| 真夜中のデート act2 |
細く開けられたままの窓から、密やかに入り込む冬の外気をも覆い隠す程、室内は濃密な空気に色 付いていた。 「ぁっ…んっ…桃先輩…あんたやっぱサイテー」 横たわるベッドから気怠い躯を起こし、リョーマは欲しい箇所に決定的な刺激を与えられないもどかし さに、却って身の裡に抱き込んでしまった桃城への想いに毒づいた。 吐精の余韻に顫える躯。聴覚から淫靡に入り込んだ、情事の最中にしか聴くことのできない、桃城の 甘さを含む、深みのある低い声。リョーマの白絹の肌は桜に色付き、抉れる程に薄い下腹から、余韻に 顫える内股を濡らす粘稠の愛液。掌中に絡む同質の液を、リョーマは熱の浮く眼差しで無感動に眺め、 手近にあるタオルで無造作に拭き取った。 たった一人の男に慣らされたリョーマの女の部分は、与えられない桃城の熱に喘ぐように淫らな収縮 を繰り返し、細い躯からは一切の力が抜け落ち、弛緩しきっている。 「余計…欲しくなっただけじゃん……」 吐息で毒づいても、携帯の向こうの桃城を喜ばせるだけだと判っていて、リョーマは睦言と変わらぬ、 朱に色付く吐息で携帯に向かって毒づくから、携帯の向こうで、桃城は苦笑しかできないでいた。 『そうだな……』 携帯の向こうから、憚ることなく聞こえてきたリョーマの嬌声は、姿が見えない分だけ、年若い桃城の 想像を掻き立てるには、充分な喘ぎだった。そして同時に、それは桃城に、二年前の冬を思い出させる リョーマの痴態だった。 桃城が二年の冬。スキー教室に行った時、携帯に残されたリョーマの淫らな嬌声。それは喘ぎにしか 聞こえないくせに、リョーマの身の裡の深い部分から解き放たれた悲鳴に聞こえた。あの時桃城は、二 年の冬、正月に南次郎に言われた言葉の意味を、正確に悟ったのだ。 『手を離すなら、理由も言い訳も一切しないで、今すぐ離れろ。今なら、未だ間に合う』 普段飄々としている南次郎の、腹の深くに隠されている刃や牙を、桃城が垣間見たのはあの時だ。 それは南次郎が敢えて見せたものだと気付いた時、南次郎がどれだけリョーマを大切にしているのか 判った。そして同時に、託されたものの大きさも、判ったのだ。 『それは、覚悟の位置だって、思っていいんだな?』 見据えられた一対の眼の底。其処に在ったのは、抜き身の切っ先だった。 「……ムカツク…あんたやっぱ詐欺師じゃん…」 携帯の向こうで緩く苦笑している桃城が判るから、リョーマは不完全な快楽の余韻に浸たりながら、 憮然となった。 『俺だってな、お前が欲しいんだよ』 「余裕の声で言われても、嘘くさい」 けれどリョーマは知っている。桃城の声にどれだけの余裕が含まれていても、実際の余裕など欠片も ないことを。伊達に抱かれてきた訳ではないのだ。桃城の理性が見掛けとは裏腹の、ガラス並な程度 は、リョーマは正確に理解している。 『お前なぁ〜〜〜』 「言ってよ」 『越前〜〜〜』 情欲を含んだリョーマの声に、桃城は脱力する。 今の今までテレフォンセックスに興じてしまっていて、欲しいも何も今更だろうに。 「俺が欲しいって」 決定的な熱を与えられないリョーマの胎内は、色付く内部の媚肉を綻ばせながら、桃城を欲して熱を 疼かせたままだ。 『辛くなるぞ?』 宥めるような柔らかい声で桃城が苦笑すれば、リョーマは憮然となった貌を、切なげに歪めた。 まるで見えない腕で、宥めるように髪を梳かれている感触に、リョーマは泣き笑いの表情を刻み付ける しかできなくなる。 「あんたなんて、ガラス並の理性しかないくせに」 『だから、辛いんだろうが』 「俺を、こんないやらしい雌にして」 桃城に抱かれなければ、知らずにすんだ熱情は、今はもう手放せない切なさをも孕んで、身の裡に澱 んでいる。 桃城という男に開発された、桃城の為だけの雌の部分は、恋しい男を浅ましく欲しがり、淫らな熱を宿 したままだ。こんな時、自分は雌なのだとリョーマが痛感するのは、いつものことだ。 桃城が渡米して一年近く。自慰で吐精しただけでは決して失せない熱に、リョーマは常に餓えてきて いた。