黙って先を歩く旭の背中を見ながら、スガはまた少し、悔やむ。

(旭だからいいとか、よけいだったかな)
(旭も、なんだか、微妙な反応してたし)

ただ、うん、と頷いた、旭の顔を思い出す。とくに笑うでもなく、とくに不機嫌になるでもなく。
これといって、感情の読み取れない、あの顔。

(だから、)

仕方なく、もう一度言った。怒ってない、と。期待していた反応が得られなくて、間がもたなかったのだ。

(喜んで、くれるかと、思ったんだけどな)

怒ってない?と問われたとき、本当に本心から、旭だったらなんでも許せるのだと思った。そしてそれを、口に
出して言いたい、と、思った。だから、言ってみたけれど。

そうしたら、旭は、立ちあがった。部屋から出て行こうとした。自分を置いていこうとした。逃げるように。

(また、思わせぶりなこと言って、)

失敗してしまった、と思う。

だからもう、よけいなことを言うのはやめよう。旭を困らせたいわけじゃない。
あの言葉を旭が嬉しく思わないのであれば、ならもう、ああいうふうに言ったことに、とくに意味はないんだと、
そういう顔を、していよう。

(けど、それは、)

なんだか嫌だなと、ひどく辛いと、ひどく悲しいと、スガは思う。

階段をおりる旭のあとを、黙って静かについてくるスガの気配。その気配が、旭には少し、息苦しい。
スガが口にした、気にしてない旭だし。これはいったい、どういう意味なのだろう。

(なにを、されても、いいって、こと?)
(俺になら?)

たとえば、今朝見た、夢のようなことでも。

(まさか)

即座に、心の中で首を振る。

(スガが言いたかったのは、きっと、)
(お前が駄目でヘタレなのは三年間の付き合いでよく知ってる、だから多少のヘマくらいは気にならない、)
(とか、きっと、そういう、意味の、)

しかしそれもまた、思った端から否定してしまいたくなる。

(違うんだ、そうじゃないんだ、)

本当はわかっている。あのときスガが言った言葉、笑った顔。

自分は、信頼を寄せられていたのだと。

(けど、)

あのとき、それを素直に受け止められなかった。あんな夢を見て、あんなふうに下着を汚した自分が、それを
ありがとうと笑って受け取っていいのか、迷ってしまった。

(スガ、なんだかちょっと、しょんぼりしてるように見えた…)

それはそうだろう、心をこめて寄せた信頼を、相手が喜んでくれないとなれば、誰だって悲しいだろう。

(けど、)
(逃げてしまった…)

布団から立ったスガの、むき出しの白い肌に驚いて。動揺を悟られたくなくて、その場から逃れようとした。

(ごめん…)
(あれは俺が悪い、よな…)

