忘 れ 音









 ベッドサイドの淡い照明だけが灯る藍色の空間は、今は情後の生温く甘い空気に満たされ、静かな
夜の帳に包まれていた。
 半端に掛けられたケットは、腰から下肢を覆う程度の役目しかしていない。特にリョーマは、細すぎる
腸骨に、申し訳程度に引っ掛かっているだけで、全裸より余程エロティックな不雰囲気を醸し出している。
 それでもそこに情事の最中の奔放さがないのは、リョーマから情事の最中に限定されるだろう、妖冶
な気配が微塵もないからだ。リョーマは情事で疲れた心地好い脱力感を、桃城の腕の中で快復させる
ように、身動ぎ一つせず、おとなしくしている。
「どうした?」
 淫蕩に乱れた吐息を整えながら、自分の胸板に小作りな頭を凭れているリョーマが静かに交睫してい
るのに、桃城は不思議そうに問い掛けた。
 それは普段なら、リョーマが一度や二度のセックスで、満足などしないことを、その満足しない根底に
在るリョーマの怯えを、桃城は正確に理解しているからだった。
 媾合いを解くのを極端に嫌がるリョーマの怯えは、ここ最近ひどくなっている。そしてそれは関係を続
けれれば続けるだけ、リョーマに言葉にできない不安をもたらすだろうことも、桃城は正確に理解してい
る。
 満ちた途端、欠けていく喪失の予感。リョーマにとって、セックスがただ単純に性欲を満たすものでも
なければ、愛情を交歓する手段でもなくなってしまっていることを、それは明瞭に物語っている。
 だからリョーマはいつだって、一度や二度の媾合いだけで、決して満足はしない。心身ともに達してド
ロドロに疲れていてさえ、貪婪に桃城と番いたがる。それはまるで、もう先などないのだと語られている
気分にさせられて、桃城はリョーマの無意識の一途さに、哀しみを感じずにはいられなかった。
 テニスだけをしていれば、リョーマはそんな怯えなどとは無縁だった筈だからだ。未成熟な躯に雄を受
け入れる快楽など教えなければ、リョーマは今も笑ってテニスだけをしていられた筈だ。そのリョーマを
作り替えてしまった哀しみと、同時に対極に湧く感情に、自分は案外最低な男だなと、桃城は自嘲を禁
じ得ない。
「疲れたか?」
 胸の上に広がる柔らかい翠髪(くろかみ)は、激しかった情事を物語るように、しっとり汗を含んで湿っ
ている。その少しばかり擽ったい感触を愛しげに節のある指先で梳いてやれば、リョーマは長い睫毛を
緩く瞬かせながら、やはり擽ったいのだろう。薄く細い肩を竦め、細い腕が桃城の首筋を彷徨っている。
 申し訳程度に下肢を覆うケットが、リョーマの下肢が動いた拍子に、皺を刻んでいく。
「んっ……」
 綻んだままの秘花からドロリと垂れてくる桃城の精液。それが身動いだ拍子に胎内から溢れてくる生
々しい感触に、リョーマは甘い吐息を漏らした。
 胎内に吐きだされ、受精も適わず垂れ流しにされていく生命の残骸。そんなものに一抹の憐れさを感
じるようになったのはいつ頃だったか、リョーマに記憶はなかった。ただ気付けば、最近そんな下らない
感傷が、胸を抉るようになっていった。
 永劫に受精されない、生命の残骸。下肢を伝わる生温い感触に、リョーマはソッと指先を下肢に伸ば
した。
 胎内に吐きだされた瞬間は、灼かれそうな威勢で迸るソレは、外気に触れた途端死滅する細菌のよ
うに、指先で触れればドロリとした感触が伝わってくるだけだ。
 生命を養う海など、自分の内側の何処をまさぐってみた所で、在りはしない。在るのは生命の残骸を
死滅させるだけの死海でしかない。それでもいつも桃城は倖せそうに、吐きだ出していく。それがリョー
マには少しばかり不思議だった。
「お前、また詰まらないこと考えてるだろう?」
 満ちる為に必要な欠け。満ちる為に欠けていくその道理を、桃城が理解したのは、リョーマを抱いた時
だった。けれどいつもリョーマの胎内に穿つ桃城とリョーマとでは、感じる温度差があるのは当然だろう。桃城はリョーマの欠けを理解しても、それに恐怖や怯えを感じることはない。
 陶然としているようで、それでいてまったく違う表情に見えるリョーマの瀟洒な面差しは、表面から推
し量ることはできない曖昧すぎる表情を刻み付けている。
