軽口を叩きあう会話を割くように、遠くから雷鳴が響いてくれば、清涼だった空気は、雨が降る前兆特
有の湿り気を帯び、周囲には、土の匂いが立ち上ぼり始めていく。
フト視線を移せば、遥か前方の空は鉛色の雲に覆われている。きっとあの雲の下は雷雨だろうとぼん
やり思い、よくよく考えたらその方角は、これから自分達が帰る青春台近辺ではないだろうかと思い至
り、リョーマは溜め息を吐いた。
高く遠かった綺麗な蒼天は、気付けば鉛色の雲に覆われている。雷鳴が近付いてくる気配は未だな
いものの、それもいつまでのことか判らないだろう。急速な威勢で頭上に広がる鉛色の雲を見れば、今
にも雨が降り出しそうな気配しか感じれない。
「秋の空と乙女心、みたいな空だな」
「……何それ?今、夏じゃん」
鈍くくすんで行く空を見上げ桃城が不意に呟けば、その科白の意味が判らないリョーマは、半瞬キョト
ンと小首を傾げ、隣を闊歩する精悍な面差しを眺めた。
「急激に変化する空のことだよ」
そう言いきってしまうには、些か不適切ではあるものの、急速に変化する天色を指し示す古来から伝
わるその言葉は、大雑把な意味で間違いではないだろう。尤もそれは夏の夕立に用いられる言葉では
なかったけれど。
「フーン?」
判ったんだか、判らないんだか、どうでもいいやっという感じのリョーマの返事に、桃城は緩やかな微
苦笑を漏らす。
頭一つ分は確実に低い目線の下。綺麗な横顔は桃城が微苦笑してしまう無防備さで、遠くのくすん
でいく空を眺めている。その無防備さは、けれどリョーマには無自覚な領域で、だからこそ桃城を莫迦
みたいに幸せにするのだと、きっとリョーマは知らないだろう。リョーマがこんな無防備な態を曝すのは、
極親しい人間の前だけだと、判っているからだ。
「お前、国語苦手でも、これくらい知っとくもんだぞ」
「別に知らなくても困らないでしょ?あんたいるんだし」
「俺は辞書か」
何でもないことのように、サラリと告げられた科白の中身を、一体リョーマは何処まで理解して口に乗
せているのだろうかと、桃城は半瞬綺麗な横顔を凝視する。
端から聴けば、かなり意味深な内容を含んでいたリョーマの科白は、不二や英二に聴かれれば、会
話の為の肴を提供するようなものだろうし、元一年生トリオ、現在は二年に進級した堀尾達二年生トリ
オに聴かれれば、それはそれで、また別の問題が発生しそうな科白だった。けれどそれさえリョーマに
自覚はないのだから、桃城は苦笑するしかなかった。
「引く手間、要らないし」
「そいやお前の辞書って、まっさらだったよな」
以前辞書を忘れリョーマに借りた国語辞典は、新品同様の真っ白さで、手垢一つ付いていないかの
ようだったのを思い出す。 きっと手付かずなんだろうなと思う桃城の予想は、リョーマのあっさりとした
肯定に決着を見るのに、5秒と掛からなかった。いっそ淡如な肯定に、桃城が苦笑しかできなかったの
は、それがあまりにリョーマらしすぎたからだ。
帰国子女という免罪符を、リョーマが周囲に求めたことは一度としてなかった。リョーマは帰国子女だ
から国語が苦手なのではなく、その有り様が納得できないから、好きになれないというのが理由だが、
その理由を知る者は、極限られた人間だけだった。
マルの貰える答えが肝要という、日本の教育が理解できない面が多大だから、ついつい国語授業に
身が入らない。画一的な有り様を生徒に求めているようでは、感性は何一つ育ちはしないだろうし、思
考力は減退する。
リョーマがアメリカで求められてきたものは、思考力と同時に、それを言語に置き換えることのできる
発言力だったから、読者の感性を無視した外側の部分に用意されている答えに、リョーマは納得できな
かったのだろう。国語の授業以外では、リョーマは読書もしているのだ。最近のお気に入りは、桃城推
薦の世界的有名なミステリー小説だ。
「大体、俺達がこうしてテニスしようって出掛ける日、よく雨降るんだよね。あんた雨男?」
春休みの終わりもそうだったと、リョーマは思い出す。
あの時は遠出はせず、行き慣れたストリートテニス場で、既に顔見知りの面々と試合をして、その帰り
