どん… どんどん…

遠くからひびいてくる、大砲のような音。
横たわるはだかの、男の人のかたちをしたものが、ゆっくり、ゆっくりと、その身を起こしました。
明るいランプが、壁に、大きな大きな影を作ります。

彼は、音のするほうに目をやりました。
透明なガラス窓から、ちらちらと舞う白い小さなものに混じって、ちかちか、ちかちか、と光が散っては消え、
散っては消えするのが見えました。

彼は、自分が横になっていた大きな台からおりました。窓に近づきました。
散る光に重なって、誰だかわからない人があらわれました。彼は、驚いて、立ちすくみました。

すると、相手も、立ちすくみます。彼は、少し、後ろにさがりました。相手も、後ろにさがりました。
また彼は、近づいてみました。すると、相手も、同じくらいだけ、近づいてきました。

彼が止まると、相手も止まりました。彼は、相手が同じことをするのがなんだか嬉しくなって、相手に近づいて
触れようとしました。相手も同じように彼に触れようとしてくれます。

手を伸ばします。触れます。しかし指先に感じたのはガラスのひやりとした冷たさと硬さだけ。

彼は悲しく両のまゆじりを下げました。相手も下げました。
彼はますます悲しくなって、窓から離れました。遠く離れたところから窓を振り返ると、もう、相手はいません
でした。

彼がしょんぼりと、足元に目を落とすと、白くて薄い、四角いものがたくさん、たくさん、落ちています。
手に取ってみると、白くて薄いものの上には、黒い染みのようなものが、たくさん並んでいます。

彼には、それがなんだかわかりました。文字だとわかりました。数字だとわかりました。
彼は床に落ちているそれらを拾って、数字の順番通りに並べました。ぶ厚く束になったそれを抱え、彼は台に
腰をおろして、読み始めました。

それは、日記のようなものでした。

年老いた自分の面倒をみてくれる人を作ろうと思う、そしてこの研究はきっと他の人の役にも立つだろうから、
その過程は逐一、書きとめておこう…
と、そう始まり、あとは、作る過程が事細かに書き記されていました。
彼は、そのすべてに目を通していきました。

そして最後のいくつかの白くて薄いものに、見覚えのある姿が描かれていました。
彼は、はっとなりました。これは、さっき、出会った、あの。

彼は相手を探しに窓のそばにいきました。彼が窓に近づくと、すぐに相手も姿をあらわしました。

彼は、相手に触れました。相手も、彼に触れました。
彼は、彼の顔に触れました。相手も、相手の顔に触れました。

彼は、相手の顔を見ながら、彼の顔に触れていきました。額のかたち、まゆ、目、鼻、くち、顎にちょぼちょぼと
生えたひげ、輪郭。
目の前に見える相手の顔のかたちと、彼の手が彼の顔に触れて感じる彼の顔のかたちは、同じと、彼はそう、
思いました。

彼は理解しました。相手は自分で、白くて薄いものに描かれていたのも、自分なのだと。

自分は、老いた研究者に、作られた人なのだと。

彼は、自分を作った研究者を探して、ランプを手に広い屋敷の中を歩きまわりました。足の裏が痛くなります。
彼は、足の裏から甲までを覆う、足によく似たかたちのものを見つけたので、それをはきました。

彼は、なんだか少し寒くなってきました。窓辺にぶらさがっている布をそっと外して、体に巻きつけました。
寒くない。あたたかい。
けれど、その布が体から離れていかないように押さえていると、手が使えない。動きにくい。

彼は、足にはいているもののように体と似たかたちをしたものがないか、屋敷中の取っ手をひっぱりました。
ぱたぱたと、たんすや引き出しを開けているうちに、彼は、胴体から腕が生えたようなかたちの布と、腰から
足が生えたようなかたちの布を、見つけました。彼は、それらに、手足を通しました。
寒くなくなり、体も動かしやすくなりました。

彼は、口になにかを入れて、よく噛み、ごくりと飲みこみたくなりました。
歩きまわっているうちに、なにやら、いい匂いがしてきたので、彼はそこに行って、その、いい匂いをさせている
ものを手に取りました。
丸くて、茶色くて、少し固い。
彼はそれを手で割って、口に入れて、噛みました。
彼は、ほっとして、手の中にあるものを、すべて口に入れて、噛み、飲みこみました。

彼はまた、別のものを口に入れて、飲みこみたくなりました。
今度はこんな、固くて乾いたものではなく、まったく違う、別のもの。彼は探しました。

箱をどけたり、袋をどけたり。そして、大きなタルを動かそうとしたとき、中に入っていた色もなにもない重たい
ものが、大きくうねって、ばしゃりと音を立てて彼の手に触れました。
彼は驚いて、タルから手を離しました。そしてその手に、彼は、舌と唇で触れました。
彼は、これだ、と思いました。
タルの中に手を入れ、中のものをすくっては、何度も飲みこみました。

そしてまた、彼は歩きまわりました。けれど、彼を作った研究者はどこにもいませんでした。
彼は、彼のことが書いてあった白くて薄いものと同じものが、最初から束になっているものを、たくさん見つけ
ました。彼はそれに、目を通していきました。

ときおり、茶色く丸いものや、色のない冷たいものを口に含みながら。窓の外が明るくなり、暗くなり、そして
また、明るくなりました。くり返し、くり返し。

彼は、自分が口にしているものが、パン、だと知りました。水、だと知りました。
彼は、人は服を着るのだということを知りました。彼は、もっと自分に似合う服を探そうと思いました。

彼は、研究者はどこかに出かけているのかもしれない、待っていればここに帰ってくるのかもしれない、という
考え方を知りました。しかし、待っていても、研究者は帰ってきませんでした。

彼は、この世界には彼と、彼を作った研究者だけではなく、ほかにもたくさん、人がいることを知りました。
人は、自分とは別の人と、友達になったり、恋人になったりして、幸せに暮らすのだと、知りました。

