重く垂れこめる錫色の空は、閑静な住宅街の景色を容易に同じ色に溶かし込み、周囲は煙景に包ま
れている。それは本格的な春の訪れを告げる春雨とは一段も二段も趣を変え、何処か蕭索とした風情
を伴っていた。
 春雨なら鮮明な空翠に染まる庭の樹木も、この時期の長雨に濡れているのを見ると、何処か寒そうに
見えるから不思議だ。
 焼け付く季節を通り過ぎた樹木は、深まる季節に比例し、ゆっくりと色を変え、鮮やかさは少しずつ少
しずつ次の年の為に凋落を迎える。それが自然の理だ。そんな簡単で単純なことにも、アメリカに居た
当時には気付けなかった。雨一つで表情を変える自然の移ろいなど、思っても見なかった。ただ目の前
を塗り潰していく光景の一つとしか映らなかった。
 桃城の言うように、人間は自分の見たいものだけを見て、信じたいものだけを信じて生きていく生き物
だ。その判断の正確さや真偽の有無など無関係に、時々に応じて選択されたものが名前を変える、
ただそれだけだ。それは時には真実であり、時には偽りであり、名を変える事実だけが横たわる。
 けれどただそれだけの単純さが、見方により優しく感じることが不思議だった。アメリカに居た時は、
刺にさえなり得なかった塗り潰された光景。時々に応じて選択されていく転がる事実。
 同じ雨でも季節によって随分趣が変わるんだなと、リョーマは窓際で愛猫を抱いたまま、そんな下らな
いことをぼんやりと思った。
 二階の窓から見下ろす家々は、雨の所為か周囲に人影は殆どなく、秋の連休シーズンだというのに
驚く程静かだ。その所為か霧雨の音まで聞こえてきそうで、リョーマは無意識に腕にしている愛猫を抱
き締めた。
「ホァァ?」
 不意に力の籠った飼い主の腕の力に、けれど別段驚いた様子も覗かせず、カルピンは甘えた様子で
尻尾を振ると、まろく瞬く蒼い瞳がキョトンと瀟洒な面差しを覗き込んだ。
「ホァ?」
「寒そうだね」
 問い掛けるように鳴く甘えたな愛猫を目線の高さまで抱き上げながら、リョーマは小首を傾げて緩や
かに笑う。そんなリョーマと一匹の姿に、桃城が大仰に溜め息を吐いてしまったとしても、罪はないだろ
う。
 周囲にも自分自身にも無頓着で、テニス以外の日常に物事が落ちると、途端に些か不自由になる言
語構造は、けれどどうやら甘やかし放題に甘やかしている愛猫には例外らしい。
 あれできっと二人、と言い切るには語弊のある一人と一匹の会話は、きちんと成立しているんだろうな
と、桃城は虚空を見詰めた。
 ネコと意思疎通を図れるなら、あともう少しでいい。日常でもそれを機能させてくれと、桃城などはつい
つい思ってしまう。
 良い意味でも悪い意味でも、リョーマは語彙が少ない。お喋りになれと無理な要求をするつもりはない
し、そんなリョーマを見たいとも思わないが、口数が少ないくせに、売られた喧嘩は挑発上等の態度で
買い取ってくる。ましてそんな時に限り、最大限に相手を挑発する有効的な言葉を一本口調で言いのけ
るのだから、桃城の気苦労もしれるというものだ。阿諛を語れと言うつもりなど微塵もないが、だからこ
そ、それをして英二や不二などには、好きでしている苦労だと言われるてしまうのだ。それも半ば事実
にしかならないから、桃城に反駁の余地は少ない。まして桃城自身に自覚があるとなれば尚更だ。
「寒そうなのは、お前の方だろうが」
 やれやれと溜め息を吐き出すと、桃城は薄い肩に黒い手編み風のカーディガンを羽織らせ、細身の躯
を腕の中へ抱き締める。しっとり揺れる黒髪は、雨の匂いを纏い付かせているから、リョーマが寒いの
は当然だろう。
「判った?」
 触れてくる温もりに、無自覚に弛緩する躯。リョーマは引き締まった胸板に薄い背を預けながら、悪戯