「待って、旭」
「えっ?」

声に振り返ると、いつの間にか階段は終わっていて。スガも、一階の廊下におりていて。そのスガの手が、
遠慮がちに旭の腕に触れている。

「旭、タオル…、洗濯、してもらった自分のを使おうと思ったんだけど…、どこに干してくれてるのかなって…」

見あげてくる、少し不安そうなスガの顔。もしかしたら、この前に一度か二度、声をかけていたのかもしれない。

「あ、ごめん、俺ぼうっとして…、こっちだよ」
「あ、うん、あの、ごめん、こっちこそ、急に声、かけたから、」

びっくりさせちゃったみたい、と、すまなそうに目を伏せるスガに、旭は胸が苦しくなる。

「だ、いじょうぶ、だよ。だからスガも気にしないで」

ぽん、と、背中をたたいた。スガが顔をあげたので、笑ってみせる。旭の顔を見て、スガも笑った。

「うん、わかった」

ありがとう、と、今度は少し恥ずかしそうに、スガが目を伏せる。
ほのかに赤くなったその目尻に、旭はさっきの泣いた顔を思い出した。また少し、胸が苦しくなる。

足を動かす、まだ、胸は苦しい。どうしよう、と思ったとき、目的の部屋に着いた。

「、ここ」
「ごめんね、ありがと、旭」

扉を開けようとするスガに、旭は、あ、と、小さく声をあげ。

「お、俺も今、いっしょに片付ける」

うん、そうだね、と、スガが微笑んで、頷いた。

ふたりは中に入って、めいめい自分のぶんの洗濯物を取り外す。

「そうだ、スガ」
「ん?」
「俺が、俺のぶんを上にもっていくついでにさ、スガのぶんも、運んでおくから」
「ほんと?ありがとう」

じゃあこのタオル以外、急いでたたんじゃうね、と、スガは床に正座して、てきぱきと手を動かす。旭も慌てて
スガにならった。

下を向いて洗濯物をたたんでいるスガの目尻は、もう赤くない。旭は、心がほっと柔らかくなるのを感じた。
よかった、と思う。スガがなにか、心を揺らしているような姿は、見ていて苦しいから。

嬉しくなった旭の頬が、ほんの少しあがる。それと同時に、スガが、終わった、と顔をあげた。

「あ、ちょっと待って、俺も、」

もうすぐ、と、旭が最後の一枚をたたみ終え、乾いた衣類を抱えて立ちあがる。

「じゃ、スガのぶんも、ここにのせて」
「うん」

旭が差し出した旭の洗濯物の上に、スガが自分のそれを重ねて、置く。

「じゃあこれ、よろしく」
「うん、鞄のところに置いとく」

頼もしい旭の返事。スガは微笑み、ふたりは、部屋から出て、二階と脱衣所に、別れた。

タオルを手に、スガが洗面台の前に立つ。鏡に映る顔がにやけている。

(よかった)
(旭、いつも通りだった)

なにかを、ひどく考えこんでいるような様子に驚いた。驚き、どうしようかと思ったけれど、けど、だいじょうぶ、
と言ってくれて、一緒に洗濯物をたたんでいるときの旭は、もう、ふだんとなにも変わらなくて。

(だからたぶん、だいじょうぶ、だよね)

自分の言葉を、旭が不快に感じていないのならば、それでいい。僅かに胸に残る、喜ばれなかった、という
痛みは飲みこみ、スガは静かに、蛇口をひねった。

スガがきれいに顔を洗い、台所に入る。ちょうど、旭が食パンの袋をひらいているところだった。

「あ、食パン何枚食べる?」
「、えと、いちまい!」
「わかった!」

旭が、パンを二枚、オーブントースターの中に並べながらまたスガに言う。

「あと、ハムと玉子焼いて、冷蔵庫の野菜とか、お湯入れるだけでいいスープとか出そうと思ってるんだけど、」
「あ、うん」
「それでいい?」
「うん、じゅうぶん。ありがとう」

手にしていたタオルを椅子の背にひっかけ、なにか手伝うことある?、と、スガが旭の隣りに立つ。

「あ、じゃあ、冷蔵庫の野菜室…、真ん中のとこね、そこ開けて、レタスとプチトマト出して、えと、それから、」
「うん」
「洗って、適当な大きさに千切って、そこの棚の下から二番目の…、ガラスのボウルに入れてくれるかな」
「わかった」

スガが冷蔵庫に向かう。旭は、よく使いこまれた大きなフライパンを取り出し、とぽとぽと油を注ぐと、コンロの
火を、つけた。

野菜を片手に抱え、食器棚からひとつずつボウルを取り出しているスガに、旭が尋ねる。

「スガは玉子、いつも二個だっけ?」
「うん」
「俺も二個…、えっと…、ハムは…、何枚残ってるかな…」

冷蔵庫を開けて、あ、ちょうど四枚だ、と、嬉しそうにしている旭に、スガは目を細めた。

それぞれ材料を手に、スガは流しに、旭はコンロの前に。
スガがぱりぱりとレタスの包装をひらいていると、ぎゃっと悲鳴が聞こえて。

「ど、どうしたの?」
「あ、いや、ちょっと、油がはねて…」

見ると旭が、だいぶ離れたところからハムをフライパンの中に投げ入れている。

「あ、危ないよ、逆に、それじゃ、」
「けど、は、はねるし…!」

「じゃ、かわろう」
「え、けど、俺、」

た、玉子とハム焼くくらい、できるよ、とどもる旭の手から、スガがハムを取りあげる。

「指、火傷したらたいへんだろ?」
「け、けど、」

スガだって、火傷したら痛いだろ、と、もごもご反論する旭に、スガは思わず俺は補欠だからいいんだと言って
しまいそうになって、しかしその言葉はぐっと喉の奥に押しとどめた。そんな卑屈な言い方、旭が気にする。

