75分の1秒












 釣瓶落としといわれる秋の夕色は、駆け足で空の色を染め替える。一体なにをそんなに急いで暮れ
ていくのか?そんな気分にさせる秋の夕暮れは、西の空を綺麗な梔子色に染めている。
 オレンジとも赤銅色とも違う紅霞は、だから一抹の郷愁を誰の胸にも呼び起こすのか、ひどく綺麗で微
妙な色合いをして、夕暮れの気配の中、何処からともなく金木犀の香りが漂ってくる。
 境内の敷地を勝手に利用し作れたコートは、地面に白いラインを引いただけの簡易的なものだったも
のの、二人だけで打ち合うには十分な代物だったから、桃城が九月で部活を引退してからは、何かとこ
の場所を利用することが以前に増し多くなっていた。
 それは部長職を後輩に引き継いだ桃城が、リョーマとテニスをする為に、部活に顔を出すのは躊躇わ
れかたらだ。そして元部長という立場を考えれば、特定の個人とのみ打ち合うことなど、桃城には許さ
れてはいなかったからだ。そして気安い雰囲気で部員の誰にも人気があった桃城は、部活に顔を出せ
ば、確実に後輩に掴まることが眼に見えていた。
 だから二人は部活がない土曜の午後や日曜は、こうしてリョーマの自宅裏にある、南次郎が預かる
寺の境内のコートで、テニスをする日々が多くなっていた。
 そこがコートと判るのは、白く引かれた一本のラインだけだ。整備されたコートではない以上、それは
消える都度、南次郎やリョーマの手により、ラインが書き足されていった。時にはこうして遊びにきた桃
城が、ラインを引くこともあった。
 その白いラインの上を、黄色いボールがコロコロ転がっていく。黄昏色の秋の夕暮れの中、金木犀の
香りを運ぶ風が、汗で湿ったリョーマの柔らかい前髪をフワリと揺らし、通り過ぎていく。 
「俺の勝ち」
 転がっていくボールの軌道を眺めることもなく、一呼吸の間の後、トレードマークの白い帽子の鍔を軽
く持ち上げ、リョーマが酷薄な口唇にひどく楽しげな笑みを刻み付けた。
 額には汗が滲み、胸元も濡れている。それでも不快気な表情は欠片も覗かせず、リョーマはネットの
向こう側でヤレヤレと笑っている桃城に綺麗な笑みを見せている。
「ったく、お前には本当、適わねぇな」
 桃城もリョーマと変わらず汗を掻き、整髪剤で固められたトレードマークの髪形は、今はスッカリ乱れ
ている。それでも爽快さが判るのは、負け惜しみではない笑顔があるからだ。そのくせ精悍になってい
く面差しに浮かぶ笑顔は、以前のように、ただ単純に人好きのする開放的な笑顔とは異なって、野性
味を帯ていくから、リョーマに言わせれば悪党ということになる。それは野性味を帯びた笑顔が、女を惹
き付ける要因になっているからだ。
「まだまだだね」
 大仰にラケットを振りながら、桃城がネットに近付き手招きをすれば、リョーマは相変わらず小生意気
な科白を吐いて、ネットに近付いていく。
 まだまだだね。それは青学テニス部の面子なら、極当たり前のように聞き慣れてしまったリョーマの
口癖だった。口癖というには些か語弊があるものの、それはテニス部員ばかりか、リョーマと対戦した
相手なら、誰もが一度や二度は、耳にしている科白だろう。
 けれどリョーマはそう告げながら、ネットに近付いてくる精悍な面差しを凝視し、胸に苦い切なさが湧
いてくるのを感じていた。
 桃城のテニスがまだまだである筈がない。去年の六月、ランキング戦で、一度レギュラージャージを
手放して以来、桃城のテニスは、誰の眼にも瞭然な変化を遂げていたからだ。
 むしろ小生意気な科白で、負け惜しみにも似た苦い切なさを噛み殺しているのは、桃城ではなく、リョ
ーマ自身だった。
 眠れる獅子といわれる、天から与えられたリョーマのテニスの才。それはリョーマの身の裡の何処か
を殺ぎ落とし、切っ先の先端を細くし、冷ややかな熱を灯していく。
 けれど桃城のテニスは、リョーマとはむしろ正反対の変容を遂げている。それは自分の特性をよく理
