旭は一段、一段、階段を登る。スガは現実に起こった自分の体の変化をからかったのではない、あれは夢の
中のなにかについての発言なのだと、ほぼ、確信してはいるものの。
(うう、)
(それでもやっぱりちょっと、顔合わせづらい…)
同じ布団で並んで寝ているときに粗相をしてしまいました、なんて、怒られるのではないか。気持ち悪がられる
のではないか。
(けどそこはきっと、仕方のないことだって、スガは、わかってくれる、はず、きっと、)
(たぶん…)
だんだん、自信がなくなってくる。今、スガは、部屋で、どんな顔をしているのだろう。
怒っているのか、それとも、バカにして、笑っているのか。
(うう、怖い…)
悪い想像ばかりがふくらんでしまう。胃が、キリキリと痛みだす。
(…けど、お客さんをひとりで放っておくわけにもいかないし)
まさか、気まずくて顔を合わせづらいからひとりでご飯食べてひとりで勝手に学校に行ってね、なんて、言える
わけがない。
なにより、友達にそんなひどい、失礼なことはできない。
(とにかくまず、ちゃんと謝ろう)
怒っていたら、きっとそれで許してくれると思う。もし、バカにして笑っていたのなら、そのときは、こっちが怒って
そんなのひどいと、抗議すればいい。
(…けど、俺がスガにそんなこと、)
(できるかな…)
もう階段は登りきってしまって、あとはもう、廊下を数歩歩いて、扉を開けるだけ。
(ひいいい)
スガは、膝を抱えたまま、じっと正面を見据えて、旭が戻ってくるのを待った。
隣室でまだ眠っているであろう妹を気遣っているのだろう、控えめな足音が、ゆっくり、ゆっくりと近づいてくる。
ひたり、ひたりと廊下を歩く、気配。
戸板が動き始める、音。
(旭、戻ってきた)
すっ、と、首をそちらにまわす。もうすぐ扉が開いて、旭が顔を出すだろう。どんな顔をしているだろう。
恐れているのか、それとも、恥ずかしがって、照れ笑いを浮かべているのか。
それとも、よくも笑いものにしてくれたな、と、不快感をあらわにしているのか。
扉からは、まず、これは無理矢理に作った笑顔です、と書き記してあるかのように、ぎこちなく強ばった旭の
顔が見えて、それから、昨日と同じTシャツを着た上半身と、昨日とは違う、下着の下半身。
(あっ)
もしかしたら、旭は下着を汚したのではなく、急に用を足しに行きたくなったのかもしれない。その可能性は
この別の下着で完全に消えた。
はっと顔を硬くしたスガを見て、旭もぎょっと顔をひきつらせる。
スガ笑ってない、まずい、これはきっと機嫌を損ねてしまったのだ、と、旭は思った。一刻も早く、謝らないと。
素早く部屋の中に体を滑りこませる。しかし怖い。向き合っているのが。
旭は、これはこの早朝の静かな時間に物音を極力立てないためなのだと自分に言い訳をしながら、スガに
背を向けた。そっとそっと、丁寧に、静かに、扉を閉める。
スガは、さっとタオルケットをはらいのけ、布団の上に正座した。
旭が扉をすっかり閉め終えスガのほうを向く、スガが床に手をつく、ふたりが同時に、頭をさげる。
「ごめん!」
声がぴたり重なる。ふたりが顔をあげる。
「あっ?」
「えっ?」
「あ、ス、スガから、」
「えっ、あ、じゃ、じゃあ」
スガは、顔全体を紅潮させ、伏せた目を右に左に泳がせると、頭をかきながら、とても、言いにくそうに。
「あ、あの、えーと、その、」
「大きくなった、ってのはさ、」
「その、その、あの、生理現象、を、か、からかったわけじゃないんだ、」
「けど紛らわしい言い方だったよねごめん!」
スガがつっかえつっかえ、しかし最後はひと息に。言った言葉に、旭は本当に心の底から、本当にほっとする。
「うん、」
旭は、大きく頷いた。
「わかってるよ。夢を見て、って、言ってたもんね」
聞いたスガの顔が、ぱっと輝く。よかった、旭はちゃんとわかってくれていた。感極まり、床についていた右の
手のひらを強く強く胸に押し当て、ほっと息をつく。
「うん、そう、そうなんだ、」
あれは夢の話で、と、嬉しそうに笑って続けるスガの目から、ぽろりと涙が零れ出た。
「えっ、スガ、どうしたの?」
だいじょうぶ?と、旭が駆け寄り、スガの前に膝をつく。スガは、だいじょうぶ、と、指で涙をぬぐいながら。
「よかった、旭、からかわれたと思って怒ってるんじゃないかと」
旭が、スガと、目の高さを合わせる。
「スガは、そんなことしないよ」
「、あさひ」
スガの濡れた瞳が、旭を見る。目尻がうっすら赤い。しっとりと水気を帯びた泣きぼくろが艶やかだ。そのとき
枕元の目覚まし時計がけたたましく鳴り響いた。
「わっ!」
びくりと体を震わせ、慌ててふたりが時計に手を伸ばす。アラームを止める手と手が重なる。
「あ、ご、ごめん」
「あ、ううん、こっちこそ」
どちらからともなく、ふふ、へへ、と、照れ笑いが零れ落ち、やがて、ははは、くすくす、と、楽しげに、しかし
隣室を気遣いひそやかに、笑いさざめく声に変わる。
「びっくりしたね」
「うん、びっくりした」
ふと、スガが、なにかを思い出したように、あ、と、小さく呟いた。
「あの、旭も、さっき、ごめん、って」
「あ、あれ。あれは、その、」
今度は旭が頭をかき、一度、目をそらして。しかしすぐまた、そらした目を、スガに戻して。
「あれは、お見苦しいところを見せてごめん、の、ごめん」
言い終え、顔を赤くして、旭はまた、目をそらす。
「気にしないで。仕方ないよ」
優しいスガの声。勇気づけられて、旭は、思い切って尋ねた。
「けど、その、怒ってない?」
「なにに?」
「その、同じ布団で一緒に寝てるときにさ、隣りのヤツが、あんなふうになってたら」
スガは、ほんの僅かだけ考える素振りを見せ。
「いいよ、気にしてない、旭だし」
と、笑った。
「うん、なら、いい。怒ってなくて、よかったよ」
「うん」
怒って、ないから、と、スガが控えめに頷く。旭は立ちあがった。
「じゃ、俺、下で朝ごはんの支度するから。スガはその間に、出かける用意、してて」
目覚めてから、夢や下着のことですっかり動転してあまり感じなかったが、落ち着くと、途端にまだ残る空気の
肌寒さに気がつく。旭は手早くジャージの上下を身につけた。
「あ、待って、俺も手伝う」
部屋から出て行こうとする旭の背に声をかけ、スガも立ちあがる。
てきぱきとタオルケットや布団をたたむスガのむき出しの腿。旭は、少し頬が熱っぽくなる。
「ありがとう、けど、その前に顔洗っておいでよ」
「あ、そうだね」
スガも壁のハンガーからジャージを取って、羽織った。
「じゃ、俺、先に下に、」
扉に手をかける旭を、スガが呼び止める。
「待って、今下もはくから。一緒におりよう」
「あ、うん」
急いでウエスト部分を引っぱりあげたスガが駆け寄る。旭は、扉を開けた。
続く
(14/07/10) |