八月になった。夏休みまだまだ序盤。
といっても、十一日から大会一次予選が始まるので、あまりのんきに構えてもいられないのだが。
『ね、あさひ』
『予選が始まる前に、ちょっと集中して宿題やっちゃわない?』
七月下旬、関東での合宿を終えた帰り道。スガが笑顔で提案。
練習後、自室にひとりでいると襲ってくる睡魔と戦うのがたいへんだから一緒にいて、ということらしい。
『あ、だったらさ…』
と、旭がスガに提案し返したのは…
数日後、まだ明るさの残る夕方、部活を終えての帰り道。
「よかったね、旭。今日、練習が早く終わることになってさ」
うん、旭が笑顔で頷く。
だったら、近々両親がお祝い事のために早めの盆休みを取って親戚の家に行き、東峰の家は自分と妹だけに
なる、一緒に勉強するなら、どうせなら泊まりでどうかと言ったのだ。
そしてそのことを部活の休憩中、他の部員たちと雑談していると、会話を耳にした烏養が、
『じゃあその日は休養も兼ねて早めに練習を切りあげるか。
残ってる宿題が気になって練習に身が入らないとか試合中に集中できないとか、夏休みの終わりに徹夜して
体調がグズグズになるとか、そんなことにならないためにも宿題は早めに片付けておけよー』
と、スケジュールに空きを作ってくれて。
そんなわけで、今、ふたりは、東峰家への道を、少し足早に歩いているのだった。
「あ、そうだ、スガ」
「ん?」
「うちに着いたら、先に風呂使って?」
「え?俺?」
「うん、その間に俺、俺の洗い物とスガの洗い物を洗濯機に入れてまわしておくからさ」
「あ、うん、ありがとう、わかった」
「でさ、そのかわりに」
スガが首を傾げると、旭はちょっと言いにくそうに苦笑して、頭をかきながら。
「夕飯の用意はしてってくれてるから、それを、俺が風呂に入ってる間、あっためなおしててほしいんだけど…
いいかな?」
スガが少し目を見開いて、それから、少し笑う。
「いいよ、まかせといて」
「ありがとう、頼むな」
「ふふ、なんだか深刻そうな顔するから、なにを頼まれるのかと思った」
「深刻そうって…、だってほら、スガは、お客さんだしさ」
「気にするなよ、そんなこと。こちらこそ、夕飯ご馳走になるんだし、それくらいのお手伝いはさせていただくよ」
「はは、そう言ってもらえると助かる」
どうしたしまして、と、微笑んだスガが、ふと、空を見上げる。
「なんだか少し、雲が出てきたね」
風も少し、冷たい。
「そういえば、夜は降るって天気予報で言ってた」
「そうなの?じゃ、急ごう」
「うん」
少し息を弾ませて玄関をあがり、スガと旭はまっすぐ風呂に向かう。時間は限られているのだ。さっさとやる
ことをやってしまわねば。
「じゃあ旭、ごめん、お先に」
スガが脱衣所の扉を開ける。
「うん、あ、洗うものはそこの籠に入れといて」
「わかった」
「タオルは、そこにあるのを使ってくれたらいいから」
「ありがとう」
じゃ、ごゆっくり、と、旭が扉を閉めた。
スガは鞄を開けて中から着替えと、今日一日練習で使用したウェアやタオルを取り出し、それは旭が指した
籠に入れる。
(ジャージはいいか、行き帰りにしか着ないし)
するりと両足を抜いたジャージのズボンは鞄に詰め、残った着衣を体から取り去り、籠に入れると、スガは
浴室に入った。
旭は二階にある自室にあがって、ジャージを脱いでハンガーにかける。鞄から、汗くさくなってしまった衣服を
取り出す。階下におり、廊下から、そっと、脱衣所の気配を探った。
(もういいかな…)
スガはもう、服を脱いで、中に入っているようだった。シャワーの流れる水音が、さあさあと聞こえる。
旭は、入るよ、と念のためひと声かけ、静かに扉を開けた。
「旭?いるの?」
「うん、洗濯しにきた」
「あ、ありがとー、ごめんね、もうすぐ出るから」
「え、そんな、慌てなくても、ゆっくりでいいよ」
「ううん、出る」
「そう?じゃあ、今、ドライヤーも出しておくから」
「うん、ありがとう」
「鞄も、ついでに運んでおこうか?」
「あ、ごめん!」
旭は手にしている自分のぶんと、籠の中のスガのぶんを全自動の洗濯機に放りこみ、棚からドライヤーを取り
出すと、洗面台脇のコンセントにプラグをさす。そしてスガの鞄を手に取って。
「あれ?そういえばスガ、ジャージはどうした?」
「かばんのなかー」
「あ、そうなんだ。どうする?出してハンガーにかけておこうか?」
「あ、それは、自分でやる」
「あっ、そうだな」
じゃ、このまま上にもっていくから、と、旭は脱衣所から出て行った。
スガが髪や顔から雫をぬぐう。
