日毎高くなっていく蒼い空と、紗ように薄く棚引く白い雲。翠黛眩しい緑から、まるで零れ落ちるように
閃爍と輝く、初夏の陽射しと柔らかい木漏れ日。それが朝の清涼な空気に揺れる様は、光が飛んでい
る錯覚を起こさせる。
清涼な空気に満たされた、朝の見慣れた登校風景の中、けれど今日ばかりは視界の隅に映った微
妙な違和感に、不二は小首を傾げ周囲を見渡した。そして次には納得がいったとばかりに莞爾と笑むと、隣を歩く親友の肩をつついた。
「ねぇ英二、ホラ見てみなよ」
「にゃに?」
「アレ」
「んっ?」
綺麗な面差しに浮かぶ意味深な笑み。不二がこんな笑みを浮かべている時は、その背後に悪戯が
潜んでいるのを、英二は長年の付き合いでよく心得ていた。
莞然とした印象で、女子に絶大な人気を誇る、青学テニス部の天才が、実は同時に、天災であると知っているのは、テニス部員だけだろう。一部では、歩く天災とさえ言われている不二なのだ。
そんな親友の悪戯心を嫌という程判っているから、今度は一体どんな悪戯を思い付いたんだと視線を
移し、半瞬後に英二は深々溜め息を吐きだす結果に陥った。
「……恥ずかしい奴等……」
素直な吐露が、英二の口から零れ落ちる。
不二が指し示した場所には、見慣れた後輩2名の姿が在った。別段それだけなら、見慣れた朝の登校
風景で、英二が溜め息を吐くこともなかっただろう。
尤も、後輩を喜々として自転車の後ろに乗せ登校してくる桃城というのは、十分普通ではなかったか
ら、生徒間では最初桃城の行動に瞠然とした人間も数多く存在していた。
普通に考えれば、後輩を背後に乗せ、朝から機嫌よく登校してくる先輩はいないだろう。そして先輩に
自転車を運転させ、平然と居眠りをする後輩もいない。それでなくても桃城とリョーマの所属はテニス部
で、体育会系は昔から縦社会と相場は決まっているから尚更だ。
けれどそんな二人の登下校風景も、半月もすれば見慣れたものになってしまうから、人は慣れの動物
というのは、実際のところで正解なのかもしれない。
「そう?微笑ましいと思うけどね」
「俺と大石だって、あんな恥ずかしい真似しないにゃ」
呆れている英二は、けれど他人のことを言える義理は、実際何処にもないという自覚は、当然皆無だ。テニス部では、バカップルと言われて久しい黄金ペアだ。
「大丈夫、あの子達は、英二と大石には永久に勝てないから」
「俺と大石は、朝っぱらから、あんな恥ずかしいバカップルはしないぞ」
不二の笑みに、けれど英二は納得できないと反駁を試みる。僅かに頬を膨らませ反駁する様は、そ
れが英二の天真爛漫さぶりを覗かせているから、不二は柔和な笑みを深めていく。
「コート内でイチャつける英二達に比べれば、あの子達はマダマダの二乗くらいに、マダだからね」
「なんだよ不二〜〜〜」
「アレ?褒めてるんだけど?」
それくらいでないと、黄金ペアとは呼ばれないからねと、不二は少しばかりご機嫌斜めになった親友
を笑って宥め、再び視線を前方に移した。
「あの子さ、初々しいじゃない」
「オチビも甘いからな〜〜ポーカーフェイス気取ったって、桃の前だと、こっちが呆れるくらいに無防備だ
し」
二人の視線の先に在るのは、赤い自転車に乗った桃城だった。それだけだったら、いつもの見慣れた
登校風景で、さして珍しいものではなかっただろう。珍しいといえば、今日に限り、テニス部一年生レギ
ュラーが、桃城の背後にいないことだ。
既にリョーマがテニス部に入部して半月、桃城が一年であるリョーマの送迎を、喜々としてしているこ
とは、すでに校内では浸透しつつある。特に女子生徒の情報網はあなどれない。
桃城にお気に入りの後輩ができ、喜々として送迎をしている。そんな情報が瞬く間に広がったのは、
桃城をターゲットに狙う、女子生徒間の情報網が発信源だった。そしてタチの悪いことに、そんな女子の
情報ルートは男子より発達していて、他校の女子の間にも、広まっている。