を思い付いた子供のような笑みを浮かべ、背後を振り返った。
「そう感じるのは、お前が寒いからだろう?」
 情後の残り香を纏い付かせながら、切れ長に縁取られた瞳だけは、悪戯を思い付いた子供の態で笑
い掛けてくるから、それは反則だろうと、桃城は内心苦笑する。
 胸の内の何かを分けてくれようとする時、リョーマの科白は断片的になりやすい。全てが全てと言い
切るつもりはないものの、近しい距離で見ていれば、それは容易に見透かせる類いのものだ。ただ気
付ける人間が極端に少ないというだけのことで。それは精神的距離を必要とする場合もあるが、聡い人
間にはすぐに気付ける程度のものだ。見える人間には容易に見透かせる、それはただの事実の一つに
すぎない。その証拠に、部長であった手塚や元36コンビ、当時のレギュラー陣には、リョーマの口数の
少なさは問題にもならなかったくらいだ。確かにテニスという、理解するに手っ取り早い手段を持っては
いたものの、けれど彼等はテニスだけで、リョーマという生き物を判断したことはない。
 その点、リョーマを想っている桜乃には、きっと永久に理解できないのかもしれないなと、桃城は顧問
の竜崎が可愛がっている孫娘を思い浮かべた。
 綺麗で可愛く砂糖菓子のような恋は、桜乃の外見通り、ひどく甘やかな想いで包まれているのだろう。リョーマの本質を知ることもなく、自分の見たいものだけを見ているガラス越しの恋。それを知っている
からだろう。可愛がっている孫娘に、竜崎が余計な入れ知恵をしたことはない。
 想いと理解がイコールで繋がらないことを、いつか彼女も知るだろうか?
「あんたがもっと、暖めてくれないから」
 緩やかに抱き締めてくる腕。節のある長い指先。どれもが自分を狂わせる男の色香を滲ませていると
言うのに、当の桃城の理性は腹がたつ程泰然として、リョーマは苦々しげに吐息を漏らすと、細い指先
が手背に爪を立てた。
「コラ」
 緩やかに、それこそ愛撫の戯れにも似た温度で触れられる指先に、桃城は微苦笑を滲ませる。
「そんな恰好でいるからだろうが」
 リョーマの恰好はと言えば、桃城が置き去りにしている濃紺のパジャマの上着を羽織っているだけで、それはボタンさえ留められていない裸身に近い姿だ。
 一回りは大きい上着の為、辛うじて白い内股付近は隠れているものの、膝から下は剥き出しだ。
まして窓際に突っ立って、雨に煙る町並みを暢気にも見ているのだから、肌寒さを感じても当然だろう。
「風情があるでしょ?」
「………何がどういう理屈だ?」
 分けてくれる胸の内は嬉しいが、もうちょっと判りやすい方が助かるぞと、桃城はやれやれと吐息を漏
らす。それ以前に現実的な問題として、風邪を罹く確率の方が高いだろう。
「触って」
 あんたが俺の中に出した残骸。その瞬間、雛人形のように忍び笑う眼差しが桃城を凝視し、ほっそり
した腕が桃城の指先を白い内股の奥へと導いた。
「ぁ…んっ……」
「……越前」
 白い内股に触れるドロリとした液体は、紛れもなく自分が幼い胎内に吐き出した情欲のカタチだ。
「出したりないでしょ?」
 濡れる紅脣が意味深に忍び笑う様は、妖冶な娼婦そのもので、それは男を誑かせる手管に慣れた雌
のものだ。尤も、リョーマが意図してそんな気配を放っているのかといえば、それはまた別問題だ。
必ずしも、リョーマは意識してそんな手管を見せている訳ではない分、桃城に言わせればより性質が悪
いということになる。
「キテ…」
 掠れた吐息混じりの声。内股に触れる節のある長い指先を更にその奥へと導けば、けれど桃城はそ
んな挑発には乗らないぞとばかりに、大仰な溜め息を吐き出した。
