマの行動に、桃城は少しだけ慍色を浮かべた。リョーマの大抵 の行動は、桃城にとっては許容範囲だ。それこそ周囲から呆れられる程リョーマに過保 護な桃城は、けれどリョーマ自身によりもたらされる、リョーマに被害の及ぶ行動には寛 容ではなかった。だから今すぐリョーマの行動が改まらなければ、桃城はリョーマを叱り付 けていただろう。 「怒らないでよ」 けれどリョーマは桃城の慍色に少しだけ薄い肩を竦ませると、再び桃城の腕の中で態 勢を入れ替えると、背後の胸板に無防備に背を預けた。 「ねぇ?カウントしようよ」 凍り付く真冬の深夜の中だからなのだろう。除夜の鐘が周囲から厳かに響いて聴こえ てくる。今日が明日に変わる一瞬。人間が勝手に区切ったその境界線が、もうすぐ訪れ るのだと思えば、リョーマは少しだけ怖かった。 「どした?」 大きい掌中が、柔らかくリョーマの視界を塞いで行く。 感傷的なリョーマは近頃では 見慣れてしまったものでも、今リョーマが慄えている原因はもっと根の深いものだと、気付 かない桃城ではなかった。それは誕生日の夜。時計をほしがったリョーマからも推し量れ るものだった。 「ねぇ?来年俺達は、何処に行くんだと思う?」 「お前は、上に行くんだろう?」 「……卑怯もん」 「お前が言ったんだぞ」 卑怯な科白は百も承知している。それこそ動物的な嗅覚を持ち合わせているリョーマに、今まで気付かれなかった方が余程不思議だった。今でもリョーマは適格に見抜いて行くくせに、肝心な部分については知らないでいる。それが逆に桃城には不思議だった。 「弱さが罪だと、思ってる訳じゃないだろう?」 「思ってないよ。弱さを意識しなきゃ、先に行けない。でも俺の弱さは、きっとそんな部分じ ゃないから」 テニスに対する弱さなら、克服する手段は幾つもあるし、リョーマは元々テニスに対し、 弱さを抱く性格はしていなかった。それは負けず嫌いな性格から簡単に判るものだ。弱さ を克服する術を持たなかったら、勝ち気は性格は形成されていないだろう。けれどリョー マが意識している弱さはテニスではなかった。だからリョーマは戸惑いと同時に、どうにも ならない弱さを意識するしかなかったのだ。 桃城に恋を教えられ、セックスを教えられ、そのカタチまで明確に判る程、躯を開かれ女 にされた。けれど桃城は何より、リョーマの思考領域を限定してしまう存在になることを、 許さないでいる。 「前にも言ったけどな」 サラリと前髪を梳き上げ、桃城の腕は再度細い右手首を掬い上げた。厳密な基準に従 い作られた時計は、年間で1分と狂わない精巧さだ。その針が、あと3分で次の年の訪れ を告げていた。 「お前は色々なもん吸収して、化け物みたいに強くなってるさ」 それこそ眠れる獅子が、急速な威勢で駆け出す程力強く。猛禽が羽ばたく程高みに、 鉄爪を躊躇いなく降り下ろす場所へとリョーマは向かっている。引力というものは存在す るのだというかのように。 「俺は結構嘘つきだけどな、お前にだけは嘘はついてないぞ」 隠していることはあるけれどと、桃城は内心言い訳めいた言葉を自嘲と同時に吐き出し た。 「そう言ってる時点で嘘つきじゃん。ねぇ?桃先輩知ってる?」 「ん?」 「嘘を最後まで突き通すからこそ、詐欺師なんだって」 だから精々、嘘は最後まで綺麗に突き通してほしい。 「桃先輩」 その名前が形作る存在。強さも弱さも教えられた。けれどその弱さを、リョーマはもう決 して手放すことはできなくなっていた。それは身の裡の一部に紛れてしまったからという よりも、リョーマがその弱さを愛しく思っている所為だろう。それは桃城から教えられ、リョ ーマが身を焦がす桃城への恋情だからだ。弱くなる自分を意識すればするだけ、桃城へ の恋情が増しているのを嫌でも実感する。最後の最後では、決して甘やかしてはくれな い悪党だから、以前は莫迦みたいに安心していられた。けれど今はその厳しさが、リョー マには切なかった。けれどそれさえ愛しかったから、もう逃げ場などないのだと、今更思い 知る。 「あと1分」 ほんの少しだけ開いた窓を更に開き、リョーマは高い空を見上げた。 「越前」 容赦なく入り込む冬の冷気に、桃城が咎める口調で名を呼べば、リョーマは桃城の腕 の中、夜空を見上げている。 