『天然のプラネタリウム』


 スラリと、白い腕が綺麗に伸びて天を指し示す。
腕の先。指先のその先を視線で辿る。まっすぐ綺麗な形をした爪の先。
 深夜に近い時刻。けれど真夜中ではない分、簡素な住宅街の家々には、未だ明かりが灯っている窓も少なくはない。
 見知らぬ家々の屋根。鉄柱から伸びる電線。更に上に視線を動かせば、地上との落差などこれ以上ない程有る筈なのに、不思議と境界の明確ではない蒼い闇に満天の星が在る。
 

 見慣れている筈の光景が、とても綺麗だと感じた。
カタチに残る幾重より、綺麗な有りふりた光景の一つ。
 不器用な彼らしいと、素直に笑って拗ねられた。


『だって桃先輩、俺笑ってれば、倖せなんでしょ?』


 聞き流されているとばかり思っていた台詞を、何気ない台詞と素っ気ない仕草で、彼はこうして再現してくれる。
 不器用な彼が指し示してくれたソレがとても倖せで嬉しくて、『サンキュー』と言ったら、呆れられた。


『自分の誕生日に、何言ってるんだか』


 埋没している日常の延長線に視える、有りふれた光景の一部。
綺麗な綺麗な、有りふれた光。


Happy birthday to you

Happy birthday to you

Happy birthday dear……
有りふれた光景の一部








『バカで単純な方が、大事なもん無くさないかもしんないぞ。物質的な条件がステイタスだと思わない方が、倖せになれんだぞ』


『クールな外見してるお前がパフェが大好きだったり、アメリカでの生活が忍ばれる程酒が呑めたり、キスが大好きで』


『お前はお前で、ダレかじゃないだろ?』



 本当にバカだと、そう思うのだから仕方ない。
バカみたいに優しい悪党。詐欺師の要素バッチリだ。



「タチ悪いよ、本当にさ」
 声に出して呟いて、桃城に以前買ってもらったブルーの目覚時計で時刻を確認する。
時刻は11時を少し回った時間だ。
自宅から桃城の家までは自転車でなら、10分と掛からない。徒歩でもさして掛りはしないだろう。
 近頃何かと物騒になってきた社会常識に照らし合わせれば、中学生が気軽に出かける時間帯ではないのだろう。けれど、家から一歩外に出れば、そんな中学生は幾らでも転がっているから、今日くらいそれを免罪符にさせてもらおうと思うリョーマだった。
「きっと、忘れてるんだろうな」
 部活で顔をあせた時も、別段何も言っていなかった。
イベントが大好きそうに見えるのに、何一つの要求などされなかった。きっと忘れているに違いない。覚えていたら、もう少し何かしらのリアクションが有るだろう。
そのリアクションがないのだから、忘れているいるのだろうと思うリョーマ勝手に判断を下した。
 そのくせに、こうして幾重かの言い訳と免罪符を用意して、出かけようと身支度しているのだから、自分は一体桃城の何処に惹かれ、付き合っているのだろうか?


 慣れたキス。
アノ年で、散々年上の女に飼い慣らされてきたのだろう、手練手管に慣れきっているキス。最初こそ腹も立ったけれど、過去を気にしても仕方ないと割り切るのも早かった。


 慣れたセックス。
残念な事にと言えば、桃城は泣いて脱力するだろうが、生憎桃城以外の男を知らない身としては、比較も分析もできないのだけれど、慣れているのは窺える。
 熱いくせに、決して熱くなりきらない理性が残されているのが判る。理性的な冷静さと言えば、違う気もするのだけれど、気遣われている事だけは腹の立つ程判っている。
 だから挑発しなくては不安になる自分の内心など、知らないのかもしれない。
 気遣いなど必要ないと言うのに、バカみたいに優しい。
欲しいのはお互い様だと、何処まで理解されているのか?判りはしない。   
 言葉に出して何度となく言って見せた所で、そういう面ではひどく常識人ぶる悪党は、やはり気遣いはやめられないらしい。する事をしていれば言い訳にもならないし、それが免罪符になる筈もないと言うのに、可笑しい程、気遣ってくる。
「バカだ……」
 バカでバカで、時折胸が痛くなる程バカな優しさを掲げて来る。
こんな日でもなけれれば、こうして考える事も多分ないだろう。
 らしくもなく、好きの理由を考えてみる。
転がる石を拾って掬って形に嵌めるように、桃城の断片を拾い集めて形を作りあげて行く。
 パーツとか、ピースとか、パズルの欠片を並べて置き換えて見るように、桃城を好きな理由の言い訳を探してみる。


