外気との差はあまりない方がいいと判ってはいるものの、こう暑いと、そんな綺麗事は、頭からあっさ
り払拭されてしまうらしい。とはいえ、リョーマに対しては何処までも過保護な桃城が、そう簡単に室温
を20度前半まで下げさせてくれることはないから、室内は、リョーマにはやや生温く感じられる適温設
定が為されていた。
テニスでは、真夏のコートに立つのは何一つの苦はないというのに、こうジッとしていると、どうにも暑
く感じられて仕方無い。むしろ真夏の肌を灼く熱気の中、コートという戦場に向き合うのは好きだった。
足許から立ち上ぼってくる熱は、まるで素足で熱砂の上に立つ熱さをもたらしてくる。真夏の熱と、眩
しいばかりの光の中。不思議とコートに立てば、身の裡の深い部分から、ゆっくり研ぎ澄まされていく感
触すらある。あの一瞬の高揚感と緊張感が、整然とした矛盾を孕みながら同居しているあの空間がと
ても好きだ。あの一瞬の為に生きているのだとさえ、思っていた時もあった程だ。
けれどと、リョーマは大仰に溜め息を吐いた。
コートから一歩出れば、テニスに無関係な部分では、リョーマは暑さが嫌いではないが、苦手だった。
夏は好きだ。様々なものが輝きを増す命のような季節は、案外と好ましいとも思う。けれど、湿気の多
い日本の夏は、リョーマには少々鬱陶しい代物だったから、嫌いではないものの、些か両手を上げ歓迎
できるものでもなかった。
「ねぇ」
「溜め息付いても、何も出ないぞ」
リョーマの大仰な溜め息に、桃城はやれやれと課題ノートから視線を上げると、テーブルを挟んでノー
トを放り出しているリョーマを眺め、苦笑する。
テニスに関しては、時折見ている此方が恐ろしくなる程、一極集中だというのに、どうにもリョーマはテ
ニスから離れた部分では、その一極集中も持続性はないらしい。尤も、これがゲームや何か、自分の
興味を引く物に対しては、テニス以外でも一極集中ではあったから、ただ単純に、宿題をこなす作業に
飽きたのかもしれないと、桃城は子供っぽい一面を曝すリョーマに、微苦笑を滲ませる。尤も、それはリ
ョーマが例外的というより、誰もが自分の興味の引くものに対する持続性は同様だろう。
「あんたなんで、そんな集中してるの?」
夏休みの宿題や課題など、到底熱心にこなすように見えない桃城は、けれどこの部屋に訪れてから、
リョーマが憮然となる程度には、課題ノートに集中していて、それがリョーマには些か面白くなかった。
誰にも邪魔されない空間の中。恋人同士でいれば、もっと違う雰囲気とか甘さが滲むものだろう。け
れど眼前の桃城からは、そんな気配は一切感じられなかったから、それがリョーマには面白くなかった。
「詐欺師…」
外見から眺めていれば軽い印象が付き纏い、到底夏休みの課題など、8月30日、31日に手を付け
るタイプにしか見えないというのに、リョーマの知る桃城というのは、世間がそうと位置づける軽い印象
など、もう何処にも残ってはいなかったから、リョーマは苦く舌打ちするしかできなくなる。
こういうところが、桃城が本来持つ本質と、世間が位置づけている桃城の印象との温度差なのだろう。
外見とは裏腹の中身。見せつけられ、知れば知る程、悪い男だという印象は、リョーマの中では日々
深まっていくばかりだ。
「好きなものは最後までとっとく、嫌なものはさっさと片付ける。これが俺の信条なんだよ」
「フーン、だったら俺は、好きと嫌いのどっち?」
「………越前…お前飽きたからって、俺を巻き込むな」
まったくお前はと言いながら、桃城はテーブルにシャープペンを転がすと、リョーマに付き合うことに決
めたらしい。所詮莫迦みたいにリョーマには甘い男なのだ、桃城は。
「だって好きなものは最後までとっとくってわりに、俺に早々手ぇだしたし、嫌いなものはさっさと片付け
るって割りに、苛付く程、手ぇだしてこなかったし」
蒼いシャープペンを掌中でクルクル弄びながら、リョーマは軽口を叩きながら頬杖を付くと、酷薄な口