解した結果なのだろう。 生来の恵まれた身体機能を、最大限に生かした桃城のテニス。それは同性
であるリョーマの眼から見ても、羨ましい程のボディーバランスだった。
 未だ未成熟な自分の躯に、劣等意識を持つことはないリョーマでも、大人に近付いていく桃城の野性
味を帯びた体躯には、同性である分、羨望を感じずにはいられない。緩い成長を遂げている自分の躯
が、けれど桃城の体躯のようには成長しないだろうことを、リョーマは正確に理解していた。
 骨格に沿い、無駄なく付いている筋肉の張り。バネを生かした跳躍力。桃城のそれを、リョーマは誰よ
りよく判っている。それはもしかしたら、桃城よりよく判っているだろう。伊達に一年半も、桃城に抱かれ
てきた訳ではないのだ。
「嘘つき……」
 梔子色の空に吹く柔らかい風に、乱れた髪を更に乱されながら、鷹揚に笑っている桃城にリョーマは
ポツンと呟きを漏らす。
 十日前の九月末日に行われた引退試合で、桃城はリョーマに勝っている。無論引退試合だからと、リ
ョーマが手心を加えた訳では当然なかった。引退試合だからこそ、本気で挑まなければならない相手
だった。
 まるで会話のように繰り返されたラリー。琥珀色の夕暮れの中、誰もが呼吸さえ押し殺し、二人の試
合に見入っていたのは、二人の真剣な気迫に触れたからだろう。まるで真剣で切り付けあうかのような
試合は、僅かの差で、リョーマが桃城に勝ちを譲る結果になった。
「なぁにが嘘だって?」
 ポツンと呟いたリョーマの科白を聞き逃すことのない桃城は、ネットまで近付くと、同じくネット際に近
寄ったリョーマの白い帽子の鍔を、ラケットで持ち上げる。
 長い前髪から覗く一揃えの双眸が、まっすぐ自分に伸びているのに、桃城は緩い笑みを浮かべた。
「俺に適わないなんて、嘘じゃん」
 出会った当初は、確かに力任せな部分が目だった桃城のテニスは、今では当時の荒削りな部分はす
っかり取り払われ、パワーに磨きの掛かったテニスをする。元々洞察力に優れていた桃城だ。試合最
中に熱くなることがなければ、むしろ理性的な冷静さで、試合を読むことが容易だった。何せ何処をどうしたら短期間でそんなものを身に付けられたのか甚だ謎だと言われた桃城の五感は、気象予報士も予
測できない天気を読むことにも長けていたから尚更だろう。
 天気を読む。それは気圧配置図から推測される天候を読むのではなく、桃城のそれは、肌身に感じる
僅かな空気の落差を、鋭敏に感じ取る嗅覚のようなものから構成されている。それは言い換えれば、
常に気配を研ぎ澄ませていなれば、容易に発揮されることはないだろう。
 雨が降ってくる。そういう予測は、ちょっと気配に敏感な人間なら誰にでもできる。僅かに変化する空
気の湿度とか、雨が降る前兆特有の土の匂いだとか。けれど桃城のそれは、もっと的確で容赦がない。桃城があと十分後には雨が降ると言えば、確実に十分後には雨が降ってくるのだ。
 気圧配置図から天候を予測する気象予報士でも、後何分後に雨が降りますなんていう正確な予想は、容易には立てられない筈だ。けれど桃城は違う。それは与えられた情報の外側の部分から、確信に
近付き鋭い指摘をしてみせるミステリー小説の探偵のように、桃城は容易に空気や気流の流れを読む。そんな桃城が、冷静に試合の流れを読むことができれば、広がった視野の分、ゲームメイクは以前と
は格段の違いがでるのは当然の結果だった。
 そしてだからこそ、部員からはお天気お兄さんのごとく、別の意味でも重宝がられてしまっていたのは、仕方ないだろう。今は高等部に進学した乾など、気圧配置図を作成して、桃城と天気の賭などして
いたこともあるくらいだ。
 そんな桃城だったから、今では練習試合から、こうして他愛ない打ち合いでさえ、リョーマが桃城を圧
勝することはなくなって、桃城に勝ちを持って行かれることも、最近では珍しくなくなっていた。桃城は今
では立派にリョーマの好敵手として、気負いもなく、優游と立っている。そのくせ恋人としても上等なの
