| rain |
朧に覚醒しつつあった意識に不意に肌寒さを感じ、意識より早く肌が知覚し、緩やかな 覚醒を促される。目覚めつつあった意識への働き掛けの結果だろうが、寝起きが悪いと 言われるリョーマにしては、珍しい自力起床だった。これで桃城に起こされたのであれば、理不尽な八つ当たりが桃城に行くのはいつものことだ。 情事の激しさを物語る乱れたシーツの上。桃城の腕にくるまれるように寝ているリョー マは、自力起床するだけあって、珍しく意識もはっきりしていた。褐色の長い腕が、自分 を大切そうに抱き抱えているのに、リョーマは溜め息を吐き出した。 「ったく……俺はあんたの宝物でいたい訳じゃないって、何度言わせる訳?」 幾度となく繰り返してきた言葉は、けれど桃城には通用しない。今では繰り言同然、効 力のない言葉になっている。それでも諦め悪く言い募れば『宝物でいてくれたら、ラクだ な』という、とんでもない科白が返されるから、リョーマも今では反駁を諦めている。当人 が一向に改めようとしないのだ。所詮言っても無駄なことは、リョーマも学習しているということだろう。 「本当は寝汚くて、寝相だって、もっと悪い筈なのに」 外見から推測できる桃城という男は、何事にもおおらかで、適度な大雑把さがあるよう に見えるのに、リョーマに関してはバカみたいに慎重になる。 大切に裸体を包んでくる長い腕。抱き締めて寝ていれば、動きだって制限されるだろう に。それでも桃城は華奢な躯を腕にしているその慎重さに、リョーマは呆れると同時に、 胸の一部が切なさで締め付けられる感触をも味わい、苦々しげに舌打ちする。 大切に包んでくる腕の温もり。テニスと等価値になっていく男の存在。最後の最後には、決してテニスしか選べないと判っているのに、それでももう二度と手放せない重さ。 珍しく自力起床なんてすると、ろくな考えが湧かないと、リョーマは窓に視線を向け、其 処でああどうりでと、納得するしかなかった。 「雨……」 包み込まれた腕の中。視線だけを窓に向ければ、切り取られた縦長の小さい視界に、 錫色に染まる空が見える。重く垂れこめる雲から、銀糸のようにシトシト音もなく降ってい る雨垂れ。 どうりで静かな筈だと思い、リョーマは横着にもケットから細い腕を伸ばし、 ベッドボードの上に置いてあるウェンガーのリストウォッチを手にすると、時刻を確認し、 苦笑する。 既に時刻は正午を回っている時間だ。 少子化が叫ばれる中でも、比較的治安の安定しているこの周辺は子供の数も多いから、日曜の朝は、結構周辺から賑やかな声が聞こえてくる。けれど今日に限ってそれがな いのは、雨の所為だったのかと、リョーマは錫色に染まる空を眺めた。 雨には消音効果があると言う。だから多少の喧騒は静かな雨垂れに吸い込まれ、こ の部屋までは届かない。 雨の日は何処か気怠く、それでいて柔らかく包まれる穏やかさを感じるのは、人工的 な消音ではなく、自然の中から生み出される効果の為、心地好い気怠さに包まれてしま うからなんだろうと、リョーマには思えた。 「ぁん……」 リョーマはソッと桃城の腕の中で態勢を入れ替えると、瞬間、トロリと胎内から滴り落ち る桃城の残滓を感じ、肌が無自覚に粟立った。 白い内股を伝い落ちる愛液は、散々に番った情事の明かしだ。孕む程胎内で射精され、滴り落ちていく残骸。それは未だ身の裡で燻る熱を炙られる気がして、リョーマの吐 息は色付き掠れていく。 「平和な顔されると、なんか腹立つ」 リョーマは腕の中で半身起こすと、真上から桃城を見下ろし、緩やかな吐息を吐いた。 舌に乗せる科白は理不尽極まりないのに、声音は何処までも緩やかな柔らかさしか感 じられない。 休日の昼下がり。