倖せ色 act3

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「それで桃と海堂、結局部長は、越前にはしなかったってことだけど」
 鍋もほぼ綺麗に平らげ時だった。最後の雑炊に使うたし汁と白米、生卵を持ってきた店員に軽く会釈
で対応し、大石が桃城と海堂に順番に視線を移し、最後にリョーマを凝視し、口を開いた。
「そうそう、今回の鍋の目的は、そこ」
 大石から足し汁と白米を受け取った英二が、三つの鍋にそれぞれ綺麗に足し汁を注ぎ、白米を淹れ、
雑炊の仕上げに生卵で味付けをしながら、桃城に視線を移す。
 大家族で、食事当番も順番制の英二の料理の腕前は、自他ともに認めるものだったから、三つの鍋
に、手際く雑炊を作っていく。
「まぁ海堂と色々相談して」
 今回の鍋の目的が、次代を任せた部長選出にあることを、桃城も海堂もちゃんと心得ていた。
「海堂は?」
 手元の椀に残った煮物をゆっくり食べながら、乾が隣に座る海堂に尋ねた。
「こいつに部長は、勤まりませんよ」
 暫く考えてから、海堂は口にする。それは端的に事実を示した言葉だったものの、部長選出にあたっ
ては、幾度となく桃城と頭を悩ませてきた海堂だった。けれどそれを桃城と海堂の二人は、高等部に進
学した乾達に相談することはなかった。それはあくまで、自分達の問題だと判っていたからだ。
 自分達の次に部長、副部長を託す人物の選出。それが部長、副部長の、最後の仕事だと判っていた
からで、それが次代の部員達にしてやれる、最後のものだと判っていたからだ。けれどいざ次代を託す
人物の選出となると、これがなかなか簡単には決まらず、手塚や大石もこんな風に悩んだんだろうかと
思えば、最後の最後になって、部長、副部長の仕事の重さを再認識した桃城と海堂だった。
「まぁ確かに、オチビに部長は無理かもね」
 英二がそれぞれの小椀に雑炊を取り分けながら、リョーマに視線を移せば、リョーマは我関せずを決
め込んでいる。白皙の貌からは、いっそ綺麗に、表情を読むことはできないから、リョーマが内側に抱え
たものは一体何かと英二は思う。
「テニスの技術が一級品なだけじゃ、部長は勤まらないからな」
 表情の読めない眼鏡の奥で、乾がリョーマを凝視する。
「柱で、充分だと、思ったんですよ」
 一言一言噛み締めるように、桃城がリョーマを凝視しながら、口を開く。その口調が奇妙な程慎重な
のことに誰もが気付けば、桃城はもう随分前から、部長選出について、思案してきたのだろうと思えた。
そしてリョーマは初めて、桃城の深奥に触れた気がして、我関せずを決め込んでいた貌が、胸を突かれ
たように表情が崩れ、半瞬、泣き出しそうなものにすり変わる。そんなリョーマの表情を、桃城は静かに
見ていた。


