スガは焼けたハムと玉子の皿、旭はマグを食卓へ。スープを選んで、お湯を入れ、玉子には、塩と胡椒。
野菜にドレッシング。パンには、バターとジャムをとろり。
「いただきます」
旭が、ハムと玉子を箸でひょいとひとまとめにしてかぶりつく。
「んん、たまごの黄身がとろとろしてておいしい」
黄色くなった唇の端を舐めながら、子どものような無邪気さで旭が喜ぶ。よかった、と、スガも笑って、食パンを
齧った。
(うん、もう大丈夫、だよね)
(機嫌いい、あさひ)
(もうなにも気にしたり、してないよね)
今朝、旭の身に起こったことを恥ずかしがってもいなければ、言われた言葉の意味を気にしている様子もない。
憂いのない旭の様子に、スガはほっと、安堵した。
ああ、今、口に運んでいるほどよく焼けたパンが、柔らかな果肉のジャムが、いい匂いのするバターが、どれも
みんな、とても美味しい。
(ふふ)
嬉しさと、幸福感でいっぱいで、つい笑ってしまいそうになるから。だから静かに目を伏せて、スガは、弾む
心をなだめた。
旭が、ふたつめの玉子に舌鼓を打つその、目の前。黙って食パンを齧っているスガの唇が、溶けたバターで
ほのかに艶めく。
(あ、)
ぶわっ、と、記憶が頭の中いっぱいに広がる。思い出してしまった、夢の中で、旭に触れてきたスガを。その
あと、どうなったのかも。
(こんな、)
油脂でほんの僅か、濡れた唇を、見ただけで。そんな些細な、ちょっとしたことで。
(はずかしい)
頬が熱くなる。耳も、首も。体も。情けなくて、なんだか体に力が入らなくなって、物を持ちあげているのも辛い。
テーブルに、箸と皿を、置く。
小さく、食器がかたりと立てた音に、スガが目をあげた。
「あさひ?」
熱でもあるのかと心配になるくらい、赤くなっている旭の顔。赤くなるだけの理由が彼にはあるのだと知らな
ければ、病気なのかと思っただろう。
「…スガ、」
罪悪感で、苦しい。いっそ懺悔してしまおうか、と、旭は揺れる。そのとき、スガが、あ!と短く声を発した。
びくり、と、旭が体を固くする。
「ご、ごめん、あの、今朝のことだったら、絶対誰にも言わないから!」
「え?」
「だから、安心して」
ね?と、じっと旭を見つめて、力強く言い切るスガ。なのにすぐに、もじもじと目をそらす。頬がぽわっと、赤く
火照る。
「あのさ、旭」
「な、なに?」
「俺、思ったんだけど、旭さ、俺が太った夢、見たって言っただろ?」
「あ、あ、うん」
「もしかしたら、俺が、寝てるときに、俺がさ、旭の上に、のっかっちゃったりとか…」
「えっ」
「したかなって。重くて、それで、旭はそんな夢、見たのかな、って…」
「あ、いや」
「それでさ、その、そのとき、その、そこをさ、俺の体のどこかでさ、お、押したりとか、したの、かもって…」
言いながら、だんだんだんだんスガは下を向いていき、今、旭からはスガのつむじしか見えない。
そもそも、太った夢を見た、というのが嘘なのだ。このようにスガが申し訳なく思うようなことも、まず、起こっては
いないと思われる。
しかしそれをここで、このタイミングで言ってしまったら、スガはいったい、どう思うだろうか。旭はただおろおろと、
あ、とか、う、とか、意味のない音声を発することしかできずにいた。
「だからさ、」
ちら、と、上目遣いで、スガが旭の様子を窺ったので、旭はとりあえず続きを言ってもらおうと、大きく頷く。
スガが少し、顔をあげた。
「だから、ごめん、俺のせいかも、しれないから、だからもう、気にしないで。そうしてくれると、俺も、助かる」
ああいうとこ見られて恥ずかしいのは俺もわかるし、なかなか忘れられないかもしれないけど、と、ごにょごにょ
続けるスガに、旭は笑顔を作って、言った。
「あ、うん、ありがとう。ごめん、気を遣わせちゃって」
さっ、と、スガが顔をあげる。旭の、笑っている顔を見る。スガの肩から、ほっと力が抜けた。
「大丈夫だよ、スガ。ちょっと思い出して、恥ずかしくなったけど、大丈夫、俺ももう、気にしてない」
「そ、う?」
「うん」