男子にも女子にも友人知人が多い桃城は、自転車を緩く漕いでは、周囲から声を掛けられ、朝から元
気な笑顔を見せている。そんな登校風景は、誰にとっても見慣れたものだ。けれどそれが今日は少しば
かり違っていたのは、背後にリョーマが乗っていないことを差し引いても、桃城にとっては違和感しか映
せない、小さい存在の所為だった。
「それでも桃が此処まで先延ばしにしてきたのっていうのは、結構慎重なんじゃない?」
「それでオチビの不興買ってる、粗忽者だけど」
本末転倒と笑う英二は、けれど不二の科白を否定してはいなかった。桃城のリョーマに寄せる慎重さ
の背後にあるのは、真剣さだと、英二自身気付いているからだ。
「桃もあの子乗せてないと、運転荒いね」
リョーマを背後に乗せ運転している桃城は、それまでのスピードが嘘のように、呆れる程慎重な操作
を見せている。そしてリョーマを乗せずに自転車を漕ぐ桃城は、その運転は些か荒かった。
「アレさ、どういう意味だと思う?」
不二の視線の先の桃城は、自分の頭には確実にサイズの小さい白い帽子を被り、自転車を漕いでい
る。それは被るというより戴せているという表現が似つかわしい程度には、その白い帽子は桃城には小
さい代物だ。けれどその白い帽子が何を意味するのか、知らないテニス部員は存在しないだろう。
ブランドロゴの入った白い帽子。それを被っているのは、テニス部員ではリョーマだけったから、テニス
部員が見れば、その意味するところは嫌という程察しが付く。
尤も、二人の関係が、気のあう先輩後輩ではないと気付く部員はレギュラー陣と、現在はマネージャ
ー的役割を果たしている乾だけだった。それでも、リョーマのトレードマークとも言える帽子を知るテニス
部員にしてみれば、桃城が朝からリョーマの帽子を被ってくることに、怪訝な表情をしている者もいた。
荒井などその最たるもので、桃城が喜々としてリョーマを構い倒しているのが納得できないと、苦虫を
噛み潰しているのだ。それでなくても、リョーマがテニス部入部以来、桃城は昼休みも一年二組に足を
運び、リョーマと一緒に昼食を摂っているから尚更だ。荒井達にしてみれば、仲の良かった友人を、一
年に盗られた気分にでもなっているのだろう。そして同時に、入部早々実力で、レギュラーの座を奪って
いった小生意気な一年生なのだ、リョーマは。
「オチビと桃も、やっと一歩踏み出したって感じだにゃ」
桃城の前には欠伸をしながら歩くリョーマが居て、桃城が背後から声を掛け振り向いた途端、リョーマ
自身、盛大に呆れ顔をしているのが判る。それでも立ち止まり、桃城が追いつくのを待っているあたり、
リョーマは素直だと思う英二だった。
これが桃城以外の人間なら、リョーマは待ったりはしないと判っているからだ。
今までの生活環境の所為か、生来の性格傾向からなのか、或いはその両面からなのかは判らないも
のの、リョーマは良いも悪いも個人主義で、一極集中の思考回路の持ち主だ。桃城以外の人間が声を
掛けたとしても、挨拶程度はするだろだろうが、桃城を待つように、立ち止まって待ったりはしないだろう。下手をしたら、同じテニス部員でも、あまり接触のない部員の顔など、覚えていない可能性もある。
「あの子は桃の前だと、呆れるくらい、警戒心が失せるからね」
周囲には無関心で、クールだと言われているリョーマは、けれど気心が知れれば、案外感情が豊か
で、むしろ感情が素直に表情に出るのだと判る。
何よりコートに立つリョーマは、それが顕著だ。
冷静な判断と洞察力とに支えられた試合運びは、クールな一面があるものの、コートに立つ時間が長く
なればなるだけ、リョーマの冷ややかな切っ先の才は熱を帯び、相手に挑発的な笑みを突き付ける。
「見てて恥ずかしいくらいにバカップルなのに、やっとっていうのは、桃が慎重ってことだよね」
「慎重すぎて、オチビの機嫌悪いったら」
「それも無自覚なところが、あの子らしいんだよね」