「…あんた最悪……」
 背後で漏れる吐息一つにすら簡単に煽られてしまう燻る熱。先刻まで恋しい男を咥え込んでいた胎内
は爛れたまま、浅ましい綻びを見せているというのに、肝心の男は端然としているから癪に触る。
「秋霖、訪れる客もなし、か……」
「何それ?」
 不意に囁かれた声音に、ゾクリと背筋を這い上がる熱。淡如に紡がれた声は、けれど不思議と熱を煽
る何かが秘められている気がして、リョーマは細い背筋を顫わせる。
「秋黴雨のことだよ」
「あきついり?」
 あんたの言葉は時折判らないと、リョーマは少しばかり憮然となる。
「秋入梅」
「………日本語喋ってよ」
「梅雨の秋バージョン」
「………」
 莫迦にしているのかとリョーマが睥睨を向ければ、桃城はひどく愉しげで、リョーマはそう言えばと溜
め息を吐いた。
 気象予報士でもそんな予報はできないだろうと思える人外予報を、桃城は当たり前の表情をして、
言い除けてしまえる稀有な存在だったことを思い出す。
 桃城が十分後に雨が降ると言えば、それは言霊でも持つかのように、確実に十分後には雨が降るの
だ。そんなピンポイントの予報など、どれだけの予報士も断言することはできないだろう。けれど桃城は
違う。データを扱う乾の上を行く予想で、桃城は極当然のように言い当てる。それは一体桃城の何処か
らもたらされる情報なのだろうかと思うものの、見ている限りで、桃城を取り巻く連環とは無関係な気がしてならない。訊いても巧く答えられない様子で、判るから判るということらしい。
「それで?似非気象予報士のあんたから見ると、秋黴雨はどれだけ続くって予想なの?」
 秋霖とはよく言ったものだと呆れながら、リョーマは桃城の胸板に背を預けきると、腕の中ですやすや
と寝息を立て始めた愛猫の背を優しく梳いた。
 長毛種のヒマラヤンは、抱いていると心地好い温もりが伝わってくる。夏には少々熱いが、これからの
季節は愛猫の温もりがますます心地好く愛しいものになる季節だ。そして抱き合う温もりを知ってしまえ
ば、恋しい男の熱は決して手放せない。
「秋の長雨って言うくらいだからな」
 流石にそんな予報はできないぞと、桃城がリョーマの科白に呆れれば、リョーマは嘘くさいと緩く笑う。
「あんたなら、できそうじゃない?」
 ピンポイントで気象予報を当てられる男だ。割合当たり前の顔をして、秋霖の行方も判りそうな気する
のだ。
「そういうのを、過大評価って言うんだぞ」
「ウ・ソ・ツ・キ」     
 気象配置図も何もない場所から、当たり前のように引き当てられるピンポイントの予想は、けれど桃城
にとっては見える部分を言葉に乗せているに過ぎないのだろう。それは冴え過ぎる勘なのだろうが、五
感を通り越した部分で関知する六感は、やはり過大評価の一言で済むものではないだろう。そんな単
純な事実に、桃城だけが気付かないでいる。
 リョーマは悪戯気な口調で笑うと、腕の中で穏やかな寝息を立てる愛猫の背を優しく撫でながら、
錫色の空を見上げた。
 音もなく降りしきる雨は、周囲の音を綺麗に消し去る消音効果がある。こうして緩い気配で空を見上げ
ていると、まるで吸い込まれそうな錯覚に陥り、都市ごと水没してしまいそうな感触まで感じられる。
「ねぇ?桃先輩知ってる?」
「ん?」
 意味深に笑いながら、胸に小作りな頭が擬音を響かせ預けられてくるのに、節のある指先が長い前
髪を梳き上げる。
 幾分雨の匂いを纏い付かせた黒髪が、節だった指に引っ掛かることなく滑らかに滑り落ちていくのに、桃城は大きい掌中でリョーマの視界を塞いでいく。
「小生意気で生傷絶えないって言うのに、こういう局面だと感傷的になるのは、お前の悪い癖だぞ」