だいじょうぶだいじょうぶ、と、旭は元気で明るい声を出す。ようやくスガも、にこりと微笑んだ。
「なら、いい」
それなら安心、というようなスガの笑顔の前で、もう今後絶対に本当のことは言えないと旭は思った。自分の
嘘に、都合よく騙されてくれているスガを利用していると思う。ずるいと思う。すごくずるいと思う。
(けど、)
(本当のことを言ったら、スガはきっと、嫌な気持ちになる…)
夢の中でのこと、それを隠して言わなかったこと、嘘をついたこと、白状するのは旭自身がラクになりたいからと
いうずるさが透けて見えてしまうのではと不安に思っていること、それら全部が、スガの表情を曇らせるだろう。
ひどく。
(だからもう、こうなったら、)
(もうこれ以上、スガに迷惑かけないように、とことんまで嘘をつき通すしかない)
「ほんとごめんな、スガ…、気を遣わせて…、ほんともう、俺は大丈夫だからさ」
「うん、わかった。よかった」
「ほんと、ごめん」
「いいよ、謝らないでよ」
きっと、知らないうちに俺がなにかしちゃったんだろうし、だからもう、さ、と、すまなそうに笑うスガに、旭は心底
土下座したくなったが、それは絶対にできない。
「うん、ありがとう」
どうにか笑顔を維持しながら、小声で、そう返事するのがやっとだった。
うんうん、と、スガが優しく頷く。そして、食べよう、冷めちゃう、と、旭を促した。
スガの優しさに甘えて、申し訳ない。けれどやっぱりそれ以上に、優しくされるのは、ありがたいし、嬉しい。
スガみたいな人が友達でよかった。ほっと、小さく息をついたとき、ふと、旭は思い出した。
「そういえば、スガの見た夢って、どんなだったの?」
「あ、」
そういえば、言ってなかったね、と、スガは少し肩をすくめて、照れたように笑った。
「あのねえ、俺の見た夢は」
「うん」
「旭が、赤ちゃんになってた夢」
「ええ??」
ふふっ、と、またスガが笑う。
「かわいかったよ。小さくて、柔らかくて、あったかくて」
「ちい…、あ、それで、大きくなったって…」
「あ、うん、そう」
夢の中ではほんと、こうやって抱っこして持ちあげられるくらい小さかったから、と、身振り手振りをまじえて
スガが説明する。
「だから、目を覚ましたとき、あ、大きくなったなって…」
よけいなこと言ってゴメンネ、と、スガはまた上目遣いで、肩をすくめた。
「ううん、そうか、それでか」
わけがわかって、すっきりした旭が、快活に笑う。
「うん、そう」
旭の納得した様子に、スガも安堵の笑みを浮かべた。
「けどさ」
「ん?」
「スガ、俺の子どもの頃の写真て、見たことあったっけ?」
どうしてその赤ちゃんが俺だってわかったの?と、レタスをしゃりしゃり食みながら、旭が尋ねる。
くすくす、と、スガが楽しげに思い出し笑いしながら。
「赤ちゃんの髪型とヒゲが、今の旭とおんなじだったから」
「ええー?」
旭が、なんだか困った顔で、頭をぽりぽりとかく。
「それは…、ちょっと…、うーん…、気持ち悪く、なかった?」
不安そうなひきつり笑いを安心させるように、スガが柔らかく笑って。
「そんなことない、顔はちゃんと赤ちゃんだったし、ぷくぷくしててかわいかったよ」
「そうかなあ?」
「ほんとだって」
もし見たら、旭だってきっと、かわいいって言うよ、と、スガは自信満々。だったら、いいけど、と、ようやく旭も
かわいらしいロン毛団子ヒゲ赤んぼの存在を受け入れて、照れくさそうに笑った。
「それで、その赤ちゃんはどうしたの?」
「えと…」
スガは瞬時に、おもらしのことについては言わないほうがいいなと判断する。
夢の中で、スガが抱いていたときに赤んぼ旭がおもらしをした、ということは、やっぱり現実でスガが旭にしがみ
ついたりしていたからあのことが起こってしまったのではという可能性を、旭がまた考えるに至ってしまう。
せっかく、旭が自分のしたことを許して、もう気にしない、と、言ってくれたのに、わざわざそれをぶち壊すような
ことなど言いたくない。
(今度こそ、ほんとに、俺のことイヤになるかも…)