吐精しただけで終わらない造りは、雌の欲情だ。 「あんたのモノで掻き回されて犯されないと、どうにもならない…」 開放されただけでは失せない熱は、淫らな収縮で胎内を転げ回り、腰の奥に疼く余韻を残している。 「ねぇ?桃先輩」 欲情を孕んだ吐息で囁けば、桃城が苦笑しているのが判る。 『ったく、タチ悪いのは絶対お前の方だぞ』 それでも年下のこと人が愛しくて仕方ないのだ、桃城は。そして年下の恋人と一緒に歩いて行きたい から、桃城はリョーマより一歩早く、未来を歩き出したのだから。 『待ってるからな』 「……莫迦…」 『早く来いよ』 「今すぐ行くって言ったら、怒るくせに」 帰国子女のリョーマにとって、青学を中退し、慣れ親しんだアメリカに行くことは、さして躊躇いのある ものではなかった。けれどそれを逡巡するのは、出会った優しい人達との区切り程度は、ちゃんと付け ておきたいという、今までらなら持ち合わせていなかった、らしくない感傷からだったのかもしれない。 『年も明けたんだから、あと少しだろう?』 去年の自分がそうだったように、年が明けてしまったら、それから先は、削り出されて行くかのように、 時間は速度を上げていくだろう。それは去年自分とリョーマが互いに味わった感慨で感傷だと、桃城は 苦笑する。 「強くなった俺で、泣かせてあげるから」 『そりゃ俺の方だ』 「俺あんたには、別の意味で啼かされたいからいい」 シレッと告げるリョーマの科白に、桃城が携帯の向こうで半瞬唖然としているのが眼に浮かび、リョー マは悪戯が成功した子供のように薄い笑みを覗かせた。 「その時には、今夜の分も含めて、利子付けてもらうから」 『そん時はたっぷり、可愛いがってやるよ』 「やっぱあんた、エロ親父じゃん」 何その言い方、リョーマは笑うと、桃城も携帯の向こうで笑っているのが聞こえた。その声がひどく懐 かしい柔らかいものでしかなかったから、リョーマは疼く熱以上に、切なさを体内に抱き込む結果になっ た。 床に放りなげた、桃城の大きいパジャマのズボン。上着はガーディガンと共にはだけ、胸元から腹部 を淫らに曝し、白い雪肌が余韻に桜に色付いている。腹部から白い内股には、リョーマ自身が放った粘 稠の愛液が付着し、リョーマはそれを拭おうともしていない。 きっと桃城もそうと悟らせないだけで、状況はさして変わらないだろうと、リョーマは細い肩を竦めた。 今まで一体何の為に、逢いたい想いを抑えられなくなるから、互いに携帯を鳴らすことに臆病になって いたのかと、リョーマも桃城も互いに苦笑する。 こんな風に、開き直りの境地でテレフォンセックスに興じてしまえば、却って逢えない切なさが湧くだ けだというのに、それさえ怺える限界を超えていたのだと、互いに気付いた感情には、苦笑しかできなく ても仕方ないだろう。 「ねぇ、桃先輩、こっちは雪が降ったよ」 ゆっくり失せていく快楽の余韻に、外気に曝す肌身が寒さに慄えるのに、リョーマは細く開けたままに なっている窓から入り込む冬の空気に、視線を窓へと向けた。 藍色の空間に、黒く塗り潰されている稜線。情報化社会の生命線とも言える、家々を繋ぐ電線。懍慄 とした冬の冷気に、静まり返える住宅街。大した時間降っていなかったと思っていた雪は、けれど案外 積もっていて、住宅街の家々の屋根を白く染めたままだ。 『そんじゃ親父さん、大変だったな』 自宅の背後に、広大な敷地を持つ寺を預かるリョーマの実家を思えば、大晦日に雪が降られたら、南 次郎はさぞかし大変だろうと桃城は苦笑する。 「………ムカツク」 『親孝行しとけよ』 「何それ?」 『春にはお前、こっちにきちまうんだからな』 だから今の内に、できる孝行程度はしておけと笑う桃城に、リョーマは、あんた老成いていると、軽口 を叩いた。 「あんたがいれば、雪かきさせるのにって、延々文句言ってた」 『ハハハ、南次郎さんらしいな』 「ねぇ、桃先輩」 『ん?』 軽口を叩くリョーマの口調が、不意に変わったことに桃城は気付いた。