空気が氷に刻み付けられたような、容赦のない冬の冷気の所為で、藍色の空は高く澄 み渡り、怖い程冷ややかな月の光が地上を照らし出している。 「あと30秒」 室内に入り込む冷気に、愛用のクッションで丸まっていたカルピンが、甘えるように足許 に温もりを求めて擦り寄ってくるのを、リョーマは腕に抱き上げた。 「親子の年越しだな」 眠たげな鳴き声を上げ、リョーマの腕に温もりを求めてすりよるリョーマの愛猫の姿は、 まったく子供そのもので、桃城は笑う。 「俺もカルピンも、一日ほっとかれたし」 「あと10秒」 冬の凍える冷気は、除夜の鐘の効果もあってか、身が引き締まるものを伝えてくる。 高く遠い藍色の空。切り取ったように浮かぶ白い月。黒く塗り潰された稜線と空との境界 線は、明瞭なようで実際は不明瞭な領域だ。それは何処か人の有り様にも似ている気が した。 「5」 今年が終われば、リョーマと居られる時間は限りなく少なくなっていく。 「4」 勝手に人が区切った区分。そこに何が存在する訳ではなかったし、明確な線などないと いうのに、明瞭になっていく削りだされていく時間に、リョーマは切なさしか覚えなかった。 「3」 どうかと、願う。綺麗な光景に埋もれることなく、歩いていってほしい。その瞳と同じ光景 に溶け込むことなく、自らの足で。 「2」 終わりを告げる今年。そして迎える新年。眼に見えない通り過ぎていく時間。新しく訪れ る未来。けれどそれは一瞬一瞬の積み重ねで、いつでもそれは『今』を指し示している。 「1」 新しい年に誓いたいことは、たった一つだった。リョーマが莫迦みたいに桃城に回帰さ れるというのなら、桃城もそれは変わりなかった。 一際高く、厳かに、除夜の鐘が響いて聴こえたのは、多分に感傷の問題だろう。 「明けましておめでとう」 たった一瞬で去年に押しやられた過去。同時に、未知の時間を引き連れてくる未来。 何処まで一緒に居られるのかと考えれば、足許が竦む感触が生々しい。在った筈の地が、突然喪失してしまった心細さにも、それは似ているのかもしれない。 「A HAPPY NEW YEAR」 回帰されるのならどうか、リョーマがリョーマとして何より綺麗に映る、切っ先の上へ。 だから自分も立ち止まってはいられないのだと、歩き出したのだから。 「タヌキも、今年もよろしくな」 リョーマの腕の中、眠たげに前足で眼を擦っているカルピンに、背後から覗き込んで声 を掛ければ、リョーマは途端に憮然となる。 「あんた、言う順番、逆なんじゃないの?」 「お前には、A HAPPY NEW YEARって言ったろ」 「何それ」 「新年明けましておめでとうってな」 「……めでたくない」 リョーマの憮然と呟かれた科白に、桃城は楽しそうに笑い、柔らかい髪を緩く掻き乱して いく。それを振り払うこともせず好きにさせながら、リョーマは凍り付く夜の冷気を運んでく る藍色の空間を眺めた。 黒く塗り潰された稜線。其処にはきっと明瞭な境界線はあるのだろうが、夜の闇が支配 する空間では、天と地の境界線は、何処までも不明瞭になっている。 普段なら、深夜の時間帯では、静かな住宅街の家々の明かりは大抵消えている。けれ ど今夜は特別で、何処の家も未だ明かりは落されていない。もしかしたら、これから深夜 の初詣に出掛ける家も有るのかもしれない。寒い中酔興だと思うものの、それも悪くはな いのかもしれない。 見慣れた家々に灯る明かり。藍色の空間に伸びる細い線。領域など判らない天と地。 そして頭上には、切り取ったように浮かぶ真白い石の球体と、終焉など素知らぬ顔で広 がる藍色の空。磨き抜かれた冷ややかな白すぎる光で、周囲の色は少しだけ朧気にな っている。 「光陰……」 「光陰矢の如し、か?」 それは二度と戻ることのない、無情な時間の流れを指し示す言葉だ。 「そうだけど、ちょっと違う」 「光は日、陰は月って言うぞ」 「それって白と黒でしょ?」 「それもちょっと違うんじゃないのか?」 「過去と未来の言葉だよ」 リョーマは藍色の空間を見上げたままだ。けれどその断片的な科白に、桃城は半瞬だ け歪に顔を歪めた。胸の内の何かを分けてくれようとする時、リョーマの科白は決まって 断片的になるのを、知っているからだ。 