彼も、友達がほしい、恋人がほしい、と思いました。

おはようや、おやすみなさいや、おかえりなさいを言ったり、言ってもらったりしたいと思いました。

しかし、ここには誰もいません。

だから、彼は、この屋敷を出て、外の世界に行こうと、思いました。

彼は屋敷の中にある服と靴を集め、その中から自分によく似合う、そして丈夫なものを選んで、着こみました。
彼はかばんの中に、残っているパンを詰めこみました。水は、きれいな小川か湖を見つければいいでしょう。

彼は屋敷じゅうの窓にカギをかけカーテンを閉め、ランプの火を消すと、両手で重い、ドアをひらきました。

ふたつのドアの取っ手を鎖で結わえ、南京錠をかけました。錠のカギには細い鎖を通し、首からさげました。

そして彼は、彼が目を覚ました日と同じようにちらちらと雪の舞う中、歩き出しました。



ぬるく、あたたかくなり始めた空気が山の上の雪をとかし、その水で川の流れが増していた、ある日の朝。
どんよりと曇った空の下、灰色がかった髪の若い男がひとり、森の中を歩いていました。

男は、父親とふたりで、森の木を切って暮らしていました。けれど、父親はこの冬に、息子である男をひとり
残して、病で亡くなってしまったのです。

これからは、なにもかもひとりでやらなければなりません。けれど、今までふたりで助け合ってしていた仕事を
ひとりでするのはとても大変でした。
もともとあまり裕福ではなかった暮らしは、ますます貧しく、さみしいものになっていきました。

そして昨夜、ひどい雨と、風と雷に見舞われたのです。もしも森の木が倒れて、だめになってしまっていたら。
男は心配になり、朝、雨がやむのを待って、森の様子を見に行きました。

たくさんの葉や折れた小枝が落ちているぬかるんだ地面の上を踏みすすみ、男はおっかなびっくり木々の
様子を見てまわります。
無事な木もあれば、無事ですまなかった木もありました。しかし、男が思っていたほどひどいことにはなって
いませんでした。

男はほっと、息をつくと、家に戻ろうとしました。
雨と風に痛めつけられ、折れてしまいかけている木は、早く切って、どけてしまわないと、と考えたそのとき、
後ろからみしみしみしり、と、おかしな音が聞こえてきました。

急いで振り返ると、太くて大きな木が、男のほうにめりめりぎりぎりと恐ろしい音をたてて倒れてきます。
男は慌てず、脇へ逃れようとしました。
ところが、ぬかるみに足をとられてしまったのです。男の体はずるりと滑り、泥の中に倒れました。

今から立ち上がっても、もう間に合わない、と、男は真っ青になりました。
怖い。けれど、どこか少しだけ、どこか少しだけだけれど、ほっとしていました。男は固く、目をつぶりました。

そのとき、なにかがものすごい勢いで落ち葉を蹴立て走ってくる気配がしたかと思うと、倒れる木の不気味な
軋みがぴたりとやみました。不思議に思った男は目を開け、顔をあげました。

目の前に、大きな男の大きな背中がありました。大きな男は、両方の手でしっかりと、木を支えていました。

守って、くれたのだ、と、男は思いました。

誰だかわからないけれど、この目の前の大きな男が、命がけで自分を守ってくれたのだ、と、思いました。
ひとりぼっちで、貧しくて、そしてそれはこれからもずっと続くのだと思っていた自分を、守ってくれた、人が
いる、そう思ったとき、男は急に怖くなりました。
死なずにすんで、たった今、死にかけていたことが、とても怖くなりました。

大きな男は、低い唸り声をあげると、木を、向こう側へと押し倒しました。どずんと地ひびきをたてて、泥水を
はねあげながら、木は倒れました。

大きな男は振り返ると、心配そうな目で、男を見つめました。
男は、助けてくれたお礼を言わなければと思いました。けれど、自分を見つめる心配そうな目が嬉しくて、
嬉しいから今、それを永遠に失うところだったことが怖くて、震えがとまりませんでした。男の大きな目から
涙が、ぼろりぼろりとこぼれ落ちました。

大きな男は、とても悲しそうな顔をすると、走って行って、しまいました。

男は、長い間そこにうずくまったまま、震えと涙がとまるまで、わんわん、わんわん泣き続けました。



それから、しばらくたったある日。男は町へ行った帰り道、町のはずれで数人の子どもたちが、ひとりの男を
とりかこんで、はやしたてながら石をぶつけているのを見かけました。
石をぶつけられている男は、小さく小さく体を丸めて、じっと耐え忍んでいます。
これはあんまりかわいそうだと思った男は、ずかずかと近づくと、こら!大勢でひとりに、なにやってるんだ!
と、叱りつけました。
子どもたちが悪態をつきながら逃げていったあと、男は丸くなっている男に近づき、そっと、その大きな背中に
手を置いて、言いました。

「もう行ったから、大丈夫だよ」
小さく丸くちぢこまっていた男の体から、ほっと、力が抜けたのがわかりました。男は、丸くなっている男の
大きな手を取り、苦笑しながら、ほら、立ちなよ、と、ひっぱりました。

「多勢に無勢で大変だったと思うけど、けどおまえもやられっぱなしでいるなよなー」
こんなに大きな、なりをしているならさ、と、くすくす笑いながら助け起こしたその相手は、なんと、森で、男を
倒れる木から助けてくれた、あのときの、大男でした。

男は驚いて、えっ、と声をあげました。倒れてくる大木をひとりで支える力の持ち主が、まさか、子どもたちに
乱暴されるがままになっているなんて、思いもしなかったのです。
大男も、あっ、と声をあげました。目の前にいるこの男が、森で助けた男だと気がついたようです。

大男は、怯えた顔になると、後ずさって逃げようとしました。男はまだ握ったままだった手を、強く、強く握り
なおしました。
「待って!お願いだから!行かないで!あのときのお礼を言わせて!!!」
大男は、びくりと体を震わせて、じりじりと動かしていた足を、止めました。そして、おずおずと、言いました。

