いつだってがむしゃらだった
手探りの毎日だった
誰かに支えられていた
誰かを支えていられた
二人の住家は、後輩であるリョーマと桃城の同棲生活と、さして変わらぬマンション住まいだった。
揚げ句の果てに、どういう訳だか当時のテニス部レギュラー陣は、申し合わせたように近所に住んでい
たりするから、帰国して近所を散策していれば、偶然道端で会ったりすることもある。誰もが社会人とな
り、交通の便を考え、実家のある青春台より、やや都心に近い立地条件に住みたいと思うのは当然の
理屈として判る。けれど何もこんな近くに、申し合わせたように住んでいるのは一体どういう理由なんだ
ろうかと、手塚は時折思い出したように首を傾げていた。
「既にこれじゃぁ、腐れ縁だな」
呟いた自分の台詞に、手塚は柔らかく苦笑する。
あの掛け替えのない存在達を、縁が続いているという理由で、腐れ縁の一言で、一括りにしてしまう程、手塚自身彼等との関係を、軽く考えてはいなかった。
桃城とリョーマ同様、プロテニスプレーヤーとして、世界を相手に転戦を繰り返している手塚の拠点は、今はアメリカだ。日本には年に数回しか帰国できない。それでもやはり時間を見つけては帰国するの
は、手塚にとって此処が故郷だからだろう。それはリョーマや桃城と変わりない。下手をすれば、申し合
わせたように、一緒に帰国することもある程だ。
帰国する都度思うのは、やはり日本食は日本で食べるのが一番美味しいということだった。
パンより米、ムニエルより焼き魚が好みなのは、リョーマだけではなかったから、転戦を繰り返している
最中のホテル暮らしでも、手塚は不二が呆れる程度には、日本食を扱う店に通っている。大抵がキッチ
ン付きのホテルに宿泊するから、案外家事もマメにこなすことができる。長い転戦生活の中、外食ばか
りでは栄養バランスが崩れ、それが体調管理に弊害を生むから、手塚はしっかりバランスのとれた献立
で、食事を作ることができた。
その点手塚は、不二よりマメにできているのだろう。風景写真家として、手塚と変わらず世界を放浪し
ている不二は、けれど手塚程マメに料理は作っていないらしい。らしいというのが何処までか、手塚にも
判らない不二の行動は、味覚に於いては中学当時から崩壊しているのを十二分に理解しているから、
あまりその点は口にしない手塚だった。うっかり口にして、藪から蛇を出すのは避けたかったのかもしれ
ない。それでも桃城とリョーマと変わらぬ同棲生活を送っている手塚と不二の二人の食に関しては、誰
もが恐ろしく口にできない部分なのは言うまでもない。
その点手塚と意見の合うリョーマが、転戦先で手塚に誘われ、日本食の店に通っていたりする。
リョーマも帰国子女という中学生時代、アメリカ育ちのくせに、洋食より和食が大好きだった。ムニエル
より焼き魚、プリンより茶碗蒸し、ユニットバスより温泉。そんな嗜好のリョーマだったから、アメリカ育ち
にしては珍しいなと、当時桃城の苦笑を誘っていたものだ。
そんなリョーマの食の好みをしっかり覚えていた手塚が、最初転戦で顔を会わせたリョーマを日本食
の店に誘ったのが切っ掛けで、今でも二人は時折誘い合って出掛けている。当然其処には桃城もいる
し、写真家として、やはり手塚と変わりない頻度で世界を放浪している不二が揃えば、四人で食事に行
ったりもする。その中で、手塚とリョーマの会話はまるで親子のようで、不二と桃城の苦笑を誘ってしま
うのだ。それをして不二には、『相変わらず、手塚ってばお父さんなんだから』と言われてしまう手塚だっ
た。
「手塚、何一人で思い出し笑いしてるのさ?」
二人のマンションは、桃城とリョーマより広い室内を持つマンションだった。世界を転戦している二人が
揃ってマンションに居るのは、年に数える程度だ。それでも部屋数のあるマンションを求めたのは、此処