『お前迷って疲れてんだよ。気付かない程、お前の事、見てなくなかったぞ』


 クワセ者はまさしくクワセ者だ。
気遣いを感じさせない気遣いで、見守られていた事を、知らない訳ではなかったけれど。
言葉に出して告げられたのは多分アレが最初だ。
 鉄槌を下して来た人間は幾重も在るというのに、とんでもないクワセ者に掴まった気分だ。けれど悪い気分は微塵もないのだから、尚始末に悪い、そう思えた。
「それでも、俺も大概バカ、だよ」
 自覚の一つや二つくらい、持ち合わせている。
こうして、夜中に近い時間帯。幾重かの言い訳と免罪符を持ち出して、出掛けようとしているのだから。
 こんな時間帯に出掛けたら、常識人ぶる桃城の事だ。心配する事くらい判っている。けれど、どうしてもと、思ってしまうのだから、掴まってしまったのだろう。悪い気分はないけれど、少しばかりの胸の痛みを感じてしまうのも確かだ。
「マダマダだね」
 細く薄い肩を竦め、苦笑する。
優しい悪党。詐欺師で狡くて、最後の最後には決して甘えさせてはくれない男。
 それでも、そんな男の為に夜中に出掛けようとしているのだから、大概自分も酔興だ。
そう思えば、柔らかい胸の痛みが疼いて、やはり苦笑しかできないリョーマだった。





「コラ、この不良息子」
 11時と言う時間帯。未だ家ではリビングで両親はTVを観ている。部屋にメモを残し、足音を忍ばせ、玄関を出て行き際。予想通り見付かった。
「彼氏とデートか?」
 訳知り顔で笑っている父親を、憮然として見上げると、
「一番乗りで逢いに行くたぁ、お前も案外、乙女だな」
 クツクツ笑っているのだから、日付変更線が何を意味するのか判っているのだろう。一体何時の間に聞き出したのか?
相変らず飄々とした態の父親の内心を、推し量る事などできはしない。
「っるさい」 
「ったく、お前も懐いたもんだな」
 甘やかされて我が儘になって、笑顔を見せている。
アメリカではついぞ見なかった感情を、他人に預けているのだから、大切にされている事くらい南次郎の眼からみれば明らかだ。
「イヌ、ネコかよ俺は」
 懐く、懐かないではないだろうと、リョーマは憮然と父親を見上げれば、
「カルピンの奴も懐いてるしな。ペットは買い主に似るっていうのは本当だな」
 ニヤリと笑って、南次郎はリョーマを見下ろした。
所詮反駁で、父親に勝てた試しなどないので、リョーマは南次郎を睥睨すると、
「行ってきます」
 憮然としたまま、それでも取り敢えず挨拶をして、玄関の扉に手を掛けた。瞬間。
「青少年。俺からもあいつにプレゼントやるって伝言しといてくれ」
「伝言?」
 掛けられた声に背後を振り返れば、意味深な笑みをして、南次郎は立っていた。
「俺と母さんな、明日一泊二日でデートに出るからな。奈々の奴は友達の家に行くって言ってたし。悪さするなら提供してやるぞ」
「クソ親父」
 悪さの意味が、判らない筈はない。
笑う南次郎に、リョーマは憮然としたまま盛大に悪態を吐いて、出て行った。
「世の中物騒だって、判ってるのかあいつは?」
 止めても聴く息子ではないし、止めれば意固地になる事も判っているので止めたりはしないけれど、昨今の物騒さに、父親としては些か心配してしまう南次郎だった。
「帰りはナイトが付いてるから問題ないとして」
 時刻は11時30分を少しだけ回っている。世間的に考えれば、中学生が出歩いていい時間帯ではなかった。
「ったく、あいつもまぁ」
 特別な日に心配を掛けに行ってどうするんだと、南次郎は溜め息と自嘲を漏らした。