「おれい…?」
「そうだよ、だって、命の恩人じゃないか」
男はじっと、大男を見あげ、心をこめて言いました。
「あのときは、本当にありがとう」
「ありが、とう?」
「うん、ありがとう」
「そ、んな、お礼なんて…、驚いた。泣いていたから、怖がられたんだと」
「あ…、あのときは…、その…、う、嬉しくて、泣いてたんだよ」
「俺が…、助けたから?」
「そうだよ、当たり前じゃないか」
「そうか、そうなんだ…」
大男は、とても嬉しそうに微笑みました。男は、そのことをとても嬉しく思いました。

「あ、ねえ、名前、聞いていいかな?俺はスガ」
「スガ」
「そう、スガ。ね、名前は?」
「なまえ…」
大男は、困った顔をして、うつむき、言いました。
「名前は…、ないんだ」
スガはびっくりして、大男の言ったことを、くり返しました。
「ない?」
大男は、頷きました。

名前がないとは、どういうことだろう、スガは、不思議に思いました。けれど、目の前にいるこの大男が悪い
人間だとも思えません。きっとなにか、事情があるのだろうと、スガは考えました。
「ね、ここでうろうろしてたら、またワルガキどもに石をぶつけられるかもしれないし、よかったら、うちにくる?」
「うちに?スガの?」
「そう、お礼になにか、ごちそうするよ」
スガがそう言うと、大男は、ごちそう?と、くり返しました。スガが頷くと、大男は嬉しそうに笑いました。
その顔はとてもかわいくて、スガはやっぱり、この人は悪い人じゃない、と思いました。

大男は、スガと並んで歩きながら、これまでのことを話しました。
雪の降る夜、広い屋敷の中で目が覚めたこと。屋敷には、誰もいなかったこと。自分は、作られた人間で
あること。本を読んで、この世界のことや、この世界には自分のほかにも人間がいるのだと知ったこと。
人間はほかの人間と友達や恋人になるのだということ。だから自分も友達や恋人がほしくて、屋敷を出て、
旅立ったこと。

だけど、どんなに親愛の気持ちをこめて、優しくしたり、親切にしたりしようとしても、いつもいつも、みんな
この大きな体や、強い力を怖がって、逃げていってしまったこと。
だからずっとずっと、ひとりぼっちだったこと。

夕方、ふたりは家につきました。スガは大男をテーブルに案内し、わずかな食べものをやりくりして、
精いっぱいのごちそうを作りました。
おとなしく椅子に座って待っている大男をちらちらと眺めながら、スガは思いました。
みんな怖がって逃げていったと言っていたけれど、本当はきっと、それだけではすまなかったに違いない。
さっきみたいに石を投げつけられたり、ときにはもっと、ひどいことを。
守ってあげたい、と、スガは思いました。そして、大男にあることを提案しようと、決心しました。

食事のあと、ふたりであたたかいお湯を飲みながら、スガは、大男に言いました。
「俺も、もう、両親が亡くなっていて、ひとりなんだ。だからよかったら、ずっと、ここにいてくれてかまわない」
大男の黒い目が、まん丸く、ひらきました。
スガはその目を、じっと見つめて、言いました。
「そして、よかったら、俺の友達になってくれる?」
大男の口がゆっくり、ぽかん、と、ひらきました。大男は少し慌てた様子で、口を閉じると、大きく頷きました。
よかった、と、スガは笑いました。大男も、スガと同じように、笑いました。

ふたりはテーブルに向かい合って、いろんな話をしました。今まで、スガが見てきたもの、食べてきたもの、
着てきたもの、出会った人たちのこと、通った学校や、してきた仕事のこと。
大男が、屋敷の中で発見したこと、初めて目にした屋敷の外の世界、これまでの旅路で見てきたもの、聞いて
きたもの、読んできたもの。
ふたりの好きなもの、好きではないもの、いろいろ、いろいろ。

のどが渇いたら、そのつど、あたたかいお湯を用意して。そしてまた、話の続きをしました。

夜も更けて、スガはうつらうつらし始めました。けれどスガはまだ、ベッドには行きたくないと思いました。
誰かと、こんなに楽しく話をするのなんて、本当に、ひさしぶりでした。
だから眠ってしまいたくないと思っているのに、しかし眠気には勝てません。スガは、眠ってしまいました。

顔に、明るさを感じて、スガは目をあけました。それから、ゆっくりと、顔をあげました。
スガの目の前には、大男がいて、とても優しい目で、スガを見つめています。
大男は、言いました。

「おはよう」

スガの目から、ぽろりと涙がこぼれました。東の窓からまっすぐ射しこむ朝日に照らされた大男の顔が、
あまりにも美しく、神々しかったから。

スガは思わず、呟きました。あさひ、と。

「あさひ?」
「あ、ごめん、朝日に照らされていた顔が、あんまり素敵だったから…」
スガは涙をぬぐって、言いました。
「だからさ、名前」
「うん」
「名前。あさひ、って、呼んでいい?」
「うん、いいよ」
俺も、それがいい、と、大男はにっこりと笑いました。
「ふふ、よかった」
スガの目から、また涙がこぼれました。
「スガ。また、泣いてるのは、嬉しいから?」
スガは、目元をこすりながら、うん、と頷き、それから顔をあげて、言いました。
「そうだよ、あさひ」
名前を呼ばれたあさひは、なら、よかった、と、嬉しそうにまた、笑いました。



友達になったスガとあさひは、ふたりで仲良く暮らしました。
ひとりでは大変だったスガの仕事も、今はあさひが手伝ってくれます。力持ちのあさひは、たくさん木を切り、
たくさん運ぶことができるので、ふたりの暮らし向きは、少しずつよくなっていきました。
たまには贅沢品のお茶も飲みます。ふたりは毎日、楽しく暮らしていました。

ある夏の日の午後、ふたりは森の奥の静かな泉に水浴びをしに行きました。
眩しい木漏れ日の下、冷たい水の中はとても気持ちがよかったけれど、それでも長くつかっていると、体が
だんだん冷えてきます。
ふたりは、体をふくために用意してきた大きな布にくるまって、くっついて休みました。