 節の在る指先が、汗を含んで張り付く柔髪を弄ぶ。
「力が………」
 散々嫋々に喘いだ証拠だろう。リョーマの声は掠れている。
「力?」
「うん」
「何のだ?」
 唐突な科白に、桃城は胸板に凭れる瀟洒な面差しを覗き込めば、リョーマは半眼閉ざしたまま、何か
に耳を傾けている。
 掠れた声に、番いを解くことを極端に嫌がった怯えは、微塵も見受けられない。けれどその科白に込
められた意味が、ただの思い付きでないこと程度は、桃城にも判るものだった。
「越前?」
 胸の内の何かを分けてくれようとする時、リョーマの科白は決まって断片的になることを桃城はよく判
っているから、目蕩むように半眼閉ざしているリョーマの面差しを覗き込み、乱れている柔髪をゆったり
梳いていく。
「月鈴子って、言うんだっけ?」
 それは一ヶ月前、桃城から聴いた名前だった。
まるで月から銀鈴が降るように鳴く綺麗な秋の虫達の声。それは別名を月鈴子というのだと、桃城は南
次郎から聴いたらしい。
 桃城に教えたのが父親である南次郎だというのが些か気に喰わないものの、それでもまるで月から
降ってくるように鳴く虫達の声は、そう呼ばれるに相応しい綺麗な鳴き声をしているから、よく父親がそ
んな風流な別名を知っていたものだとリョーマは思う。
 一体いつどんなどさくさに紛れて僧籍を取ったのか判らないものの、寺の仮住職を勤める父親は、い
つだってエロ本と大差ない写真集を眺めては、同居している姪の菜々子に小言を食らっている。その父
親が、よくそんな別名を知っていたものだと思えば、仮とはいえ住職という立場も伊達ではないのか?
そんなふうに思ってしまうリョーマに、罪はないだろう。
 いつだって南次郎は、その有り様を容易には見せない飄々さでもって、生草坊主を演じて楽しんでい
る男だ。
 だらしなく着崩している黒い作務衣に無精髭。それはおおよそ、悟りを開いた坊主の印象からは程遠
い。それでも確実に檀家数を増やしているあたり、父親は立派に詐欺師だと思うリョーマだった。
「力が、なくなった気がしたから」
 幽邃な空間に漂うそれは、まるで月から銀鈴が降り注ぐように響いていた秋の虫達の鳴き声だ。
それが今は少しずつ力が衰えているように聞こえて仕方ない。
 いつもはさして気にもせず、極当たり前のように耳に馴染んだ虫の声が、今夜は桃城との情後の所為
だろう。静かな空間に響いてくる。それはこうして情後の脱力に寄り添うから、感じることのできたものな
のかもしれない。
「ああ、虫の声な」
 秋の虫達の別名を、月鈴子と言うのだと、晩酌に付き合った一ヶ月前、教えてくれたのは南次郎だっ
た。
 それは立待月と枝豆を肴に、冷酒を飲んでいた時だ。藍色の空間に、切り取ったように浮かんでいた、無音の世界を形成する石の球体。それは満月を過ぎた所為で、少しずつ新月に近付き、完全な円形は失われていた。
 夏の残暑を引き摺って、積翠から蝉の声が賑やかに響いてくる昼間とは打って変わり、季節は確実
に移り変わっていることを伝えてくる秋の声だった。それは手塚達三年のレギュラー陣の引退と同時に、部長という肩書きの重さを、自分が引き継ぐ覚悟の時期でもあった。
「一ヶ月前は、もっと響いてた気がする」
 一ヶ月前の九月の夜。やはりこうして情後に聴いた虫達の声は、もっと響いていた気がした。それが
今は少しばかり元気がないように力が感じられない。
「お前、耳がいいからな」
 天から与えられたリョーマのテニスの才の中には、生来の聴覚の良さも含まれていると桃城は思う。
眼を閉じていても相手のボールを当然のように打ち返すことのできる反射能力は、聴覚によるものが大
きいからだ。相手が打った瞬間の打球音を聞き逃すことのない聴覚の敏感さは、まるで動物の嗅覚と
大差ないものだろう。
「なんかあんたが言うと、嫌らしく聞こえる」
 耳がいいの科白に含まれ言外には、セックス最中にも言えることだと言われている気がした。
現にリョーマは耳朶の周囲を音を立て舐められるのに、ひどく弱い一面があるからだ。後ろに穿たれた
だけでイクことを覚えさせられた婬らな肉体は、桃城の声だけでもイクことのできる耳の良さを持ってい