周囲にも自分自身にも無頓着なリョーマが、桃城の前でだけは曝す警戒心の失せた表情は、不二や
英二達に言わせれば、バカップルということになる。今もそうだ。
テニス部に入部当初、最初は警戒心の強いネコみたいだったリョーマが、日を追うごとに部活に馴染
み、警戒心を殺いでいくのが手にとるように判った。それでも生来の性格なのだろう。リョーマは同学年
の堀尾達と常に行動をともにすることはなく、纏う気配は、何処までも孤高な印象が付き纏う。そのリョ
ーマが、桃城の前でだけは孤高な印象が綺麗に消え失せ、警戒心を殺ぐどころか、無防備になる。
それも当人に自覚がない始末の悪さがあるくらい、リョーマは桃城の前では、一切の警戒心が解かれ
てしまう。だからよりいっそう、桃城がリョーマとの距離を、慎重に扱っているのだと、判らない不二と英
二ではなかった。
「あれさ、どういう意味だと思う?」
「ん〜まぁオチビのあの様子だと、第一段階やっとクリアー?」
桃城がリョーマの帽子を被ってきた理由など、英二や不二には今更だ。互いに悪戯を思い付いたよう
に笑いあうと、二人はリョーマと桃城の元へと向かった。
「どっちが仕掛けたと思う?」
「オチビ」
「なぁんだ残念」
僕も同じと、不二が笑う。
「桃はオチビ大事にしすぎて、オチビの機嫌損ねてる粗忽者だからにゃ」
大切にしているという言葉では間に合わないくらい、桃城はリョーマに対し、過保護で甘い。
リョーマの我が儘の大半は、それさえ可愛いと笑いながら、飄々と叶えてしまうタチの悪い一面を備え
ている。所詮甘やかしたいだけ甘やかす始末の悪さを持っている男なのだ、桃城は。そのくせ過保護さ
と同時に、慎重さをも忘れないあたり、リョーマに言わせればタラシということになるらしい。
「僕も桃があそこまで、あの子に甘くなるとは思わなかったんだけどね」
弟妹のいる桃城は、長男気質の性格をしているから、リョーマを無条件で構い倒すことにも長けてい
た。けれどそこに後輩を構う以上の恋情が絡んでしまえば、桃城の過保護さには慎重さが入り込む。
それがここ最近、リョーマの機嫌を損ねている原因だと、桃城もやっと気付いたのだろう。気付けば放っ
ておくことはしない桃城だ。
「それでも、第一段階クリアー程度じゃ、この先は山と谷ばっかりだけどね」
リョーマを甘やかしたいだけ甘やかすくせに、慎重さも忘れない桃城のそれが、リョーマの機嫌を最大
限に悪化させてきた。そしてそれは今後も暫くは続くだろうことを、不二は正確に予想していた。
第一段階をクリアーした程度で、リョーマが満足することはないだろう。それは自分と手塚の関係に置
き換えれば、容易に想像が付く類いのものだったからだ。
「俺達はさ、先輩として、あの二人を暖かく見守ってやるべきだと思うわけなんだにゃ〜〜」
今のリョーマとさして変わらぬ経緯で、自分も大石との関係を築いてきたから、今後桃城とリョーマが
辿るだろう道筋を優しく見守ってやろうと思ったのだろう英二は、ムードーメーカーと呼ばれるに相応しい
笑みで、桃城とリョーマを眺めた。
□
「オチビ、桃、おはよう」
不意に背後から掛けられた声に振り向けば、意味深に笑う英二と不二の姿に、リョーマは瞬時に渋面
を刻み付けた。
このコンビに関わるとろくなことがない。それはテニス部入部一ヶ月で、リョーマが嫌でも学習させられ
た事実だった。
「アレ、不機嫌?」
柔らかい笑みを滲ませ、不二が瀟洒な面差しを覗き込めば、リョーマの睥睨が桃城に放たれる。
「英二先輩、不二先輩、朝からやめて下さいよ。後で八つ当たりされるの、俺なんスよ」
36コンビの言外など、桃城には丸判りだ。
伊達に彼等の後輩を一年もして、レギュラーをしてきた訳ではないのだ。この二人にへこたれているよう
では、テニス部レギュラーは勤まらない。
「そりゃ桃が全部悪いんだから、仕方ないにゃ」
「英二先輩〜〜〜」
桃城が情けない声を上げれば、リョーマの睥睨が鋭さを増す。怜悧に瞬く眼差しに宿る睥睨に、桃城