桃城が自分より覚醒が遅いなど、今までなかった筈だと、リョーマは 穏やかな寝顔を曝す桃城を凝視する。 精悍な面差しは、寝ていれば嫌になる程鋭角な男を曝していることを、桃城は気付い ていないだろう。それは作為的に生み出される笑顔の盾がない分、本質が隠されること がないからだ。だから眠る桃城の横顔は、平和以外のなにものでもない穏やかさに満ち ていながら、大人の男の鋭角さをも刻み付けている。それがリョーマには少しばかり癪 に触わると同時に、切なさを抱かせていく。 「あんた、どんな夢観てるの?」 平和に満ち足りた顔。昨夜散々違った証拠のように、少しばかりの疲労は浮かべてい るものの、そこに疲れた様子が欠片も窺えないのは、やはり求め抱き合う行為が、ただ の性欲処理ではないからだろう。そこに在るのは、二人で満ちなければ、何一つ意味の 見出だせない行為だと判っているからだろう。 「一体何人の女に、そんな顔見せてきた訳?」 鋭角を深める精悍な貌は、けれど寝ていれば何処までも無防備だ。いつもは整髪剤で 整えている髪はセックスで乱れ、前髪が下りている。そして褐色の肌の上に残る朱線。 肩から背に掛け残されている色濃い情交の跡。 一体何人の女が、桃城のこんな寝顔を知っているのかと思えば、無駄な嫉妬が胸を灼 くのは、仕方ないだろう。 リョーマは桃城の寝顔を見下ろし、不意に悪戯を思い付いた子供のような表情を浮か べると、桃城の首筋に口唇を寄せた。 音もなく降る、銀縷のような雨垂れ。夏に近付くこの季節、日本には梅雨という鬱陶し い時期があるのだと、リョーマは去年帰国し経験した。雨が降るのに寒さよりじっとり生 温く澱む空気は、体力と気力まで奪われる気がしたが、今窓の外で降る雨は、未だ梅 雨とは趣が違う気がした。尤も、梅雨の先走りには、違いないのだろうけれど。 錫色に埋もれていく周囲の景色は、見慣れている閑静な住宅街と、趣が違って見えた。雨には消音効果があると言うが、本当に雨の日は静かで、周囲から綺麗に音が消え 失せる。まるで水底に漬かり込む周囲の趣は、けれどリョーマは、こんな日が嫌いでは なかった。尤も、長く続けばテニスができなくなるから、精々一日程度なら、許せるという ものだったのだけれど。 「……越前……?」 不意に肌寒さを感じ、桃城の腕が手探りでシーツの上に、リョーマの体温を探している。 「越前?」 それでも見つからない体温に、桃城は慌てて起き上がり、そこで窓際に腰掛けるリョー マを見付け、安堵の溜め息を吐いた。 「起きたの?」 「珍しいな、お前が自力起床してるなんて」 そして安堵の溜め息を吐いたのも束の間。桃城はリョーマの恰好を見咎め、慌てる羽 目に陥った。 リョーマは一回りは大きい桃城のパジャマの上だけを羽織、ボタンも止めず、肌寒さす ら感じる中。窓ガラスを半分程開いた窓際に腰掛けている。 「お前、なんて恰好してるんだ。風邪引くだろうが」 「そんなヤワな鍛え方、してないでしょ?」 「今の季節は温度差激しくて、体調崩す奴多いんだぞ」 クスクス笑うリョーマに苦笑すると、桃城は床に放り出してある下着とパジャマのズボ ンを履くと、バサリとケットをベッドから剥ぎ取り、リョーマに近寄った。 「何熱心に見てるんだ?」 窓際に腰掛けるリョーマの背後から、自分の躯ごとケットに包み込み腕に引き寄せる と、リョーマは抵抗なく華奢な躯を桃城に預けた。 「なんか、水底に沈んでる都市みたいに見えない?」 錫色に染まる光景。音もなく柔らかく降る静かな雨垂れは、まるで水没していく都市を も連想させるが、そこに恐怖は微塵もない。 「こうして上見てると、沈み込んでくみたいな気がする」 天から降り注ぐ銀糸を眺めていると、下へ下へと落ちていく錯覚をもたらされる。 