「おやすみ、スガ」
「うん、おやすみ、あさひ」

遮光性のないカーテン。外光が柔らかく透けて通る。薄暗い室内の中、スガは目を閉じる。
眠りに落ちようとしたとき、衣擦れと、それからベッドがぎしりと軋む音に、また、意識が、ふわと浮上した。

(なんだ…?)

隣りのベッドが空だ。足元に人が通る気配。扉が開く音閉まっていく音。

(トイレかな、寒いし)

うつ伏せに押し当てた耳に、枕越しに伝わるかすかな振動。それは遠のいて、聞こえなくなり、また再び耳を
震わせる。ああ、戻ってきた、と、スガは思った。

直後、扉の開閉音。旭がこの部屋の扉を開けたのではない。隣りの、部屋だ。それまで聞こえていた旭の
足音がぴたと止まる。
スガは寝返りをうって扉のほうを見た。細く開いた扉の隙間からは電球の黄みがかった明かり以外なにも
見えない。
話し声が聞こえる。しかし声が小さくて内容まではわからない。

(どうしたんだろう?)

声が途切れた。ひたひた足音。ゆっくりと扉が開き、するっと旭が大きな体を滑りこませた。

(あ、さ)

こちらに背中を向けて静かに扉を動かしている旭に声をかけようと思った。しかし最後まで閉めない、扉と壁が
触れる僅かな音すら立てないように、けれどなるべく光が入らないように、細く細く扉を開けた状態で旭が手を
止めたことに、自分への配慮を感じて、なにも言えなくなる。

薄目を開けて様子を窺う。旭はベッドまで行き、タオルケットを丸めて抱え、また、外に出た。

(タオルケットを、妹さんに貸してあげるのかな…?)

そういえば、具合がよくないと言っていた。寒い、助けて、と請われたのだとしたら。

(じゃあ旭は、寝るとき、どう)
(あ、)

隣りの部屋の扉の開閉音。廊下を移動する足音ひとり。旭は戻ってこない。足音は階下におりて行く。

(旭…、かな?おりていったの…)

(どうしたんだろう?なにか、あったのかな?)

考えたくはないが、救急車を呼ぶ必要が、あるだとか。しかし、さすがにそこまで大事なら、こちらに一言もない
などということはないだろう。サイレンが鳴るかもしれないし、人の出入りもあるかもしれない。
どれだけ旭が静かに行動していても、目は覚めてしまう。

(どうしたんだろう)

じっと、耳を澄ましても、電話をかけているような人の声は聞こえない。

(どうしよう)

落ち着きなく、右に、左に、寝返りをうつ。
誰の気配も感じない、東峰の家は、しんとしている。ただ、自分の鼓動の音だけが、うるさかった。

(どうしよう)

(下に行ってみたほうが、いいのかな…?)

けれど、とくに急を要することではなかった場合。たとえば腹が空いて、なにか食べたくて台所に、だとか。

(俺を起こしてしまったって、旭は気にするかもしれないし…)

救急車を呼ぶほどではなくても、なにか困ったことが起こって、助けが必要なら、たぶん起こすと思うのだ。
起こさないということは、たぶん、旭ひとりでも大丈夫だから、なのだ。
しかし旭は気が弱い。迷惑かも、叱られるかもと思ったら、よほどのことでも、言わないかもしれない。

(どうしよう)

もし、旭がたったひとりで困っていたら。困っているのに、助けてあげられなかったら。

(どうしよう)

思案にくれ長いため息をつき、スガは上を向いた。
顎下のタオルケットのふちを、両方の手で、きゅっと掴む。

(どうしよう、もう少し待ってみる?)

(もう少し待って、下に行ってみる?)

(もう少し)

(もう…)

(…)

(あっ!)

(そうだ!)

(トイレに起きたふりすればいいんだ!)

用を足しに階下におりたら旭がいたのでどうしたのかと思いました、そういう体を装って声をかければなんら
不自然じゃない。

よかった、さあ、下に、スガがそう思った瞬間。

ひたひたひた、と、足早に階段をあがってくる足音が聞こえた。スガは開けていた目をさっと閉じる。
静かに扉を開閉させる音。人が入ってくる、足音。
そして、扉が壁に静かに接触する音。ああ、これでもう、旭は外に行かない。薄目を開けて、様子を見る。

足元のほうに、ぼんやりと見える大きな男の影。旭だ。
旭は、タンスの引き出しを開けている。黒いなにかを引きずり出し、広げ、もそもそと足を上げ下げする。

(…ジャージ、はいてる?)