唇に意味深な笑みを浮かべて見せれば、桃城はガックリ肩を落とした。
「お前……暑くて頭溶けてるか?言ってることが支離滅裂だぞ。第一あれは、手を出させられたって言
うんだ」
「ヘェ〜〜〜出させられた」
「あのな、さっさと課題片付けないと、幾ら経ってもテニスはできないぞ」
完全に宿題作業に飽きているリョーマに、桃城は駄々っ子を諭す心境で、テーブルを挟んで正面に座
っているリョーマに口を開いた。そもそも学年の違う二人が、一緒に宿題をしている時点で、こうなること
は判っていた筈だから、桃城にとって、リョーマのこれは、予測範囲内ではあったのだろう。大仰に溜め
息を吐きつつも、柔らかい微苦笑を滲ませているのがその証拠だ。
「第一お前、ちゃんと部長の言葉聴いてたか?」
「部長の?」
半瞬神妙になった桃城に、リョーマはキョトンと小首を傾げ、長い睫毛を瞬かせた。その眼差しは、飼
い主のベッドを占領し、スヤスヤ目蕩んでいる、リョーマの愛猫のクルリと瞬く眼差しとそっくりだった。
「ちゃんと聴いとけよお前は」
「あんた伝達係でしょう?」
シレッと笑うリョーマに、桃城はガックリ脱力すると、次には神妙な表情でリョーマを凝視し、厳かに口
を開いた。その芝居がかった神妙さに、リョーマはますます小首を傾げ、長い睫毛を瞬かせていく。その
無自覚な無防備さが、桃城に莫迦みたいな愛しさを抱かせるのだと、きっとリョーマは知らないのだろう。
「いいか、夏休みの宿題、9月1日の新学期。ちゃんと提出しないと、一ヶ月は部活で球拾いが待ってる
と思えよ」
「………なんで…」
「お前、うちの校風知ってるか?」
「文武両道」
「その心は?」
「全力で学び、全力で遊べ」
テニス部入部早々、顧問の竜崎に散々頭に叩き込まれたことだったから、青学の校風は、リョーマも
心得ているものだった。
「その通りだ。だったら判るな?」
「………俺達全国大会出てたのに」
「そらお前、別にテニス部だけじゃないだろう?」
夏は様々なスポーツの祭典が待っている。何も全国大会に出場したのは、テニス部だけではなかっ
たから、全国大会という言葉は、青学では免罪符にもならなかった。
「あんた危うく、バスケ部と掛け持ちさせられかけたし?」
「誰の所為か、ちゃんと判って言ってるか?」
「そんなの、あの莫迦な二年生の所為でしょ」
シレッと口を開くリョーマに、桃城は苦笑する。確かにリョーマの言うにも一理はある。けれど何もバス
ケ部エース二年の自尊心を、ああも綺麗に粉砕してくれるなと、桃城が頭を抱えたのは、未だ記憶に新
しいことだった。
「そのとばっちりが、俺に来たんだぞ、俺に」
自尊心をリョーマに粉砕されたバスケ部二年生エースの友人は、桃城に泣き付いてきたのだ。大会を
前に、エースが使い物にならないのは、笑い事ではなかったからで、桃城がリョーマを構い倒している
のは、桃城の親しい友人関係では見慣れた光景になってしまったものだったから、自分達の責任は棚
上げ状態で、彼等は桃城に泣き付いてきたのだ。曰く、『後輩の責任は先輩のお前がとれ』という、理
不尽以外の何者でもない理由とも言えない理由で以て、桃城は他校とのバスケ部練習自愛に引っ張り
出されたという顛末が付く。
「フーン、何処だかの練習試合で、女の黄色い悲鳴に、ダンクシュート決めまくってた人の科白とは、思
えませんね」
そして桃城自身、バスケ部の人間にとどめをさしたのだ。
そりゃそうだろう。テニス部のレギュラーが、練習試合とはいえ、バスケ部の助っ人に入るというだけで
も、ある意味前代未聞の事態だった。そしてその助っ人が、ダンクシュートを鮮やかに決めまくって点数
を取っていたら、バスケ部の面子は丸潰れだったから、桃城自身、バスケ部にとどめをさしたも同義語
の事態を招いたのだ。
「まぁだからな、今此処で残り少ない日数で、ちゃっちゃと宿題片付けないと、新学期初日に部長の説
教だぞ」