だから始末に悪い。
 それでも、もう桃城はテニス部にはいないのだ。今では同じく部活を引退し、時間を持て余している他
校生と、ストリートテニス場で試合をしていることが多くなっていた。そして今の青学テニス部で、リョー
マの相手ができる選手は存在しない。それがリョーマに自覚のないストレスを与えていることを、桃城は
よく判っていた。
 既にリョーマのテニスは、リョーマが意識するしないに関わらず、もう部活程度のテニスでは満足でき
なくなっている。
 きっと来年、リョーマはテニス部にとどまることはないだろう。そんな確信めいた予感があるから、桃城
はリョーマを部長にはしなかった。リョーマを柱に据えた手塚の意図は、リョーマに足枷を付けることで
はなかった筈だからだ。手塚は、リョーマのテニスに一番最初、力を与えた存在だ。手塚はリョーマとい
う生き物の有り様を、よく判っていたのだろう。
「嘘じゃないだろう?」
 ラケットで悪戯するように白い帽子の鍔を持ち上げれば、思ったよりきつい光が見上げてくるのに、桃
城は鷹揚な笑みを滲ませる。
「今は勝てなかった」
「でも俺に適わないなんて、思ってないでしょ?」
 研ぎ澄まされた空色の眼差しが、桃城を凝視する。黄昏に染まる夕暮れの光を弾く瞳が、ひどく微妙
な光彩を映し出すのを、桃城は不思議な面持ちで眺めていた。
 色素の薄い空色の瞳が、薄く差し込む琥珀を映す。そのくせ切っ先と変わらぬきつさが、少しばかり
睥睨してくるのを、桃城は莫迦みたいに綺麗だと見蕩れた。
「あんたって、最悪」
 睥睨を向け喜ぶ男など桃城くらいだと、リョーマは薄い肩を大仰に落とすと、ヤレヤレと盛大に溜め息
を吐いた。それがリョーマを甘やかす時に垣間見せる、桃城の癖だと、リョーマに自覚は皆無だ。
「それで、俺が勝ったんだから、何くれるの?」
「……賭テニスした覚えはないぞ?」
「だったら、勝って下さい」
「お前にか?」
 覗き込むように顔を近付ければ、吸い込まれそうに大きい瞳が、逸らされることなく真摯な威力で凝視
してくるから、桃城はリョーマの本気を垣間見る思いだった。
 この状況でリョーマが勝って下さいと言う試合など、たった一つしか存在しない。
「ワールドスーパージュニア」
「お前」
 たった一言、躊躇いもなく告げられた科白。金木犀の香りを運ぶ秋風が、リョーマの長い前髪を揺らし
通り過ぎる。
 まっすぐ伸びる視線。威力も何もなく、当然のように語る瞳のチカラ。桃城の苦笑が、溜め息とともに
零れ落ちた。
「そういうことを、サラッと簡単に言うなよ」
 瞬きを忘れたように凝視してくる眼の底。たった一言に込められた言葉より何よりも、リョーマの瞳はこ
ういう局面で何よりチカラを発揮する。瞳にチカラが宿るというのなら、今のリョーマの瞳だろうと桃城な
どは思ってしまう。
「相手は、世界だぞ」
「怖いの?」
 挑発も何もなく、ただ零れる落ちる言葉に、桃城は深い笑みを漏らした。
「あんたが何処に向かおうとしてるのか、俺は知らない」
 それは今でも教えては貰えない桃城の内側だ。そして恐らく、父親である南次郎は、桃城の行く先を
知っているのだ。そう思えば、時折無性に胸を掻き乱したくなる焦燥を感じずにはいられない。それでも、桃城は何も教えてはくれない。けれど判っていることがたった一つある。
 桃城は、自分に負けず劣らずテニス莫迦だということで、自分に何より過保護で、その反面厳しさも忘
れない詐欺師だということだ。
 言葉にされない不安は拭いされない。それは桃城がテニス部を引退してしまった今、リョーマの内側
では、リョーマ自身が思ってもいなかった比率で胸を抉ってくる。それでも桃城は、安易な言葉を与えて
くれることはなかった。
「あんたは何も教えてくれないから。だから、見せて」
「タチ悪いぞ、お前」
 淡如な科白同様、淡々と瞬く瞳に、桃城は白い帽子を取り上げると、クシャリと髪を掻き乱す。
「あんたでしょ?」