それから旭はそろそろとスガの枕元にきて、たたんで置いてあるジャージの上着を、掴みあげた。
なにかから隠れるみたいに背中を丸め、こそこそと腕を通す。

丸く見開かれる、スガの目。

(まさか、それで寝るつもりなの!?)

じじっ、とファスナーをあげる音のあと、旭がころりとベッドに横になる。壁に向かって、寒そうに、体を丸めて。

「あさひ」

肘で体を起こし、名前を呼ぶ。旭はわっと声を上げ、暗い中でもはっきりわかるくらい、大きく、肩を揺らした。

「ご、めんスガ。起こした?」

旭はくるりと体を半回転させてこちらを向くと、ベッドの際で腹ばいになり、おどおどとスガの顔を覗きこむ。

「ううん、まだ寝てなかったから」
「えっ、あっ、そう、なの?」
「うん」

「旭、あのさ、タオルケット、妹さんに貸したの?」

隣室を気遣い、低くなるスガの声。旭も、声をひそめる。

「うん、タオルケットいちまいじゃ、寒くて寝られないって言うから」
「そう…、えと、妹さん、旭のだけで、足りたみたい?」
「うん、寝かせて、かぶせてやったら、これで大丈夫だ、って」

大丈夫、の声音が笑みを帯びる。スガも安心して、優しく、そう、よかった、と、呟いた。

「じゃあさ」

もし、まだ足りないようなら、今自分が使っているこれも、と、申し出ようと思ったけれど、必要ないなら。

「じゃあさ、旭」
「ん?」
「こっちで、一緒に寝よう」

「えっ?」

驚きに揺れた前髪が顔にかかる。慌しく耳にひっかけ、薄闇の中、旭はじっとスガを見つめた。

「そ、んな…、悪いよ、スガはお客さんなんだし、気にしないで、ゆっくりして。俺は大丈夫だから」

スガが、自分の体に掛けているタオルケットをはらりとまくりあげる。

「そんな格好で寝たら、風邪ひくだろ」
「け、ど」
「いいから。早く、枕もって、こっちきて」

旭のためにあけた場所。手のひらで、ぽんとはたく。

旭は、少し黙りこんだあと、

「じゃ、じゃあ…」

と、枕を抱えてベッドからおり、むき出しになった白いシーツの上に、おずおずと膝をついた。

「あ、旭」
「なに?」
「服、着て寝たら、たぶんちゃんと体が休まらないと思うから、それ、脱いで」
「…!」

スガは小さく笑って、旭の喉元に指で、触れ、

「もしファスナーの金具が当たったら、痛いし」

とも、付け加える。

「…わかった」

頷き、旭は枕を置いた。着こんでいたジャージを脱ぎ、くると丸くまとめてこちらはベッドに置く。
スガは満足そうに、うん、いいよ、と言った。

「それじゃ、ごめん」
「謝るなよ」

旭が、シングルサイズの布団のその半分に大きな体を小さく縮めて横たわる。
スガは苦笑しながら、タオルケットをかぶせた。

「もう、寒くない?」
「うん、あったかい」
「そう、よかった」

横になって向かい合って交わした会話の中、たしかにあったかいの言葉に嘘はなさそうだけれど。

「ねえ、旭」
「ん?」
「そんな、端のほうでカラダ小さくしてないでさ、もっとこっちおいでよ。遠慮しなくていいから」

くすくす笑いながら、スガが、旭のすくめっぱなしの肩を軽くたたく。
あたたかく、快適に眠ってもらいたいから、呼んだのだ。だからもっと甘えてくれていい。甘えさせてあげたい。

「ほら」

スガが旭を促すように、少し体をひく。

「あ、うん」

旭は遠慮がちに、そろそろと、力を抜いて、体をきゅっと縮ませるのを、やめた。

「もっとこっちにこないと、布団からはみ出しちゃうだろ」
「けど、スガが」
「俺は大丈夫だから」

痩せたし、と笑って、また少し、体をひく。スガの背後は、もういくらも残っていない。それでもいい。策はある。

「ほら、スキマが空いてると、寒いから」
「うん…」

じりじりと、旭が体を動かした。うん、うん、と、スガが頷く。

「あの、もう、これくらいで…」

じゅうぶん、だから、と、旭は口ごもり、動きを止めた。やっとこれで、真ん中らへん。まだ、隙間は空いている。
その慎ましさをスガは好ましく思う。
わかっていた、旭が、あいているスペース全部をひとりで使おうとしないこと。だから多めに、あけたのだ。