テニス部員にとって、教師の説教より効くのが、部長である手塚の一喝というのは流言飛語というより
事実でしかなかったら、此処で心置きなく宿題を放棄しても、新学期に待っているのは手塚の説教だ。
どの教師もそれをよくよく心得ているから、テニス部員の動向は、何かあれば手塚や顧問の竜崎に寄
せられてしまうという、ある意味タチの悪い顛末が待っている。
「それに球拾いってことは、ラケット絶対持たせてくれないからな。9月のランキング戦は、必然的にアウ
トってことだ」
それは問答無用で、レギュラー落ちということと同義語だ。
「………それって、伝家の宝刀ってやつ?」
「ちょい違うだろう?どっちかっていうと、治外法権」
「それも違うんじゃないの?」
テニス部は大使館ですか?リョーマはそう笑う。
「外交特権。各教科担当が、宿題未提出者のリストを、部長に手渡しにいくらしいからな」
だからテニス部員に関しては、各教科担当教師の小言ではなく、大抵手塚から一喝が入れられる。
「判ったら、サクサク宿題片付けないと、後で泣くぞ」
それでなくても、全国大会を決勝までこなし、優勝した青学テニス部員の夏休みの残日数は、二週間
しかないのだ。尤も、夏休みに入ってからの練習は、宿題を考慮した時間帯が設定されていたから、桃
城もリョーマも、それなりに宿題は終わらせていたのだけれど。
「フーン」
「お前、判らない問題とかあるのか?」
「数学と物理と英語はもう片付けました。桃先輩もそうでしょ?」
「お前つくづく、理数系の頭だよな」
「桃先輩は、全然そう見えないけどね」
真夏の太陽のような笑顔の印象の強い桃城が、理数科目が得意だと言えば、大抵の人間がその印
象とのギャップに首を傾げるが、けれど本来頭脳プレーと言われるテニスで、相手の意表を付き、臨機
応変に対処できる桃城を知っていれば、むしろそれは当然のものだろうと思うリョーマだった。
「桃先輩、代わりに読書感想書いてよ」
「………お前、そういうのは俺に頼むべきじゃないぞ」
「なんであんな無駄なのがある訳?」
「まぁ俺もあれ苦手だけどな。でも課題指定の本がないだけマシだぞ」
「面白かったとか、つまらなかったでもいい訳?」
「………そう書いて提出したら、きっと呼び出しだな」
「提出すればいいんでしょ?」
「何処がどう面白かったか、何処がどうつまらなかったかが感想だってな。お前国語は苦手でも、案外
本読んでるだろ?」
何せ図書委員だしなと桃城が笑えば、リョーマは途端憮然となる。
「俺が図書委員なんてのになったのは、欠席裁判」
「そりゃお前が、寝てるからだろう?」
テニス以外には自分にも周囲にも無頓着なリョーマのことだから、どうせクラス委員選出のホームル
ームで、居眠りをしていたのだろう。まるでその時の光景が眼に見えるようだったから、憮然となるリョ
ーマに、桃城は苦笑するしかなかった。
「………洋書読んで、英語で提出してやる…」
「そら面白いかもな」
私立の名門の青学も、今まで帰国子女の生徒はいなかったから、読書感想に洋書は駄目という注釈
は付いていなかった。いなかった以上、リョーマが洋書を読み、それを感想文として提出したとしても、
教師が小言を言う権利は何処にもないだろう。尤も、慣例と前例を好む傾向にある教師陣が、その前例
を受け入れるかは甚だ疑問だったけれど。ましてその感想文が英語となれば尚更だ。
「……普通止めない?」
「前例を作るのは、悪いことじゃないからな」
「だったらあんたもやれば?」
面白がっている桃城に、リョーマは益々憮然となるが、桃城に効力などないのは判りきっているから、
憮然と駄々が半ば同義語になっている。段々会話が言葉遊びに転じているのに、桃城は苦笑する。
「俺は適当に書くさ」
「だったら俺のも適当に書いてよ」
「それじゃ意味ないだろうが。第一そんなのすぐにバレるぞ」
「あんた曲者の詐欺師なんだから、それくらい出来るでしょ?」
「お前、俺を過大評価しすぎだぞ」
「………そういう部分が、曲者っていうんじゃないの?」