「『今』でしょ?」 「越前……」 「こうしてる時間の積み重ねが未来になるんだし、一秒後には過去になっちゃう。『今』の 積み重ねが、過去と未来になるんだから」 それこそ区切りなどない時間の流れだとリョーマは思う。実際人が区切る新年と去年に 意味はない。リョーマにとって、其処に意味を見出だすのは、ひどく困難な作業にも思え た。 「過去が黒で、未来が白か?」 緩やかに、桃城の掌がリョーマの瞳を塞いでいく。 「……過保護すぎ。別に泣きたい訳じゃないよ」 桃城が髪を梳くのと同じ意味を持つ癖。その意味を、リョーマはちゃんと知っている。 それは二つの意味しか持っていないからだ。 「俺が、だよ」 「泣きたいの?」 「ちょっと違うな」 「未来が黒で、過去が白かもしれないじゃん」 塞がれた視界に身動ぎもせず、リョーマは面白そうにクスクスと笑う。 「今の積み重ねで過去される時間は、未来に続く時間なんだから白でも不思議じゃないと 思わない?過去から未来を見るのって、何処か憧れと似てるし」 「お前が、国語苦手なのが不思議だよ俺は」 「俺が国語苦手なのは、こっちの答えが無視されてる部分ってだけだから」 読者の感性を無視した外側に用意されている答えが、リョーマにはまったく判らない代 物だったから、国語は苦手だったけれど、リョーマは別に読書が嫌いではなかった。 「過去から未来を探そうとするのって、絶望も見えちゃいそうで、黒にも思える」 「未来に絶望なんて、感じるなよ」 「希望ばかりを追っても、仕方ないんだよ?」 それこそ、桃城が莫迦みたいに願ってくれる場所は、リョーマにとって最終的に回帰したい場所ではないのと同じように。 「だから光陰って、『今』を表す言葉って気がする。言葉っていうより色かな。白と黒とか。 光と闇とか」 明滅する未来だと思えば、不意に懐かしい光景が脳裏を過ぎった。 『お前に、何か見せてやりたいって思ってな」 そんな何気ない言葉で、桃城は忘れられない光景を見せてくれた。それは去年の初夏 だった。 「ねぇ、桃先輩」 視界を覆う桃城の大きい掌中に触れると、それはゆっくり離れていく。 「姫始めは、お預け」 「………俺はすっかり忘れてたぞ」 「俺がちゃんと覚えているから大丈夫。それより、ねぇ、今夜って、未だ電車動いてるんだ よね」 「ああ?まぁ動いてるけど。ってお前、何処か行くつもりか?」 それも寒い夜など苦手なリョーマが、電車に乗ってまで行きたい場所は、桃城には生憎 一つしか覚えがなかった。 「俺、行きたい場所あるんだけど」 スルッと緩やかに姿態を反転し、桃城の顔を覗き込むようにすれば、桃城は何処か呆 れた顔をしてリョーマの頬に触れた。 「寒がりのお前が、こんな夜中に出歩きたいなんてな」 不安定になればなるだけ、リョーマはそれを欲しがった。 だから今のリョーマの精神状態が不安定なのかと思えば、覗き込んでくる眼差しは、少し だけ揺らいでいるものの、痛々しさは浮かべてはいなかった。 「連れてって、くれるんでしょ?」 きっと桃城にも、判っているだろうとリョーマは思う。自分が行きたいとねだる場所など、 そう多くはないのだし、そしてこんな夜に出掛けたい場所など、特別な場所でしかないのだから。 「風邪ひかないように、暖かい恰好しろよ」 それでなくてもケットで包んでいるとはいえ、リョーマは半裸に近い恰好で居るのだ。 これからちゃんと部屋をしっかり暖房で満たし、暖まってから出掛けなければ、確実に風 邪を引くだろう。 「ねぇ?桃先輩」 トサッと軽い音を立て、リョーマは桃城の肩口に顔を埋めると、桃城にも聞こえない程小 さい小さい声で、何かを囁いた。 物憂げに伏せられた言葉は、けれど桃城にはちゃんと届いたのか、精悍な貌は半瞬だ け瞠然となり、次に深い笑みを浮かべると、桃城は柔らかくリョーマの髪を梳き、 「俺もな」 白い瞼に口唇を寄せた。 新しい年に誓う言葉は互いに一つだった。 繋いだその手を離さずにいる強さを。いつかこの胸の痛みも、その日の為にあったのだと笑えるように。今を生きていきたいのだと……。
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