 蒼い闇。静まり返った住宅街。音一つ無い夏の夜。
落差のない程近く見える星々の瞬きが、手を伸ばせば掬えそうな程綺麗だった。
 蒼い闇に浮かぶ星。周囲の星を圧倒して悠然と浮かぶ球体。真冬の凍り付く冷冽な綺麗さはないけれど、穢がれた地上の熱帯の空気の中でも、それは綺麗に見る事ができる。
「掴めそうで掴めないけど、遠くで見てるから綺麗だけど、今日は掴めるかもしれないよ?桃先輩」



 今日は特別な日だから。



 頭上で煌く星々と、それを凌駕して輝く白い光。
落ちそうで落ちてこない保つ位置。アノ日の夜、切れ切れの雲の隙間から覗いていた円い球体。
 視線を天からゆっくり下げれば、正面に桃城の部屋の窓が在る。窓明かりが灯っているから、起きているのだろう。
 文武両道がモットーの青春学園は、夏休みにはそれなりの宿題が出されているから、部活で潰される昼間の時間帯を補う為に、夜机に向かっているのかと半瞬考え、その考えはすぐに否定される。どうせお気に入りのCDを聴きながら、体感ゲームでも愉しんでいるに違いない。
「俺が笑ってれば倖せだって言うんだから」
 それだけで十分だろう。
リストウォッチに視線を落とせば、残り10秒で日付が変る。 リョーマはジーンズのポケットから携帯を取り出すと、リストウォッチを眺めた。
「5、4、3、2、1…………」
 カウントを取り、長針と短針が重なった瞬間。リョーマは携帯の短縮ボタンをプッシュした。











 お気に入りの怪盗のアニメソングの着信音が、放り出したままになっているテニスバッグの中から響くのに、桃城は慌ててテニスバッグの中から、携帯を取り出した。
 IT産業の目覚ましい発展で、年々小型化するコミュニケーション道具。それとは相反し、IT産業の伸び悩み。矛盾していてとても嗤える事実。
 急かすように鳴り響く着信音に、桃城はディスプレイを見て、
「珍しいな」
 素直な感想を漏らしながら、桃城は通話ボタンをプッシュした。
「ハイ桃城……………」

『遅い』
 桃城が皆まで言い終わらぬうちに、リョーマの声が響くのに、桃城は一挙に脱力する。

「越前〜〜」
 携帯を、持っていても可笑しい程掛け合う事のない自分達だから、リョーマから携帯を鳴らす事は滅多ない。
 夏休みに入っても、日々部活で顔を合わせていれば、家に帰ってまで携帯を鳴らす用事がないのは確かだ。
 そう言えば、世間の恋人達はもっと違うと、何処からか反駁の合いの手が入りそうでは有るけれど、小さいコミュニケーション道具を使うならともかく、使われる気はないので、仕方ない。
 小さい画面の中で済む通信手段が悪いとは言えない。使う判断ができていれば、とても安易で便利な代物だけれど、使われてしまっては終わりだろう。道具は使ってこそ意味があるけれど、使われ道具に支配されてしまっては終わりだと、簡単な事実が案外近頃では難しくなっているように思える。その所為と言うわけではないのだけれど、自分達はプライベートに、無闇に携帯を鳴らす事はない。
 小さい道具に支配される薄気味悪さが、半歩程自分達を世間の恋人同士のように、戯れと無意味な通信手段に頼る事をさせないでいるようだと、桃城は思う。
 そんな自分達だから、リョーマが携帯を鳴らして来る事は極端に低い。けれど掛けてくれば開口一番コレだと、桃城は苦笑する。
 小生意気で勝ち気で我が儘。綺麗で可愛くて別嬪。
小生意気な口調が可愛いと思えてしまうのだから、大概自分も溺れていると痛感する。小生意気なリョーマが、けれど他の人間には、此処まで傍若無人な台詞を吐く事が少ない事も判っているから、それは彼なりの甘えなのだと判っている。