「お前……時折そう物騒な科白、言うよな」 雨に煙る周囲の光景は錫色に染められ、音一つない静けさは、却って心地好いくらい だ。冬の身を切る冷たい雨と違い、真夏に近付く為の時雨とも言える雨は、肌寒さを感じ はしても、そこに淋しさを伴う冷たさはなかった。 「あんたには、見えない?」 「……散歩に行きたいとか、言うなよ」 雨は苦手でも、嫌いではないから始末に悪いリョーマの性格を、桃城は知っている。 気紛れに雨の中、周囲の光景が普段と違って見えるのが楽しいと、散歩に行くと言い出 しかねない性格をしているのだ。尤も、そんな子供じみた一面を、桃城が喜んでいること を、リョーマは知らない。 「わざわざ雨の中散歩に行きたいって程、暇じゃないでしょ?」 「暇だろうが、テニスもできなくなっちまったし」 「桃先輩、あんた莫迦?」 やれやれと、リョーマは大仰に溜め息を吐き出すと、鈍色の空から、背後の桃城へと 視線を移す。 「なんの為に、こうしてる訳?」 「………」 リョーマの言外が判ってしまい、桃城は困った表情を刻み付け、ポリポリと蟀谷を引っ 掻く仕草をする。 「躯に負担掛かるぞ」 無駄だと判っているものの、取り敢えず言わなくては精神衛生によくないと、桃城は節 の有る長い指先で、リョーマの長い前髪を弄ぶ仕草で梳きながら、口を開いた。 今日は部活も休みの休日の為、昨夜はかなり早い時間から、情事に耽溺してしまった のだ。連日の情交では、流石に華奢な躯に掛ける負担は計り知れないと、桃城はいつ だって気遣うことをやめられないでいる。気遣えば気遣う程、リョーマが挑発行為に出る のが判っていながら、気遣うことをやめられない男なのだから、桃城も大概始末に悪い 男ということだろう。 「あんたの性欲、やっぱ老成してる」 「お前なぁ」 「不健全じゃん」 「お前が言うかぁ?」 真っ昼間から情交に及ぼうとしているリョーマに、不健全と言われたらおわりだと、桃 城は大仰に溜め息を吐いてみせる。 「意味が逆。恋人同志が遊びにも行けなくて家に二人きり。この状況で何もしない方が、 よっぽど不健全でしょ?」 「まったくお前は」 リョーマの物言いはあまりにらしすぎて、桃城は柔らかい笑みを漏らすしかなかった。 外を見れば、休日の昼下がりだというのに、周囲に人影はない。誰もがこの時雨の中、 出掛ける酔興はないのだろう。 「まぁこうしてると、本当に水底都市みたいだな」 改めて見れば、リョーマの言うのも判る。 夏に近付く雨は、緑の染め時期でもある。周囲は錫色に染まっても、陽光に照らされれ ば緑の光を放つ樹木は、これからいっそう鮮やかに染まる為の雨だ。 リョーマの家の幾重もの樹木は雨に濡れ、緑を深めている。遥か向こうの稜線も、今は 鈍色に塗り替えられ、街全体の印象が趣を変えている。確かに、何処か水底に落ちて いく錯覚をももたらす光景だ。 「だからね、しよ?」 悪戯気にリョーマが笑えば、桃城は苦笑するしかできない。休日の昼間からリョーマと 抱き合える時間は、記憶の中でも多くはないから、これはこれで倖せだなと思ってしまう 桃城は、溺れている自覚の一つや二つ、持ち合わせている。 「贅沢な時間だと思えばいいか」 「何?」 「贅沢だろう?昼間からお前とテニスもしないで、抱き合うってのは」 「あんたの贅沢ってさ、やっぱ安いよ」 桃城の科白にリョーマはクスクス笑い、窓を閉めた。 「ねぇ?このまま雨がやまなかったら、どうする?」 「世界の終末までか?」 「みんな水底に沈んじゃってさ」 「別に何も変わらないだろう?お前とこうしてるよ」 柔らかく肌を重ねてくる桃城の首筋に刻まれた、桃城も知らない所有印を眺め、リョーマは満足そうに笑って瞳を閉じた |