が不二の仕事場としても機能しているからだった。
風景写真家として擡頭し、業界では既に一定の評価を得ててる不二は、けれど事務所など仰々しい
ものを構えることはなく、マンションの一部を仕事部屋として使用している。
「終わったのか?」
現像室として使用している一室から出てきた不二に、苦笑を目敏く見つけられた手塚は、けれど別段
バツの悪そうな顔も見せず、鷹揚に口を開いた。
「フフ、いい写真ができるよ。お楽しみに」
造形的な美しさを持っていた不二の面差しは、今は中学当時より更に際立つ美しさを持っている。
モデルとしても通用すると言われている不二は、風景写真家として擡頭しながら、当人が芸術品のよう
だと一部では言われる美しさを放ち、女性ファンが数多いのは、プロとして生活する手塚達と引けをとら
ない。ファッション雑誌の表紙を飾ってしまったこともある不二だ。そちらの才能も案外あるのかもしれな
いと言うのは、英二や乾の台詞だった。
「お前は風景が専門だろう?」
やれやれと手塚が苦笑するのに、不二は酷薄な口唇を莞爾と象った。その言外には、いい加減諦め
悪いねというものも含まれている。
今まで不二が現像室にこもって取り扱っていたフィルムの中身は、世界を放浪して写したものではなく、先日の自分達の試合写真だったことを、手塚は知っているから、風景写真家の不二が、一体何を好
き好んで自分を撮っているのか、手塚には理解できなかった。尤も、中学生時代から趣味が写真で、テ
ニス部の面子を写し、アルバムを幾つも作ってきた不二だったから、別段趣味なのかもしれないと思う
が、意味深に笑う不二から、その真意を推し量ることは、手塚にはできなかった。
風景写真家として著名な不二の写真は、けれど完全な風景だけかというと、そうではなかった。
その場にある光景の中に、ありのままに佇んでいる人々。
取り繕ってカメラの前でポーズを決めるモデルではなく、自然の風景の中、ありのままの姿で在る人間
の姿を、不二は撮り続けている。
移ろう自然の前に、そのままの姿であり続けていく姿。それは時には生活感漂う豊かさをも写し出す。だから自然だけを相手にシャッターを切る同業者からは、それは風景ではないだろうという批判がある
のも事実だったが、けれどあるべき場所にある姿だからこそ、風景なのだと言い切って、周囲の賛辞も
批判も気にした様子も見せず、カメラを片手に世界を放浪していた。どれだけの賛辞、同等の批判。け
れどそれを決めるのは同業者ではなく、それを視る人が判断すればいいと、不二は端から、擡頭する若
手に攻撃的な同業者を相手にはしかなった。攻撃的であるということは、裏を返せばそれは恐れの現
れであり、常に新しいものを撮り続ける意欲を欠いた人間ということにしかならなかったからだ。
けれどそんな不二が、唯一人物をメインとして撮る写真が存在することを知るのは、極限られた人間
達だ。それは同業者達ではなく、極限られた付き合いの中にある存在達だった。
「僕はね、やりたいことがあるんだよ」
室内に漂う香ばしい芳香に、不二は珈琲メーカーに注がれている淹れ立ての珈琲をマグに注ぐと、手
塚の前に腰掛ける。
フフッと笑う、柔らかい口許に浮かぶ緩やかな笑み。けれど手塚は一度として、その本心を明かされ
たことはない。
一体自分の試合を撮って、風景写真家として擡頭している不二に何のメリッとがあるのだろうかと考
える手塚は、まったく不二の夢を判ってはいなかった。
不二が人物として撮るのは手塚をメインに、リョーマと桃城の三人だけだ。あとは気の会う中学生時
代の仲間内で会った時と、限られている。
「いつかね、もう少し先に」
意味深に笑う不二の真意は、手塚には判らない。年に一回の不二の個展に、必ず顔を出す手塚達の
存在は業界でも有名だったが、其処に手塚達の写真が飾られたことは一度としてなかった。