『0時ジャスト。俺が一番乗りって自信、有るんスけどね』

「?何の事だよ?」
 告げられた言葉の意味が判らず、桃城の脳裏は疑問符が沸いている。それを見透かして、リョーマはやはり笑っている。

『部活で騒いでなかったから、絶対忘れてると思ったけど。やっぱ忘れてたんだ』

「お前の得意技だな。主語抜きにして話されても、判らないぞ」
 少しだけ呆れた苦笑に、桃城はやはり答えが見付けられないでいた。


『HAPPY BIRTHDAY』



「アッ…………………」
 小さいコミュニケーション道具からは、とても流暢な発音の英語が流れて来る。その時初めて、リョーマの一番乗りの意味を理解した。

『誕生日、でしょ?』

「忘れてた………」
 リョーマの誕生日は覚えていても、自分のソレなど忘れていた。そう言えば、午前0時になった今は7月23日で、誕生日だった。

『桃先輩、プレゼントいる?』

「いる、けど、珍しいな」
 明日は雨か?一瞬そう思ってしまう。
確か明日も夏日だと言っていたけれど、局地的には雨かもしれない。そう思ってしまう桃城だった。

『俺、今何処に在ると思う?』
 桃城の内心を綺麗に見透かし少しだけ憮然とする声は、けれど意味深に囁いて笑っている。そんな台詞に、桃城は慌てて窓を開く。

「越前?」
 窓から外を見下ろせば、蒼い闇の中。小さい姿がヒラヒラ手を振っていた。








「この不良」                
 自分の家の壁に小さい姿を凭れ立っている、頭一つ以上低い姿を見下ろして、桃城は開口一番そう苦笑する。
「死語っスよ、っんな台詞」
 隣に立って見下ろされ、その視線を見上げながら、シレッとするリョーマに、桃城は仕方ない奴と苦笑する。
「親父さん達、よく出してくれたな」
 中学一年が、フラリと出歩いて良い時間ではないだろう。
「別に。自分の行動に責任を持てるから自由って言うんスよ」
 自由の意味さえ履き違えていなければ、取り敢えず行動に制限はされない。
自分の家は、誰もが享楽的に自分の人生を謳歌する事に長けている個が集合し、社会の一角を形成していると、リョーマは自覚している。父親然り、母親然り。従姉も例外ではない。
「………つまりだ、断りなく出てきたんだな」
 こういう性格だと、桃城はガクリと頭を垂れた。
「半分正解」
「半分?」
 これは出掛け際見付かったなと、桃城は察した。それでも、リョーマの行動に口を挟まなかったのだろうから、やはりクワセ者だと痛感する。悪びれなく笑うリョーマの性格を構成する環境だ。何ともらしいと思わずにはいられない。
「明日部活で顔合わせるんだ」
 こんな夜中にわざわざ出掛けてこなくてもと、ついつい気遣ってしまう自分の内心を、けれどリョーマに理解される事は案外に難しい事だとも思っていた。
「俺の身勝手なんだから、あんたが心配する必要はないの」
 知らないと、思っているのだろう、その内心を。これだけ大切に気遣われていて、気付かない程自分はバカでも無知でもガキでもないと言うのに。子供扱いして安心している桃城に、リョーマは内心盛大に溜め息を吐いた。
「平和なようで、物騒なんだぞ」
「自分だけは大丈夫なんて、そんな傲慢な事思ってないなら、OKでしょ?」
「違うだろ」
 『自分だけは大丈夫』まるで惨事はブラウン管の向こうの娯楽だと、大半の人間は安易な物の考え方で、自分の位置を安定させる。けれどそれは諸刃の剣だ。いつ傷付き傷付けるか、誰にも判りはしないのだ。 
「それだけ、自分が俺にとって特別だって、考えられない所が桃先輩だけどね」
 やっぱあんたバカ、そう笑う。
「特別な日だからって言うのは、免罪符にならない?」
 幾重かの言い訳と、多大な免罪符。イコールで、所詮自分のしたいようにした結果。そういう事になる。
 誰かに『オメデトウ』と言われてしまう前に。
そんな独占など、今までなら知らなかった。知った今では厄介だと思いつつ、手放せない。やはり恋愛は殺人的だ。
「………人様の誕生日に、我が儘押し倒したって事だな」
 リョーマの内心を綺麗に見透かし笑う桃城に、リョーマはやはり綺麗な笑みと流暢な発音で『YES』と笑った。