「スキマが空いてると、寒いって言ってるのに…」
「ご、ごめん」

けど俺ばっかりじゃ、スガが布団から落ちちゃうから、と、旭が言い訳めいた口調でもごもご言うから。

「じゃあ俺がそっちにいくよ」
「!?」

太い首根っこをがしっと掴み、スガはずいと旭に体を寄せた。これでふたりとも、だいたい布団の真ん中。

「ふふっ、あったかい。やっぱりスキマはないほうがいいね」
「あ、う、うん」
「あ、髪おちちゃった」

旭の首に手をまわしたときに触れたのか、ひとふさ、頬にかかる髪を、スガはそっと、指で整えた。

「じゃあ、おやすみ、旭」
「あ、うん、おやすみ」

スガが枕に頭を預け、目を閉じ、くたりと体の力を抜く。そのとき、ぴた、と、膝が旭の脚に触れた。

「ん」

また目を開いたスガに、旭が慌てて言う。

「あ、ご、ごめん、俺、ジャマだよね」
「邪魔じゃないよ、駄目だからね、また端っこのほうに行ったら」
「え、あ、うん」
「そうだ、俺が寝たらベッドに戻るとかもナシだからね」

少し早めに目覚ましかけて俺が起きる前にこっちに戻ろうとかしてもそのとき俺も目を覚ましちゃうから無理
なんだからね、と、スガが不敵に笑う。

「し、しないよ」
「ならよろしい」

スガが目を閉じてまた膝で旭の脚に触れる。そこは旭の膝の少し上の部分。

「ん…、こうやって枕を並べてると、俺は旭のここまでしか届かないのかあ…」

自分より下にある膝、爪先に触れるのはすね。高い身長を羨む日向の気持ち、わかるな、と、思う。

「…旭の足のさきになんて、ぜんぜん届かないし…」

目を閉じて、足の甲ですねを辿っていく。うんと伸ばしてみても、せいぜい足首のあたりくらいまでだ。

「あ」

旭が小さく声をあげる。ぎくりと体を強ばらせる気配。さっと足がひかれる。

「う、あ、ごめん、くすぐったかった?」

スガが目を開けて、申し訳なさそうに眉尻を下げた。

「あ、う、あ、いや、うん、気に、しないで」

暗くて表情はよくわからないが、このどもり具合、目は泳ぎ冷汗ダラダラかいてる顔のときの声だ、と、スガは
思った。

「なんか、ヘンだよ」

スガはすっと息を吸いこむと、ずぼりとタオルケットに潜って逃げていった足を追う。あ、スガ、だめだって、と、
押し殺した声で制止するのも聞かない。足を、足に、くっつけた。

「あ、冷たい」
「…っ」

すぽりとタオルケットから顔を出し、スガはもう一度、今度は旭の顔を見ながら言った。

「旭。足冷たい」
「す、す、スガの足が、あ、あったかいんだよっ」
「だとしても冷たいことには変わりないだろ」

あっ、ハイ、すみません、と、旭がしゅんと小さくなる。

「あ、ごめん、旭、怒ってるわけじゃないんだ」

そう言って、スガはまた、旭の額や頬に落ちてしまった彼の前髪を、優しく、指で払いのけた。それからその
手で旭の肩をしっかりと掴んで。

「あさひ」
「なに」
「足、かしてね」
「え?」

スガはするりと旭の脚に脚を絡め、膝の裏と膝の裏をひたとくっつけて引っぱり、自分の脚の間に引き寄せ、
はさんだ。

「あ、スガ…」

なにか言いたげな旭を、だめだろ、と、肩を掴んだ手に少し力を入れることで遮る。

「だめだろ、旭は、何度も跳ぶのに。冷やしたら、痛くなるかもしれない。関節」
「あ、うん、ごめん…」
「片方だけだけど、しないより、マシだと思うから…」

あ、だけど、こうすればそっちの足も少しはあったかいかな?と、スガが、上にのせているほうの足を、ときどき
はさんでいないほうの足に伸ばして、そっと触れさせてみたり、軽く擦ってみたりする。旭が小さく息をついた。