道、雷雨に巻き込まれた。曇ってきたと思ったら、突然の雷雨。頭の天辺から、爪先まで濡れ鼠になっ
て帰宅して。そうして、雨に隔絶されたかのような照明一つ灯らない薄暗い空間で、セックスをした。
覚えているのは、窓を走る蒼白い閃光と、半瞬の後に、追いかけるように鳴る雷。そして情事の最中
でしか聴くことのできない、甘さを帯びた桃城の低い声と、耳元で繰り返される名前。それは思い出す
だけでも、躯の何処かが甘く疼いて行く気さえする。まるで肉の底から、情感を炙り出されて行くかのよ
うだった。
「アホ。俺なんて何処から見ても、晴れ男だろうが」
「脳天気ってのと、晴れ男ってのは、別物でしょ?」
そういう所があんた本当に詐欺師と、リョーマは呆れた笑みを覗かせる。そんなことは、言っている当
人が、一番理解しているだろうに。
世間がそうと位置付ける桃城の笑みは、その印象を額面どおりに受け止めれば、確かに晴れ男にし
か見えない、人好きのする、太陽のようなと形容されるものだ。けれどそんなものは、リョーマ相手には
通用しない。
所詮人好きのする桃城の笑顔は、盾と同義語の境界線だ。それが内と外を隔てる境界なのだと何一
つ知らず、明け透けな笑顔に誰もが気を許す。だからリョーマには、桃城が到底晴れ男とは思えなかっ
た。晴れ男の外見を為す要素が多大なだけで、それはむしろ本質からは程遠いからだ。いっそ見事に、
対極を為しているとさえ思える程だ。
「桜見に行った時も、そうだったよね」
煙花と呼ぶに相応しい光景を見せてくれた桜の花。規則性も法則性もなく、ただ風に揺れ慢舞する花
片は、何処か淡雪のような儚さがあった。
「そいや、そうだな」
確かに春先桜を見に行った帰りも、雨に降られたなと、桃城も思い出す。
淡い陽射に緩やかに舞う桜は、宛ら天女の憧憬と言うに似つかわしい風情だったが、雨に煙る白い
花は、それはそれで趣のある美しさを湛えていた。桜が見せる多面性は、きっと昼と夜でガラリと気配
の変容する美しさだけではないのだと、あの時初めて知った気がした。
雨に濡れ、無残に散り逝く花片さえ綺麗だと思えた。そしてそれは、何処かリョーマの持つ二面性と
似ていると思ってしまったから、桃城は降るように音もなく散り逝く桜に、リョーマの持つ強さを見出だし
てしまったのだ。
「まぁでも、お前、雨嫌いじゃないだろう?」
どちらかと言えば、日常の印象が様変わりする雨の光景を、リョーマが好んでいることを、桃城は知っ
ている。雨は苦手だけれど嫌いではないと、以前リョーマが言っていたからだ。尤も、梅雨のように、
気力ばかりか精神も浸食されそうな湿気の多い雨は嫌いなのだと言っていたから、精々一日程度なら、雨降りの散歩を楽しめるということだろう。そんなリョーマの子供っぽい一面が、けれど桃城には愛し
かった。
同年齢の堀尾達と比較しても、彼等が些かの子供っぽさを持ち合わせていることを差し引いてみたと
しても、リョーマは大人びている。それがアメリカに居た当時のリョーマの居場所を垣間見せるから、桃
城はリョーマの内側に在る、子供っぽい一面を知った時、誰にともなく感謝した。
リョーマにとって、テニスは父親の名に隠された自己を取り戻す為の道具ではなくなったのだと知った
時。桃城が味わった安堵を、リョーマは知らないだろう。
「嫌いじゃないけど、桃先輩は、嫌いでしょ?」
閑舒に歩きながら、リョーマは隣を歩く精悍な横顔を凝視し、次に悪戯っぽい笑みを口端に刻み付け
た。
「俺?俺も別に嫌いじゃないぞ」
雨に煙る街角は、晴れ渡った空の下で見るのとは趣が変わる。そんな様変わりする光景を、桃城も嫌
いではなかった。とはいえ、積極的に散歩をしたいとは思わないけれど。
「俺が雨の中、傘もささないで散歩するのは、嫌いでしょ?」
「好き嫌いの問題じゃないだろうが」
ゆっくり歩きながら、悪戯気に笑うリョーマに苦笑すると、桃城は柔らかい髪をクシャリと掻き混ぜてい
く。節のある長い指先が掻き混ぜていくその感触に、リョーマは擽ったそうに、薄い肩を竦ませた。