「お前がやることだからな、ただくれぐれも破天荒なことはするなよ」
「ホラやっぱりさ、君は僕を絶対勘違いしてるよ」
「立派に理解していると思うが」
帰る場所があるなら、世界に出ることも悪いことじゃないんじゃない?若い内にしかできないことはあ
るんだし。そんな言葉で、背中を押してくれたのは不二だった。そして不二は、手塚をして放浪と言わせ
てしまう程、所在を明かさず旅に出てしまう放浪癖がある。手塚には一切の行き先を告げないくせに、
英二とリョーマには所在をしっかり明かしているあたり、不二の性格も相当捩じれていると溜め息を付く
手塚に、罪はないだろう。
「ねぇ手塚」
「なんだ?」
まったりした空間に漂う、香ばしい珈琲の香り。夏の日差しが眩しいリビングは、けれど適度に冷房が
利いていて、外の熱気は室内まで入り込むことはない。
都心に近い立地のわりに、閑静な住宅街に囲まれているマンションに、有名人の二人が生活してい
ると知っている人間は、案外と少ない。
高層マンションではないから、景色を楽しむということもなかったものの、それでも周囲の静かな住宅
街の光景は、時には心が和むこともある。むしろ不二の撮りたい写真は、そんな極自然にある風景だっ
たから、此処を選んだのかもしれないとも思う手塚は、正鵠を射ていることを、けれど知らない。
「きっとさ、桃とあの子は、遅刻してくると思うよ。だってあの子は、遅刻の常習だし」
「……朝練にはな」
中学生時代、朝の弱いリョーマは、よく朝練に遅刻してきた。リョーマの寝起きが最悪なのは、当時の
テニス部員には、今更物珍しいものでもなかった。
リョーマの寝起きは最悪だった。迎えに行った桃城の、自転車のベルが目覚まし代わりになっていた
という程、その覚醒は最悪だ。それでも、放課後の練習は、クラスの委員会業務で送れない限り、殆ど
遅刻したことはない。まして今はもう夕暮れが差し込む時間で、待ち合わせの時間はもっと遅い。
「それでもさ、だってあの子にとっては朝っていうより、寝起きっていうことが問題なんだろーし?」
意味深に笑う不二の笑みに、言外の意味を読み取った手塚が、眉間に深い皺を刻み付けた。
「なんなら、寄ってく?」
「それでは、意味がないだろう?」
偶然というには些か作為的としか思えないそれは、リョーマと桃城の暮らすマンションと此処の位置
が、さして離れていないことだった。ゆっくり歩いても15分もあれば余裕で辿り着けてしまう場所に住ん
でいる。
「何処かで食事してから、行こうか?」
「お前の方は、一段落したのか?」
「当然。駅前に、美味しい和食屋さんが、できたらしいよ」
今度タカさんの店にもお邪魔しないとねと、不二は莞爾と笑う。
「今から出て少し散策してさ、食事してたら丁度いいんじゃない?」
そう笑いながら、不二はマグをキッチンに片付ける為立上がり、
「約束の地っていうのも、いいかもね」
フフッと笑いながら緩やかに流れた視線の先には、オーク素材のテレビボードに置かれた、一つのフ
ォトプレートがある。
「お前らしくないな」
約束の地。確かにそんな表現が似つかわしい、たった一枚の写真。
早朝の清涼な空気と、降り注ぐ朝日に輝く夏の緑。眩い光景をそのまま焼き付けたかのような光景は、
写真自体は少しばかり変色しているものの、あの日の光景をそのまま其処にとどめている。この写真を
見れば、不二が撮りたい写真は、きっとこんな平凡なものなのだろうと手塚は思う。
在るべき姿のまま、其処に在るモノ。
「ホラね。やっぱりさ、手塚は僕を勘違いしてるよ」
不二は悪戯を思いついた子供のように、綺麗に笑った。
手塚が『約束の地』の意味を知るのは、10年後のことになる。
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