スガのしっとりとした肌にくっつきながら、あさひは言いました。
ずっとずっとみんなから怖がられて、スガと出会うまではひとりぼっちだったけれど、けど今はこうしてスガと
いっしょにいられるからとても嬉しいと。それから続けて尋ねました。スガは、俺のこと怖くなかったの?と。

スガはあさひに、微笑みかけながら、言いました。

「俺はあさひのこと、怖くないよ」

自分のことを、守ってくれて、強い力を、持っているのに、石をぶつける人間に、その力を使おうともしない。
そんな優しいあさひを、どうして怖いだなんて、思うでしょうか。

「あさひのことが、好きだよ」

スガは、自分の唇をあさひの唇に、ちゅ、と、つけました。

「…、なに?スガ、今の」
「キス。好きな人に、するんだよ」
「じゃあ、俺もスガにしていい?」
「うん、いいよ」

あさひは、何度も、何度も、唇をスガの唇にくっつけました。スガの唇はとても柔らかくて、触れているととても
気持ちがいいのです。
けれどスガは、あさひの唇が離れたときに、言いました。
「あさひ。何度も、してくれるのは嬉しいけど、けど、そんなにしたら、唇が赤く、なっちゃうよ」
あさひはしゅん、と、肩を落としました。そして、さみしそうな顔で、言いました。
「じゃあ、他のところになら、してもいい?」
スガはぽっと、頬を赤くして、うん、と、頷きました。

あさひは、スガの額にも、まぶたにも、鼻にも、頬にも。耳にも、首筋にも、鎖骨にも肩にも。胸にも、腹にも、
おへそにも、唇をつけました。
少しひんやりとしていたスガの肌はだんだんあたたかくなってきました。その肌に触れるのもとても気持ちが
いいのです。
あさひは、スガの腿にも、膝にも、すねにも、足にもくるぶしにも。爪の先にも、唇をつけました。スガの体は
あたたかくて、すべすべで、しっとりとしていて、あさひはその体に触れるのに夢中になりました。

あっ、と、スガが苦しそうな声をあげました。あさひはぴたりと動きを止めて、顔をあげました。
スガの顔が、真っ赤です。あさひは、スガがこんな赤い顔をしているのを見たことがありません。びっくりして
尋ねました。

「だ、だいじょうぶ?スガ」
「…うん…」
ぐったりと頷くスガの目が、とろけそうに潤んでいます。あさひは、スガのめじりのほくろにそっと触れて、言い
ました。

「…これは、嬉しいから…?」
「ふふ、そうだよ」
スガは笑って、あさひの髪を撫でました。

「じゃあ、これは?」
あさひは、スガのおなかの上を点々と濡らしているものに、目をやりました。
「…これは、すごく、気持ちがいいと、出ちゃうもの」
あさひは嬉しそうに笑いました。
「わかりやすくて、いいね」
「はは、そうだね」

スガは、あさひの頭をひき寄せて、ちゅっとキスすると、あさひの体に触れました。
けれど、スガがいくら触れても、あさひの体は、スガと同じようにはなりませんでした。スガは思いました、
これはあさひが言っていた、作られた人間だからなのかと。
あさひにも自分と同じように気持ちよくなってほしいのに、けどそれは叶わないのかと思うと、スガは少し
寂しい気持ちになりました。
しかしあさひはにこにこと、そんなことまったく気にしていない様子で、ね、俺もまたスガに触りたい、と、
笑うのでした。

「ね、あさひ」
「うん?」
「俺に触るのと、俺に触られるの、あさひはどっちが好き?」
「どっちも」
けど、触るほうがもっと好き、と、あさひはあぐらをかいた上にスガをのせ、腕の中にすっぽり抱きこみました。
「スガ、あったかくて、すべすべで、いい匂いがするから」
そしてあさひは、今度は唇だけでなく手でも、あさひの体でも、スガに触れるのでした。スガは、あさひがいい
ならそれでいいと思い、小さく苦笑すると、あさひに体を、預けました。
「俺も、あさひに触られるの、大好き」
あさひに触れられたスガは、また、すぐに声をあげて、おなかを濡らしました。これは、スガが気持ちがいい
しるし、と、あさひは嬉しくなりました。
そしてあさひは、あたたかくしっとりとなるスガの体に触れているのが大好きなので、何度も何度もスガの体に
触れました。
けれど、そうしているうち、スガはくたりと動かなくなって、気持ちがいいしるしも出てこなくなりました。あさひは
心配になって尋ねました。スガ、大丈夫?もう一回、してもいい?と。
スガは弱々しく笑って、気持ちよくなりすぎて、ちょっと疲れたかも、と、答えました。あさひはごめん、ごめんね
と、何度も謝りました。スガはあさひに優しくキスして、だいじょうぶ、怒ってないよ、と、言いました。
「けど、一度に何回もすると、くたびれちゃうから」
「うん」
「だからそのかわり、明日も、明後日も、毎日して」
あさひは、大喜びで頷きました。

あさひはスガの体を水で流してきれいにすると、服を着せ、おぶって歩き出しました。
スガはあさひの大きな背に揺られながら言いました。あさひ、好き、大好き、と。ふたりはとても、幸せでした。



ふたりはまた、水浴びに行きました。水浴びに行かない日は、夜、ベッドの中で体をくっつけあいました。
夏の暑い夜、みずみずしく濡れた熱いスガの体を両腕の中にすっぽりおさめると、あさひは嬉しくなりました。
腕の中の熱い体が大きく震えたあと、だんだん、ひんやり、さらりと乾いていく、そのすべすべしたスガの肌に
触れているのもあさひは大好きでした。
秋の涼しい夜は、スガの肌がひやりと寒くなってしまわないように、しっかりと、スガの体と自分の体を毛布で
覆って、残り火のようなスガの体の、しっとりとしたあたたかさを楽しみました。