 触れる胸の内側。分け与えられる深奥。テニス以外に物事が落ちれば、周囲にも自分自身にも無頓
着なくせに、こういう局面でリョーマはひどく感傷的に陥り易い一面がある。まるで感性の在処を物語る
かのようなリョーマの感傷さは、けれど桃城には愛しいばかりのものだった。
「偕老同穴」
「越前、お前国語苦手なくせに、そういうのばっかり知ってるな」
 意味深に囁かれた言葉の意味など、桃城には丸判りだったから、緩く吐息を吐きだすと、桃城は清涼
な眼差しを片手で塞いぎ、冷えてしまった華奢な躯を懐深くに引き寄せる。そしてそれが桃城の癖の一
つだと知っているから、リョーマは塞がれた視界に微動だにしない。ただ瞬きする長い睫毛が掌中に触
れるだけだ。
「南次郎さんからか?」
 塞いだ視界から長い前髪を梳き上げ、節だった指先は瀟洒な輪郭を包み込む。
「俺に下らない戯言吹き込むのなんて、親父に決まってるでしょ?」 
 半瞬だけ塞がれ開放された視界。銀縷のように流れていく雫。父親が一体何を思い、不意に自分に
そんな話しをしたのか、リョーマは知らない。
 自分達の関係を当たり前のように受け入れている南次郎から語られた話しは、軽口の口調に誤魔化
され、世間話の延長線にしか聞こえなかった。だから語られた中身の意味など、その時は巧く汲み取る
ことはできなかった。けれど今は僅かにその意味の裏側を推し量ることは可能だった。
 心配されているのだ。良い意味でも、悪い意味でも。直接問われることがない分、今思えば譬えは辛
辣だ。そうと気付くことができる程度に自分も成長しただろうか?考えてみても、リョーマには判らなかっ
た。
「相変わらず、怖い人だな」
 飄々と見せかけた南次郎の姿に騙されがちな面は存在するものの、リークされた事実を聴けば、怖さ
が実感となるのは容易い。そんな実感も、最早一度や二度の書き換え程度では済まないのだから尚
更だ。決して数が多い訳ではないのに、事実を書き替える作業は、増せば増す増すほど加速度を付け
ていく。そのくせ南次郎の要求は一環して、ハードルが高くなることはない。だからこそ辛辣なのだと気
付いたのは、極最近だった。それはまるで、皮膚一枚をぎりぎりのラインで綺麗に殺ぎ取る実感の仕方
だ。
 それはリョーマの自覚の有無は別にして、逃げなど許さないと言われたようなものだ。案外リョーマの
口からリークされることを心得て、語られた気がしてならないのは何故だろうかと、桃城は飄々とした南
次郎の姿を思い出し、天を仰いだ。
「ただ生草坊主ってだけでしょ」
 桃城の胸に背を預け、愛猫の背を撫でながら、リョーマの視線は雨で煙る家々の屋根に落ちている。
「痛みを知る人間は、怖いって話しだよ。目先の痛みに誤魔化されて、つい杖を与えがちな親は多いけ
ど、南次郎さんは違うからな」
 目先の安易な痛みに、転ばぬ先の杖を我が子に与えがち親は多いだろう。けれど南次郎は違う。
「何それ?」
「まぁお前には未だ、判らないだろうな」
 感性の在処を雄弁に語る少ない語彙とは相反し、リョーマは案外と直裁に物事を受け止めがちだ。
他人にその意見を求めることは殆どないだろう。それが良いのか悪いのかは別にして。
「ガキって言いたい訳?」
「ん〜〜も少し、日本語お勉強しましょうってお話し」
「……結局、ガキって言ってんじゃん」
 あんたは性欲も何もかも老成してるだけと、少しばかり憮然となる。
「南次郎さんから見れば、俺も越前もガキには違いないだろうからな」
 それでも子供の絵空ごとと言わない部分が、掌中から見せない南次郎の刃なのだと、リョーマは気付
かないだろう。
