手の中の月











 
 見上げれば、蒼い満点には夏の星と円い月が、綺麗に輝いている。
梅雨の中休み、この分なら、あと数時間で終わってしまう今日、天の川は氾濫しないだろう。
「珍しく晴れたな」
 蒼い夜空を見上げ、桃城はリョーマの自宅の裏に在る寺の大木の根元に腰掛け、天を仰いで笑顔を見せている。
 梅雨の時期だから仕方ないのかもしれないが、七夕の日は、過去を数えても雨が多い。
「桃先輩、七夕ってなんスか?」
 七夕やるぞと、突然訪れた桃城の手には、小振りだと言う笹の葉が在って、リョーマは意味も判らず眼を点にしたのは日も傾いた夕刻の事だ。
 此処数日の梅雨の合間の気温は真夏のようで、それに増して湿気を多分に含んだ日本の梅雨は、リョーマを少しだけバテさせていた。それにまして七夕の日曜の本日は、気温が更に上昇し、本来暑さの苦手なリョーマは、一日中クーラーをつけっぱなしにした部屋で、涼んでダラリと寝ていたい心境だった。
 けれどそんなリョーマに呆れて、桃城はリョーマをクーラーの効いた室内から、蒸し暑い風が吹く外へと連れ出していた。夜になっても気温の下がらない熱帯夜。けれど雨は降っていないから、七夕としては丁度良いのだろう。
「何だよ越前、お前全然知らないんだな」
 夜になって多少は涼しくなった風が、木々の葉を揺らして行く。それでも熱帯夜なのに変わりはない。
「知らないっスよ。アメリカじゃ、っんなものないっスから」
 クーラーの効いた室内から引っ張り出され、リョーマの不快度指数は上がっていた。けれど桃城にそんな表情が通用する筈もなく、リョーマは諦めて溜め息を吐くと、桃城の隣に腰掛け、差し出された色紙を不思議そうに眺めた。
「何するんスか?」
 笹の葉と色紙。七夕の意味など知る筈もないリョーマは、怪訝と不審をまろい瞳に湛え、桃城を見上げている。
「お前、ちっこい頃はこっちに居たくせに、どうして忘れてるかな。幼稚園でやってるぞ」
 無防備な眼だと思う。試合最中は冷ややかな熱を帯びる眼差しは、今は研ぎ澄まされた冷ややかなものなど何一つない。
「俺年寄りじゃないから、長期記憶苦手っスよ」
「…………お前な…」
 リョーマのこんな悪態は今に始まった事じゃないから、いちいち気にしていたら、彼とは付き合えない。そして悪態を吐くリョーマが小生意気で可愛いと、始末に悪い溺れ具合をしている自覚は、桃城には多大だった。
「願い事、書くんだよソレに」
「願い事?」
 渡された色紙と桃城を交互に眺め、最後に手の中の色紙に視線が戻る。
七夕の意味の判らないリョーマに、願い事を書く意味など、当然判る筈もない。
「七夕ってな、7月7日にそう言うんだよ。織り姫と彦星っての知らねぇか?」
「何それ?星の名前?」
 聞いたような気もするけれど、判らない。
「そう。星座伝説、みたいなもんだけどな」
「フーン」
 興味なさげに呟くリョーマに、桃城は苦笑する。
「天の川に挟まれた恋人同時が、年に一度、天の川を渡って逢瀬するって話しだな」
「それで何で願い事なんスか?」
 意味が繋がらないと、リョーマは不思議そうにしている。
「さぁな」
「ってあんた、何そんな無責任なんスか」
「ってもな、俺だって小さい頃から、七夕ってのは晴れた日の夜に織り姫と彦星が逢うってのにあやかって、願い事をするってのしか知らないんだよ」
「晴れた日?」
「天の川って一応川だろ。雨降ったら氾濫するってな」
「Milky wayが?」
 可笑しそうにリョーマが笑うのに、桃城は夢ねぇなとクシャリと髪を掻き乱す。
「だって、天の川の川は水じゃなくて星屑なのに?」
「それでも、そう言うんだよ」
「でも、面白いっスね」
「だろ?」
「違うよ。地上の天候が天を左右するって発想がね。逆ならともかく」
「そいや、そうだな」
 考えた事もなかったと、天を仰げば、生い茂った枝の狭間から切り取った視界に映る星は、どんな意味を抜きにしても、綺麗なのには変わりない。    
「でもアレだろ?綺麗な方が、いいんじゃねぇ?雨降ってたら星は見えないし」
 汚いとか綺麗とか言う以前に、晴れていなければ星も月も見えはしないのだ、地上からは。雲に覆われ差し込める何万光年彼方の時間の向こうから訪れてくる光は、たった一層の雲の存在に隠されてしまう。
 晴れては無くては意味がないから、晴れていなくては困るのだ。きっとそんな些細な理由なのかもしれないと、桃城は漠然と思った。
「それで、この紙に願い事書いて、笹に飾るんすね?」
「YES」
「………タラシの要素の片鱗は見せないように」
 音楽が好きだからなのか?音感の良さは耳の良さで、ヒアリングにはもってこいだ。
とてもそうは見えなと言うのに、桃城の英語の発音は、現地で育ったリョーマを呆れさせないカタカナではない流暢な発音で綴られて行く。
 英文法に力をいれても、ヒアリングは二の次三の次になっている日本の文科省のカリキュラムは、実際問題英語としては成り立たない。カタカナ英語の発音など、現地では何一つの役に立ちはしない。それを考えれば、桃城の英語の発音は流暢で、ついつい勘ぐってしまうのだ。
「あんたが以前付き合ってた女っての、よっほど英語が得意だったんスね。通訳か何か?
それともあっちの人?」
 普段なら決し立ち入らない領域に、リョーマは珍しくも立ち入って訊いてみた。
案の定、桃城は半瞬不思議そうにリョーマを眺め、次には酷薄な口唇に意地悪気な笑みを浮かべた。
 開放的な笑顔だと言われながら、ちょっと口端をつり上げて笑うだけで、この男の笑みは様変わりする。当人も認識して、作る笑みだからタチが悪いとリョーマは憮然となった。
「気になる?」
 クシャリと髪を掻き乱して、スッと顔を近付けて笑えば、
「別に」
 素っ気なく言い放つ。
「お前がそんな事訊くの、初めてじゃねぇか」
「桃先輩、英語巧いように見えないのに、発音しっかりしてるから。ただそれだけ。生真面目に勉強するタイプじゃないあんたが、英語のヒアリング巧いなんて、課外授業の成果に決まってるって思うのは、俺の勘違い?」
 憮然としていた表情の背後から、薄布一枚引き捲ったように、表情が変る。
意味深な笑みが零れ、桃城の完敗を告げた。
ガクリと、桃城が肩を落とした。1から10まで、リョーマの台詞に間違いはない。
「何懐いてるんスか」
 見透かすよなお前、そう脱力した桃城は、リョーマの肩口に頭を垂れている。
「それで、何書けば言い訳?」
 渡された数枚の色紙に、願い事を書けと言われても、唐突すぎるソレに書ける事など、何一つない気がした。第一、願い事など持ち合わせてはいない。
「何でもいいんだよ。まぁ大抵はさ、将来の夢とか、書くもんだけどな」
「将来の…ねぇ。それって、誘導尋問?」
 トサッと、隣に座っている桃城の鍛えられた胸板に細い背を預け、リョーマは生い茂る木々の狭間から見え隠れしている円い月を見上げて問い掛けた。
 将来の夢。そんな事、未だ判らない。判らないと言うのは、多分正確ではないだろう。迷っているのだ。
 父親に言われた台詞が、此処の所胸に重いのは確かだ。何かに熱中している時は思い出す事もないけれど、こうして不意に言われると、父親の台詞が思い出されて、胸の奥が痛む気がした。