好き嫌いの個人的感情以前に、どう考えてもテニスをする人間として、それは些かどうよ?と思うが、
リョーマにそんな頓着がないことも、桃城は嫌という程知っている。リョーマ相手に、説法程虚しいもの
はない。
「お前本気で、傘ささないで散歩しそうだからな」
程度問題によるだろうが、リョーマは多少の雨なら濡れることに抵抗がない。突然の雷雨にずぶ濡れ
になりながら、不二と練習試合をしていたのがその証拠だ。それは顧問の竜崎により中断されたが、あ
の時竜崎の制止の声がなかったら、きっと二人は最後まで試合をしていただろう。そして万が一にも結
果的に風邪でもひいて、翌日の大会に出場できなかったとしても、噬臍する弱さなど、リョーマは持ち合
わせてはいないだろう。尤も、風邪をひこうが熱を出そうが、最初から試合を放棄するリョーマではない
から、無茶と無鉄砲が同義語なのは、間違いがない。
「俺も其処まで、無謀じゃないっスよ」
雨に遭遇した結果ならともかく、わざわざ雨の中。傘もささずに散歩に出る程、リョーマは酔興でもな
ければ、雅韻を嗜む人間でもなかった。けれど雨に煙り趣が変わる雰囲気は、嫌いではなかった。それ
もこれも、アメリカに居た当時は、考えも付かないことだったが、敢えて桃城に言う必要を感じなかった
のは、それは今更だろうと思えたからだ。
「でも今日は、散歩ができそうじゃない?」
「風邪ひかない程度にな」
そしてやはり悪戯気に笑うリョーマに、桃城は柔らかい苦笑を漏らすと、ネコっ毛の髪を愛しげに掻き
回した。
□
急速に変化する雲。周囲に立ち込める湿り気を帯びた空気。錫色だった空が、急速に鉛色の雲を何
層にも重ねたように流れてきた時には、ポツポツ降ってきた雨も、銀縷が連なるような降り方で、二人の
視界を煙らせていく。
「こりゃ、ちょっと駅までは無理って感じだな」
幸いにも雷雨ではないものの、夏の夕立の降り方を考えれば、これから雨足が強くなることも充分考
えられる。そう考えれば、傘もささずに歩いていれば、すぐに濡れ鼠になってしまうのは明らかだ。
「そぉ?大したことないんじゃん」
一時的に逃げ込んだ場所は、本日臨時休業というプレートが出ている、シャッターの降りている小さい
店の軒先だった。看板にはベーカリーと書かれているから、今流行の手作りパン屋の店か何かなのか
もしれない。こじんまりした白い外観は、閑静な住宅街の中、綺麗に溶け込んでいるたたずまいをして
いる。
「コンビニでもあれば、傘買ってくんだけどな」
「桃先輩、雨男なんだから、傘持ってくればいいのに」
くすんだ空を見上げている桃城を眺め、リョーマが口を開けば、桃城は呆れた視線をリョーマに向けた。
コンビニを求め歩いてもいいが、きっと目的地を見付けた時には、傘の必要性などなくなっているだろ
う。土地勘のない場所でむやみやたらに歩いても、最短距離で目的地に到達できる可能性はほぼゼロ
だ。きっと目的地に到達した時には、酸性雨に濡れるだけ濡れ、下手をしたらリョーマに風邪をひかせる
結果で終わってしまう。そんな危険を、桃城が冒せる筈もない。かといって、此処にリョーマを一人残し、あてもないまま、コンビニを探す気にもなれなかったのは、桃城自身が自覚している、リョーマに対す
る過保護さだ。リョーマに対し慎重な分、つい最悪な事態を想定して行動してしまう癖が、ついしまって
いる弊害だった。
「お前、自分が雨男だって可能性は、考えてないだろう?」
軽口を叩くリョーマに、桃城は繊細な貌を覗き込み、雨でしっとり濡れる長い前髪に指を絡めると、ひ
どく穏やかな笑みを滲ませた。
「もし俺がそうなら、あんたは余計に、傘持ってなきゃダメなんじゃない?」
春の柔らかい雨の光景を連想させる桃城の笑みは、リョーマの胸の内側を甘く疼かせていく威力を持
っている。こんな局面で柔らかい笑みを滲ませる桃城は、だからリョーマに言わせれば、タチの悪い男
だと言うことになる。
雨に濡れ、傘もない。見知らぬ場所で、それでも慌てることもなく、柔らかい笑みを漏らす余裕。莫迦