タチ悪い男、リョーマが苦く舌打ちすれば、桃城は緩い笑みを覗かせる。
「んじゃ俺は、魔法少年物でも書こうかな」
「お前あれ読んでるのかよ?」
世界的ベストセラーとなった小説は、魔法使いの少年が主人公の児童書ではあるものの、リョーマが
読むには些か不釣り合いに思え、桃城はらしくなくまじまじとリョーマを凝視する。
「原書だけど」
疑問に縁取られた桃城の表情は、リョーマにも判るものだった。母親である倫子が、面白いから絶対
読むのよと念押ししなければ、到底リョーマも自主的になど読もうとも思わなかった代物だからだ。現代
に飛び交う魔法は、児童書とはいえ、リョーマには些か理不尽とも思える代物だった。
「お前と魔法ねぇ」
「別に稀代の名探偵でも、いいけどね」
「不可能なものをすべて消去してしまえば、後に残ったものがなんであろうと、それが真実であると仮定
することから始める、っか?」
「イエス」
澱みなく話す桃城に、リョーマは流暢な英語で応えた。
「桃先輩は?」
「最近読んでないからなぁ」
「あんたが読んでのなんて、どうせ荒井先輩達から回ってくる、エロ本じゃないの?」
シレッと告げるリョーマに、桃城はガタッと派手な音を立て、テーブルに突っ伏した。
「お前〜〜〜〜」
なんで知ってるんだと桃城が脱力すれば、リョーマは愉しげに笑っているばかりだ。
確かに級友の荒井や池田から、その手合いの本が頼みもしないのに回ってくる。以前なら年相応の興
味も手伝い見たりはしたが、今はそんな本を見る気もしないのは、リョーマという特別な存在を得たから
だった。
「違った?」
整髪剤できっちり整えられた髪を、リョーマが愉しげにグシャリと掻き回す。
「お前は俺を、過小評価しすぎだ」
「でも回ってくるのは、事実でしょ?」
けれどそれを桃城が読んでいないことなど、リョーマには丸判りだ。それをその場で桃城が断っている
ことも知っている。
正常な男子なら、年相応の興味も手伝い、恋人の有無に関わらず、その手合いの本を読んでも可笑
しくはないだろう。けれど桃城は好意から回されてくる級友からの、その手の本を断っていることをリョー
マは知っているから、下らない不安を、リョーマが桃城から与えられたことは一度としてなかった。
「俺別に慣れてるから」
「慣れるな……」
アメリカ育ちだからというのは偏見だろうが、些かオープンすぎる家庭環境で、父親の南次郎が愛妻
に隠れてその手の本を読んでいるリョーマにしてみれば、荒井達が桃城に回している本など、さして刺
激のあるものではないのかもしれない。だからと言って、中学一年生がシレッと慣れたというのは勘弁
してくれと、桃城が頭を抱えても、罪はないだろう。
「別に、正常な男子なら当然でしょ?」
「って、俺がそんなの読んでたら、お前拗ねるだろうが」
第一それが正常なら、お前はどうなんだと思う桃城の疑問符は、リョーマの悪戯気な笑みに、更に脱
力を強いられる結果になった。
「だって俺は、あんたに雌にされたから」
「………お前〜〜〜〜」
シレッと笑うリョーマに、桃城は大仰に溜め息を吐いた。
「あんたに女にされたんだから」
女を知る前に桃城に抱かれ慣れてしまった躯は、その肉の深みで、桃城の雄を記憶している。その
浅ましいばかりのどうしようもなさは、けれどリョーマにはもう欠片も手放すことのできないものになって
いる。
意識より何より、明瞭に肉が記憶している桃城のカタチ。肌の熱さや口唇の温度。耳に溶け込む低音
の声。思い出すだけで、まるで肉の底から炙らり出されていくかのような熱の在処は、リョーマにとって
は女のものと変わりない。
「それで、お前は俺がそんなの読んでたら、どうするんだ?」
突っ伏したテーブルから視線だけをリョーマに向ければ、リョーマは桃城の前に綺麗な顔を突き出し、
「あんたが俺に隠れて、そんなの読める筈ないでしょ?」
その程度には、桃城のことは判っている。
「過小評価でも、過大評価でも、ないと思うけど?」