る。
「そうか?正解っていうんだと思うぞ」
 珍しく悪戯気に笑うと、桃城はアッと言う間に体勢を入れ替える。リョーマを体躯の下に組み敷くと、体
重を乗せずに覆い被さり、濡れた淫猥な音を立て、耳朶の周囲を一舐めした。瞬間、リョーマの躯がビ
クンと跳ね上がる。
「ホラ、耳がいいだろう?」
 クツクツ笑うと、桃城は耳朶から首筋に愛撫の手を移していく。瞬時にリョーマの肌が粟立ち、白絹の
肌が、淡い桜に染まっていく。
「桃…先輩…」
 抵抗一つなく、リョーマはあっさり陥落の吐息を漏らす。
「忘れ音」
「なぁに?」
 不意に呟かれた声。首筋からゆっくり顔を上げた桃城が覗き込んで告げてくる科白に、リョーマは色
付く面差しでキョトンと問い返した。
「忘れ音って言うんだよ」
 小首を傾げ、キョトンとした面差しをしている無防備さに、桃城は苦笑する。
「忘れ音?」
「虫ってのは長くは生きられない。ゆっくり力を失ってく。それでもああして鳴き続けていくんだ」
 秋の訪れる告げる虫の鳴き声は、夏の終わりから威勢を増し、夜になれば幾重もの鳴き声が綺麗に
響いていた。それが深まっていく季節に、ゆっくり生命の終わりを予感させ、少しずつ少しずつその鳴き
声から力が失せている。
 それが一つの例外も抜きにして、円環を描く自然の摂理だ。生命の寿命の長さはあるものの、人間と
て自然の摂理の前では無力な存在だ。尤も、リョーマに言われなければ、桃城には気付かなかったも
のだったのだけれど。
「フーン」
「判ったのか?」
 判ったのか判らないのか、リョーマの表情から、読み取れるものはない。そんなリョーマの様子に焦れ
た様子を見せることもなく、吐息が触れ合う間近まで顔を近付ければ、ほっそりした両腕が、桃城の首
に巻き付いた。
「俺達もそう?」
「越前?」
「力を失っても、最後の最後まで鳴き続けるんでしょ?俺達も、そう?」
「お前……」
 やっぱ下らないこと考えてるじゃないかと、桃城はいたたまれず痩身を抱き締めれば、リョーマは違う
よと淡い笑みを滲ませた。それは藍色の空間で胸を衝く程、綺麗な笑みを浮かべている。
「俺も、最後まで鳴き続けるかなって」
 番いを求めて鳴くだろうか?桃城の姿を見失ったら。それでも泣くことすらできずに、心は壊れていくだ
ろうか?それとも、案外なにも感じないだろうか?
 そんな架空の有り様を想像してみた所で、リョーマには判らないものばかりだ。
「怒らないでよ」
「怒られたくないなら、そんなこと言ってるな」
 怒らないでよと、何処か嬉しげに笑うリョーマに桃城が見せた貌は、慍色ではく真摯な憂色だった。
「蝉は夏、蟋蟀やきりぎりすは秋。俺達の季節って、なんだろう?」
 年中盛って啼いてる俺達の季節って一体何?悪戯気に笑うリョーマの笑みが、不意に泣き顔に見え、桃城は溜め息を吐いた。
 実際桃城がリョーマの泣き顔を見たのは、手塚が跡部に負けたあの時、一度きりだ。それでも時折、
リョーマは泣き出しそうな笑みをしていることがある。当人に自覚がないのは判っているから、無自覚な
それが、桃城の胸を締め付けるのだと、リョーマは知らない。
「今は、夏なんだろうな」
「夏?」
「お前とこうして年中盛って姦ってる」
「それってさ、熱病みたいな恋に溺れてるってこと?」
 紅脣がクスリと笑みを漏らし、到底スピートのあるテニスをするとは思えない細い指が、精悍な輪郭を
撫でていく。
 真上から覆い被さって覗き込んでくる精悍な面差しの男には、熱病みたいな恋なんていう言葉は、も
っとも遠いものだとリョーマには思えた。
 桃城が自分とこういう関係に陥る前、年上の女性とそれなりの関係を築いてきたことを、リョーマは知
っている。けれどだからだろう。桃城は同年代の女子生徒と噂になるような真似は決してしない。
 今月に入り、手塚から部長職を引き継いでからは尚更、桃城に告白する女子の数は結構な人数に上
る。それでも決して浮ついた噂になるような迂闊な真似を、桃城は決してしない。
 そんな桃城が、今更熱病に浮かされた恋などに、溺れるとは思えなかった。
「詐欺師」
 情後で唐紅に色付く口唇が、歪な弧を描き笑うのに、桃城が頬を辿る指先を掬い上げる。