は幅広い肩を苦笑に竦め、リョーマの柔らかい髪を掻き混ぜるように梳いていく。それをリョーマがおと
なしく受け入れているのを眺め、英二も不二も、ヤレヤレと苦笑する。
八つ当たりをされると情けない声を上げる桃城は、けれどリョーマに対する甘さが滲みでている。
八つ当たりされるのさえ倖せ、そういったところなのかもしれないと思えば、英二と不二が、内心盛大に
バカップルと溜め息を吐いたとしても、罪はないだろう。
「僕はてっきり、この子だと思ったんだけど」
ねぇ?不二が意味深に笑えば、リョーマは桃城に髪を掻き混ぜられたまま、酷薄な口唇に不敵な笑
みを刻み付けた。
「これから大変だにゃ、桃」
リョーマの笑みに、英二はガックリ肩を落とし脱力する。
勝ち気な性格のリョーマを知っているものの、こうも淡如に肯定されるとは思っていなかったのだろう。
短期間で意味深な笑みが似合う子供に育ってしまったリョーマのそれは、桃城へ傾ける恋情と同義
語だろう。その自覚が、リョーマには未だ薄いものだとしてもだ。
「オチビ大胆」
「当然でしょ?俺の、なんだから」
「コラ越前」
「嘘じゃないし?」
「作為的に置いてきやがって」
甘い声と柔らかい笑みを滲ませながら、桃城は自分には小さい帽子をリョーマの頭に戻してやる。
リョーマの意図する部分など判りきっていて、それでも残された帽子を被ってきてしまうあたり、桃城は
リョーマに甘い。それも当人が自覚している始末の悪さが、何より最悪だ。伊達に年上の女と関係して
きた訳ではないのだろう。桃城の好みは、総じて精神的に自立した、年上の女ばかりだった。
それはリョーマも薄々気付いているんだろうなと、英二と不二はこっそり溜め息を吐いた。だから尚更、リョーマの機嫌が悪いのだ。
「それを嬉しそう被ってきたあんたの負け」
微苦笑と共に戻された白い帽子。それは昨日桃城の部屋に、リョーマが敢えて残してきたものだ。
「大体、桃先輩が遅いから」
どうせ36コンビには見透かされているのは判りきっている。だったらここは盛大に惚気てしまおうと、
リョーマは綺麗な造作に意味深な笑みを刻み付けた。
「詐欺師で悪党のくせに、キス一つに慎重になるなんて」
却って嘘くさいと、リョーマはシレッと爆弾発言を落とし、細い躯が空気抵抗を感じさせない身軽さで、
フワリと桃城の自転車の後ろに飛び乗った。ストンと擬音が響き、桃城の自転車の定位置に付く。細い
指が、桃城の肩に重さを掛けた。
「コラ越前。朝から不穏当な発言するな」
背後に加わった慣れた重さ。同時に小生意気な笑みと共に落とされた爆弾に等しい科白に、桃城は
ガックリ脱力する。内心は白旗を上げたい気分一杯だろう。
日曜日だった昨日は、部活は午前中だけだった。その帰宅途中、自転車の背後で、桃城の家に行き
たいと言ったのはリョーマの方だった。その科白に込められた意味も、桃城は予想していた。それでも
拒まなかったのは、自分でもリョーマと触れ合いたいという想いを、もう止められなかったからだ。
日曜で気候も良好。弟妹は母親と共に出掛けて家には誰もいない状況で、恋人同志が何もしない方
が却って可笑しいと迫ったのはリョーマの方だった。その揚げ句、リョーマは不健康とさえ笑ったのだ。
そのとき垣間見せた綺麗な笑みに、桃城がどれだけ惹き付けられたか、リョーマは知らないだろう。
取りあえずの関係で付き合い始めて二週間、一向に親展しない関係に苛立ちを募らせ、速戦即決と
ばかりに行動したリョーマは、桃城の部屋で、問答無用とばかりにキスを迫った。その結果、敢えて残
してきた帽子は、リョーマにとっては自分の代わりのようなものだったのだろう。なかったことにせず、ち
ゃんと覚えているように。そんな願いを込め残されてきたリョーマのトレードマークの帽子の意味を、桃
城が読み取れない筈はない。
「いいでしょ別に。あんたが俺の帽子被ってきたのより、恥ずかしくないし?」