「ったく、お前は」
綺麗な造作を突き出し笑う貌。愛しい綺麗な生き物だと、不意に思う。
「そういうのは、買い被りっていうんだ」
「でも、あんたは読めないでしょ?」
長い腕が伸び、節のある指先が柔髪を掻き混ぜるのに、リョーマは擽ったそうに薄い肩を竦め、悪戯
気に笑えば、桃城は微苦笑を滲ませるばかりだ。
「それで、あんたは何書くの?」
言葉遊びに紛れて語った本音とその向こう側。掴めそうで掴めない位置に焦れながら、リョーマは髪
を梳く指先を掬い上げると、自分とは比べるべくもない節のある長い指先に口唇を落とした。それは生
温い室内の温度によく似た熱さを、リョーマの口唇に伝えてきた。
「ねぇ?」
「……越前〜〜〜だから昼間っから誘うな」
完全に宿題に飽きてしまっているリョーマに、桃城はガックリ肩を落とした。こんな調子で、残日数の
少ない時間で、夏休みの宿題が終わるのかと、フト心配になる。
「もう夕方になるじゃん」
午前中からリョーマの家に来て数時間。それなりに夏休みの課題は進んだものの、どうにも二人揃っ
て理数系の頭では、残るのは文系ばかりだ。
桃城は未だいい。それなりに文系もこなすことはできるものの、リョーマは現代国語の類いは苦手だ
ったから、後へと先延ばししても何一つ有効なものはないと判っていても、此処は先延ばしにしてしまい
たいと思うのは、中学生らしい結果だろう。
「夏の三時なんていうのは、未だ昼だろうが」
ヤレヤレと溜め息を付き視線を巡らせれば、大きくとられた窓から見える蒼穹は、真夏の陽射と眩さを
とどめたまま、白い雲が切り取ったように浮かんでいる。
真夏の午後三時。秋や冬なら既に陽射も傾き、そろそろ夕暮れの趣も見えるだろう時刻は、けれど夏
の時刻では、一番陽射が強く、気温が頂点に達している時間だ。アスファルトに立てば、視線の先には
蜃気楼が見えそうな熱気ばかりが、足許から伝わってくる真夏の午後三時。
「だったら桃先輩、ファンタ」
「………お前、一応俺が客じゃないのか?」
「親父に訊いてみれば?」
リョーマの家で、今更桃城を客扱いしてくれる者は存在しない。それはおっとりした印象の強いリョー
マの従姉妹の菜々子ですらそうだったから、南次郎になど今更訊くだけ無駄だと、桃城は深々溜め息を
吐き出した。
「冷蔵庫か?」
「多分」
「………なんだそりゃ」
「グラスにちゃんと氷いれてね」
「ファンタをそんな上品に飲んでどうする」
仕方無い奴だと苦笑し、桃城が腰を浮かした時だった。リョーマのベッドを占領し、スヤスヤ目蕩んで
いたカルピンが、寝ぼけ眼の眼を前足で擦り擦り、甘えた鳴き声を上げ、リョーマの膝の上に飛び下り
た。
「カル、お早う」
甘えて膝の上に下り立った愛猫に、リョーマが柔らかい笑みを覗かせ背を撫でてやれば、カルピンは
更に甘えた声でリョーマに擦り寄っていく。
「タヌキ、良く寝てたな」
「ナァァ」
桃城の声に反応したカルピンは、リョーマに背を撫でられ、心地好く喉を鳴らしなから、桃城にクルリと
まろい瞳を瞬かせる。
「本当、お前達そっくりだな」
ペットは飼い主に似るというが、リョーマより若干色素の濃い蒼い瞳を持つ愛猫は、時折見せる瞳が、
リョーマとよく似通っている。
「何それ?」
半瞬憮然となるリョーマは、膝の上の愛猫に視線を移し、それから正面の桃城に視線を向け、告げら
れた言葉の意味が判らないと、キョトンと小首を傾げた。そんな仕草が似ているのだと、桃城は笑う。
リョーマに自覚がないから、尚更可笑しい。
「桃先輩、カルにもね」
「ミルクか?」
「どっちにする?」
「ホァラ〜〜〜」
トンッと、リョーマの膝からテーブルの上に飛び乗ったカルピンを、桃城はそのまま抱き上げる。
「しゃぁない。一緒に行くか」
「過保護」
「お前程じゃないだろう?」
リョーマが愛猫のヒマラヤンを、いたく可愛がっているのを見知っているだけに、自分がこうして構うの