『俺は自分がプロになったからお前にもなれなんて、そんな下らない事言う気はないからな。ただお前がプロにならないなんて言い出したら、向こうの連中、捕獲作戦、始めるかもな』


 笑っていた口許。相反し、笑っていなかった眼。
自分と他人の区別の付きすぎている父親には、こんな時、らしくない感謝をする。強要されない事は遥かにラクだけれど、指針が欲しい時には些か厄介な代物だとも思う。
 テニスは好きだ。続けていきたいとも思う。けれど、それを生活の手段に使って報酬を得てそういうプロの道に進みたいかというと、未々考えても迷う事ばかりで、何一つ判らない。
 天に浮かぶ円い月。何も知らぬ気に、地上を見下ろしている地球の衛生。          





「まぁ、それもあるかもな」
 無防備な眼差しのくせに、適格に見透かして行く瞳の強さに苦笑する。
別段、誘導尋問という程のものではなかった。ただ単純に、願い事を書けばいいとも思っていた。けれど、心の何処かには、そういった部類のものも、隠されていたのかもしれない。
「別に何でもいいんだぜ、大会で優勝するようにとか」
「それこそ書いても意味ないじゃないっスか」
 実力で勝てばいいだけの事で、願い事を書いて叶うものなど、実際何一つ存在などしない。
「夢だよ夢」
「そんな夢いらない」
「お前なぁ………」 
 リョーマの即答に、けれど桃城はらしいと肩を竦めた。
「だったら、桃先輩は?」
 背を預けた胸板から身を起こし態勢を反転させると、桃城の腕の中、身を乗り出す格好でスゥッと顔を近付け、黒曜の双眸を覗き込む。