隠し事など本当はしたくないが、背に腹は替えられない、と、スガは思った。
「泣き出したから、抱っこしてあげて、あやしたら、泣きやんで、おとなしく眠ってて、かわいかった」
「へえ」
にこにこと、話を聞いて旭が笑っている。もしここで、それから?と、続きを催促されたらまずいな、と、思った
スガは、目が覚めたら旭に尋ねたいことがあったのを思い出した。ちょうどいい、その話を始めよう。
「そういえば、夢の中で旭を抱っこしてて思ったんだけど」
「うん」
「旭のお父さんとお母さんは、お祝い事で出かけた、って言ってたよね?それ、もしかして」
旭が、あ、の形に丸く口を開ける。
「そう!出産祝い!」
うわあ、すごい偶然!こういうことってあるんだね、と、ふたりで顔を見合わせて笑う。
(ああ、よかったー)
スガは内心、ほうっと胸を撫でおろした。
(ほんとは、そんな偶然じゃなくて、)
(寝ぼけて旭の体に抱きついてたから、あんな、旭を抱っこする夢を見たんじゃないかなって気もするけど…)
(けど、旭には、すごい偶然、って、思っててもらったほうが、いいから)
(だからもう、なにも言わないでおこうっと)
スガすごいね、と、興奮する旭に、えへへ、と、照れ笑いを見せながら、スガはこっそり、心の中で苦笑して、
ごめんね、と、謝った。
ひとしきり、すごいすごいとはしゃいだ旭は、しかしふと、我に返る。またしゅわしゅわと、気分がしぼんでいく。
(スガはこんな、誰に話しても問題ないようなかわいい夢を見てるのに)
(俺は、あんな、誰にも言えないような夢、見て)
スガのために本当のことは言うまい、嘘をつき通そう、あんな夢を見て動揺したことはおくびにも出さないように
しよう、と、決めはしたけれど、けど、このままだと罪悪感に負けて、全部告白したくなってしまいそうで。罰して
もらいたいと、そう、思ってしまいそうで。
(けどそれは、スガに、嫌なことを、嫌な思いを、させるってことだから)
だからそれをしてはいけない。いけないと思うけれど。
(……)
迷う。心が重苦しい。目線が少しずつ、さがる。
「あさひ、どうしたの?」
心配そうなスガの声が、優しいから。とても優しいから。
本当のことは言えない。だけど、これなら、言っても、問うても、許されるのではないかと、思ってしまった。
「あの、スガ、さっきさ」
「うん」
「旭だから、俺だから、いい、みたいなこと言ってたけど」
「えっ!あっ、う、うん」
「それはさ、俺がまた、なにか失敗…、またなにか、スガに謝るような失敗、しても…」
「うん」
「キライに、ならないってこと?」
もう、旭は覚えてもいないだろうと思っていた、言葉。突然言い出されてスガは面食らった。
けれど、まだ、覚えていてくれたのなら。そして覚えていて、くれるというなら。
まじめな顔で、スガは答えた。
「うん、そう、だよ」
旭の体から、ふっと力が抜けたのが見てとれる。けれどまた、ひゅっと肩があがった。
「スガは、許してくれる?俺が、どんな失敗、しても」
「どんな!?」
「あっ、いや、すごく借金するとか、犯罪するとか、そういうのはさすがにしないと思うけどっ!」
目を丸くしたスガに旭が慌てて言い加える。その様子が可笑しくて、スガはつい笑ってしまった。
くつくつと声を出して、体を折り曲げて。
「ご、ごめん…、けど急にすごいこと、言い出すから…」
「あ、す、スイマセン…」
「ううん、こっちこそ、笑ってごめん、そうだね、」
スガはふうと息を吐き、すうと吸い、まだ少し笑いの震えが残る体を落ち着かせると、真っ直ぐに、旭を見た。
「うん、許す」
「許すよ、旭なら、どんなことでも」
言って、スガがとても嬉しそうに、そして少し照れくさそうに笑う。旭の顔が、その名前のように明るく輝いた。
「ありがとう、スガ。よかった、俺、これでがんばれるよ」
「がんばる?なにを?」
「んん?いろんなこと!」
満たされた顔で笑う旭に、スガは少し不思議そうに首を傾げたが、けど旭がいいならいいか、と、スガも笑って
残りの食パンに齧りついた。
終わり
(14/07/29) |