むしろ聴覚だけに頼ったものだ ったから、より鮮明に変わったリョーマの声のトーンに、気付いたのかもしれない。 「俺達、来年は何処に行くのかな?」 声だけでも伝わる熱の在処がゆっくり失せていく切なさに、リョーマははだけたパジャマの上着とカー ディガンを羽織り、冬の深夜の冷気が入り込む窓際に佇んだ。 一回りは確実に大きい桃城のパジャマは、華奢なリョーマの躯を膝まですっぽり隠してしまう。それで も剥き出しの白い下肢が、冬の冷気に寒さを覚えない筈がない。そんな足許に、先刻と変わらず、カル ピンが纏わり付いた。 リョーマが桃城とのテレフォンセックスに興じていた間。最初こそリョーマの狂態をキョトンと眺めてい たカルピンは、リョーマが相手をしてくれないと判ると戯れ付き、最後には拗ねた様子で、自分の居場 所であるバスケットに戻っていた。 リョーマは足許に纏わり付く愛猫を抱き上げると、カルピンは幾分眠たげな声で甘えた鳴き声をあげ、 リョーマの腕の中でユルリと尻尾を振った。そんな愛猫の長い毛をゆったり撫でてやれば、カルピンはリ ョーマの腕の中で、ひどく甘えた鳴き声をあげ、前足が眠たげに顔を擦っている。 『来年?』 「そう、来年」 藍色の空間に、仄白く映える住宅街の雪明かり。右手首のリストウォッチを見れば、既に時刻は一時 を軽く回っている時間帯だ。 『そんなん決まってるだろう?』 リョーマと出会い、架空の未来の在り様を限定してしまった桃城にしてみれば、向かう場所などたった 一つしかない。その為に、歩き出した道だ。 「何処?」 『お前とテニスして、頂上目指すんだよ』 何でもないことのようにサラリと告げる桃城に、リョーマは瞬時には声が出なかった。それは桃城の想 いの深さを、瞭然と現している言葉だったからだ。 「……桃先輩…」 『お前は、上に行くんだろう?』 それが暖かみのない、たった一つの玉座を目指すしかない茨の道だとしても。そこが戦場でしかない 場所だとしても。リョーマが回帰されるとしたら、戦場に等しいコート以外、有り得ない。 『俺は、上に行くよ』 まるで密やかな誓いのように、冬の夕暮れの中。リョーマが告げた科白だった。 『歩いて、行くから』 凛冽に微笑んだ眼差しが、不意に泣き出しそうに笑った冬の夕暮れの中。それでもリョーマがテニス を選び取ってくれたことに、どれだけ桃城が安堵したか、リョーマは知らないだろう。 あんたは………? 泣き出しそうに笑った笑みの奥で、言葉に乗せずに問われた言葉に、桃城はただ黙って細い躯を抱 き締めた。 「上に、行くよ」 密やかな誓いのように、告げた言葉。言葉に出した瞬間、選び取った未来のようにも思えた。 父親を倒すことが目標だったテニスは、青学に入学し、桃城と出会い、優しい人達と出会い、リョーマの 中で随分カタチを変え、様変わりしていった。 「あんたと二人で」 泣き笑いの貌で、リョーマは笑い、 「あんたやっぱり、ひどい男……俺にテニスを棄てさせてくれない…」 テニスと変わらぬ想いで、傾けてしまった桃城への恋情は、まるで底の見えない奈落の恋だ。 器用ではない自分の有り様を理解しているから、リョーマは深まっていく桃城への想いが怖かった。 痛みさえ孕む桃城への切ないまでの恋情は、けれど奈落の恋だと理解して尚、リョーマが自覚した時 には、もう手放せない部分で根を張り、リョーマを内側から蝕んでいた。 欠けて行く餓えが、満たされる為の通過点なのだと気付いた時、自分がどれ程泣いたか、きっと桃城 は知らないだろう。けれどもうその甘い懊悩は、決して手放せない。テニスも桃城も、手放せない。器用 ではない自分が、一体何処まで二つのものを、諦めずに手にしていられるか、リョーマには判らない。 それでも、上に行くと決めたのだ。 『お前は、テニスを失ったら、正気じゃいられないよ』 呼吸するに等しい程、リョーマの傍らに在ったもの。リョーマをリョーマとして育んだものは、テニスだ。 そのテニスを失ったら、リョーマは自分を失うも同然になることを、けれど理解していない無自覚さがある。 