 莫迦みたいに過保護なくせに、手の内など一切みせてくれない悪党。
「全国大会優勝校の立て役者なんだから、勝って下さいよね」
「サリ気にプレッシャー掛けるな」
「サリ気じゃなくって、堂々とかけてるの」
 それは別段、今更だろう。全国大会開始直後から、それは散々マスコミが騒ぎ立ててきたネタなのだ
から。
 ワールドスーパージュニア。それはグランドスラムジュニアと同じグレードAの大会だ。
 去年リョーマも手塚も選抜に名前が上がったものの、手塚は全国大会後、肩の治療に専念するという
理由で、リョーマは理由も明かさず、二人とも選抜入りを断っている。けれど今年はリョーマもエントリー
し、桃城も選抜メンバーに選ばれている。来週明けから短期間の合宿が開始され、そのまま大阪で大
会が開催される。
 全国大会は、選抜選手の選出という意味合いも兼ねられているのだと、マスコミが全国大会直後から
騒ぎ出したのは、去年の全国大会が、到底中学レベルではなかった選手達の実力をマスコミばかりか、他国のプロ選手までもが口を揃えて認めたことに起因している。
「お前も、勝てよな」
「当然」
 その瞬間、リョーマは酷薄な口唇に弧を描き、挑発的な笑みを覗かせた。淡々としていた瞳がきつい
輝きを帯びていく。
 冷ややかに研ぎ澄まされていくリョーマの内側を、リョーマという生き物の有り様を何より綺麗に映し
出す場所は、コートという戦場以外には有り得ない。
 自分の腕の中で、淫蕩に耽って嫋々の喘ぎをあげるリョーマも綺麗だと思う。けれどリョーマの本質を
綺麗に映し出す場所は、コートしかないことを、桃城は決して見誤らない。
 もう少し子供だったら、もっと倖せだったのに。時折英二が不二に零していた科白を、桃城は知らない
だろう。
「ねぇ桃先輩、俺は、上にいくよ」
 細い指先が不意にスゥッと天に伸びる。スラリと伸びた、左手の人差し指。悠久を思わせる夕色の中、白い指先が指し示す遥か高み。
「越前……」
 それは冬の研ぎ澄まされた空気の中、今と変わらずそう告げたリョーマの姿と同じものだ。空気に氷
が刻みこまれたような冷ややかな空気の中。冬の夕暮れの中で、リョーマはやはりそう笑ったのだ。
 まるで忘れていないよというかのように告げられる科白に、胸が軋む思いだった。
「だから、あんたのテニスを、俺に見せて」
 リョーマは半瞬言葉を詰まらせた桃城を凝視すると、クルリと優雅に背を向け、ゆっくり歩きだした。
桃城もそれに倣って歩いて行く。











 タオルや飲料水が纏めて置いてある場所には、南次郎がいつの間にか小さいベンチまで置いてしま
い、一角だけを見るなら、到底ここが寺の境内だということを忘れてしまいそうだった。
 鐘付堂がある石段の下に置いたベンチ。タオルで汗を拭った時に、今までベンチの上で毛玉のように
丸まって午睡していたリョーマの愛猫が眼を醒ましたのか、寝ぼけた鳴き声を一声上げた。
「やっと起きた?」
 最初ベンチの上でお気に入りのネコじゃらしで一人遊んでいたカルピンは、それにも飽きると午睡に入
ってしまい、今までピクリとも動かず、毛玉のように丸まって寝ていたのだ。
「ナァァ」
 甘えた鳴き声を一声漏らすと、カルピンはリョーマの腕の中にジャンプする。そんな愛猫をあやすよう
に背を撫でてやれば、カルピンはリョーマの腕の中で、さらに甘えた声で鳴いた。
「なぁ越前、ちょっと来いよ」
「なぁに?」
 タオルを首に引っ掛けた桃城が、不意に鐘付堂に向かって歩いて行くのに、リョーマは小首を傾げた。それに倣うようにカルピンも首を傾げて桃城に甘えた鳴き声を上げるから、まるで兄弟だと桃城は苦
笑する。尤も、南次郎に言わせれば、親子の構図だと言うことになるらしいのは、今更のことだった。
「お前、上に登ったことないだろう?」
「親父じゃあるまいし」
 わざわざ石階段を上り、用事もないのに鐘付堂にいく酔興を、リョーマは持ち合わせてはいなかった。
けれど桃城は時折鐘付堂に上り、時には鐘さえ付いている。