 世間一般の是非を語られたことはない。南次郎から問われた言葉は、その覚悟の在処、それだけだ
った。だから南次郎は怖いのだ。 
 親として、世間一般の正論を持ち出されれば、正攻法という対処もできるが、それが南次郎の持つ律
法なら、答え一つで切り棄てられるのは眼に見えている。間違え程度は許されるだろうが、覚悟のなさ
は決して許されはしないだろう。端から退路を求める関係なら今すぐ離れろ、そういうことだ。 
「坊主と乞食は3日やったらやめられないっていう典型なだけでしょ」
 少なくともつい先日まで、自分は何一つ知らなかったのだ。言葉に出されることなく託された願いなど。
「そう見せなかった部分が、南次郎さんの一番怖い部分だって、お前も判ってるだろう?」
 テニス後進国の日本のテニスの発展を、現時点で誰より願い、その為に行動しているのは南次郎だ
ろう。
 37戦全勝の記録を持つサムライのファンは、未だ現役プロの中にも数多い。南次郎の試合を見て、プ
ロを目指した選手も決して少なくはないのだ。だから南次郎が世界に強力なパイプを持っているのは当
然の結果で、それを有効に使用する手段も頭脳も行動力も持ち得ている。けれどそれを決して掌中から
見せなかった南次郎の飄々さは、知れば驚いた程度では済まない類いのものだ。
「それであんたも、親父の言葉の意味はちゃんと判ってるってこと?」
 青学テニス部初代曲者と三代目曲者同志、自分以上に気が合うんじゃない?と、リョーマは少しばか
り憮然となった。
因みに二代目曲者は、手塚が尊敬する大和なのは言うまでもない。
「表面程度はな」
「悪党」
「そうかぁ?」
 悪党と罵倒される程、酷いことした覚えはないぞと嘯く桃城に、リョーマは更に呆れて緩い笑みを滲ま
せる。
「あんたって、とことん人でなし」
 意図もなく、頬を包み込んでいく慣れた温度とその指先。
肉の奥を容易に高ぶらせていく熱に、肌身の上に根深い愉悦が甦る。その感触に甘い吐息を漏らし、
リョーマは桃城の指先を掬い上げた。
「偕老同穴って、雌雄一対の洞穴海老、だったよな確か」
 何の本で読んだか記憶は薄いが、想起すればその内容がリョーマの感傷を裏付けているようで、
桃城は微苦笑を漏らした。
「出会って死ぬまで一対だけで終えるのって、どんな気分なんだろうね」
 出会った雌雄一対の洞穴海老が、偕老同穴に閉じ込められたまま生涯を終えることから、契りの意
味合いを含む偕老同穴。それはどれだけ望んでみたところで、今の自分には決して得られない箱庭だ。
「今の俺達みたいな感じ?」
 開いた窓から見渡せる視界は雨に煙り、周囲に響く音もない。秋黴雨に濡れる町並みは、疑似的は
いえ、隔絶された空間を連想させる。それはまるで、静邃に包まれた終焉のようで、有り得ない連想に、酷薄な口唇の上に自嘲が刻まれる。
「なぁ知ってるか?」
 リョーマの掌中を掬い上げると、桃城はその指先に恭しく口唇を落した。戯れ程度の温い口吻に、
薄い肩がひくんと顫えるのが判る。
「何?」
「契りっていう言葉の語源には、『手握る』って意味があるらしいぞ」
「?」
「約束っていうのは、最初は手を握ることから始まるってことを意味してるらしい」
「随分、可愛い意味なんだ」
「最初はそんなもんだろう?」
 そしてそのうち互いにそんな可愛いものではなくなるのだ。互いの存在に餓えてどうにもならなくなる。そして意思も意識も混融し、血も肉も個さえ超えた場所で、ぐちゃぐちゃに混ざり合いたくなるのだ。
「でも俺達は、もうそんな可愛い段階、とっくに通りすぎちゃったけどね」
 恭しさを込め掬い上げられた指先。けれどそんな恭しさなど、自分達には最初から存在しなかった。