『越前、お前は青学の柱になれ』


 去年の春先。手塚から託された言葉が、その時の手塚の姿とともに、リョーマの脳裏に甦っては消えていく。


「部長………」
 細い声が、リョーマの口から零れ落ちる。リョーマにとって部長という名称は、今でも手塚を指し示すも
のだった。それは桃城も海堂も例外ではなく、既に手塚のことは会話の中では、『部長』という名称で固
定していた。誰にとっても、手塚は今でも部長で在り続けている。
 託されたものの大きさと重さ。リョーマがそれを痛感したのは、去年の全国大会で観た、手塚と跡部
の試合だった。あれはまさしく『継承式』だった。手塚からリョーマへと託す為の。背負うものの大きさと
重さを知って尚、手塚はリョーマにそれを託した。
 自分も部長の大和から、柱を託されたのは中一の時だった。だからリョーマにもそれを背負える筈だと、手塚が思った訳ではないだろう。手塚は手塚で、考えた筈だ。
 リョーマには、良いも悪いもテニスしかない。それはある意味で、リョーマの内側の脆さをも手塚には
見て取れただろう。だから託したその大きさと重さに潰されてしまわないか、きっと考えた筈だ。テニス
の技術だけで補えないものは、確かに存在するのだ。それが南次郎の危惧にもなっていたとも、きっと
手塚は知らないだろう。
 アメリカで、父親の名前により、レッテルとラベルを貼られていたリョーマの精神状態やその環境は、
決してリョーマに優しいものではなかったから、南次郎がそれを危惧して帰国し、恩師である竜崎にリョ
ーマを託したことを、けれどリョーマは今でもそれを知らずに過ごしている。
 けれどリョーマは青学に入学しもテニス部に入部と、南次郎が思っていたより余程早く、変化を見せた。リョーマを成長させたのは桃城であり、リョーマのテニスに力を与えた最初の起因は、手塚だった。
 リョーマのテニスが、南次郎のコピーで終わらない為に必要なものを、リョーマに最初に教え、リョーマ
のテニスに力を与えたのは、間違いなく手塚だ。だからリョーマにとって、手塚は今でも桃城とは別の意
味で、特別の存在と言えた。リョーマが生涯テニスを続けていく限り、きっと手塚はリョーマの特別で在
り続けていくだろう。
 それを桃城は正確に理解していたから、リョーマを敢えて部長にはしなかった。そしてもっと根深い部
分で事実を捕らえるなら、テニスの天性の才を持つリョーマにとって、もう中学の部活程度のテニスを続
けていくのは、限界だろうと思えたからだ。
 きっと来年、青学テニス部は、全国にはいけないだろうという予感は、誰の胸にも存在していた。それ
だけの実力を持つ者は、リョーマ以外には、今回部長、副部長に選出した後輩しかいないと、桃城も海
堂も判っていたからだ。
 もうリョーマは、部活のテニスでは満足しない筈だ。向上心というより、リョーマにとって極自然に傍ら
に在るテニスは、より孤高を目指す性質のものだ。強い相手と戦い、それを吸収し、更に高みを目指す。そんなリョーマのテニスが、部活程度のテニスで、満足できる筈もない。だから部長にはできないと、
結論づけたのは、桃城と海堂が考え抜いた末の結論だった。
 無理に部長というカタに嵌めたら、満足しないテニスに、リョーマ本来の姿が歪になっていく懸念が、
二人の中には存在していたから、敢えてリョーマを部長はにしなかった。
 柱で在てくれたら、それでいい。
考え抜いた末の、それが桃城と海堂の結論だった。海堂にとっても、リョーマのテニスがもう部活程度
のもので満足しないだろうというのはよく見えていたから、桃城からその話しを切り出された時、否は唱
えなかった。
「それに越前の性格じゃ、部員を纏めるなんて、無理だろうし」
 軽口を叩くように話す桃城の眼が、一つも笑っていないことに誰もが気付いていた。それは正面に座
るリョーマには、否応なく判ってしまうものだったから、リョーマは泣き出しそうな貌を深めていくことしか
できなくなる。
 部長選出について、意見を求められたことも、部長にならないかと桃城に一切尋ねられたこともなかっ
た桃城の真意に、リョーマは今初めて触れたから、その想いの深さに顔が上げられなくなる。
「柱で、いてくれればいいって」
 その言葉の重さと深さと大きさと。不二が初めて思い知ったのは、去年の全国大会で、手塚を欠いて、戦った時だったかもしれない。
 桃城が卒業していく今、リョーマ一人でそれを背負うには、荷が重いかもしれないなと思えば、桃城の
真意はもっと深い一にあるのだと漠然と理解した気がした。
「それで次の部長は、小野寺にしたんだな」
 河村が、取り分けられた雑炊を口に運び、口を開く。
父親の仕事の都合だとかで、今年の春先二年に編入してきた小野寺は、確かに今までの部員よりテ
ニスの技術は高かった。そして性格的にも不可はなく、編入してすぐにクラスにも部員とも馴染んでいた
から、桃城は考え抜いた末、部長を小野寺に託した。
 小野寺は元々小学生の低学年からテニスを始め、去年の全国大会での青学の戦いを観て、青学に
入学し、テニス部に入部したかったと最初の自己紹介で語っていたくらいだから、確かにテニスの腕も、
性格も問題はなく、桃城は彼が編入してきてから部長選出の期限ギリギリまで彼を観て、部長を決定
していた。
「小野寺ってさ、桃とテニスが似てるんだよにゃ」
 今でも中等部のテニス部に、フラリト顔を出す面子ばかりだったから、彼等を知らない今年の新入部
員でなら、元レギュラー陣の顔を知らない一年生は存在しなかった。だから逆に英二達も、編入試験の
難しさでは定評のある青学の編入試験をパスし、テニス部に入部してきた小野寺のことは良く知ってい
た。
 どちらかと言えば、桃城のテニスと似たパワーテニスをする。そして性格も何処か人なっこい。部長に
なっても、別段問題はないだろう。そしてこれから先、託されたものの大きさに気付くだろう。その時に、
潰されないことを誰もが願った。
 リョーマ達二年と、現在の三年と、築かれてきた重さや絆は、逆に言えば特殊なのだ。
手塚達にしてみれば、次代を託す選手層の薄さが危惧の対象だった。その時リョーマという光明が入
部してきて、ともに全国を戦い。途中では部長である手塚が腕を負傷し出場できなかったり。そういう苦
楽をともに過ごし乗り越えてきたから、現在の二年、三年の部員の絆の深さは、ある意味、今までのテ
ニス部にはない特殊さがあったから、中途編入でそれを知らない小野寺には、その絆の深さや何かに
躓くこともあるだろうと、逆に誰もが思った。けれどそれを乗り越えられなければ、到底部長は勤まらな
いから、頑張ってほしいと、誰もが思った。
「俺は……」