な相手なら、此処でパニックの一つを起こしても可笑しくはないだろう。けれど桃城は余裕泰然としてい
る。その余裕が、どれだけ自分を大人に見せているか自覚のない桃城に、だからリョーマは内心舌打ち
する。少しは自覚しろと言いたくなるものの、自分で気付けと思うから、軽口を叩くしかできなくなる。
「詐欺師」
覗き込んでくる精悍な貌に呟くと、リョーマは雨の所為で整髪剤の効果が薄れ、綺麗に立てている髪
が乱れてしまった桃城の髪を、更に乱すようにクシャリと掻き乱した。
「俺のこと、眼に入れちゃう程、甘やかしてるんだから」
眼に見えるカタチで甘やかしてくる部分など、手の内を一切読み取らせない桃城の、ほんの極僅かだ
ろう。言葉に出し、眼に見える部分での気遣いなど、きっと桃城が抱えているものの半分にすら満たな
いこと程度、リョーマも気付いている。
「俺の気持ちなんて、無視してさ」
時折燻るような苛立ちが募るのは、見えるカタチで甘やかしてくるくせに、肝心な部分は一切言葉に
出さない桃城の所為だ。割り切れてしまえる程自分は未だ大人ではないのだと、リョーマは自覚してい
る。
「肝心な所で、ぬけてる」
リョーマが堅い髪質をグシャグシャと掻き回せば、桃城はなんともいえない深い微苦笑を滲ませ、髪を
掻き乱す細い腕を掬い上げる。
「…泣くなよ……」
細い手首を掬い上げ引き寄せて、緩やかな抱擁で細身の躯を拘束していく。
雨に濡れる頬。涙と雫の区別もなく。ただ泣き出しそうに歪むリョーマの綺麗な面差しを覗き込むと、桃
城は白い額に自らのそれをコツンと押しつけ、囁くような声で、言葉を口に乗せる。
「誰が……」
泣いてやるかと思う。
正月からこっち、浮き上がるように鮮明になっていく桃城の境界線。それは自分を拒む要素は一切な
いにしても、去年とは明らかに何処かが違う。その意味が判らなくて、時折リョーマは焦燥を余儀なくさ
れていく。
こんな風に二人だけで雨なんて見ているから、いらない考えが不安というカタチで頭を過ぎるんだと、
リョーマは半ば八つ当たり気味に、鉛色の空を眺めた。
くすんでいく空の色。遠くで鳴り響く雷鳴。何層にも連なる雲から降りしきる雨は、徐々にその雨足を
強めていく。湿気を帯びた夏の夕立は、熱気で暖められたアスファルトに、瞬く間に吸い込まれていく。
それはやがてアスファルトの熱気が取り払われれば地に吸い込まれることはなく、整備された道路の
上に、見ずを浮かせていく。
「魚さえ、泳げそうな空……」
「?どうした?」
「魚さえ泳げそうな気がする」
ホラッと、白い指先が一本、スラリと空を指し示す。それは桃城に、正月のリョーマを想起させた。
『上に行くよ』
冬の凛とした空気の中、静かに佇んでいた小さい姿。細く白い指先をスラリと空へ伸ばし、抑揚なく告
げられた言葉。それは凛然とした周囲の空気と綺麗に混融し、桃城の身の裡に根付く力を持つ言葉だ
った。それはまさしく、言霊だ。
秘色のように、冬の空気に研ぎ澄まされた姿。揺るぎない声。それはあたかも、ヒトイロを思わせる。
たった一つ、最初から持ち得ている、交じり気のない色。
研ぎ澄まされていく気配。冬の凛とした空気に佇む、眠れる獅子。
「ねぇ?あの空さ、魚も泳げそうじゃない?」
鈍く垂れこめる重い空。周囲を煙らせ降る雨。身を切る冬の冷たい雨ではなく、春の柔らかさを纏う雨
でもなく。夏の熱気を静めるように降る雨は、魚さえ泳げそうな海を連想させる。空は鈍くくすみ、青が
群れ集まる、海を構成する色は、見上げた其処には微塵もない。天空海闊を代表する、マリンブルーと
いう綺麗な色もなければ、光さえ差し込まぬ深海の深淵もない。あるのものというば、立ち込める鉛色
の雲ばかりだ。それでも、熱気を殺ぎ落とし降る雨は、確かに魚さえ泳げそうに空から澱みなく降り落ち
てくる。そして激しい夕立がやめば、夏特有の空が現れ、それはあたかも魔法のように、綺麗な光景を
見せてくれるのだ。
「お前、本当それでどうして国語苦手なんだよ」
「?」
しみじみ呟く桃城に、リョーマがキョトンと小首を傾げれば、長い睫毛が瞬いて揺れる。
「お前の頭ってのは、本当化け物みたいだな」