『お前が笑っていれば、まぁ俺は倖せだよ』


 呆れる程優しい悪党は、そう笑って告げた。



「書いて叶う夢なんて、何一つないでしょ?」
「七夕の時くらい、ガキに帰れって意味もあんだよ」
 無心に、ただ無心に、未来を信じて願いを掲げて。その願いを忘れないようにと刻み付ける為に書く言葉。書いて願いが叶うなど、思ってはいない。幼稚園児ではないのだ。ただ胸に刻み付ける為の言葉を掲げる為のもの。
「だったら、桃先輩は?」
 中学生が打つ代物ではないダンクスマッシュとジャックナイフ。可能性は、幾らでも残されている。
「俺な〜〜」
 テニスは好きだけれど、自分は多分生活手段にはできないだろう。其処まで実力に溺れてはいない。
「ホラ、結局紙切れに書ける願い事なんて、二人共持ち合わせてないって事っスよ」
 そう笑うと、リョーマはコトンと桃城の肩口に額を預けて瞼を閉じる。
「どした?」
 額を肩口に預けたまま、ダラリと腕は伸びている。不安定な姿勢に、桃城の片腕が細腰を支えるように伸びた。
「織り姫と彦星って、一年に一回だけ逢うんスよね?」
「それも雨が降ったらパァ、だけどな」
「…………あんたは……?」
 小声で呟いた声。聞こえるか聞こえないかの程度で呟かれた声を、けれど桃城が聞き逃す筈がなかった。頭上から、吐息を飲み込む音と気配が伝わった。


『枷じゃないよ。あの人は』


 父親との会話のやり取りで、告げた言葉が有った。


 自らの存在がリョーマにとって、思考領域を限定させてしまう存在ならば、枷としての自分を意識して、桃城はリョーマの前から消えてしまうだろう。
 笑っていて欲しいと願いを掲げる傍らで、桃城は自らの存在がリョーマの中で、思考さえ奪う程限定される事を由とはしていない。可能性を否定してしまう存在になるくらいなら、消えた方がマシ、そう考えているフシがある事を、リョーマが気付かない筈はない。
「半歩俺の後ろに下がって、俺の事視てるあんたは?」
 多分こうして、言葉に出して訊くべきではないのだろうと思う。
自分の行く先を半歩後ろから下がって視野を広げて見ようとしている桃城の視界の先には、一体何が映っていると言うのだろうか?同じものなど視える筈もないと、百も承知している筈の桃城には、一体何が視えるのだろう?その位置から。
「淋しい?」
 枷じゃない。この人は、何があっても枷にならない。
むしろ…枷にしたいのは自分の方だ。淋しいのも、きっと自分。強気で端然と父親に告げたくせに、告げた先から淋しさが湧くなんて、本当に冗談じゃない。
 見守られる優しさに気付かないフリもしていられないくせに、我が儘な事ばかりしか言葉に出せないくせに。言葉に出して、答えを欲しがる狡さを、知らない訳では無い。
「ガキになってく一方じゃん……」
 とても理不尽な質問をしている気分にさせられて、リョーマはボソリと呟いた。
無表情を決め込んでいた自分の仮面など、甘やかされて綺麗に剥がされて行く。