は、リョーマの過保護さに比べたら、大したものではないだろうにと、桃城は飽きれた笑みを覗かせる。
「犬に見せかけた狼のくせに、ネコに懐かれるところが、本当曲者」
ネコは元々犬のように人慣れはしない。時間を掛け、人間が自分に危害を為す相手ではないと判断し
てからでないと、そう簡単に懐くことはない。それはカルピンも同様で、家族以外の者に、簡単に触れさ
せるネコではなかった。それが桃城には最初から懐いていた。その意味を考えれば、リョーマにも些か
苦笑しかできない事態だった。
警戒心の強い愛猫に、警戒心を与えない程、自分のそこかしこに、桃城の匂いや気配がしみついて
いたとことを、それは如実に物語っている事実に他ならないからだ。
「そりゃお前自身のことか?」
赤ん坊を抱くように、カルピンを抱き上げた桃城が腰を浮かせて口を開けば、リョーマはさぁねと笑って
いるばかりだ。
「ネコは警戒心は強いけど、気分屋の淋しがり屋だからな」
「ウサギじゃないだけマシでしょ?」
淋しさで生命を縮めてしまうウサギより遥かにマシだ。少なくても、もう手放せない温もりに餓えきって、自ら生命を縮めてしまうことはないだろうから。
「お前がウサギなら、俺は毎日抱き締めてやるよ。なぁ?タヌキ」
「同じヒマラヤンでも、カルはネコ」
「お前の話しだろうが」
「俺?俺はネコでもウサギでもないよ」
「属性の話しだよ。犬かネコに、別れるだろう?」
「あんただって、犬なんて可愛いもんじゃない狼のくせに?」
「そんなこと言ってるのは、お前くらいだよ」
「あんたとセックスして、その程度判らなきゃ、困るでしょ?」
「………お前〜〜〜本気で飽きてるだろう?」
意味深な笑みを浮かべ見上げてくる眼差しの深さに、桃城は眩暈さえ感じた。
「こんな宿題に、意味ないし?」
「課題をこなすって所に、意味があるんだよ」
「あんた将来教師希望?」
何そんな似非くさいこと言ってるの?リョーマは薄い笑みを滲ませると、
「早くファンタ取ってきて。じゃないと、本気で襲うよ」
細い手首をヒラヒラ振って、ファンタを催促する。
「一休みしたら、テニスでもするか?」
こうなったリョーマは、簡単に手におえない。本気で宿題に飽きている様子に苦笑すると、桃城は気分
転換するかと口にする。真夏の午後三時の暑い時間も、テニスをする熱に比べたら、さして熱いもので
もないだろう。
「セックスがいい」
「…………越前〜〜〜」
シレッと口を開くリョーマに、桃城は情けない声を出す。本気で情けない声を出している桃城に、リョー
マは更に追い討ちを掛けた。
「気持ちよくなりたくないの?」
「昼間から、不穏当なこと言ってるなって。第一親父さん下にいるだろうが」
「今更じゃん。いつも親父がいても構わないくせに」
セックスは、大抵リョーマの家で、リョーマの部屋で為されてきた。校内でという行為は殆どない二人
は、互いの乱れる姿を、他人に見せたくはないという程度の独占欲は持ち合わせていたから、大抵セッ
クスはリョーマの部屋に限定されていた。
「俺にはテニスも、あたとのセックスも、意味は同じだよ。どっちも気持ちよくなるから、今はあんたとの
セックスで気持ちよくなりたいだけ」
「お前、やっぱウサギだな」
何かリョーマを不安にさせるようなことでもしただろうかと、内心で首を捻っても、桃城に心当たりはな
かった。
母親と弟妹が、母親の実家の鎌倉に帰省した時も、全国大会を目前に控えた桃城に、そんな余裕は
欠片もなかったから、リョーマと離れていた時間は、案外と少ない。夏休みになっても当たり前のように、こうして会っている。
「別に、宿題飽きただけ」
「明日、出かけるか?」
「パス」
リョーマの即答に、桃城は苦笑する。
「涼しい所なら、いいんだろう?」
「あんたの思い付く涼しい所なんて、どうせ愉快な人間イモ洗い状態の場所でしょ?あんな照り返しの
きつい場所、絶対行かない」
「お前プールに連れてこうって思う程、無謀じゃないぞ」
リョーマが人混みが苦手なこと程度、桃城にも今更だったから、確かに人を掻き分けなければ泳げな