「莫迦にしてるの?」
しみじみ呟き苦笑する桃城に、リョーマは憮然となる。こんな時、桃城の言語はリョーマには判らない
ものになっしてまうから、リョーマは憮然となるのだ。
「関心してるんだよ」
「褒めてないじゃん」
「テニスしか詰まってないように思えるのに、お前の此処は、色々なもん詰まってるよな」
此処と指し示す場所は、けれど頭ではなく正確に心臓の上をなぞっているから、リョーマはやはり桃
城の言葉は判らないと、ますます憮然となっていく。
胸の内に詰まっているものなど、今更だ。
胸の内にあるもの。テニスと、桃城への言い様のない飢餓、それだけだ。
テニスは棄てられない。それは誰に何を言われる前に、判っていることだ。最後の最後には、自分の
ことしか選べない。それでも、桃城の手は絶対離せない自覚は深まるばかりで、その醜悪さに、リョー
マは時折言い様のない苛立ちを覚えてしまうのだ。それが理不尽な我が儘となって口に乗ったとしても、桃城は悪い男の見本のように、笑って済ませてしまうのだ。
「やっぱ、莫迦にしてるじゃん」
「してないって」
「どうせ俺は、テニスしかできないよ」
「拗ねるなよ」
憮然となる表情に、桃城は愛しげに苦笑すると、正確にリョーマの心臓の上を撫でていた指先は、雨
に濡れた柔らかい髪を掻き混ぜた。
「あんたの此処には、俺以上に色々なもん潜ませてるでしょ?」
白い指先が、正確に撫でていく、心臓の上。詰まっているより、底の見えない幾重ものものを潜ませ
ている。
「刃とか、牙とか」
髪を掻き回していく指先に、リョーマは上目遣い見上げ、口端に意味深な笑みを刻み付けた。
強靭な鞘に守られた刃は、滅多抜かれることはない。ましてリョーマの前で抜かれることは殆どない。
桃城がリョーマに気付かれるやり様でその鞘から刃を抜いたのは、山吹中の亜久津に理不尽にリョー
マが傷つけられた時だけだ。
「俺の知らないものばっかじゃん」
知っていることなど、ほんの些細な程度だ。
柔らかい苦笑が自分にだけ見せられるものだったり、晴れ男に見せかけて、その大人びた苦笑は昼日
中より、余程夜の気配を持っていたり。まるでマジックミラーのような眼差しは、不可視の領域だ。
知っているのは、そんな些細なものばかりで、桃城の本質に僅かにでも指が届いているのかすら甚だ
疑わしいというのに。
「あんた、隠し事、得意だし」
知っているものなど些細なもので、実際桃城のテニスが変化した去年の夏から、拭いされない予感は、日々増すばかりだ。そのくせ桃城はそういう局面に対しては、決して言葉に紛らせないタチの悪さが
あるのだから、始末に悪い男だ。
「時折、抉り出してやりたくなる」
心臓の上を撫でていた指先が、鷲掴むように桃城の胸元に容赦なく爪を立てた。一瞬の痛感に桃城
は眉を寄せたが、リョーマの指を払うことはしなかった。
「あんたのココ」
桃城が痛感に顔を歪めるのも構わず、リョーマは桃城の胸元に爪を立てたまま、密めいた忍び笑いを
滲ませていく。
「タチ悪いぞ、お前のその表情」
雨に濡れ乱れた前髪から覗く一対の眼。それは情事の最中のリョーマを連想させる、何処か淫靡な
忍び笑いを滲ませている。
「あんたが、詐欺師の悪い男だからでしょ?」
苦笑する桃城に、リョーマはクスクスと薄い笑みを滲ませると、スラリと細い両腕を桃城の首に回した。
「俺の中に詰まってる物なんて、テニスと、あんたとセックスすることだけ。気が狂いそうな程、あんたと
セックスしたいって欲情だけ」
「…越前…」
濡れる前髪から覗く一対の眼は、淫靡な忍び笑いの背後に、何処か壮絶なものを研いでいる気分に
させられる眼をしている。その一対の眼は、やはりリョーマが南次郎の紛れない血統を引き継いでいる
のだと、桃城に実感させる。南次郎には未だ程遠いものの、其処に在るのは、獲物を見据え、刃と牙を
研ぐ猛禽の鉄爪だ。
「テニスと、あんたに欲情してセックスするのと、多分きっと其処にあるのは、同じものだと思うよ?テニ
スでさ、イク時ってあるでしょ?」
感覚的にだけどさ。イキそうになる時って、あるでしょ?