「スガ、ごめん」
「いいよ、気づいてよかった」

旭のひんやりとしたふくらはぎに、自分のあたたかいそれを押しあてる。熱が吸い取られていくのがわかる。

「あさひ、あったかい…?」
「うん…」

スガが触れているところからも、触れていないところからも、力が抜けているのを感じる。
旭がくつろいでくれているのが嬉しい。

「…」

目蓋が重い、もう、目を開けていられない、とスガは思う。体に力が入らない。旭の肩に置いていた手をおろす。
おろした指先が、旭の手首に触れた。

「!」

眠気が飛ぶ。目が開く。狭いふたりの間。旭の腕が逃れられる場所はない。そのまま、スガの指に触れられて
いるより他なく。

バレてしまった緊張感からか、旭の呼吸が少し乱れ、浅くなるのがわかる。スガは、胸が潰れる気がした。

「ごめん、旭」
「ス、ガ、いや」
「俺が、ジャージ借りたせいだよね」

手首、冷たいの、と、スガが、消えそうな声で呟く。

「ごめん、ほんとに」

旭の両手首をそっと手に取り、抱える。抱えて、胸に押しつける。

「スガ、ちがうんだ」
「ちがわないよ、ごめん、旭」

補欠のセッターが、エースにこんなこと、許されない。スガは申し訳なさでいっぱいになった。泣きたい。

「スガ、違うんだ、俺、下で、鍋を洗ったりしてたから、あの、水を使ったりしてたから、そのせい、だと思う」
「え、鍋?みず?」
「うん、そう、あの、タオルケット持っていったときにさ」
「う、うん」
「夕飯、結局食べられなかった、って、言うから」
「あ、ああ!」

あとで自分で、と言っていた、おかずや、ご飯。そういえば、テーブルの上に出したままだった。
合点がいったらしいスガに、旭は安堵して続ける。

「あれを片付けに、行ってて。いくら寒くても、夏だし、さすがに出しっぱなしはまずいかなって」
「そうだね」
「皿と茶碗はそのまま冷蔵庫に入れられたけど」
「うん」
「鍋は入らなかったから、お椀に移して。空いた鍋は、もう今ついでに洗っちゃえと思ってさ」
「そうだったんだ」

水はちょっと冷たかったけど、けど俺、給湯器の使い方よくわからなくて。ふだん手伝いしてない、そのバチが
当たっちゃったかな、と、旭は苦笑して言う。

「だから、気にしないで。スガのせいじゃないから」
「う、ん」

スガは、まだ少し納得していない様子だ。疑っている。本当は、もっと前から、寒くて、辛かったのではと。
それは本当だが、だからといってハイ本当ですとは絶対に言いたくない。話題を変える。

「そういえば、スガ」
「ん?」
「まだ寝てなかった、って言ってたけど、ごめん、俺が下で片付けてる音、うるさかったかな?」
「ううん、ぜんぜん」

ぜんぜん、聞こえなかったよ、と、スガは旭の腕を撫でる。旭は嬉しそうに、なら、よかった、と、小さく呟いた。

よくないよ、と、スガは思う。片付けている音が聞こえなかったと言われて喜んでいる旭に切なくなる。
そりゃたしかに、残った夕飯を仕舞うなんてわざわざふたりですることではないだろうけど、それでもなにか、
頼って欲しかった気持ちは、あるのだ。

しかしもう、これ以上なにかを要求して旭を困らせたくない。服を借りたせいで、と落ちこむ自分に、そうじゃない
と、鍋を洗っていたからだよと、優しい気遣いを見せてくれる旭の気持ちを、無下にしたくない。

「スガ」
「え?あ、なに?」
「手、あったかいよ。ありがとうな」

両手両足を拘束され、動かせるのはここくらい。旭は、ふふと笑って、額を、スガの前髪の生え際に、こつんと
あてた。

「あさひ」
「へへ」
「ありがとう、そう言ってもらえると、嬉しい」

嬉しい、すごく、泣き出してしまいそうなくらい。部屋が暗くて本当によかったと思う。
スガは少し笑って、返事するように軽く押し返す。旭もまた、ふふふと、今度はちょっとくすぐったそうに笑った。

「おやすみ、あさひ」
「うん、おやすみ、スガ」





続く

(14/06/18)

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