「まぁいいから、来てみろよ」
「ヤダ」
「いいから、いいから」
 リョーマの即答を気にもせず、桃城はリョーマを引き摺る恰好で石段を上りはじめた。リョーマはカルピ
ンを抱えたままズルズル引き摺られ、途中からは仕方なく桃城の隣を歩き始めた。 さして数がある訳
ではない石段は、すぐに鐘付堂に辿り着くことができた。正方形の小さい箱のような場所の中央に、青
胴色した鐘は天井から吊されている。
 時計のある現代で、鐘が一体どれだけの役割を果たしているのかと思うものの、その鐘の音は土地
に根付いているものらしく、なければないで、落ち着かないものらしい。だから南次郎は今でも一日数回、鐘を付いている。
「ホラ、見てみろよ」
 下から見上げれば、確かに高い鐘付堂は、実際上って見れば、思っていたより遥かに高く、視界を遮
るものがない所為で、周囲の光景が綺麗に見渡すことができた。
 夕色に沈む、家々の屋根。生命線のように伸びる電線。所々にオレンジ色の塊が見えるのは、恐らく
金木犀だろう。そして見上げれば、果てしなく広がる一面の空。
「綺麗だろう?」
 二階の部屋から見るのとはまた随分趣が違うだろう?そんな風に笑いながら、桃城が暮れていく夕
空を指し示す。
「あんた案外、夕焼け好きだよね?」
 去年の夏、桃城の誕生日の夕暮れ時。雨上がりの雲間から差し込む淡い光に染まった光景を、桃城
は見せてくれた。
 遮るものがない場所から見た空はひどく綺麗で、そして暮れてゆく空に、一抹の感傷を感じたのもあ
の時だ。
「昔からって訳じゃ、ないんだけどな」
「?」
「お前だよ」
「俺?」
 苦笑とも自嘲とも判らない曖昧な笑みは、暮れていく黄昏に佇む所為だろう。精悍な面差しに刻まれ
る陰影が、桃城をひどく大人びて見せている。それがリョーマに言い様のない焦燥を抱かせていくことを、けれど桃城は気付かずにいる。
「お前が最初に、見せてくれたからな」


『天然のプラネタリウム』


 有り触れた光景が、実はとても大切で綺麗なものなのだと、教えてくれたのはリョーマだった。



「勝つよ」
 世界を相手に、何処まで勝ち続けていけるのかは判らない。それでもこの程度のことで足下が竦んで
いては、これから先、リョーマと歩いて行くことは適わない。
 それは今年の正月、南次郎に突き付けられた刃の一つだ。
これから先も、リョーマと歩いて行く覚悟があるなら、綺麗な科白はいらないと言われた。南次郎が桃城
に突き付けたのは、その覚悟の在処だった。その手始めに、まず全国に出場し、優勝し、次にはワール
ドスーパージュニアに選抜されろという要求だった。
 別段南次郎は、全国という器にも、優勝というカタチにも拘りがないことは判りきっていた。架空の未
来を限定してしまった自分に、甘えた絵空ごとなど許さないとばかりに、突き付けられた。それは南次
郎が腹の底に隠し持っている切っ先だった。そしてそこでそれなりにカタチを為すことができたら、留学
先を世話してやると言われた。
 架空の未来を歩く為の足場はお前が作れ。それができたら、足場を固める材料の一つくらいは提供し
てやる。南次郎にそう言われた時、桃城に迷いはなかった。
「ねぇ桃先輩、知ってる?」
 小さい正方形の場所の中。物珍しげに周囲を見渡していたリョーマは、桃城の科白にコツンと幅広い
背に頭を預けた。
「どした?」
 背に預けられた重み。大抵こんな状況なら、リョーマは自分の胸板に背を預けた甘え方をする。けれ
ど今は違う。額づくように頭を背に緩く押しつけている。リョーマと桃城の間で、カルピンが甘えた鳴き声
を一つ上げ、まろい瞳がキョトンとリョーマを見上げている。
「75分の1秒」
「ハァ?」
 不意に問われた科白に背後に視線を移せば、リョーマは何かを考えるように、瞳を伏せている。
「俺達の時間なんて、アッと言う間に過ぎてく」
 こうして感じる温もりも、恋しさも、いつかはやがて何事もなかったかのように、錆ついていってしまうのか?