リョーマは淫蕩に耽った眼差しをして、桃城の眼をまっすぐ見詰め、忍び笑う。
「それってさ、欲情してイクより、時折精神的にすごく深い意味持ってたりするんだよね。桃先輩とのセッ
クスも、同じ時あるよ。精神的に何度も何度もイッて、実際の射精より意味は深かったりさ」
「……お前、いやに喋るな」
リョーマが饒舌になることは、滅多にない。その理由も、そう数の多いものではなかったから、桃城は
首に回った細い腕を眺め、そうして眼前の白皙の綺麗な容貌に焦点を絞り、細い頤を掬い上げた。
こんな誤魔化し方に、リョーマはいつまで付き合ってくれるだろうかと思うものの、今は未だ何一つ明
かせない。精々不安にさせない程度のことしかできない。
「雨の、所為じゃない?」
クフフッと、リョーマは情事の最中にしか見せない艶冶で淫靡な忍び笑いを垣間見せた。それは日本
人形の得体の知れない薄い笑みに酷似して、放埒な娼婦というより、何処か魔性を連想させる妖冶な
気配だ。
「ねぇ?桃先輩は、ないの?」
「コートに立ってるお前見てると、時折あるな」
リョーマが何より綺麗に映るとしたら、それはコート以外に有り得ない。切っ先を冷ややかに研ぎ澄ま
し、躊躇いもなく鉄爪を降り下ろす場所。そんなリョーマを見ていれば、綺麗だと思う反面、どうにもなら
い欲情が湧くのも確かだ。
「スケベ」
「お前も、だろう?」
「コートに立ってるあんたは、雄だから」
獲物を狙う肉食獣そのものと、リョーマは笑う。その笑いは今の今まで見せていた忍び笑いではなく、
情事の最中、桃城の理性を綺麗に焼き切る、娼婦の笑みだ。まるで舌舐めずりするような、リョーマの
肉色した舌が見えるようで、眩暈がする。
「確かに、雨の所為、かもな」
「狡い人」
ゆっくり触れてくる口唇に、リョーマはクスクス柔らかい音を漏らす。
「でも今は仕方無いから、誤魔化されてあげる」
でも今夜は、きっちり機嫌とってもらうから、リョーマは笑うと、桃城の首に回した腕に力を込め雨で乱
れ、自分とはまったく性質の違う堅い髪を掻き乱し、引き寄せた。
「ぅんっ…んっ…」
夏の夕立に紛れ、漏れる吐息。縺れるように舌を絡め合い、求め合う。
イキそう………。
リョーマがクスクス吐息で笑えば、桃城は細腰を引き寄せ、更に密着する。
鉛色の空から降る雨は、夏の熱気を殺ぎ落とし、アスファルトに水溜まりを作り上げていく。下から見
上げれば、それはまるで、吸い込まれそうな光景だろう。
□
「ねぇ?夕立なんてどうせすぐやむんだから、此処で雨宿りしてれば?」
気紛れな夏の夕立は、空に魚さえ泳げそうな波間を築きながら、夏の熱気を殺いでいく。
「お前に風邪引かせる訳にはいかないって」
夏の夕立は確かに短時間の集中型が多いが、じっとしていたら、雨の湿気で風邪をひく可能性もゼロ
ではないから、桃城はリョーマの提案に難色を示した。まして今は、口吻で体温が多少上昇したとはい
え、このまま雨の中に居続ければ、体温が奪われていくのは明らかだ。いくら夏の雨とはいえ、油断し
ていたら風邪を引く。
「俺をガラスケースにいれるなって、いつも言ってるでしょ?」
やれやれと、リョーマは深々溜め息を吐く。尤も、この科白が桃城に通用しないことも、リョーマには今
更だった。
「風邪ひかせたくないって程度は、別にガラスケースじゃないだろう?」
胸元にもたれる華奢な躯をやんわり抱き締めると、桃城は雨でしっとり濡れた長い前髪を梳き上げる。それは元々ネコっ毛の為、芯がぬけたようになっている。
「桃先輩の心配って、もしかして髪?」
「あのなぁ。大体お前、冷たいぞ」
桃城が白い瞼に口唇を寄せれば、リョーマの体温が雨に奪われているのが判る。元々リョーマの体
温は桃城より低めだから、雨の中では更に体温が低いのが顕著になる。
「だったら、あっためてよ」
「無茶言うな」