 俯いた面差しの奥から、細い声が漏れる。テーブルの上に置かれた細い指が、何かを怺えるように、
握り締められているリョーマのその仕草の意味を、気付かない者は存在しない。
「ねぇ越前」
 固く握り締められた指を、そっと不二が包み込む。その指の温もりに、リョーマはハッと顔を上げれば、
凝視されている幾重もの眼差しに、顔を歪む。
「別にね、手塚みたいになる必要は、何処にもないよ」
 手塚みたいなのは例外だよと、不二は莞爾と笑みを滲ませる。部長と柱をこなし、生徒会長もこなし。
そして手塚は今、プロを目指し、アメリカに留学している。けれどそんな手塚は、案外器用貧乏なことを、不二はよく知っていた。
「柱はね、其処に在るだけで、充分なんだよ」
 思い出してごらんと、不二は笑い掛ける。
「そうだな…手塚が腕の治療で不在だった時も、いつも後ろにいてくれたよな」
 部長である手塚の抜けた穴を一心にカバーし頑張った副部長の大石は、けれど津ねにその背に手塚
の存在を感じていた。そして同時に、支えてくれたこの面子がいたから、あの時を乗り越えられてきた。
「だからね、もし、もしだよ」
 そしてそこで言葉を区切り、不二は再び俯いてしまったリョーマの横顔を眺め、ゆっくり口を開いた。
「もし越前が、テニス部とは違う場所でテニスをするようになっとしても、それでもやっぱり君は、柱なん
だと思うよ」 
 ゆっくり一言一言噛み締めるように紡がれた不二の言葉に、リョーマは泣き出しそうな顔を上げ、口唇
を噛み締めた。
 誰もが判っていることだ。リョーマの意識とは別にして、リョーマのテニスは、もう部活のテニスでは満
足しないという程度のことは。伊達にリョーマとともに、全国の強豪と戦ってきた訳ではないのだ。リョー
マのテニスはもう既に、部活の領域では収まらない。それは先月大阪で開催された、ワールドスーパー
ジュニアの試合を観ても明らかだ。
 天から与えられた才。そのテニスの才は、もっと広い場所で、もっと強い相手を欲している。
「別に急ぐ必要はないし、ゆっくり考えればいいよ。先は、長いんだからさ」
 それでもリョーマが部活にとどまり、名実ともに柱でいてくれれば、確かに部員には心強いことには違
いないのだから。
「別に、今何かを決めなきゃならない訳じゃないんだぞ越前」
 泣き出しそうになるリョーマの表情を見た大石は、柔らかい言葉でリョーマを宥めた。
リョーマがこんな表情を他人に曝すのは初めてのことだったから、言葉に出された桃城の深い内心に触
れ、きっとどうにもならなくなってしまったのだろう。
「そうそう、オチビはオチビのペースで、テニスを楽しめばいいと思うにゃ」
 懲りずにリョーマの髪をクシャクシャと掻き混ぜる英二の腕を叩き落とすこともなく、リョーマはただ何
かを怺えるように、口唇を噛み締めている。
「越前」
 声のトーンが明らかに違う桃城の声。それは此処にいる面子ではリョーマ以外、聴いた者は存在しな
いかもしれない。
 深く柔らかい声。その声からだけでも、桃城がどれだけリョーマを想い、慎重に接しているのか、誰の
眼にも明らかだ。
そして桃城がこれから歩もうとしている道が、彼等には漠然と判っていた。架空の在り様に等しい未来。それをもう既に桃城は、限定してしまっている。そして迷いのない眼差しで、前を凝視しているその強
さが、リョーマへの想いと同義語だと、彼等は知っていた。リョーマも漠然と判っているのだろう。桃城が
選んだ道を。そして言葉に出されないそれに、時折不安定になるのだ。
「ホラ、倖せ色、だろう?そんな表情してるなよ」
 英二が手際よく作ってくれた雑炊。鍋の具の出し汁が程よくきいて、手元の小椀からは、白い湯気が
上っている。
「……悪党……」
 リョーマはボソリと呟くと、桃城を凝視する。
言葉にされない託されたものの大きさに、今はまだ迷うことしかできない自分の弱さに、リョーマは泣き
笑いの貌を刻み付けた。
 一体どれだけ自分は大切にされているのだろうか?認識していた筈のものなど、きっと未々甘いもの
でしかないのだろう。桃城だけではなく、こうして降るように柔らかい言葉と腕を指し伸ばしてくれる優し
い人達。この場所に、いつまで在り続けていられるだろうか?
「ああ、倖せ色って」
 桃城の科白に、いち早く反応したのは、写真を趣味にしている不二だった。写真はその場の光彩や角
度が重要になるから、光や色と在り様に、不二は敏感だった。
「本当にまったく」
 一人納得し、不二はリョーマの髪を撫でていく。けれどリョーマは不二に悟られたバツの悪さからか、
髪を撫でる不二の指を軽くはたき落とした。
「どういう意味だ?」
 けれど不二以外の面子は今一つ判らない様子で、乾はノートを片手に不二に尋ねている。
「乾先輩…そんなんいちいち書き記さなくっても…」
 この場所にノートを持ち込んでいる乾には、ある意味関心するしかない桃城と海堂だった。
 乾は高等部に進学し、テニス部のレギュラーになっても、その傍らで、中等部の部員の分析も熱心に
し、海堂や桃城に助言をしていた。それは部員のウィークポイントの克服という点ではも非常に助かった
ものの、何も今この局面で、ノートを片手にしている必要はないだろうと、桃城と海堂が脱力してしまっ
ても、罪はないのかもしれない。
「内緒」
「狡いぞ不二〜〜〜」
 英二が不二に顔を突きだし詰め寄れば、
「だってこの子のこんな綺麗な感性、内緒にしたいし」
 国語が苦手でも、時折驚く程の感性を鋭くするリョーマだったから、倖せ色の意味に気付いた時、不
二はリョーマの内側に抱えているものに、素直に驚いた。
「ねっ?越前」
「……別に、大したことじゃないですよ。湯気って暖かいなって思ったら、倖せだなって思っただけです」
 憮然と告げるリョーマに、けれど英二は、先刻此処に遅刻した桃城とリョーマの過程を聴いていたから、半分惚気が入っているとしか思えないリョーマの科白に、やはり驚いていた。そして周囲も半瞬息を
飲んで驚いていたが、リョーマは何故皆がそんなに驚いているのか、自覚はなかった。
「秘密だって、言っただろうが」
 憮然となるリョーマに、桃城は苦笑し軽口を叩けば、
「別にいいでしょ?あんたとはもっと沢山の秘密があるんだから」
 リョーマはシレッと反駁し、英二が取り分けてくれた雑炊を口に運びだした。それはネコ舌のリョーマ
には、少しばかり熱かった。
 此処は、優しい場所だ。この優しさに慣れてしまったら、独りで歩くことが辛くなってしまう程、優しい
空間だ。
 そう思った時。リョーマの脳裏に浮かんだのは、手塚の姿だった。
たった1人、プロの道を歩き出した手塚の強さ。迷いのない眼をして、まっすぐ歩いて行く後ろ姿。そして
同時に、その手塚に桃城の姿が重なった。