『お前は、笑ってテニスしてろ』 それは桃城がリョーマと出会い、リョーマを大切に想い始めた時から、今まで失われることなく、祈る 程深く願ってきたことだ。 「莫迦……」 『俺の倖せの為に笑ってろって、前に言ったろ?』 「相変わらず、あんたの倖せって安いよ…」 どれ程自分は大切にされてきただろうか? リョーマが吐息で囁くように応えた時、桃城が緩やかに笑ったのがリョーマには判った。だとしたら、桃 城もその科白を覚えているということだろうと、リョーマは今にも泣き出しそうな切ない貌をして、詐欺師 と笑った。 『なぁ?』 「なぁに?」 不意に変わった桃城の声に、リョーマは何処か舌足らずな甘い声で疑問符を口にする。携帯の向こう の桃城の表情が、リョーマには手に取るように判った。 軽口を叩くと変わらない口調のくせに、声のトーンがそれを綺麗に裏切る時。桃城の精悍な面差しは、怖い程の厳しさを孕むのだと、リョーマは知っている。それは桃城がリョーマにだけ見せてきたものだ ったからだ。笑顔の印象ばかりが強い桃城の、それが実際の本質で、真骨頂だ。 『動いてるか?』 雑踏の賑わいを連想させる笑みからは、想像も付かない静邃な声に、リョーマは息を飲んだ。 『泣くなよ』 携帯から伝わってきたリョーマの絶句の意味する部分を、見誤る桃城ではなかったから、今リョーマが どんな表情をしているのか、嫌という程判ってしまい、微苦笑が漏れる。 「…動いてるよ」 右手首に嵌められたリストウォッチ。年間数秒と狂いの生じない精巧な時計。 『お前のも、ちゃんと動いてるぞ』 指輪の交換みたいだと笑ったリョーマの誕生日と、クリスマスの境界線の深夜。交換したものは一体 何かと思う。 単純に、眼に見える時計というものを、リョーマは欲しがった訳ではないだろう。けれどあの時、自分 の腕から時計を奪っていったリョーマの行動に、それ以上の深い意味があったとも、桃城には思えなか った。きっとリョーマにとって、それは無自覚のもので、内側に抱いた想いは、無意識のものだっただろ う。けれど今こうしてそれが眼に見えるものになった時。リョーマの無意識の行動に意味が見えてくる。 「当然でしょ。それウェンガーの一流品なんだから」 アメリカから帰国して、青学に入学した時。父親から贈られたものが、実はスイス製の、時計造りでは 最先端を行くメーカーのものだと知ったのは、桃城と時計を交換した時だ。尤も南次郎の遊び心を知っ たのも、その時だ。ウェンガーの時計は、桃城のハミルトン同様、どちらかというと、その精巧さから、ミ リタリー向きだったからだ。ましてリョーマの持っていたリストウォッチは、どちらかと言えば女性向きの シンプルなものだったから、南次郎の遊び心に、桃城は盛大に苦笑した程だ。尤も、鋭利な打球を生み 出すとは思えない細い手首のリョーマの腕には、その時計がよく似合っていたのも事実だ。そして桃城 の手首には細すぎたそれを、桃城は自分の腕に合うように調整し、現在腕に嵌めている。 『だから、安心しろよ』 交換した時計が刻む同じ時間。例え離れていても、まるで鼓動を刻む程、極当たり前のように、刻ま れていく刻。重なることは決して有り得ない互いの道を、けれど寄り添って歩いて行くことはできるのだ と、まるで教えられているようだった。 「心配なんて、別にしてないよ」 その言葉に嘘はない。物理的距離が、遠距離恋愛の恋人達の心まで引き離してしまうことは珍しくな いと知っている。けれど自分達に、そんな心配をする必要は、何処にもないことも、リョーマは知っていた。 『そこじゃない』 「何処?あんたに金髪美人と浮気できる器用さなんてないって、ちゃんと判ってるから」 『お前こそ、新入生に迫られて、浮気してるなよ』 「…………」 なんで知ってるんだという沈黙に、桃城はニュースソースは秘密だと笑う。尤も桃城にそんな情報を流 すニュースソースは、限られている。きっと英二あたりが、桃城に連絡したことなど、リョーマには丸判り だ。 