小声での会話より、視覚的に充分アピールしたに等しい桃城の行動の方が、世間的には余程恥ずか
しい筈だ。
「桃………お前完全に負けてるじゃん」
自分達の存在を綺麗に忘れ去ったかのような後輩二名の会話に、英二は盛大に呆れ、大仰に溜め
息を吐き出した。
他人の惚気に付き合うのは、中々に疲れると、朝から思い知らされた英二だった。けれど黄金ペアと
呼ばれる英二と大石が、常に周囲に惚気まくっている自覚は、当然皆無な英二だったから、リョーマと
桃城に言わせれば、お互い様というところだろう。
「勝ち負けの問題じゃないっスよ、英二先輩」
これ以上こいつを挑発しないで下さいと、肩に掛かった細い指先の感触に、桃城が英二に情けない表
情を刻み付ける。
これ以上挑発されたら、キスの次に待っているのは当然セックスになる。挑発的にキスを誘いかけて
きたリョーマだ。その次を求めてくるものは嫌という程、目に見えている。それでなくても、昨日もそうだ
ったのだから。
リョーマと触れ合いたい気持ちに嘘はない。触れれば際限なく求めてしまう自分を知っているから、桃
城は敢えて接触を極力避けてきたのだ。
その理性と努力を、リョーマはあっさり氷解させていくから、桃城にしてみれば勘弁してくれということ
になる。
「勝ち負けの問題でしょ?」
「……越前〜〜」
「桃、お前本当、オチビに負けてる」
擬音が響きそうな威勢で笑う綺麗な笑み。けれどそれは背後に横たわる言葉を、瞭然と現している。
「キス一つで満足する俺じゃないって、判ってるでしょ?」
楽しみにしてますよと、桃城の耳元で小声で囁くリョーマの面差しには、今まで英二や不二が見たこともない妖冶さが刻み付けられている。それに少しばかり驚いて、不二と英二が顔を見合わせた。
桃城の自覚さとは対局に位置しているリョーマの無自覚さ。そのくせ妖冶な笑みを無意識下で刻み付
けているリョーマに、何故か胸が痛む英二と不二だった。
「……朝から、っんな表情してるなって」
勝ち気で小生意気で挑発的。三拍子揃っているリョーマのそれとは相反する、二人だけの時間に見
せる表情を、他人に見せたくないのは当然だろう。
いっそ姚冶とさえ言えてしまう表情で笑い掛けてくるリョーマに、深い苦笑を刻み付けると、桃城は節
のある指先を軽く動かし、スイッ白い帽子の鍔を目深に被らせてしまう。そうすればリョーマの瀟洒な面
差しは周囲から遮断される。尤も、意味深に笑う口許は丸見えだったから、その口許からでも、リョーマ
の表情は十分推し量れてしまうものだったのだけれど。
「最終的に、この子絡みだと許容範囲が広くなるみたいだけど、桃にも人並みな独占欲はあったんだね」
莫迦みたいに過保護な反面、桃城はひどく慎重に、リョーマという生き物を扱っている。そのくせ下ら
ない感情の発露で、リョーマを縛り付けてしまうことがないあたり、桃城はリョーマに対し、最終的には
許容量が広くなる傾向にある。
普通、中学生の恋愛は、恋に恋する熱病で終わる。相手の感情より自らの独占欲に忠実で、相手の
行動や感情を縛り付けてしまう、稚拙な恋が殆どだからだ。
そして桃城は、奇妙な感心をして見せる不二に、反駁をすることはできなかった。それは不二の科白
が、正解だったからで、36コンビに何を言っても 無駄なことも判っているからだ。反駁は、藪をつつい
て、蛇を出す可能性が多大になってしまう。それは勘弁してほしいと思う桃城に、罪はないだろう。
ましてこの場合飛び出す蛇は、大蛇に化ける可能性が多大だ。「ねぇ桃先輩、早く行かないと、あんた
今日日直じゃなかったの?」
目深に被らされた帽子の鍔を上げると、リョーマは桃城の肩に置いた指先に力を込める。
既に日直という言い訳は苦しいものだと、リョーマ自身自覚している。暢気に立ち話している間に、時
間はすぎている。
テニス部レギュラーが立ち止まって何やら密談めいたことをしていれば、周囲から注目の的になるの