かさつく冷たい風がうなじを撫で、ひとり家の外で仕事道具を片付けていたスガは、思わず肩をすくめました。
きれいに晴れた空を見あげ、もうすぐくる、冬のことを考えました。
あさひに、もう一着くらい、冬用の上着をあつらえたい、父親の上着を仕立て直そうか、あれは、上等なもの
だし。
けれどすぐ、首を横に振りました。あさひのあの大きな体には、寸法が足りないな、と。

スガはそこで、ふと、思いました。

あさひはとても体が大きくて、とても力が強くて。そういえば、あさひの疲れた顔も、見たことがない。
あさひは、自分のことを、作られた人間、だと言っていたけれど、もしかしたらあさひは、とても、とてもとても
頑丈に作られているのではないだろうか。
たとえば、ずっと、ずっと、ずっと年もとらずに、長く生きていられるような。

スガは胸が、ぎゅう、と、苦しくなりました。

もし、そうなら、自分はあさひより先に死んでしまう。あさひを、また、ひとりぼっちにしてしまう。

どうすればいいか、スガは考えました。ならば、自分が死んだあとも残っているような、思い出の品を、贈れば
いいのではないだろうか、と。
いつまでも、朽ちずに残っていて、あさひがそれを見たらいつでも、楽しかった思い出を、思い出せるような。
あさひは愛されていたのだと、思い出せるような。

スガはひらめきました。そうだ、指輪がいい、と。

いつも身につけられて、朽ちることのない、ふたり揃いの、金の指輪。幸い、あさひが仕事を手伝ってくれている
おかげで、多少の蓄えはあります。

あさひに指輪を贈ろうと決めれば、スガはとたんにうきうきと、楽しくなってきました。
せっかく贈り物をするんだから、できれば、それはあさひの誕生日がいい。けど、あさひの誕生日っていつ
だろう。聞いたら、わかるかな。だけどもし、誕生日がわからなくても、そうだな、初めて出会った日だとか。
それとも、初めて言葉を交わして、うちに連れてきて、友達になってって言った日が、いいかな。それとも、
水浴びに行って、そこで初めて、
「好きって、言った日が、いいかな」
幸せな思い出がよみがえります。スガは頬を赤らめながら、急いで道具を片付けました。

夕食のとき、スガはそれとなくあさひに尋ねました。
「そういえば、あさひの生まれた日って、いつだろう?なにか、覚えていることは、ある?」
「…生まれた、日…?」
あさひは少し考えて、こう答えました。
「目が覚めたとき、外は暗くて、雪が降っていて、遠くの空に、花火が見えた」
「雪、花火…、あ、わかった!」
「わかったの?」
「冬に花火があがっていたのなら、きっとそれは、新年をお祝いする花火だ」
「そうなの?」
「花火なんて、めったにあがらないしね。きっとそうだよ、よかった、あさひの誕生日がわかって」
「よかったの?」
「え?あ、う、うん、ほら、ええと…、だって、ほら、お祝い、できるし」
「おいわい」
「そうだよ、誕生日って、お祝いするものだよ」
「そうなんだ」
「あさひの誕生日は、ごちそうを作って、盛大に、お祝いしようね」
「うん」
あさひは嬉しそうに頷きました。スガは目論見がばれずにすんで、内心、ほっと胸を撫でおろしました。

さて、あさひの誕生日が新年を迎える日だとすると、あまり時間もありません。
その夜、いつものようにあさひと幸せな時間をすごしたスガは、自分に触れているあさひの手を取って、その
指を丁寧に、丁寧に撫でたどりました。
どうしたの?と、不思議そうにあさひが尋ねます。スガは、あさひの左手の薬指を撫でながら言いました。
「ん…、あさひに、贈り物をしたいな、と、思ってさ」
あさひは誕生日にお祝いをすることも知らなかったし、ここで少しくらい計画のことを喋ってしまっても、それが
誕生日に贈られようとしている物だとは、きっと、気がつかないでしょう。
それにスガは、贈り物をしたいと聞いたあさひがどんな顔をするか、見てみたかったのです。
あさひは、ぱっと顔を輝かせました。
「贈り物?どんな?」
「ふふ、それは、そのときのお楽しみ」
スガにはぐらかされて、あさひは、ちょっと不満そうな顔になりました。けれど、すぐに笑って、じゃあそのときを
楽しみにしてる、と、スガにちゅっとキスしました。



あさひが贈り物を喜び、楽しみにしてくれているのがわかって嬉しくなったスガは、さっそく次の日、森に落ちて
いる小枝の中から、あさひの指と同じ太さのものを拾うと、それを持って町に注文しに出かけました。
しかし用意していたお金では少し足りません。店の主人は言いました。この値段で作るなら他のもっと儲かる
仕事の後まわしにさせてもらうがいいか、完成は誕生日の前日になるかもしれないがそれでもかまわないか、
と。スガは了承して代金を支払い、注文を終えました。
それからスガは、あさひに新しい上着をあつらえたり、あさひには小さかった父親の上着を自分用に仕立て直し
たりするために町を訪れるたび、注文した指輪の様子を窺いに行きました。
けれどやっぱり、最初に主人に言われたとおり、指輪はまだ、その作業に手をつけられてもいないのでした。
あまり何度も店に足を運ばせるのも申し訳ないと思ったのか、主人は、必ず誕生日の前日には仕上げるから、
だからその日までは待ってもらえるかとスガに頼みました。スガは頷き、その日まで待つことにしました。

指輪の完成を待つあいだ、ふたりは、誕生日の計画を立てました。
あさひの誕生日は、前の日の夜からごちそうを食べよう。おなかがいっぱいになったら、あたたかく着こんで、
町の近くまで、のんびり夜道を歩こう。
どこか見晴らしのいい、静かなところまできたら、あがる新年の花火を、いっしょに、見よう。
そしてこれは、あさひにはまだ秘密だけれど、スガは花火があがるとき、あさひに指輪を贈るつもりでした。
きれいな金の指輪の上に、花火のきらきらした光がふりそそいだら、きっと、もっときれいでしょう。