擦り寄ってくる躯に苦笑する。これ以上キスでもしたら、再現などなくなってしまう。リョーマが思うより
自分の理性はガラス並だと、桃城は苦笑する。
そんな時だった。雨音に紛れ聞こえてくるはしゃぐ声に、二人は顔を見合わせ、そして通りを眺めた。
アスファルトに出来た水溜まりを愉しげに避けながら、あるいは敢えて飛び込みながら、数人の子供達
が二人の目の前をキャアキャア笑いながら通り過ぎていく。
「あれじゃ傘さしてても、意味ないだろうな」
夏の当然の夕立に、子供が用意周到に傘を用意している訳はないだろうから、雨が降り出してから、
子供達は遊びにでも待ち合わせしたのだろう。
「あれは、もう泳いでるって言うんじゃない?」
通り過ぎていく子供達のはしゃぐ声。傘などさして役にたたず、無邪気に戯れ雨に濡れていく。それは
まるで、水の中を泳ぐ子供の群れだ。
「お前も子供のこと、大して言えないと思うぞ?」
雨が苦手でも嫌いではないリョーマは、雨の中散策に出れば、今目の前を通り過ぎた子供達とさして
変わらないだろうことを、桃城は知っている。
「やっぱ、雨宿り変更」
「越前〜〜〜」
「情けない声、出さないでよ」
どうせ俺は、子供なんでしょ?
本気で情けない声を出している桃城を、リョーマは愉しげに笑いながら覗き込むように見上げれば、桃
城は降参とばかり両手を上げるしかなかった。
「酸性雨に、濡れたくないぞ」
「魚も泳げそうな空なんだから、俺たちが泳いでもバチ当たらないでしょ?それにあんた、プール行こうっ
て言ってたし」
気紛れな夕立の中、リョーマは雨宿りしていた軒先から、足許で雨垂れが跳ねるアスファルトに飛び
出した。
「ねぇ、桃先輩、結構気持ちいいよ?」
振り向いて笑うリョーマはあまりに無防備で、周囲の雨の景色に綺麗に溶け込む姿は、確かに泳ぐの
を楽しむ魚さながらだ。 柔らかい髪に吸い込まれていく銀糸の雫。何処までも暗い空と雨の光景だと
いうのに、その背後には不思議と綺麗な蒼天が見える気がした。
「酸性雨の中に長くいると、禿げるって言うしな」
飛び出す威勢で雨の中に出たリョーマに、桃城は呆れながら、戯れるように笑っている姿に、莫迦み
たいに大切だと思うのだから、大概終わっているのかもしれない。
「第一俺が行こうって言ったのは海で、プールじゃないぞ」
「海なら行ったでしょ?」
あんたの誕生日に、そう笑うリョーマは、雨の中愉しげだから、桃城はヤレヤレと苦笑を深めるしかな
かった。
「第一もう今は、泳げないんじゃない?」
全国大会も終了した今の時期、8月も半ばの季節では、海月が繁殖している時期だろう。
「泳ぎに行きたい訳じゃないさ」
徐々に弱まっていく雨足に、前方に視線を移せば、雷雨で鉛色の雲に覆われていた青春台付近は、
晴れ間が覗いてるのが見て取れる。
「風邪引くなよ」
「だから、そんなヤワじゃないでしょ?」
あんた過保護すぎ、リョーマは呆れながら、それでも愉しげに雨の中を泳ぐような足取りで歩いて行く。
「ねぇ桃先輩、?」
足許のアスファルトで跳ねる雫。夏の熱気を殺ぎとっていく夕暮れ時の雨は、熱帯夜が続く夏の夜の
清涼剤だ。
「魚になった気分?」
「だったら、酸性雨の中じゃなくて、プールとか海なんじゃないか?」
「それってば、愉快な人間芋洗い生産工場って意味と同じでしょ?」
「お前なぁ〜〜〜本当お前の頭の中は、得体がしれないぞ」
ああ言えばこう言う。こんな部分だけ、リョーマは無駄に反駁の言葉を知っていると、桃城は半歩先を
歩くリョーマの腕を掬い上げ、引き寄せる。
「なぁに?」
引き寄せられた手に、リョーマは振り返り、はんなり笑う。徐々にやみ始めていく雨の中、リョーマの
笑みは淡い程だ。
「泳いで帰るか?」
そんなことを、言いたかった筈ではなかったと思うのに、口にしたのはそんな言葉で、桃城は深い微
苦笑を刻み付けた。
「魚になって?」