誰もいない脱衣所に出て体を拭き、清潔なTシャツとハーフパンツを身に着け、ささっとドライヤーの風をあてた。
短い髪は、すぐ乾く。
「ふう」
さっぱり小綺麗になって脱衣所を出たスガが、旭を探してうろうろする。
「あさひー?」
あ、ここー、と声がするほうに向かうと、そこは食卓も備え付けられた広めの台所。旭が冷蔵庫から麦茶の
ボトルを出しているところだった。
「今、入れるから」
「ありがとう」
注がれたグラスを受け取り、口に運ぶ。暑い中、一日練習して、まだ少し火照りの残った体に気持ちいい。
「ふー」
「ひと休みしたら、ごはん、頼むな」
旭がテーブルの上に目線を移動させる。
そこには、ぴん、ときれいにラップのかけられたおかずののった皿や、ご飯の盛られた茶碗。
「ん、やっとく」
スガがにこりと頷く。しかしすぐ、けどさ旭、と、首を傾げる。
「三人分あるけど、これ、全部あっためていいの?」
「あ、そうだな、ちょっと待って、聞いてくる」
旭が、階下から、ごはん一緒に食べるかー?と妹を呼ぶ。
今ちょっと具合悪いからあとで自分でやるー、と、少ししんどそうな声が、返ってきた。
「えっ、だいじょうぶ?見に行ってあげたほうがいいんじゃない?」
「大丈夫だよ、自分でやるって言ってるし」
夏休みだから夜更かしでもしたんだろ、と、旭はなんでもないことのように言う。
実の兄がそう言うのなら大丈夫だろうと、スガもそれ以上は言わない。
「わかった、じゃあ、俺たちのぶんだけ、あっためておくから」
「うん、頼んだ」
じゃ、風呂入ってくる、と、旭が台所から出ていく。
スガが皿をレンジに運ぼうとテーブルに近づいて、見つける。鍋にお味噌汁あります、あっためて食べてね、の
メモ。
そばには、空の椀。
(はい、ありがとうございます)
スガは目を細めながら手に取った小さな紙をそっとテーブルの端によけて、仕度にかかった。
(えっと…)
男ものの大きな茶碗がふたつ。旭の家を訪れたとき、何度か見た、旭の茶碗はどちらだったか。
しばし考え、そうだこっちだと思い出し、それではないほうの茶碗に、手を伸ばす。
(旭には、アツアツで)
自分のぶん旭のぶんとあたため終え並べ終え。
鍋の中を玉杓子でぐるぐるかき回していたスガが、人の気配に振り向く。
髪をゆるく縛った旭。自分と同じように、Tシャツとハーフパンツを身につけて。
「どう?なにか手伝うことある?」
「ううん、あとは味噌汁入れてもっていくだけだから。座ってて」
「そう、じゃ」
ガタリと椅子を鳴らして旭がテーブルにつく。スガが湯気のたつ椀ふたつを手に歩いてくる。
ふたりは食卓で向かい合い、箸を取った。
「いただきます」
そして、
「ごちそうさま」
手を合わせ、旭にまた冷たい麦茶を入れてもらって食休み。
食事中に打ち合わせたこのあとの家事のこと。
旭は洗濯物を室内干しに、スガは食器を洗いに。よし、じゃやるか、と、立ちあがる。
各自仕事を終え、一緒に階段をのぼり、旭の部屋に入った。
雷が鳴る。
それから、ポツ、ポツポツ、と。
「あ、雨」
「ほんとだ」
屋根を打つ雨音が大きい。ふたりは、家に着いてからでよかった、と、笑いあった。
開けて、風を通していた窓を、旭が閉める。
前日に部屋に運び入れておいた折りたたみ式のテーブルを広げ、黙々と、時々わからないところを尋ねたり
教えたりしながらふたりは着々と宿題を終わらせていく。
ふと気づくと、雨はもうだいぶ小降りになっていた。
「気分転換に、ちょっと空気を入れ替えようか」
旭が立ち上がって窓を開ける。さっと入ってきた夜気が驚くほど冷たい。ひゃっ、とおかしな声をあげて、旭は
開けた窓をまたすぐ閉めた。
スガが、両手で自分の肩を抱く。
「そういえば、なんかちょっと、寒いかも」
「え、」
「ごめん、旭、なにか、上に着るもの貸してもらっていい?」
「いいよ、ちょっと待ってて」
壁にかけてあるジャージ。行き帰りしか着ていないとはいえ、風呂に入って綺麗になった体に羽織るのは少し
抵抗があるのだろう。タンスの中から予備の烏野黒ジャージを出してスガに渡した。
「ありがとな、旭」
スガがさっそく着こむ。だぶだぶと余る袖にむっとした顔をするのにふきだしてしまわないよう気をつけながら、
旭も、七分袖のパーカをひっぱり出して腕を通した。
「短いね、袖。寒くない?」
「生地が厚めだからね。大丈夫」
寒くないかと問われても、旭には冬の長袖のものがどこにあるのかわからないのだ。衣替えの一切を、母親が
やってくれるから。