「天然のプラネタリウム」


 スラリと伸びる白い指先。
壁に身を凭れたまま、リョーマは不意に腕を伸ばした。
 リョーマの不意の台詞に、桃城は疑問符を付け、スラリと伸びた腕の先、指先の先に、ゆっくり視線を辿らせる。
 簡素な住宅街。0時を回った時刻でも、案外窓に灯る光は少なくはない。見知らぬ家々の屋根。鉄柱から伸びる電線。
 切り取られた視界が不意に開けば、蒼い闇が連なり続く満天の空。
何億光年の彼方から訪れてくる光と、落ちてこないのが不思議な石の球体が、太陽の光を受け、綺麗に輝いている。
「掴まえられそうで、掴まえられないけど、掴まるかもしれないよ?手を伸ばせば」
 今日は特別な日だしね。
リョーマはそう笑うと、天に伸ばした腕を綺麗な仕草で動かし、隣の桃城の左の胸の上にトンッと突き出すように触れた。
「落ちてこないけど、落とす気、ない?」
「お前……」
 左の胸。正確に、心臓の上を撫でるリョーマの指先。
「月もその気になれば、手に入るかもよ?」
 意味深に笑い、視線だけを宙に向ける。


「天然のプラネタリウム」


 開けた視線の上に広がる蒼い天。瞬く星と月の光。
有りふれた光景の筈が、とても綺麗に見える夜。埋没している日常に連なる延長線の光景の一部。
 ダレかと視る光景が、胸の奥の奥に焼き付いて行く。そんな光景を、今まで見た事はなかった。


「綺麗だな」
 感嘆し、隣に佇む小柄な姿態を抱き締める。
熱帯の夜は何処も未だ眠りの浅瀬に位置していて、窓には灯が宿っているけれど、抱擁を盗み見られても、それが誰かまでの判別は付かないだろう。
「何かさ」
 両腕を桃城の腰に回し、窺うように見上げて小首を傾げると、リョーマは其処で少しだけ沈黙を挟んだ。
「カタチとか、そういう物より、いいかと思ってさ」
 きっと誰からも、物は贈られるだろうから。
ダレかと同じなど、我慢ならない。こんな独占欲の在処など、気付きたくは無かったという思いが半分。けれどその相手にも当分の独占欲を与えているのだろうと思うと、少しだけ心地好い。引き合う引力とは、そういう物だ。両端から思い切り引き合っているから、一見すれば動いていないように見えるだけ。明確な領域が、不鮮明になっていく心地好さ。今までなら、逃げ出していた。
「越前」
 囁くように呼べば、『何?』と小首を傾げ、視線で問い掛けてくる様に深い苦笑が漏れる。
 見上げてくる無防備な双瞳。闇の中、綺麗にその蒼を映している瞬いている瞳は、月より星より綺麗で愛しい。 


 アア、本当に見せたかったものはコレなのか。


 その時初めて気付いた。
有りふれた光景に埋没している姿。 
 蒼い闇の中。背後の熱帯の夜の空気に輪郭さえ溶しながら、有りふれた光景の中で笑っている。
 そんな、日常の延長線の光景がひどく愛しく大切なのだと、今更気付かされる。こんな些細な日に。
「桃先輩、俺笑ってれば、倖せなんでしょ?」
 だからその程度でいいと思った。物というカタチに残すより、残すなら、焼き付けるような物がいい、単純に、そう思った。


『お前が笑ってくれてば、俺は倖せって感じだな』


 バカみたいに優しい言葉。その言葉がどれ程痛いかなんて、何一つ知らないくせに。
そうして逃げ道を、一つ一つ奪って塞いで行かれる。それすら倖せなのだと、知っているのかいないのか?
 バカみたいに優しい悪党。
笑っているから。特別な日の、瞬く一時くらいは簡単な事だ。