「ちょっと桃先輩に似てるんだよね、未だ子犬だけどね」 クスクス可笑しそうに笑うリョーマに、桃城は苦笑する。 春先、希望に輝かせ入学し、テニス部に入部してきた一年が、自分にご執心だと聴いたのは、何故か 不二や英二からで、無理矢理不二達にテニス部の練習風景を覗きに付き合わされた時。いきなり『越 前先輩のテニスが好きです』と告白され、面食らったのは、四月の中旬だった。 桃城のプレースタイルと似ているその一年が、一体何処まで化けるのか、それはリョーマにも判らな い。けれど桃城のように、狼には化けないだろう。 『お前こそ、つまみ食いしてるんじゃないぞ』 ヤレヤレと笑う桃城に、リョーマは柔らかい笑みを漏らしているばかりだ。 「する訳ないでしょ?俺はあんただけの娼婦なんだから」 生憎この躯は、あんたしか受け入れられないからと、リョーマが悪戯気に笑えば、桃城が携帯の向こ うで、何ともいえない貌をしているのがリョーマには判る。 「忘れないでよね。俺を雌にしたのは、あんたなんだから。あんた以外になんて、無理なんだから」 桃城以外にその手の意味を込め触れられたら、嫌悪しか湧かない。性欲の対象など、論外だ。 「あんた以外に手なんて出されたら、間違いなく、相手殺すよ」 『新年早々、物騒だぞ』 けれど万が一にもリョーマがそんな目にあったら、桃城もリョーマと変わらぬ行動をするだろう自覚は あったから、お互い様と言うところだろう。 「あんた以外になんて、あんないやらしい嬌声、聴かせる気ないし。一生、責任とってよね」 自分がどれだけの痴態を演じ、どれだけ淫らな嬌声と喘ぎを繰り返していたのか、けれど実際桃城の 声に乱されてしまったリョーマに、記憶は朧だ。それでも躯に残る余韻から、どれ程淫らに乱れたのか は判る。 『俺は、お前を、手離さないよ』 もう手放せない。それは中二の冬、南次郎に告げた科白だった。きっと言葉に出して、リョーマに告げ たのは、初めてだったかもしれない。 『だからお前は安心して、笑ってテニスしてろ』 恋情なんていうものに、怯えることなく。 「あんたやっぱ………詐欺師の悪党…」 自分の言葉にできない不安や苛立ちを、きっと桃城は綺麗に見透かしているのだろうと思えば、リョー マの身の裡からこみあげてくるのは、切なさばかりではない、苦さ含むものだった。 物理的距離など無関係に、桃城は何でもないことのように、リョーマの内側に潜む恫喝を指摘する。 いつもいつも、隣に在った笑顔が離れてしまった時。桃城に守られているのだと、より強く感じるのは、 こんな些細な言葉や局面でだ。だとしたら、飄々とした南次郎は、桃城とリョーマの有り様というものを、 随分前から見極めていたのだろう。そう思えば、リョーマは苦く舌打ちした。 『なぁ越前』 深く柔らかい声が聴覚から伝って深奥に触れてくるのに、リョーマは瀟洒な貌を、いびつに歪めた。 『俺、我慢してたんだよな』 声を聴けば欲しくなる。抱きたくなるから、何処かで携帯を鳴らすことに、躊躇いを感じていた。けれど そうではないのだと、今夜気付いた気がした。 「……桃先輩…」 まるで身の裡を見透かされた居心地の悪さに、リョーマは益々面差しを歪めていく。 『お前が携帯鳴らさない意味も、ちゃんと判ってた。だから別にそれでいいと思ってた、俺も同じだった からな。でもこれからは無理はやめるわ』 「……サイテー」 『やっぱお前の声聴かないと、ちょいダメっぽいしな』 「あんたって本当に……」 いびつに歪んだ貌が不意に甘さを含み、吐息が漏れる。 「ねぇ?桃先輩。俺は、上に行くよ」 『越前、新年祝いの言葉やるよ』 「なぁに?」 『闘志なき者に勝利なし。お前はお前の信じた道を歩け』 「莫迦……あんた本当に、サイテーの悪党」 真摯な声から推し量れる程、きっと桃城は厳しい程真摯な眼差しをしているだろうと、リョーマに判らな い筈がないから、リョーマは今度こそ本当に、泣き出しそうな笑みで、携帯を握り締めた。 「だったら、約束して」 声が嗚咽を含みそうになりながら、リョーマはひどく真剣な眼差しで、桃城を思い浮かべ、 「諦めないって。