は当然だろう。登校途中の生徒達は何ごとかと、遠巻きに四人を眺めては、通り過ぎていく。
「先輩達、今度教えて欲しいことあるんスよ」
「なんだい?」
「色々」
「色々ね」
リョーマの言う所の色々の意味が、不二には判ったのだろう。莞爾と笑う笑みの背後に、意味深な部
分を刻み付けている。
「何処かのダレかが莫迦みたいに慎重で、臆病だから」
慎重で臆病な桃城の背後にある気持ちが、判らないリョーマではなかった。肌を重ねて縮まる距離に、桃城が躊躇している可能性など、リョーマは欠片も考えてはいなかった。
桃城がキスから先の関係に進むことを躊躇している理由など、リョーマには丸判りだ。それは未成熟
な躯で、雄を受け止めることが、テニスをする上で負担がかかり、マイナスに陥る可能性があるからだ。
だから桃城は躊躇している。それがリョーマには面白くなかった。
「ニャハハ、桃、負けてる負けてる」
「こいつに悪知恵、与えないで下さいよ」
「……なんかそれって莫迦にしてる?」
「事実だろうが」
それでなくても、キスの次を躊躇いもなく求めてくるリョーマのことだ。自分の理性も忍耐も、まったく信
用していない桃城にしてみれば、これ以上リョーマに悪知恵を付けてくれるなというのは、素直な吐露
だろう。それでなくてもリョーマを可愛がっている36コンビだ。どんな知恵を付けるか判ったものではな
かった。そしてこんな局面で36コンビが授ける知恵など、悪知恵に決まっている。
「莫迦にしてるんだ」
憮然となったリョーマは、数秒考え込むフリをして、次にとびきり綺麗な笑みを意味深に紛れ込ませる
と、爆弾宣言を口にした。
「だったら俺が、あんたにしてもいいんだからね」
忘れないでよと、呆れる程綺麗に笑うリョーマに、桃城は半瞬惚けたように言葉を失い、英二と不二
は盛大に大笑いし、周囲は一体に何事かと喫驚した様子で、テニス部レギュラー四人を眺めていた。
「………越前さん?」
「ニャハハハ〜〜〜桃、お前ダメダメじゃん」
リョーマの爆弾宣言に、英二は大笑いし、不二はおやおやと苦笑している。そして桃城はといえば、リ
ョーマのそんな行動の可能性がまったく否定できないあたり、もしかしたら負けているのかもしれないと
ガックリ肩を落とした。
うっかり上に乗っかられ、突っ込まれる以前に、無理矢理処女に突き射ることを余儀なくされそうな予
感がヒシヒシ背後から伝わってくるのは、きっと気の所為ではないだろう。
良いも悪いも、リョーマは小生意気で、挑発的だ。やる気満々で挑まれたら、自分に勝ちはないだろう
なと、桃城は脱力したまま、苦笑を禁じ得ない。
「ねぇ越前、今度いい話ししてあげる」
「俺も俺も」
「………先輩達、マジにこいつに悪知恵付けないで下さいよ」
「ん〜〜得てして世の中っていうのはさ、悪知恵の方が身に付くようにできてるし?」
「語尾を可愛くすればいいってもんじゃないんですよ、不二先輩」
柔和な笑みに莞爾とした仕草。けれど背後に横たわるのはそんな優しいものではない不二の言外は、まさしくその額面とおりだ。
得てして世の中なんていうものは、奸智で回っている部分が多いのだ。経済の発展状況を見ても、相
手を出し抜き優位に立つ為に必要なのは、簡単に言ってしまえば、そんな程度のものだ。
「そ〜〜んな可愛くないこというと、この子に色々伝授しちゃうよ」
珍しくも反駁を試みてくる桃城に、不二は面白そうに口許を綻ばせる。
大雑把に見え、実際他人との距離の取りかたが独特な桃城は、見極めをよく心得ている。
売ってはいけない相手に喧嘩を売った場合、支払う代償は計り知れず、うっかり命を落としても、それは
自分の責任ということになる。世の中には、逆らってはいけない相手というのは多々存在するものだ。
桃城はそういうギリギリのラインの見極めが驚く程に巧みだったから、珍しくも反駁してくる桃城は、見
た目より切羽つまった状態なのだろうなと察することは、不二と英二には容易だった。