 そう考えると、身震いする程、足場が揺らぐ。どれ程テニスで強い相手と対峙しても、こんな恐怖を感じたことは微塵もない。むしろ強い相手に巡り合えば、ワクワクしかしない性格だ。それが桃城相手の恋情になると、途端に足場の脆さを意識する。
「貯金できれば、いいのにね」
「お前って本当に……」
 何処か諦めたかのような小さい吐息混じりの科白に、緩い吐息を吐き出すと、桃城は体勢を入れ替え、華奢な姿態を腕にする。そのまま腰を落とすと、正方形の小さい鐘付堂の、さして高さのない壁に背を預けた。目線の下がった視界に、梔子色した秋の空が覗いた。
「あんたの所為だよ…」
 少なくとも帰国する以前の自分は、こんなに脆くはなかった。誰か一人に病にも似た恋情を傾け、切なさに歯噛みする自分など、アメリカにいた当時には想像もしなかった。
「ああ、俺の所為だろうな」
 自覚など、他人からもリョーマ当人からも指摘されるまでもなく、桃城は嫌という程、持ち合わせている。
 テニスしか知らなかった子供にテニス以外の恋情を教え、セックスを教えた。年相応の興味本位と好奇心に流されたセックスをして、恋愛ごっこを楽しんでいられたら、リョーマは苦しまずにすんだだろう。  
 良いも悪いも一極集中の性質は、テニスと恋情の狭間で振り子のように揺らいでいる。今はそれでもどうにか巧くバランスをとっているものの、いずれとれなくなる日がくるのかもしれない。
「俺も、勝つよ」
 コツンと擬音を響かせ、桃城の肩口に額を預けると、リョーマは酷薄な口唇に挑発的な笑みを垣間見せた。











「そいやお前、75分の1秒ってなんだよ?」
 鐘付堂の石畳に座り込んだまま、先刻とは体勢を少しばかり入れ替えて、リョーマは桃城の胸板に
薄い背を凭れながら、二人は夕暮れを眺めていた。当然リョーマの腕の中にはカルピンがいて、リョー
マの指先に戯れ付いている。
「親父の受け売り」
「で?」
「刹那って知ってる?」
「短い時間って意味のあれか?」
 積極的に本を読むようには見えない桃城は、けれど推理小説は得意で、国内外の著者を問わず、よく
読んでいた。けれど 『刹那』という言葉は、現在の小説にはあまり登場しなくなった言葉だ。
「刹那って、75分の一秒のことで、すごく短い時間単位なんだって、親父が言ってた」
 仮住職とはいえ寺を預かる身だからなのだろう。南次郎は雑学知識的なことをよく知っていて、時折リ
ョーマに話している。 『刹那』という言葉は、梵語のKsanaが由来の、仏教特有の時間単位だ。指を一
回弾く時間が65刹那だとか、75分の一秒だとか、諸説は色々あるものの、瞬きより短い時間の単位
のこを指し示す。
「どういう会話してるんだお前ん家は」
 クシリャリとネコっ毛の髪を掻き乱すと、桃城は溜め息を吐いた。
どうせ南次郎のことだ。リョーマがひどく感傷的になることを承知して、話したに決まっているのだ。そし
てリョーマが脆くなるのは、決まって桃城の前で、桃城絡みだということも、判っていて話しているに違
いない。
「ったく、あの親父さんは…」
 飄々とした得体のしれない曲者ぶりは、流石初代青学の曲者だと、毒づくしか今はできない。
悔しかったら超えてみろ。そんな声さえ聞こえる気がして、南次郎の腹の底に隠くされている切っ先を
思い出す。
「まぁあれだな、玉響と同じ意味だな」
「なにそれ?」
「お前ちゃんと古文の時間起きてるか?」
「寝てる」
 即答に、桃城はまぁそうだろうなと笑みを漏らす。国語が苦手なリョーマが、古文の授業を起きている