あさひの上着もでき、スガの上着もでき、ごちそうの材料も買い揃えて、あとは指輪の完成を待つばかり。
誕生日おめでとう、これは、ふたりがずっと仲良しでいるって、証だよ。そう言って指輪を渡したら、あさひは、
どんな顔をするでしょうか。
そのこと考えると、楽しみで、楽しみで、スガは誕生日までの一日、一日が、まるで一年のようにも、二年の
ようにも感じられるのでした。

いよいよ明日は誕生日という日の朝。スガは朝からごちそうを作りました。あさひも手伝いました。
スガはいいよと言いましたが、あさひは、スガの誕生日には同じことをしてあげたいからと譲りませんでした。
じゃあ、それなら、と、スガは照れくさそうに笑って、あさひの手を借りました。

ごちそうの準備が終わり、ふたりで遅い昼食をすませたあと、スガは立ちあがりました。
「ちょっと、町へ行ってくるよ」
「え?今から?どうして?」
「ちょっと、用事がね」
あさひが心配そうに、顔を曇らせます。
「今からだと、帰ってくるころには暗くなっちゃうよ」
「急いで行って、戻ってくるよ」
「けど、このごろ、悪い賊が出るって、物騒だって、聞くよ?」
とくに今日みたいに、夜、花火があがる日なんかは。みんな見物に行って家を留守にするから、そこを狙って、
と、あさひは言い募りました。
しかしスガにも、どうしても行かねばならない理由があるのです。
「大丈夫、気をつけるから」
スガは仕立て直したばかりの上着に腕を通し、かばんを肩にかけました。
「スガ、行くなら、俺もいっしょに」
「えっ?」
あさひも、立ちあがってついてこようとします。スガは慌てました。あさひもいっしょだと、あさひに、贈り物の
ことを知られてしまいます。
「ほんとに、大丈夫だから、ね?あさひは、ここで、お鍋の中の料理が冷めないように、見ててよ」
「けど」
「俺が帰ってきたとき、寒くないように、火の番をしながら、待ってて」
「…」
たしかに、スガの言う通りだと、あさひは思いました。寒い外から帰ってきたスガを、あたたかい部屋と料理で
出迎えてあげたほうが、きっとスガも嬉しいに違いない。
「わかった、じゃあ、俺はここで待ってる」
あさひがそう言って頷くのに、ありがとう、じゃ、行ってくるね、と笑って、スガは出かけていきました。



少しずつ、日が、傾き始めています。急がないと、町を出るころには日が沈んでしまうかも。
だけど、午後ももうだいぶ遅いこの時間なら。
「きっともう、できあがっているよね」
ずっと待っていた、金の指輪。
顔が、自然とほころびます。
期待に胸をふくらませ、スガは走りました。疲れなんて、ぜんぜん、感じませんでした。

ところが。
「えっ!?まだ、できてない!?」
驚くスガに、店の主人は申し訳なさそうに頭をさげました。急ぎの仕事が入ったと、それはとても世話になって
いる人からの依頼でどうしても断りたくなかったのだと。けれど、あともう少しで完成するから、それまでここで、
待っていてほしいと。
どっと、疲れが出ました。走って、せっかく予定よりずいぶん早く町につくことができたのに。
しかし申し訳ないのはろくな儲けにならない仕事を頼んだスガも同じです。スガは椅子を借り、店の片隅に腰を
おろして、そこで待たせてもらうことにしました。

夕日の輝きが消えていき、空がだんだんと深い青に変わり始めるころ、ようやく、指輪ができあがりました。
見せてもらった指輪はとてもきれいで、スガの疲れもふきとびました。
これなら帰り道、ずっと走っても苦しくない、早くあさひのところに帰りたい、と、スガは思いました。

待たせた詫びだと、主人が指輪を丁寧に布でくるんで、小さなかわいらしい巾着袋に入れてくれました。
スガはそれを受け取ると、両手で大切に大切に握りしめて、店をあとにしました。



薄暗い町の中を、スガは急ぎます。そのときふと、気配を感じました。
誰かに、後ろから、ついてこられているような。
立ち止まり、振り返ります。気配は、消えました。それがますます、怪しいと、スガは思いました。

高価な金を取り扱う店から出てきたのだ、なにか、金でできた品物を持っているのだと思われ、狙われても
おかしくはない。
スガはぎゅっと、手の中の指輪を握りしめました。早く町を出て、家まで続く一本道をいちもくさんに駆け、
あさひのところまで、戻らなくては。

なるべく人の多い道を、スガは小走りで急ぎました。けれど、気配は、消えませんでした。

町のはずれの、ひと気のない、建物もまばらなところにさしかかりました。まだ、誰かがついてきます。
足音が、はっきりと感じ取れました。ふたり、いるようです。
もしかしたら、自分と同じように、町で用事をすませ、これから町の外にある家に帰る人たちなのかもしれない、
と、スガは考えようとしました。
けれど、どうしても、不安が消えません。スガは、急ぎ足で歩きながら、肩のかばんを、後ろに落としました。

足音が、ひとつ、減りました。

ぞっと、背筋が震えました。自分をつけてくるのは、賊に違いないと思いました。もし、相手が善良な人間なら、
黙ってかばんを持って行ったりはしないでしょう。

ひとり、まだ、ついてくる人間がいます。スガは震える足で懸命に走りながら、父親の形見の上着を脱いで、
投げ捨てました。これで、諦めてはくれないかと。
すると足音は消え、人の気配もなくなりました。かばんと上着で満足して、立ち去ってくれたのだと、スガは
ほっと、立ち止まり、激しく鼓動を打つ胸を押さえました。

小さな袋を握りしめます。よかった、これだけは、指輪だけは、絶対に取られるわけにはいかなかった。
乱れた呼吸を落ち着かせ、まだ震えている足をなだめ、スガが走り出そうとした、そのとき。
そばの建物の陰から人があらわれ、横からスガをつきとばしました。賊は、満足してなどいませんでした。
姿を消して、油断させ、こっそりとまわりこんでいたのです。