『頼むな』


 つい先日、部長職の引継ぎも完全に終わり、テニス部を去った桃城の後ろ姿。部員一人一人に声を
掛け、そして小野寺や、堀尾達の頭を掻き混ぜ、去っていった。
 迷いのない眼をして、迷いのない足取りで、コートを去った桃城の後ろ姿。その足が向かう場所。
何処に向かうのかと思えば、胸の奥から突き上げてくのは、痛みを孕む切なさばかりだ。
「まぁ、悩むといいよ。悩んで迷ってそれでも前を歩いて行けるのは、若い時だけなんだからさ」
「……不二…年寄りくさいぞ…」
 それが手塚の背を押し出した不二の科白だと、英二は知らない。
「少年は、迷って悩んで荒野を歩くものだからさ」
「母さんも、前にそんなこと言ってました」
「流石、越前のご母堂だな」
「乾先輩も、大概年寄りくさい科白ですよ」
「まぁまぁ難しい話しはそれくらいにしてさ。折角の雑炊が冷めちゃうよ」
 河村が声を掛ければ、皆が一斉に雑炊を口にして、その美味しいさに舌鼓を打つ。
「…もう少し、迷ってみます」 
 託されたもの。手塚と桃城と。それだけではない人達から。それに応える為にはどうしたらいいのか?
きっと与えられたものすべてを返すことはできないだろうから。自分と向き合い、自分のテニスと向き合
い。迷ってみようと、リョーマは思った。
 リョーマの科白に、半瞬誰もが互いに顔を見合わせ、次に深い笑みを漏らした。





 そしてリョーマが選んだ道を彼等が聴くのは、桃城の卒業式の日だった。



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