「詐欺師も一つくらいは本当のこと言うって、覚えとけよ」
 カタチよい細い指先。けれどこの指先の先まで、研ぎ澄まされたテニスをする為に象られている。見た
目だけなら、到底切っ先のようなテニスをするとは思えないのだけれど。
 未だ眠れる獅子を身の裡に飼うリョーマのテニスは、いずれ誰の眼にも明らかな開花を遂げるだろう。
それはもう時間の問題なことを、桃城はリョーマには遥かに正確に予測している。だからこそと、願うの
だ。いつか訪れる終焉に向け、笑ってテニスをしていてほしいのだと。
「詐欺師は最後まで嘘を突き通すから、詐欺師っていうんじゃないの?」
「俺ほど、誠実な恋人はいないぞ」
「自分で言うところが安い」
 クスクス楽しげに笑うリョーマに、桃城の貌が歪に歪む。
「そんな表情、しないでよ」
 ねぇ?とリョーマは意味深な笑みを綺麗に刻み付け、桃城の首に両腕を絡み付けると、下肢を開いた。ドロリと滴り落ちてくる精液と、既に乾いているものとが、混ざり合う。
「忘れ音っていうなら、あんたはちゃんと聴いてて」
 深まる季節を前にして、終焉を迎えていく生命達。受精さえ適わず、残骸になっていく恋しい男の精液。いずれ自分も季節の終わりに、戦場に等しいコートで力尽きて朽ち果てるだろう。そんな時、きっと繰り言のように呼び続け、求め続けていくのは、たった一人の男の名前だけだろう。
 一体いつのまに、内とも外とも判らない部分を、たったひ一人の男に浸食されていたのだろうか?
番って離れる一時さえ、喪失の予感に苛まれていく恫喝に支配されてしまう。欠ける為に満ちることが
無性に怖い。それはテニスで負ける時とは比べることもできない、恐ろしい喪失感を伴っている。
「お前……秋だからって、感傷的になりすぎるぞ」
 日中の時間が短くなっていく秋は、その分夜が長い。一定方向に流れていく時間は、実際早くも遅く
もならないから、それは気分的な問題だとは判っている。それでも秋には、人を感傷的にさせる魔法の
ような作用があるのだ。
 早まることのない時間軸の中。黄昏色した光景が見せる、一抹の郷愁。そして一連の流れで続く、秋
の夜長と降るようになく虫の声。それらが人を感傷的な気分にさせる。
「なんで?それともあんたは、俺の声を聴く権利を、他人に譲るつもり?」
「誰がさせるかって」
 誰もが聴くことのできる、虫の声ではないのだ。リョーマという生き物が、戦場たるコートで朽ち果てる
その瞬間まで見届けるのは、自分の権利だ。
「じゃぁ、啼かせてよ」
 スラリと伸びる白い下肢が、挑発の色香を滲ませ桃城の下肢に絡み付くのに、桃城は半瞬唖然とし、
次に深々溜め息を吐き出し脱力した。
「お前……そっちの意味かよ」
 深く溜め息を吐く桃城に、リョーマは意味深な笑みを刻み付けている。きっと単純な言葉で片付けられ
る意味合いではないのだろう。案外リョーマ自身、告げた科白の深い意味まで判ってはいないのかもし
れない。
「ったく」
 今は未だ騙されていてやるかと、桃城は姚冶に笑うリョーマの笑みに苦笑しつつ、華奢な躯に伸し掛
かっていく。
 淫猥な濡れた音を立て、貪婪に交わされる口吻。決して乱暴にならない桃城の愛撫に、細い躯が身
悶え、嫋々の喘ぎが響き渡る。
「忘れ音なんて、可愛いもんじゃないだろう?」
 外から響き渡る澄んだ虫の声も、淫蕩に耽ったリョーマの喘ぎの前には容易に掻き消されてしまう。
満ち欠けを繰り返す月のように、満ちる為に欠けていく餓えに怯えをきたすリョーマの嗚咽は、忘れ音よ
り遥かに痛々しい響きを持っている。
 夏の終わりから深まりゆく秋。続いていく季節の変容の前に、失われていくものもあるだろう。蝉の声
が失われ、秋の虫達の声が消えかかっていくように。変わらないものなど本当は何一つないことは知っ
ている。死体だって変化するのだ。土へと還る為に。自然の摂理とはそういうものだ。
「お前は、そんなものに囚われるなよ」
 通り過ぎていく季節に鳴く最後の声。そんなものにどうか囚われずに笑っていられるように。
 嫋々の喘ぎを漏らし、細い背を撓わせるリョーマに、桃城は祈るように頭を垂れ、色付く肌に口唇を寄
せた。