スガは、地面に転がりました。固い土の上にしたたかぶつけた腕や足が痛みます。それでもスガは、指輪を
放しませんでした。
よろよろと立ちあがり、周りを見ると、どうやら、路地の中に押しこまれたようです。
両側は壁、後ろは、暗くてよく見えないけれど、なにか、大きな箱のようなものが積み重ねられ、とても通り
抜けられそうにありません。

ふたりの賊が、じりじりとスガに近づいてきます。賊はナイフをちらつかせ、スガに、その手に持っているものを
よこせ、と、言いました。

「絶対に、嫌だ」

賊はふたりだけです。勇気を出して片方に体当たりすれば、倒れた隙間を縫って逃げられるかもしれません。

そのとき、風に乗って、人の、かすかな声が聞こえてきました。賊のひとりが、振り返ります。
今だ、と、スガは賊に体をぶつけました。ふいをつかれ、賊はあっけなく倒れました。けれど、もうひとりの賊が
立って駆け出そうとしたスガの襟首を掴んで引き戻し、スガの背中に、深々とナイフを突き立てました。
ものすごい痛みに襲われながら、スガは必死に体を丸めて、指輪を守りました。
蹴っても、殴っても、絶対にその手の中のものを差し出そうとはしないスガに、賊は腹を立て、何度も、何度も、
その背中にナイフを突き立てました。
それでもスガは、けっして、手の中に握った指輪を渡そうとはしませんでした。

ざわざわと、人の声が聞こえてきました。スガとあさひが初めて言葉を交わしたあの日、町はずれであさひを
いじめていた子どもたちの声でした。賊は慌てて、逃げていきました。

子どもたちは、これから食べるおいしい夕食のことや、これから見に行く、花火のことを話しているようです。
日が暮れるまで遊んで、家に帰るところなのでしょう。

いいな、うらやましいな、と、スガはぼんやりと思いました。自分はもう、大好きなあさひと、いっしょに食事する
こともできなければ、花火を見ることもできない。
あさひのために用意した、この、きれいな贈り物を渡すこともできない。

けど。

こんなもの、ないほうがいいのかもしれない、とも、スガは思いました。

だって。

聞こえてくる子どもたちの声に、あの日からの思い出がよみがえります。あさひと出会って、いっしょに暮らした
幸せな思い出が、次から、次へと。
けれど、それが永遠に失われようとしている今、思い出がよみがえっても、辛くて、苦しくて、悲しいだけ。

スガの目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちました。

ごめんね、あさひ。

いつまでも朽ちない金の指輪。その指輪は、あさひに、楽しかった思い出と、そして、もう二度と会えない
スガとの別れの悲しさを、いつまでも、いつまでも、思い出させたことでしょう。

だからこんなもの、渡せなくて、よかったんだ。

賊はまた、戻ってきて、今度こそ、この指輪を奪っていくことでしょう。

けど、あさひのためには、それがいいのだと、スガは思います。
あさひは自分がいなくなったことを悲しむでしょう。
けれど、あさひはとても強くて、とても優しい人。きっとまた、誰かがあさひのことを、深く愛してくれるでしょう。

そのとき、自分のことなど、覚えていないほうが、いいのだ、と、スガは思いました。
そのほうが、あさひは幸せなのだと。

けどね、あさひ。

俺は、あさひのこと、ずっと覚えているから。あさひのこと、死んでも忘れないから。

そしてずっと、あさひの、幸せを、

うずくまる体から、力が失われていきます。スガはもう、目を開けていることが、できなくなりました。



ざわり、と、あさひはとても嫌な胸騒ぎを感じました。こんなことは、生まれて初めてです。
スガはまだ、帰ってきません。外はもう、すっかり暗くなっているというのに。
用事が長引いているのかもしれない、と思いました。けれど、いっこうに胸のざわつきはおさまりません。
スガは、家と料理をあたためて待っていてと言いました。そして自分は、待っている、と言いました。
だからスガは、怒るかもしれません。
けれど、怒られてもいいと、あさひは思いました。そんなことを考えるのは、初めてです。あさひはスガのことが
大好きだから、怒られてもいいなんて、思ったことはないのです。
あさひは、火の始末と、戸締りをしっかりしました。
そして、まだ少し欠けている丸い月の明かりの中を、風のような速さで町まで走りました。
道の途中で、戻ってくるスガに会えたらいいと、祈りながら。

しかしあさひは、スガに会うことはありませんでした。スガと出会うことなく、あの日、スガが自分を助けてくれた
町のはずれにつきました。
そこであさひは、なんだか、ひどく、錆びてしまった鉄のような匂いを感じ取りました。
しかもそれは、初めて感じる匂いなのに、なんだか、よく、知っているような気がします。
あさひは、鉄の匂いを強く感じる場所を探しました。そして見つけた路地の奥を、恐る恐る、覗きこみました。

薄暗い中、目を凝らすと、灰色がかった、髪が見えました。あさひが、とてもよく知っている、髪でした。
見間違えるはずもない、赤く、汚れているけれど、あれは、

「スガ」

ゆっくりと、あさひは、近づきました。真っ赤な背中のスガが、丸くなって、うずくまっています。

「なに、してるの?」

ねえ、スガ、と、あさひが言いかけたとき、後ろから、下卑た笑い声が聞こえてきました。
スガの息が絶えるのを待つあいだ、ひと仕事終えてきた賊が、戻ってきたのです。
賊は、スガのそばに突っ立っている大男を見てぎょっとしましたが、騒ぐようならこいつも殺してしまえばいいと
思ったのか、あさひにはかまわず、スガに近づき、その体を蹴り飛ばしました。