「お前さ、月ってどう思う?」
 珍しく甘えて来るリョーマの甘えが、迷いの断片なのだと、桃城は察していた。
ダレかに指針としての答えを求める事などないリョーマは、こうして迷い、疲れては甘えてくる事を桃城は知っている。
 随分進歩したものだと、思わず苦笑する程度に、近頃はその内面を覗かせる。それが嬉しくない筈がない。
 一人で、自分の知らない場所で一人で迷い、迷い疲れて眠られるより、余程いいに決まっている。
 昔から、彼の笑顔を見て倖せになっていたのだから。リョーマは覚えてはいないだろうけれど。
「……月?」
 桃城は通常、自分との会話の中。前後の文脈を無視する事はない。その桃城が、突然訊いてきた台詞に、リョーマは埋めた肩口から顔を上げ、怪訝に視線を移し、そして次には切れ切れに覗く天に視線を移す。
 円い月。白く輝く月は、けれど真冬の凍える冷ややかさは微塵もない。地上の穢れた空気と熱帯の夜。それでも優游と浮かび、地上の喧騒を素知らぬ顔で見下ろしている。
「アレって、何で出来てるんだろうな?」
「……何って?」
 空に浮かぶその球体が、何で出来ているかなど、考えた事もない。
「石、だよな」
 穴だらけのクレータが有る巨大な石。地上から見上げていれば綺麗なものでも、実際眼にしたら興ざめだろう。手にしたら失せて行くものなど、数限りない。それでも、こうして見上げていれば、何にもまさる宝石に映るから不思議だ。
「地球の一部って言われてるの、お前知ってる?」
「?そうなんスか」
 月から桃城に目線を移す。桃城の視線は、月の事を話しながら、リョーマを視ていた。
その時初めて、譬えなのだと漠然と気付いた気がした。
「大昔、地球から欠けて出来た石ころ。重力1/6G、空気も水もない無音の死の世界」
 桃城の視線が、ゆっくりと天を見上げた。
「元々が地球のもんだからかな。地球の回りを回ってるの」
「んじゃ太陽系は皆そうなるっスよ」
 太陽の忘れ物、のわけではない惑星。
「まぁそうなるか」
 苦笑する。苦笑しつつ、円い月を見上げている桃城に、リョーマは思い切り髪を引っ張った。
「オイ、痛いゾ」
「痛いようにしてるんだから、当然」
 痛みを与えて視線を戻された桃城を、リョーマは呆れて凝視する。
「あんたがバカな事ばっか言うから」
「訊いたのお前だろ」
「誘導尋問の答えが欲しいなら、そう訊きなって言うの」
 あんた心底バカだよ、リョーマは桃城の頬を両方から思い切り引っ張って呆れた。
「オイ、だから痛いって」
「感傷的なあんたなんて見慣れてるけど、俺相手に哲学したって意味ないよ。俺はもっと即物的でいいの。バカだから、あんた本当にとことんバカだから。タチ悪すぎ」
 バカでバカで、呆れるくらい自分を大切にして優しくて、笑っていれば倖せなんて、とんでもない殺し文句平然と吐いて。身動きとれなくしておいて、その自覚もないなんてサイテーだと、リョーマは内心忌ま忌ましげに舌打ちする。
「言葉間違えたら、通用する想いも通用しない」
 逃さない真摯な眼。澱みも迷いもない一対の眼が、桃城を凝視する。
切っ先を潜ませている硬質な眼差しこそ、リョーマを構成する最大限の要素を綺麗にカタチにしている。
「あんたと離れて淋しいとか、だからプロになるのやめるとか。そんな下らない想いで あんた縛り付けて枷にして、自分の未来潰したりしないから、安心していいよ」
 得ていく怖さは、けれどそういう事だと、思い知るのもきっとこんな時なのだろうとリョーマは思う。
 求めて得て、失えないもの。それはいつだって、失う怖さと向き合う事に繋がるからだ。
だから、誰かを求める事などしたくはなかったと言うのに。今だって、だから認めたくは無いのだ。心を預けてしまうなど。だから今でも『取り敢えず付き合っている恋人』程度の言葉しか吐き出せない。 
「お前、月みたいだからな」
「石ころ?」
 石ころと断定した物言いをした桃城の譬えが自分と言う事は、冷静に考えればそう言う意味に繋がるのかと、リョーマは剣呑な雰囲気を纏い付かせ、
「落ちてきそうで、落ちてこない」
 桃城を睥睨する。睥睨して来る眼差しに、桃城は柔らか笑みを浮かべ、穏やかに口を開いた。
「…あんた本当に、大バカ」
 盛大に溜め息を吐く。吐き、やってられないと、バサリと肩口に額を付ける。
その懐に、すべてを預けて落ちたら怒るくせに。最後の最後には、甘やかしてはくれないくせに。
「だったらあんたは地球ってわけ?」
 回る星。引き合って程よく引力バランスを保っている。
無重力の空間に浮く地球の欠片。
「そんな怖い事、考えてねぇな」
 肩に掛かる重みが、きっと今の自分達の距離に思えた。
「離れたって、俺等は簡単に逢えるしな」