「たまには可愛いのもいいだろう?」
「あんたやっぱ悪党じゃん」
 指先に触れてくる慣れた温度。嘯いて笑う桃城は、最悪なくらい悪党の表情をして、忌ま忌ましい程、
精悍な男を滲ませているから、リョーマは肉の奥から突き上げてくる情欲を怺える術を見失ってしまう。
「南次郎さんが偕老同穴って意味に引っ掛けたのは、多分そういう意味だろう?」
「あんたってさ、もしかしたら俺のことより、親父のことの方を理解してるんじゃないの?」
「知ることも、知られることも、どっちも本当は痛くて怖いってことを、南次郎さんは見誤らないからな」
「何それ?」
「それくらい欲しがってもらえなきゃ、知る意味もないってことだろう?多分」
「何それ?」
 意味不明、判る日本語喋れと呆れるリョーマに、桃城は苦笑とも自嘲とも判らない曖昧な笑みを滲ま
せる。
「俺もまぁ、取り違えて見誤らない努力程度はしてるってことだよ」
 すっかり雨の匂いを纏い付かせ、冷えてしまった細身の躯を腕の中で反転させると、雨の匂いを纏い
つかせる柔らかい黒髪に顔を寄せる。
 春の雨と違い、これから晩秋に向かう為の雨は、躯を容易に冷えさせる。それでも何処か優しい気が
するのは、抱き合う温もりが在る所為だろう。
「口に出してる時点で、安い」
「株じゃないんだ。高値で売れればいいってわけじゃないんだぞ」
 嘯いて笑うと、桃城は再び細い指先に口唇を寄せる。
「知ってるか?手の甲の口吻は、敬愛だって」
「だったらあんたも知ってる?」
 触れてくる慣れた温度と、慣れた口吻。桃城は時折こんな風に、莫迦みたいに大切に触れてくる。
そこに一体どんな思いが在るのか。推し量ってみたところで、恭しい詐欺師の仕草から、リョーマが判る
ものは皆無に近い。だからその意趣替えしを込め意味深に笑うと、リョーマは自分を抱き締めてくる男
の掌中を翳し、細い指先で悪戯気に爪を立てて見せる。
「掌中のキスは、欲情だって」
 悪戯気に上目で凝視すれば、桃城が少しだけ喫驚している表情が可笑しかった。
「そうか?俺はココのキスが欲情だって、聴いたけどな」
 節だった指先が、湿る黒髪の毛先を掬い上げ項を撫でていくのに、リョーマの小作りな面差しがゆっく
りと色付いていく。
「ダレに?」
 桃城にキスの謂れを教えた女性の数など、リョーマには今更だ。精神的に自立した女性とばかり付き
合っていた桃城だ。キスに絡めた言葉遊びなど、慣れたものなのだろう。その証拠に、その一瞬だけ、
桃城の視線は宙を泳いで逸らされているから、藪をつついて蛇を出す莫迦と、リョーマは笑う。
「あんた将来、ホストにでもなれば?」
「まぁ女性を喜ばせるってのは、万国共通してる男の義務だと、俺は思うわけよ」
「ふーん」
 義務ときたかと、桃城の物言いに、リョーマは半瞬だけ脱力した。中学生が言う科白かと思えば、腹
が立つのを通り越し、呆れてしまうから不思議だ。
「でも不特定多数の女性を喜ばせるよか、俺は越前に喜んで貰えればいいって思ってる段階で、アウト
だと思わないか?」
「………詐欺師…」
「恐悦至極」
 呆れた様子がありありと滲むリョーマに笑うと、桃城は薄い手の甲に口吻を落す。
『敬愛』『敬意』を顕すキスの場所。その意味がリョーマに伝わるだろうかと思えば、無理だろうなと、桃
城は内心で天を仰いだ。
 色々な意味で、リョーマは未だに『眠れる獅子』だ。察しはしてくれだろうが理解には未だ遠い。いず
れ気付いてくれれば幸いだと願うしかない。それはいつだって良いのだ。理解ではなく気付いてくれる
だけでいい。不二が言うように、取り返しのつかない失敗など、案外と少ないのだから。
「…褒めてない。自分の物差しで万国を限定しちゃうあんたに呆れただけ」