仰向けに転がったスガの手から、小さな袋がこぼれます。

賊は袋の中身を改めて言いました。なんだ、指輪か、殴っても刺しても、絶対に放さないからきっとぶ厚くて
大きな金貨だと思ったのに。そして忌々しそうに、ちぇっ、と舌打ちをしました。
もうひとりの賊が言います。そんな指輪でもはした金くらいにはなるだろう、せっかくだからもらっていこう、と。
指輪を持っている賊が、ふん、と、鼻で笑いました。
「しかし本当に、細くてちゃちな指輪だな。こんなものを必死に守って殺されたのか。馬鹿だな」
賊が手の上で荒っぽく指輪を弾ませました。鈍く光る、金の指輪。あさひはそれを見て、すべてを察しました。

あれは、スガの言っていた、贈り物に違いないと。
スガは、自分への贈り物を守って、賊に殺されたのだと。
そして今、スガだけでなく、スガが自分のために命がけで守った贈り物まで奪われそうになっているのだと。

月が、スガの顔を照らしました。目元が、濡れているのが見えました。涙で、濡れているのが、見えました。

スガが嬉しくて泣いた顔を何度も見たあさひにはわかりました、この涙は嬉しくて泣いたのでは絶対にない。
スガに出会うまで寂しく、苦しく、辛い思いを何度もしてきたあさひにはわかりました、これは痛くて、苦しくて、
悲しくて泣いたのだと。

あさひは、賊の腕ごと指輪をもぎ取りました。よく見ると、その賊はスガのかばんをかけています。あさひは、
かばんを引っぱりました。強い力で引かれた賊は倒れ伏し、地面に顔を打ちつけ、のたうちまわりました。
ぎゃっと叫んで逃げようとした賊は、スガの上着を着ています。取り返さなくては、と、あさひは思いました。
かばんを肩にかけ、空いた手で、逃げる賊の頭を鷲掴み、引き戻します。そして指輪を握ったままの賊の腕を
そっと地面におろすと、あさひは賊の両腕を後ろに向けて曲げました。けれど釦がとまっていて賊から上着を
脱がせることができません。賊が動かないように両腕をひとつにまとめて握り、あさひは釦をはずしました。
賊の腕はぐにゃぐにゃと柔らかくなっていて、釦をはずせば、あとはするりと上着を脱がせることができました。



あさひは、指輪を丁寧に布でくるみ、巾着袋に入れ、スガのかばんの中におさめました。
それからスガに、きちんと上着を着せました。
わずかに残っているスガの涙をそっと、唇で吸い、スガの体を背負いました。
あさひが立ち去ったあとには、元がなんであったかわからない、赤黒い塊だけが残されていました。



あさひは、スガをおぶって歩きました。あの夏の日はあたたかかったスガの体は、今はもう、氷のように冷たく
もう、あさひ、好き、とも言ってくれません。

あさひの後ろから、どん、どんどん、と、新しい年を祝う花火の音が聞こえてきました。
スガといっしょに見るはずの、花火でした。目が覚めたときはひとりで見たそれを、今日はスガと、ふたりで見る
はずでした。あさひはけっして、後ろを振り返ろうとはしませんでした。

あさひは、歩みを止めませんでした。ただまっすぐ、まっすぐ、きた道を戻りました。
ふたりで用意した誕生日のごちそうは、誰にも食べられることなく、静かに、凍りついていきました。



東の窓から朝の日が、真っ白い敷布の敷かれた台の上に射しこみます。顔に明るさを感じたスガは、ゆっくりと
目をひらきました。
すぐ、目の前に、とても嬉しそうなあさひの顔があります。あさひは言いました。
「おはよう、スガ」
スガは、彼にあさひと名前をつけたときのことを思い出し、微笑みました。
しかし別のことも思い出したのです。そうだ、自分は、町の、はずれで。
「あさひ、ここはどこ?俺は、」
死んだはずでは、とは、恐ろしくて口にできませんでした。それを言ってしまったら、この、夢のようなあさひとの
再会が、消えて終わってしまうような気が、スガはしたのです。
不安そうな面持ちのスガの髪を撫でて、あさひはスガの質問に答えました。

あの日、町はずれで倒れているスガを見つけたあと、スガを、あさひが生まれた屋敷に連れてきたこと。
そして、研究者の残してくれた紙に書かれていることを見ながら、スガを、あさひと同じ体に作り直したこと。

「よかった、スガがまた、目を開けてくれて」
あさひが、嬉しそうに笑いました。そしてスガに、自分の左手を、見せました。
スガは、あっ、と、声をあげました。
あさひの左手の薬指に、あの、指輪がはめられていたのです。

「これがあったから、俺は、ひとりで寂しくても、がんばれたんだよ」
スガは驚きました。指輪が、無事だったなんて。
そして、あさひに辛く悲しいことを思い出させるだけだと思っていた指輪が、あさひの力になっていたことを、
嬉しく思いました。
自分が贈り物をしようとしたことは間違いで、それはあさひにとってひどいことだと思っていたけれど、そうでは
なかったのだと、スガは涙ぐみました。

「ね、スガ、起きられる?」
スガはおずおずと、体を動かしました。だいじょうぶ、手も、足も、自分の思う通りに動きます。
まだ、少し、ぎこちないけれど、それでも、ちゃんと、動きます。
スガはあさひに助けてもらいながら、ゆっくりと、体を起こし、あさひのほうを向いて、台のへりに腰かけました。
はだかの体に、空気が、少しひやりと感じられます。
その様子を見たあさひは、そばに置いていた替えの敷布をスガの頭からかぶせ、ふわりと全身をくるみました。
あさひは、スガを優しく抱きしめ、それから、ちゅっとキスして、言いました。

「ね、これ、スガの指にはめていい?」
ポケットでにも、入れていたのでしょうか。いつの間にか、あさひが右手に、あの指輪を持っています。
スガは、涙をこぼして、頷きました。
「あさひ、これからも、ずっといっしょにいてくれる?」
「うん、ずっと、ずっといっしょだよ」
あさひは微笑んで、スガの左手の薬指にそっと、指輪をはめました。





(15/05/30)

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