とは誰も思わないだろう。だから試験前、リョーマに古文を教えるのは、高等部に進学してさえ、不二の
仕事になっていた。
 試験で赤点をとった者は、それがたとえレギュラーであったとしても、問答無用で一ヶ月球拾いという
のは、桃城の代になっても変わることのなかった、テニス部の規則の一つになっていた。だからリョーマ
は赤点を取る訳にはいかなかったから、不二は中等部に遊びに来る口実を易々手にいれて、親友の英
二とともに、喜々としてリョーマに会いに来るのだ。
「宝石が揺れる、僅かな時間を言うんだよ」 
「フーン」
 音もなく光を弾き揺れる宝石。その僅かな時間を指し示す言葉。どちらも切ない感触を伴ってくる言葉
だと思えば、桃城の掌がリョーマの視界を緩く塞いだ。
 それは桃城の優しい癖だ。リョーマの胸に湧く切なさを見誤らず、こうして綺麗に視界を塞いでいく。
「だったら越前、お前知ってるか?」
「なぁに?」
 視界を塞がれたまま、背後から意味深な口調で話す桃城の声に、耳を傾ける。
「人類がいつ生まれたか」
「………何それ?新手の推理小説でも読んだの?」
「そんなの推理小説に出てくるかって」
「じゃあなに?」
 桃城の得意教科が歴史だと聴いたことはない。雑踏の賑わいを連想させる桃城は、そうと見えないも
のの、完全に理数系頭脳の持ち主だ。理数系だから、年代を覚えるのは得意だろうか?そう考え、同じ
く理数が得意な自分の身に置き換えてみれば、そんなことは有り得ないから、桃城も歴史はさほど得
意ではないだろうなとリョーマは思った。尤も、理数が得意というだけで、桃城は学ぶ教科に落差はな
い。それがリョーマとは違う部分だ。リョーマは明らかに国語が苦手で、習得意欲も薄いから、常に平均
点ギリギリを彷徨っている。それでも赤点を取らない器用さは、堀尾に愚痴を言われる元にもなってい
た。
「地球の歴史を一年で換算すると、12月31日らしいぞ」
「大晦日?」
 それはまた随分できすぎた偶然だと、リョーマは視界を塞がれたまま、こっそり笑う。桃城にもそれは
微かな肩の揺れから判るのだろう。背後で漏れる苦笑が判った。
「科学が発達したからって、そこまで判るもの?」
 偶然でなければ作為的に合わされた数字に感じた。人はどうせ都合のいい解釈をする生き物だ。
「まぁ問題は、そこじゃないからな」
「じゃぁ何処?」
 背後で緩く漏れる苦笑を心地好く聴きながら、リョーマはさらに深く、桃城の胸板に薄い背を凭れてい
く。
「時間ってのは、貯金できないもんだからな」
 科学者でもない限り、人類出現の時間が判ったからといって、現代を生きている人間にさした支障な
どありはしない。元々科学者という生き物は、識るということに大して貪欲なのだ。
 常に一定方向に流れていく時間。それは誰もが生まれ落ちた瞬間から、手にしている唯一のもので、
そして誰にも等しく、容赦なく平等なものだ。そしてそんな流れの中に、自分達は生きているのだ。貯金
などできてしまったら、それこそ錆ついていくだろう。
「らしくなく、それこそ刹那的だね」
 未だ桃城の掌中は、リョーマの視界を塞いだままだ。それでも節のある指の温もりを通りこして、秋の
夕暮れが透けて見えた。柔らかい髪を揺らし通り過ぎていく風には、金木犀の香りが漂っている。 
 笑顔に紛れ込ませている桃城の本質が、決して見た目通りで賑やかな部類に属さないものだという
ことは、判っている。けれどこんな刹那的思考は、桃城からは遠かっただろうに。そう思えば、桃城にこ