「お前の詐欺師ってのは、褒め言葉だと思ってたのは俺の勘違いか?」
「あんたこそ、ちゃんと日本語勉強すれば?」
 始末に悪い男と、リョーマが呆れて笑えば、桃城は指先から細い腕の内側に口唇を滑らせ、節のある
長い指先は項を辿る。
「ぁっ…」
 不意打ちにもたらされた緩い刺激に、吐息が漏れる。桃城の指や温度に慣らされた躯だと思えば、そ
れさえリョーマには刺激になる。
「俺はお前にはなれないし、お前も俺にはなれないけど」
「ぁんっ……」
 項から辿る指先は、大きいパジャマの内側に忍び込み、片手で華奢な腰を抱き寄せながら、肌の上
を滑る指先は羽毛の優しさで戯れのように胸の上を撫でていく。桃城の指に慣らされた白磁の肌は、容
易く粟立っていく。
「いつだって、お前が笑っててくれればいいって思ってるよ」
 秋黴雨の長雨に閉ざされた無音の世界。本当は耳を澄ませば音の一つや二つは拾えるのだろうが、
無理に拾う必要もないだろう。拾えるものは、どうせ雑音にも満たない些細なものだ。
「それも、万国共通な訳?」
 それは忘れそうになるのを見透かして、桃城が囁いてくる言葉だ。
「俺の我が儘」
「自覚してるんだ?」
「万国なんてご大層な理由を、越前には使えないから」
 上目遣いで覗き込んでくる眼差しは、けれど悪戯気な仕草とは相反し、何処か切なげな色をしている
のに、桃城は清涼な眼差しを縁取る瞼に口唇を寄せる。  
「だからお前は、俺のご大層な理由だって、ちゃんと覚えとけよ」
「なんか理不尽っていうのと、セットな気がする」
 そんな科白をサラリといい除けてしまえる桃城は、だから詐欺師だと思うものの、理不尽なほど狡い
男だと思えるのも事実だ。結局逃げ出すことなど許してくれないという点では、優しくない男だ。
「それも詐欺師のご大層な理由の全部だよ」
 だから他の何を忘れても構わない。願いの在処を忘れても構わない。ただ願われたことだけを覚えて
いてくれたなら。 
「本当に、あんたって俺以上に我が儘」
 甘やかな吐息で囁くと、リョーマは腕の中で寝ている愛猫を起こさない小さい仕草で、片腕を桃城の
首に回した。
「秋霖、訪れる客もいないなら、愛を確かめあうのが恋人同志だよね?」
 それはイコールで邪魔は入らないということと同義語だから、リョーマは今度こそ桃城の却下など受け
付ける気はさらさらなく、幅広い肩口に顔を埋めた。
「お前も俺ももどっちも我が儘に出来てるよな」
 目線の下に在る細く白い首筋は、確かに欲情を煽られる壊れそうな曲線を描いているから、欲情のキ
スはまさしく項で間違いはなかったよなぁと、桃城は内心で些か見当違いの思いを反芻をして、緩い口
吻を首筋に贈った。
「人間なんて、所詮そんな生き物だって俺に教えたあんたが言わないでよね。どうせ利己でしょ?恋愛
なんて」
 所詮利他も利己も、時々に応じて個人の思惑の中で図られるだけだ。
「時には、利他的善意にありつけるかもしれないぞ?」
 個人の思惑の中だけで図られる詳細など意味もない。それが利己であれ利他であれ、必要な時は幾
らでも存在するのだ。
「ありつけなくていいよ。少なくともあんたからは欲しくない。利己でいいよ」
「越前…」
「俺の為とか、必要ないから」
 だからあんた自身の為に、俺をうんと欲しがってと、リョーマは雨に溶けてしまいそうな笑みを滲ませ
た。
「箱庭って、感覚的にこういう気分なんだろうな」
 秋の長雨で煙る町並み。まるで生命線のように家々を繋ぐ電線が、時折風に揺れ雫を落す。
静まり返った室内で、桃城はそんなことを思い、今度こそ冷えきった恋人を暖める為、秋黴雨に煙る町
から室内を遮断した。