俺もテニスも全部、諦めないって。俺達が今知らなくていい言葉は、限界なんでしょ?」 『越前……』 「転んでも、躓いても、みっともなく足掻いてもいいから。俺を、諦めないで」 『お前知ってるか?転んだ数は、それだけ起き上がるチャンスの数だって』 「………親父と同じこと言うんだ。あんたやっぱ親父と、とことん、気が合うんだ」 それはリョーマが幼い時。父親である南次郎に言われた科白だ。 『俺も、親父の受け売りだよ』 よく考えたら、自分の父親は南次郎の後輩だったのだと思い出せば、縁とは不思議だと思わずには いられない。 「ねぇ桃先輩、待っててよ」 『ああ、待ってる』 春にはリョーマは中等部を卒業し、優しい人達と別れ、戦場のような道を歩き出す。去年の自分がそ うだったように。 「俺もこれから、我慢できなくなったら電話するから」 『………お前の言う我慢って、意味違くないか?』 言外に滲む妖冶な不穏当さが読めてしまい、桃城はついつい脱力を強いられる。 「同じでしょ?」 だからあんたも遠慮なく掛けて来て構わないからと、リョーマが薄く笑えば、 『待ってるよ』 深い笑みとともに、桃城は笑った。 『折角、お揃いの携帯にしたんだもんな』 「ねぇ桃先輩、今夜デートみたいだったね」 声で繋がるだけだというのに、不思議と気持ちまで伝わった夜。一体何を躊躇い我慢して、携帯を鳴 らさなかったのかと思えば、無駄な努力だったと思うリョーマだ。 『そうだな。お前が隣に居るみたいだ』 切なさが手に取るように判るリョーマの声。喘ぎに塗れ、愉悦な混融しながら、リョーマの声は何処ま でも切なさばかりを映している。抱き締めてやれる距離にいたいとは思うものの、これも自分が選んだ 道で、甘えた関係に甘んじたい訳ではない以上、仕方ないだろうと桃城は苦笑しかできない。 春になってリョーマが来た時。少しでも強くなって誇りたいから、今は自分と戦うしかなかった。リョー マと共にいる為には、それは避けては通れない通過点なのだと、桃城は正確に認識していた。 『そいやタヌキはどうした。さっき鳴いてただろう?』 「………あんた本当、とことん親バカ。カルならもう寝てる」 腕の中で甘えた鳴き声をあげていた愛猫は、今はぐっすり夢の中だ。 『まぁ今の内に、タヌキともちゃんと相手しといてやらないとな』 愛猫にとことん甘いリョーマと、リョーマに甘やかされ放題で甘えているカルピンだ。別れるのは辛い だろうと桃城は思う。 『そろそろデートも終わりの時間だな』 「…うん…」 これ以上声を聴いていたら、きっともうどうにもならない、切なさばかりを抱き込むことになるだろう。 きっと桃城も同じだから、切り出した科白だと、リョーマは判っていた。 『ちゃんと窓閉めて、ベッドで寝ろよ』 「………なんで?」 判るのだろうと、リョーマは半瞬、呆れるより先に、瞠然となる。 『お前がそんな声出してる時は、大抵そうだからだよ』 特に冬の夜、寒さが苦手なくせに、リョーマはそういう行動をすることが多いと、桃城は知っていた。 だから今もそうだろうと思ったのは、何も当て推量ではなかったのだ。 「だったら桃先輩もね。あんたも同じでしょ?」 国境などない冬の夜空を見上げ、きっと桃城は話しているだろうとリョーマが思ったのは、やはり当て 推量ではなかった。 『それじゃ、切るぞ』 「おやすみ」 『ああ、おやすみ』 緩く深い声と同時に、リョーマの耳に届いたのは、携帯に押し当てられたキスの音で、リョーマは詐欺 師と呟いた。 通話が途切れた携帯は、もう無機質な音しか奏でない。名残惜しげな様子も見せず、桃城が通話を 終わらせたのは、そうしなければ、延々携帯を切れない、互いの想いを判っているからだ。 「桃先輩…」 それでもリョーマは、無機質な音を鳴らす、携帯の通話を終了できいずにいた。暫く無機質な不通音を 聴いていたリョーマは、やっと携帯の終了ボタンを押し、 「おやすみ」 右手首に嵌められたリストウォッチに口唇を落とし、窓を閉めた。 |