んな刹那的な感傷を預けてしまったのは自分なんだろうなと、リョーマは何処か可笑しそうに肩を竦め
た。
「お前が、安心させてくれないからだよ」
 流れていく時間を惜しんだ所で、決してとどまってはくれない。時間は常に一定方向で巻き戻らない。
どれだけの後悔も、どれだけの倖せも。等分に待ち合わせて前に進むしかできない。
 それが自然の理だと、割り切るにはリョーマは幼い。リョーマの脆さを意識する時は、決まってこんな
時だ。
 テニスでは、他者を圧倒する天の才を持ち得ているというのに、まるでその代償とでもいうかのように、リョーマは時折崩れそうに脆くなる。それでも、いつか訪れる未来を掴む為に、リョーマは歩いて行くだ
ろう。自らに立てる誓いのように、リョーマは上に行くと言ったのだから。
「じゃぁずっと、俺にドキドキしてて」
 安心できないというなら、ずっとドキドキしていればいいと、リョーマは悪戯気に背後を振り返る。そうす
れば想いは錆付くこともなく、鮮やかなままでいられるだろうから。
「お前……だからって、俺の心臓止めるようなことするなよ」
 突拍子もない行動を、平然としてのけるリョーマだ。そこに意図する部分もあれば、無自覚な部分もあ
る始末の悪さは、桃城が安心できる要素など、実際は皆無に近い。
 桃城は苦笑すると、リョーマの視界を塞いだ指をゆっくり開放し、それはそのまま、リョーマの腕の中
で戯れているカルピンに伸びた。不意に伸びてきた節のある長い指に、カルピンは戯れ付いた。
「刺激ってさ、慣れちゃうもんだって言うでしょ?」
 刺激は常に慣れていく。桃城を自分に釘付けにしておくには、一体何をどうすればいいだろうか?リョ
ーマには判らなかった。
「………だったらお前は、俺とのセックスはもう慣れちまったったいうんだな?」
「フーン?」
 たとえ合意の上とはいえ、幼い時分の躯を開いた罪悪を桃城が未だ手放せないことをリョーマは知っ
ているから、桃城の科白に意外そうな表情を刻み付けると、次には面白そうな笑みを滲ませ、背後を振
り返った。
「慣れさせちゃうんだ?」
 それとも俺にはもう慣れちゃって、刺激なんてない?
そう笑った表情が、不意に一瞬翳るのを見逃す桃城ではなかった。
「そりゃお前の躯で確認してもらうしかないな」
 相変わらず華奢な躯を抱き竦めると、桃城は詐欺師の笑顔を刻み付け、耳朶の弱いリョーマの首筋
に口唇を寄せた。
「なんだ、したかったの?」
 自分では硝子の理性だと軽口を叩く桃城の理性が、実は強固なものだと知っているから、リョーマは
首筋かに耳朶を往復する濡れた下の感触に肌を粟だたせながら、クスクスと笑った。
「そうかもな」
 部活が一緒でなくなってしまった以上、二人でいられる時間は短くなっていく。まして来年の今頃は、
こうしてリョーマと一緒にいることはできないのだ。そう思えば、今この一瞬がひどく愛しく感じられた。
「時間は有効的に使わないとね?」
 楽しく過ごしても、つまらなく過ごしても、時間は常に一定だ。だったら恋しい男を胎内に受け入れ、雌
のように喘いで孕む程だされたいと、リョーマは淫蕩に混融した眼差しで、桃城を眺めて笑った。
 少なくとも来週からは選抜合宿が始まって、当分セックスはお預けだ。試合に支障がないと言い募っ
ても、けっして大会中は抱いてはくれないだろう桃城の強固な理性を、リョーマはよく判っている。
「あんたの躯で、確認させて」
「覚悟しろよ?」
 こんな風に挑発されて、自分の理性が持つ筈もないだろうにと、桃城はリョーマの口唇に口吻を落とし
た。