「そうそう、文明の利器ってのは多いに活用してこそ価値があるんだし。逢いたくなったら逢いに行けばいいだけでしょ?物理的に不可能な距離じゃないよ。アノ月よりはね」
 浮かぶ石。遠いからこそ綺麗に映る、太陽の光を受けて輝く地球の分身。
「逢いに、来てくれるんでしょ?」
 もし、万が一、自分がアメリカに戻ったら。
「お前さ、近頃それ迷ってんだろ?」
 テニスが楽しいと気付いたからこそ、生じた迷いと恐怖。
桃城が、知らない筈はない。
「逢いに行くよ。お前が思ってるより、俺はこれで執着欲も独占欲も高いんだよ」
「たまにはそんな甲斐性、本当に見せて欲しいっスよ」
「見せないように努力してる俺の理性、お前いつだって綺麗に砕くからな」
 タチ悪いのはお前だと、桃城は笑った。
笑い、緩やかに肩口に埋まる。小柄な頭を撫でて行く。行くと、細く薄い背が、擽ったそうに揺れる。
「大体さ、桃先輩。俺中学卒業するまではこっち居るからね。まだ向こう帰るなんて決めてないんだし。勝手に俺がプロになるって仮定して話してるけど。そんな先の事、判らないよ」
 緩やかに梳かれて行く指の感触が好きだった。少しだけ擽ったくて、けれど心地好い指。
ダレかの指の感触が、気持ちいいと感じた事は、桃城が初めてだ。幾重も差し伸ばされていた腕や指は有った。戯れに梳かれれば、鬱陶しいと言う以前に、嫌悪が先立って、腕を振り上げ払い除けて来た。
「まぁ、今は全国大会が先だしな」
「そうそう、第一桃先輩、今度こそちゃんと復帰してよね。アッ!」
 突然、リョーマが肩をから顔を上げ、桃城を凝視する。
「………お前が今何思い付いたか俺判ったぞ」
 今までと違う眼差しの光。悪戯を思い付いた子供のようなソレに、桃城は嫌な予感に眉を顰めた。
「良かったっスね。以心伝心」
「書くなよ」
「何で?七夕って、願い事書く日でしょ?」
「お前な…相変らず自己解釈型だな」
「何書いてもいい日でしょ?彦星と織り姫は、一年に一回の逢瀬を楽しんでるんだろうし」
 そう笑うと、リョーマは短冊に願い事を書き出して、桃城はゲンナリと脱力した。
「ハイ」
「嫌味か?」
 差し出された短冊を、渋々笹に攣るしながら、桃城はヒラヒラ熱帯の風に揺れるソレに嫌そうに眺めた。
「ねぇ桃先輩。天上の二人が逢瀬堪能してるなら、俺達が堪能してもいいと思いません?」
 ねだるリョーマの癖だろう。スゥッと細い腕が綺麗に伸び、首に回る。意味深でいて、何処か相手の反応を窺う子供のような表情をして、下から上目遣いで桃城を覗き込む。
「………とんでもない引力だな…」
 確信犯め、そう苦笑する。
「引き合ってバランスとってるのが、一番いい距離だと思うけど?」
 落ちる事もなく、落とされる事ない。引き合い保つ位置。
未だ、いいのだろう。我が儘に甘えて悪態をついて。許されていると、勝手にそう解釈する。
「暑いのは、嫌いなんじゃなかったのか?」
 部屋から連れ出した当初は、散々悪態をついていたくせにと、首に回る白い腕を眺めながら、細い腰を引き寄せる。
「毒食らわば、皿まで」
「………お前日本語違うぞ」
 引き寄せ、大木の根元に横たえる。覆い被さると、やはりねだるように腕が伸びて来る。
「離さないって言ったら、お前どうするんだ?」
 実際。腕の中のこの人間が何処かに行くとしたら、自分はどうするだろうか?
送り出したいと思う。可能性は幾重も有って、その可能性を実現できる場所が有るなら、送り出してやりたいと願う。けれど、自分は何処まで我慢出来るだろうか?
 繰り言のように繰り返す願いなど、たった一つだと言うのに。笑っていてくれればそれでいい。可笑しい程そう願う。
「どうもしないよ。生涯責任とってもらうだけ」
 それもいいけどね、リョーマが笑うと、
「それも一つの可能性だな」
「未来は限定されてないんならね」
 繋いだ手を、何処まで離さず一緒に居られるかなど、当人達次第だ。物理的距離が精神的距離を離してしまう事はままあるけれど。それでも、それは当人達しだいだろう。
「今はこうしているんだから、これが倖せって事で、手を打つか」
「一石二鳥的に言わないで下さいよね」
 クスクス笑うと、瞬時に吐息が重なった。
織り姫でもなく彦星でもなく、年一回の逢瀬でもなく。こうして触れ合う距離に、感謝する。
 求めて番って溺れるには丁度いい熱帯夜。暑さは更に暑い熱で打ち消すように、二人の吐息が長く尾を引いた。


 桃城が持ち込んできた笹につるされた短冊が風に揺れる。

『桃先輩がレギュラーに復帰しますように』

 一つだけつるされた短冊には、そう書かれていた。



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