「オチビさ、今度ゆっくり教えてあげるよ」
それは彼氏自慢と同義語だと、リョーマが思い知るのは、さして遠い時間ではなかった。そしてその
巻き添えを食うのは、当然桃城と決まっている。
「忙ば回れってね」
「?」
「遠回りも、時には必要ってことだよ」
キョトンと小首を傾げる無防備さに不二が笑うと、リョーマは綺麗な造作に思い切り不機嫌ですという
表情を刻み付けた。
「近道とダンジョンの攻略なら受け付けます」
「まぁ桃はさ、所詮ロミオにはなれない性格だからね」
「??」
意味深な不二の科白に、ますます憮然となれば不二はだから遠回りは必要なんだよと、綺麗な笑み
を浮かべた。
「オーロラ姫の王子にも、下手したらなれないかもにゃ」
マヌケな人魚姫の王子には、なれるかもしれないけどにゃ。英二も釣られて明るく笑った。
□
思ったより自転車通学の生徒の少ない中等部の駐輪場は、賑やかな生徒の声を風に乗せ伝えてきく
るものの、駐輪場には生徒の姿はなかった。
「……意味判んない」
不二達と別れ、さして距離も漕がずに辿り着いた自転車置き場で、リョーマは英二と不二の科白を思
い出し、桃城に文句を吐いていた。
やっと恋人らしいキスを済ませ、今朝は朝練も休みで珍しくも自力起床ついでに、迎えにくる桃城を待
たず、一足先に登校した。それは自分の後を追いかけてくる桃城を、見たかった所為だ。
それが英二と不二の意味深な科白に、少しばかり気持ちに水を刺された気分のリョーマだった。
「あんたは判ったの?」
リョーマの悪態に少しばかり困った様子で蟀谷を掻いている桃城は、二人が告げた意味が逐一判っ
ている証拠だろう。心なしか目線も泳いでいる。
「ん〜〜まぁ判ったっていうか」
二人の言外を推し量れる程度には、短い付き合いではない桃城だった。そしてだからこそ、その中に
含まれる忠告も読み取れてしまった。
「心配してくれてるってのは、間違ってない筈だからな」
その幾重かの中に、面白がっている節は見受けられるものの、見た目よりはるかに自分達を心配して
いる英二と不二の内心は、多少なりとも判るつもりだった。
「………面白がられてる気しかしない」
憮然と呟くと、リョーマはテニスバッグを担ぎ直し、歩き出した。その半歩後ろから歩いて来る桃城は、
不意にリョーマの白い帽子を掬い上げた。
「何?」
「制服に帽子ってのも、あんま似合わないな」
「だったらあんたは全然似合ってなかった」
桃城の頭には確実に小さい白い帽子。それでもそんな風に、極当然のように被ってきてくれたことに、
リョーマは呼び止められ振り返った時、ひどく満足したのだ。
「俺、気は短いよ」
「気が合うな、俺もだ」
「詐欺師の科白って、全然効力ない」
気が短かったら、もっと先の関係にサクサク進んでいただろうに。
「これでも恋人には誠実なつもりなんだけどな」
「慎重に扱うのがイコールで誠実だなんて、思わないでよ」
壊れ物のように扱われるのは真っ平御免だったが、このままでは、そのパターンを辿る可能性がリョ
ーマには否定できなかった。
「ん〜〜〜まぁ俺もちゃんと考えてるから」
言葉に出してしまう程度には、考えている。けれどその言葉が、リョーマの不興を買うことも正確に理
解していたから、桃城は少しばかり困った表情で、瀟洒な面差しを覗き込んだ。
「フーン?」
桃城の本質は、周囲に見せている賑やかな笑顔とは、むしろ対極に位置しているものだ。だから本来
眼に見える心配や何かを表に出すこともなければ、言葉に出してしまうことは皆無だろう。
そんな桃城が言葉に出している時点で、それはかなり本気で考えているのだろうなと、リョーマは小
首を傾げながら、
「楽しみに待ってるから」
でもあんまり待たせると本気で襲うよ。
そんな爆弾宣言も忘れずに、リョーマは綺麗な笑みを覗かせた。
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