い近所のプールに、リョーマを連れて行こうなど、無謀なことを、桃城も思い付いたりはしなかった。
「じゃぁ、何処?」
「それは行ってからのお楽しみだな」
「涼しい場所でも、行くまで暑いじゃん」
「それくらいは、我慢しろって」
憮然となりながら、それでも出かけないと言わないあたり、案外リョーマも素直だ。
「ファンタ持ってきてやるから、おとなしく宿題してろよ」
少しだけ憮然としているリョーマを見下ろし、桃城は柔らかい髪を掻き混ぜると、リョーマの愛猫を抱い
たまま、室内を出て行った。
「莫迦………」
冷気が逃げないようにと閉められた扉を凝視し、リョーマはポツンと呟いた。
触れられた髪から、ゆっくり浸透してくる熱。まるで肉の底から炙り出されて行くかのような熱は、急速
に熱くなることのない分だけ、始末に悪い。それはそのまま、肉や血の奥に、浸透しきってしまうからだ。
知り合ってから、たった数ヶ月しか経たないというのに、もうテニスをすることと、桃城と番うセックスの
熱さは同じになってしまっている。その変容が、一体いつから自分の身の裡で始まってしまったのか、
リョーマにも判らない。判っているものといえば、もう桃城とは離れらない。その程度の事実だけだった。
□
「………俺、ファンタって言ったんだけど………」
数分で戻ってきた桃城に、リョーマは思い切り憮然と口を開いた。
「文句は、親父さんに言ってくれ」
リョーマの科白に、桃城も少しだけ困った表情をして、トレイをテーブルの上に置いた。そして部屋の
片隅にある、リョーマの愛猫専用のランチョンマットを引っ張り出して、透明な水のはいった水のみの皿
を置いてやれば、カルピンはそれを舌先で舐めだした。
「ったくクソ親父」
「まぁそう言うなって。これ懐かしいだろうが」
南次郎が桃城に手渡したものは、子供の時よく飲んだカルピンだった。冷蔵庫を明け、ファンタの缶を
取り出した桃城に、南次郎は相変わらず生草坊主そのものの態で、冷蔵庫からカルピスとミネラルフォ
ーターを取り出して、ついでに俺にも淹れくれと言って、桃城に作らせたのだ。
「まぁよく飲まされたけどね」
クリスタルグラスに注がれた白い液体は、確かに子供の時、母親がよく作ってくれた懐かしい飲み物
ではあるのだけれど。
リョーマはグラスをゆっくり左右に揺り動かすと、グラスに浮かぶ氷が、涼しい音を立てた。
幼い時から、テニス三昧の生活だったリョーマに、母親が柔らかい笑みとともに淹れてくれた懐かしい
飲み物。特別な飲み物ではなく、手軽に作れる代物は、けれど口に含めば、懐かしい記憶が溢れてく
る。
「ねぇ、桃先輩」
日本とは違うアメリカの夏。テニスしかなかった自分。けれど今は違う。
もうすぐ終わる夏に、何処かしら感傷的になっていたのかもしれない。去られる季節が淋しいと思う感傷
など、今までなら知らずに生きてきた。新学期になり十月になれば、現在三年の手塚達レギュラー陣は、引退する。そうして桃城が手塚の後を引き継ぐことは、もう決定事項だった。
そんな自分を、父親はきっと判っていたのだろうと思えば、やはり南次郎は曲者だと思わずにはいら
れないリョーマだった。
「テニス、しよう」
「そうだな、少しは躯動かさないとな」
リョーマの感傷的になっている理由は明確に判らなくても、漠然と判るものはあったから、淡い笑顔を
見せるリョーマに、桃城はやはり甘やかす仕草で、柔らかい髪をクシャリと掻き混ぜると、グラスの中身
を一挙に呷った。
喉元を過ぎていく、少しばかり甘い液体は、桃城にも懐かしい記憶をもたらしてくる。
真夏の午後三時。蜃気楼が見えそうな気温の中。これ以上ない程熱くなるテニスを、二人でするのは
悪くないと、桃城は鷹揚に笑った。
こんな他愛ない光景が、いつか柔らかくリョーマを包むように。
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