だったら俺は回遊魚かもね。リョーマは去年の夏、口にしたと同じ言葉を、繰り言のように口にする。
「休むことも知らないで、きっと同じところを延々回ってる」
テニスと、桃城と。手放せない狭間を、きっと生涯回り続けていく。
「お前は魚っていうより、人魚だろう?」
胴は人間で、下肢は魚。ただ綺麗な生き物という伝書。
「自分の声と引き換えに脚を貰って、王子に想いも伝えられずに泡になっちゃう訳?」
「お前でも、人魚姫は知ってるんだ」
「童話としてはどう?って思うけどね。でも……」
「ん?」
「声と引きかえって言うのは、似てるかもね」
本当に伝えたい言葉は、桃城の一体何処に届いているのだろうかと思う不安。本当に伝えたい言葉
を、本当に伝えたい人に、伝えることは難しいのだと、初めて知った。
呟くように話すリョーマに、桃城は歪に顔を歪めると、無言で小作りな頭を引き寄せた。
「俺はあんたに、簡単に剣を突き立てるよ」
「ああ、それでいい。お前は、お前の脚で、お前の目指す道を歩いて行くんだ。何かと引き換えなんか
にしなくても」
綺麗事だと知っている。リョーマの迷いが何処にあるのか、リョーマに迷いを抱かせてしまっているの
が一体何か、判らない程桃城は鈍くはない。
「あんたは、枷にもさせてくれないんだから」
初めて知った恋情一つ、枷にはさせてくれない強靭さ。そんな強さが桃城の一体何処に在るのかと思
っても、リョーマに推し量れるものは、一切ない。
「言っただろう?コートに立つお前に、イキそうになるって」
「フーン?だったら今度コートでする?」
自分を莫迦みたいに慎重に扱う桃城が、プレーヤーにとっては戦場であると同時に、神聖とされるコ
ートで、情事に望める筈もないだろうにと、リョーマは呆れたように桃城を眺めれば、桃城は深い笑みを
滲ませているばかりで、リョーマは瞬間憮然となる。
「お前、衆知プレー嫌だろうが」
「サイテー」
「まぁ、姦ってみても、いいけどな」
何処まで本気で、何処から嘘か判らない桃城の科白。桃城の不可視の領域をリョーマが垣間見るの
は、決まってこんな時だ。けれど笑う笑みに嘘は見つけられないから、きっと本当にそう思っているのだ
ろう。
「それじゃ、今度雨降ったらね」
「何で雨なんだよ」
意味深に笑うリョーマを覗き込むように見詰めれは、リョーマは子供じみた笑みを滲ませている。
こんな時のリョーマの笑みは、タチが悪いと決まっているから、桃城は嫌な予感に蟀谷をポリポリと掻い
た。
「雨の中なら誰もコートにこないし。泥まみれになってするってのも、獣じみてていいでしょ?」
案外溺れる魚かもね?リョーマは悪戯が成功した子供のように笑うと、今度こそ桃城の手を取り、歩
きだした。
「もう夕立も終わりだな」
今まで鉛色に翳っていた空も、所々に蒼を垣間見せ、雨はポツポツと雫が垂れているという降りにな
っている。
「俺この一瞬の光景が、結構好きだけど?」
雲間から漏れてくる淡い光。雨後の鮮やかな緑。熱気を殺ぎ落とし吹く風。夏の夕立後の光景は、ま
るでその時一瞬にだけ見える魔法のようで、リョーマは好きだった。それは去年の夏、桃城の誕生日に、桃城自身が見せてくれた光景だから、より好きなのかもしれない。
「魔法みたいでか?」
その子供のように科白を、簡単に口にしたリョーマの感性に、桃城が驚いたのは去年の夏だ。こうし
てリョーマは、何でもないように簡単に、色々なものを差し出してくれる。それが莫迦みたいに桃城を幸
せにするのだと、リョーマはきっと知らないのだろう。
「あんたは詐欺師だけどね」
あの日と同じ会話。それでももう随分、立つ位置は変わってしまっているそれに、リョーマは半瞬泣き
出しそうに顔を歪め、空を見上げた。
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