「Thank you」
「自分の誕生日に、何言ってるんだか」
 深い吐息を吐き、耳朶を甘噛み囁かれた声に、快楽を煽られる。
狡くて悪党。詐欺師で人でなし。
好きの理由を探して、ピースやパーツを並べるように、選んで並べて置き換えて。パズルを組み立てるように、断片の要素を拾い集めて組み立てる。


「桃先輩」


 気付いている。気付きたくないと逃げている想いの在処。
逃げ道を示しながら、綺麗に塞いで行くこのクワセ者。そのくせに、最後の最後には決して甘えさせてくれない厳しさを持っている人でなし。 

 だから特別な日には、特別な言葉で日頃の報復を兼ねて。


「congratulations and Thanks」
 おめでとう、そして、ありがとう。
感傷的な言葉だと判ってはいるけれど。
 どちらかと言うと、桃城の両親に感謝する。
幾重も在る人の数だけ出会う事の縁の不思議さ。そんなものに、意味もなく、訳もなく、感謝する。
「congratulationsはともかく、Thanksってのはどういう意味だ?」
 流暢な英語で綴られた綺麗な音。単語の意味は判るけれど、リョーマの告げる意図が判らない。
 緩やかな抱擁に抱き締めて、小作りな顔を覗き込んで問い掛けると、白皙の貌には意味深な意味が浮かんでいるだけだ。これは話してはもらえないなと、桃城は肩を竦めた。
「余裕期間は俺の誕生日までね。きっと判るよ」
 スルッと首に腕を回すと爪先で立って背伸びする。
「それまで、考えてていいから」
 綺麗な笑みは、桃城を魅了するには十分な引力を持っている。
「判らなかったら、どうすんだよ」
 アドバイスは、相手に伝わらなきゃ意味ねぇぞ。そう笑う桃城は、ねだるように首に回ってきた細い腕を見下ろし、細腰を引き寄せる。
「判るよ」
「自信有んだな」
「当然」
 でなければ、同性の相手に抱かれる茶番などしてはいない。
「ったく、お前は」
 小生意気で勝ち気で、それさえ愛しい。
触れる口唇の生温い温度。耳に心地好く漏れる吐息。背伸びして抱き付いてくる指先。
逸る鼓動が重なる。
 大切なんて今更だけれど、大切で大事。こんな些細な日に見せてくれた、有り触れた光景に埋もれている大切な笑顔。





「んじゃ、要件済んだし、俺帰るっスよ」
 少しだけ乱れた服を直す事もせずに、リョーマは埋めた胸カラ顔を上げた。
「送ってくから、待ってろ。お前不用心すぎるぞ」
 テニス以外の日常生活の上では、リョーマは自分自身の事にすら頓着がない。もう少し、昨今の物騒さを知って保身してもいいだろうと思う桃城だった。
「帰りはそう思ってたから」 
 けれど桃城の内心の脱力具合を見透かして、リョーマはシレッと笑う。
「やっぱお前、我が儘押し通してるな」
「もっと我が儘なのから伝言」
「?」
「明日っていうか、もう今日の夜だけど、自宅は俺以外一泊二日の旅行で不在」
「………って、親父さんからか」
「決定権は、桃先輩にあげる」
 誕生日だし。
リョーマはそう笑った。
「据膳喰わないのは何とかって言うしな」
 粋な計らいと素直に喜ぶべきか、些か問題は有る気はするけれど、嬉しくない筈がない。