「俺は、慣れてるから。家でもときどき、やってるからさ」

だからかわって?と、言うと、旭が目に見えてほっとするから。それがまた可笑しいやら可愛いやらで、スガは、
笑ってしまいそうになるのを必死にこらえた。

チン、と、オーブントースターのタイマーが鳴る。

「ほら、パンも焼けたし。はやくしよ?」
「うん、じゃ、ごめん」

そそくさと流しに向かう旭を見送り、スガはぽいぽいとハムをフライパンの中に並べた。
押し問答をしている間にだいぶ熱くなってしまったらしく、油が、なかなか派手な音を立てる。

「だ、だいじょうぶ??」

スガのほうに、おっかなびっくり首を伸ばしてくるので、ちょっと火を弱くすれば大丈夫だよと笑ってみせる。
そう、と、旭が安心して自分の作業に戻るのを見届け、スガはこそこそと菜箸で、ハムの裏側を覗いた。

(あ、)
(やっぱりもう、だいぶ焦げてるな)

旭が入れた、一枚目のハム。真っ黒、とまではいかなくても、食べたら美味しくなさそう、なくらいには、黒い。
他は大丈夫。
スガは素早くすべてのハムをひっくり返すと、焦げたハムを覆い隠すように上から玉子を割り入れた。

「旭」
「ん?」

スガがコンロから離れ、食器棚に歩く。

「玉子、もう少し焼けばできあがるから。その間にパン出すよ。お皿、これでいい?」

「あ、うん。ごめんな、俺、」

なにもできなくて、と、肩を落とす旭の背中を、皿を手にしたスガが、笑って、ぽん、と、たたいた。

「こっちはあと、焼けるの待つだけだし…、あ…」
「な、なに?」
「キレイじゃん、これ」

スガが指さしたふたつのガラスボウルの中。バラの花びらのように重なるレタスと、そしてその真ん中に丸く
盛りつけられたプチトマト。

「そ、そう?」
「うん、美味しそう」
「よかったー」

じゃこれテーブルにもってく、ドレッシング出すよなにがいいー?と、質問する旭の声が明るい。
スガは、旭と同じのがいいー、と、答えながらパンを出し、その皿を食卓に運びがてら、コンロの火を消した。

その姿を見て、ああジャムとバターも出さなきゃなあ、と、旭は独りごち、大きな手にボトルや瓶を抱えて運ぶ。

「ねえ旭、玉子はこっちの少し大きいお皿使っていいかな?」
「え?あ、いいよスガ、もう座っててよ。あとお皿によそうだけでしょ?」

手にした容器をことこと食卓におろした旭が、今度は棚から、なにやら小さな箱や袋の入った籠を取り出して。

「ほら、ここにスープいっぱいあるからさ。スガ、こっちきて好きなの選んでてよ」

旭が上機嫌で籠の中身をスガに見せてくる。

「えっ、あっ、いや」
「どうしたの?」
「いや、も、もう、食器棚の近くまでいるんだし、俺が最後まで、やるから」
「そう?じゃ、頼むな」

かちゃがちゃと、まるでひったくるように棚から皿を出して、スガが素早くフライパンの元へ向かう。

(あー、びっくりした)
(ていうか、近くまでいるんだしってなんだよ、日本語おかしいだろ)

けど、どうにか無事に、焦げたハムを気づかれず、自分の皿によそえそうだ。
スガは菜箸で焼けた玉子に切れ目を入れると、フライパンを傾け、中身を、皿の上に滑らせた。





続く

(14/07/24)

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