しかしそれを口にするわけにはいかない。言えばジャージは突き返される。腕のところは寒々しいが、生地が
ぶ厚いのは本当だ。床に就くまであと少し、それくらいは、もつだろう。
「ほんとう?」
スガが、じっと旭を見る。旭はこくんと頷いた。
なら、いいけど、と、まだ少し心配そうなスガに、旭は、さ、あと少しがんばろう、と促して、勉強を再開する。
しばらくして、スガが、ふあむ、と、あくびを噛み殺した。
「眠い?」
「うん…」
「俺も。じゃあ、そろそろ切りあげようか」
「あ、うん、でも、あと、このページだけ」
「ん、なら、俺ももうちょっと」
共に、切りのいいところまで宿題を終え、ふたりは広げていた問題集やノートをぱたぱたと閉じた。
「旭が一緒だったから、だいぶはかどった」
スガが満足げに笑う。
「俺もだよ、わかんないとこ教えてくれて、助かった」
「ふふ」
「じゃあ俺、下から布団もってくるから。スガ、悪いけど、このテーブルたたんで廊下に出しといてくれる?」
立った旭を、スガが見あげる。
眠いのか、少しぼんやりした顔で、それでも愛想のいい笑みを浮かべながら、うん、と、頷く。
長い袖からちらりとだけ覗く指先が、とても幼い。
旭は思わず、しゃがんで、スガと目線の高さを合わせた。大人が、子どもにするように。
「それが終わったら、先に歯も、磨いておいて」
「うん」
素直に頷くのを見届け、旭は部屋を出る。
スガはテーブルの足を丁寧に折り、廊下の、邪魔にならない端のほうに立てかけると、歯ブラシを手に、とん
とんと階段をおりた。
スガに気づかれないよう注意しながら冷えた両手首を忙しなく擦る。先に階下におりた旭は廊下を奥に進み、
客間の襖を開ける。
息子の友人が宿泊する際、いつもここに母親が客用の布団を出しておいてくれるのだ。
「あ」
用意されていたのは、敷布団と枕、それから、タオルケット。
「だよなあ…、昼間は暑かったもんなあ…」
母親も、天気予報は見ていても、まさかここまで気温が下がるとは思わなかったのだろう。
このタオルケットは仕舞って、ぶ厚い掛け布団を出そうと、押入れを開けると。
「あれ?ない?」
仕方がないので毛布でも、と、あちこち見渡してみても、それもない。
「えっ…、どうしよう…」
自分のものを貸したくても、旭も、ベッドの上にのっているのはタオルケット一枚しかない。夏だから。
「あー…、とりあえず、もってくか…」
出されていた寝具をひと揃い、よいしょと両腕に抱える。
階段をあがって布団を自室におろしたところで、歯を磨き終えたスガが、ありがと旭、と、戻ってきた。
「あっ、スガごめん、上にかけるの、これしかなくてさ…」
旭がタオルケットを持ちあげて、見せる。
「探したんだけど、見つからなくて…」
困り顔の旭に、スガが明るく言う。
「大丈夫だよ、そのタオルケット、毛足長いし」
「そ、そう?」
「うん」
にこりと頷くのに、旭もほっと、胸を撫でおろす。
「もしかしたら、ふとん、クリーニングとか、綿の打ち直しに出しているのかもしれないね、夏の間にさ」
うちも出したりするよ、とスガが笑う。
「ああ、そうかも…」
「自分で敷くから。旭も歯、みがいてくれば?」
「あ、うん、ありがとう」
部屋を出る旭を見送り、手にした歯磨きセットを鞄に仕舞い、スガはぼすりとタオルケットに顔をうずめた。
「柔らかい…、いい匂い…」
そしてふかふかしている。これをしっかり首までかぶれば、寒さを辛く感じることもないだろう。
このままうとうとしてしまいそうになるのをぐっと我慢して、立ち、布団を広げて整え、旭のジャージを脱ぎ、
ひょいとハーフパンツから足を抜き、両方たたんで枕元に置く。
Tシャツと下着だけになって、ぱたとうつ伏せる。
綺麗に洗われ乾かされたシーツや枕カバーが、素肌にとても心地いい。
(寝ちゃいそう…)
練習疲れ、勉強疲れも手伝って、うっとりと夢見心地で枕に頬を押しつけていると、旭が戻ってきた。
「スガ?」
「ごめん、ふとんがあんまりきもちいいから、先にねっころがってた…」
「はは、いいよ、俺ももう寝る」
ほら、ちゃんと掛けないと、風邪ひくよ、と、旭が、足元にたたまれたままのタオルケットを、スガのむき出しの
腿や、薄いTシャツ一枚の背中に、するすると這わせる。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」
旭もスガ同様、Tシャツと下着だけになり、カーテンを閉め、髪をほどき、電気を消し、ベッドに体を横たえた。
「おやすみ、スガ」
「うん、おやすみ、あさひ」
続く
(14/06/13) |