「本当、降るみたいに綺麗だな」
 二人乗りなら便利で早いけれど、こんな時間は心地好くて、桃城は自転車を引きながら、歩いている。
 見上げた空は満天の蒼と星。
地上との落差もなく降っている蒼。本当は、其処に明確なラインはあるのだろうけれど、今は見えない綺麗な熱帯の夜の闇。
「俺わりと、星好きっスよ」
 釣られて見上げて、リョーマは淡く笑う。
その眼差しと笑みに、リョーマの過去の疵が垣間見えた気がして、桃城は半瞬何ともいえない表情で、リョーマを見た。
 何を思って星を見上げていたのかなど、その内心は判りはしないけれど。曝す傷口の意味の片鱗なら、見える気がした。切れ端の向こうに、垣間見える程度のものだけれど。
「桃先輩、今度手天体観測でもする?」
「いいなソレ」
「花火もしたいし、アッ、丁度いいから。桃先輩、来る時花火買ってきて」
「………………オイ……」
「ケーキは買っといてあげるから」
「俺別にケーキはいらねぇぞ」
「俺の気持ち」
「お前…俺の誕生日にかこつけて、何か食いてぇケーキ、見付けたな」
「駅前のケーキ屋ね、新発売のケーキが有ってさ」
「………ホールはいらねぇぞ」
「ホールでしか、売ってないんだよね」
「俺の誕生日だよな……?」
「お祝いにケーキは付き物だし」
「当人の意思は無視か?」
「お祝いはさ、回りがお膳立てするものだし」
「………」
 もう何も言うまい。桃城は脱力した。







 ゆっくり歩いて帰り着く。
深夜も1時を回った時間帯だ。流石に周囲の住宅街は深閑としている。
「んじゃ明日部活でな」
「迎えにきてくれるんスよね?」
 部活は午後からだけれど、熱い中、とても歩いて行く気力など出ない。
「今日だってちゃんと来てやっただろ?」
 何を今更言うのか?いつだって欠かさず迎えに来てやっているものを。
「誕生日だから、迎えに来てやらないとか言うのかと思った」
「だったらお前、迎えに来てくれるか?」
「ヤダ」
「んじゃ仕方ねぇだろ?」
 即答に、こいつはと額を小突くと、途端拗ねた顔になる。
子供扱いされるのが嫌いだと知ってはいるが、そういう顔が子供なのだから仕方ない。
そしてそんな極少数の人間だけが知る彼の素顔を、感情の波を、預けられて嬉しいのだから、溺れている自覚の一つや二つは有る。
「桃先輩、おやすみ」
 日付変更線は当に超えて、これからシャワーを浴びて寝れば軽く2時は過ぎてしまう。
 ねだる仕草でキスを求められて口唇に触れると、半瞬混じり合う視線が別れ難さを告げて来る。
「ホラ、いつまでひっついてても仕方いだろ?」
「逆じゃん。離してくれないくせに」
「見ててやるから、入っちまえ」
「いいから帰ってよ」
「ただ今言うまで外出中なんだよ。お前が家の中入るまで、安心してられるか」
「過保護すぎ」
「特別な日だろ?だったらたまには言う事聴けって」
「その特別な日に、送ってるくせに」
 マダマダだね。
そう悪びれる事なく言うと、リョーマは素早く桃城にキスを残し、家の中に入って行く。
「まったく…」
 いつもは、ごねる事はない。淡如に別れてそれで終わりだから、やはり今日は特別の日なのかもしれない。
 リョーマが家の中に入ったのを確認すると、桃城は自転車に跨がって来た道を漕ぎ出した。



「桃先輩ッッ!」



 見慣れた窓がガラリと開けられ、寝静まった深夜の住宅街に、お構いなしに声が叫ばれて、桃城はギョッとして背後を振り返った。
 見上げた窓。明かりの灯らない部屋。それでも判る、見慣れた姿。
満天の蒼い色彩に華奢な姿を埋没させ、窓から身を乗り出し、ヒラヒラ手を降っている姿。
 有りふれた光景なのかもしれない。日常の中で、見慣れている笑顔だろう。けれど、違うのだと判る整然とした矛盾。


『安いね、相変らず』


 聞き流されている事のなかった笑みの向こう側。
再現されて初めて判る気がした。 
 リョーマが見せたかった誕生日のプレゼント。
素直でない不器用な彼が、見せてくれた笑顔と満天の蒼い闇に輝く瞬きの光。モノより何より綺麗なカタチ。


「ったく、タチ悪いぞ」
 邪険のない笑顔の効力は、星の引力並だ。引き寄せれ落ちてしまうのはこっちの方だ。
「おとなしく寝ろ」
 近所迷惑はこのさいお互い様だから、桃城は叫ぶと、今度こそリョーマに背を向け、自転車を漕ぎ出した。




「HAPPY BIRTHDAY、桃先輩」

 去って行く背を眺め、リョーマは窓を閉めた。



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