「シャフス… すげー…」

このままじゃダメだ、と、奮起した澤村くんに負けないくらいがんばろうと始めた自主練習中。
トスされたボールを打ち着地した俺の耳に、聞き慣れない単語が入ってきた。

シャ、フス?

なんだろう?菅原くんがぽそっと零したシャフスとは。すごい、とも言ってたな。なにがすごかったんだろう。
気になる。けど、後ろで澤村くんたちが順番を待ってる。練習が、終わったあとにでも。

しかし疲れて忘れて、学校を出て菅原くんとは別れてしまった。
まあ、いいか。また明日、練習が始まる前にでも、

練習が始まる前…

着替えて、

体育館に入って… 始まるのを待ってる… 待ってるとき…

脳内に、部活参加初日のことが浮かび上がった。

着替えて体育館に入ってしばらく待たされてじゃあ一年生自己紹介となって、

そうだ!

噛んだ!

お願いしますを噛んで、しゃふすだったか、しゃふすふすだったか、そんな感じに、なった!

ちょっと待って!?

え!?

シャフス、って、もしかして俺のこと!?

え、ええー…!?

「ちょっと待ってよ… 菅原くん…」

俺は愕然として立ち止まった。

そんな。ひどい。人の失敗を覚えていて、しかもそれをあだ名にして呼んでるなんて。そんなの、そんなの、

「あ…、」

あんまりだよ、菅原くん…!!!

ひどい、ひどい、一ヶ月以上いっしょにいるのに、合宿のときだって仲良くやってたのに、ゴキブリだって退治
してくれるって言ってたのに。
まさか、そのときもずっと俺のこと心の中でシャフスって呼んでバカにしてたんだろうか?

た、助けるふりして本当は笑ってたの菅原くんは!?!?

「ひどいよ…」

泣けてくる…

怖い… あんなかわいい顔して、心の中で人のこと、バカにしたあだ名で呼んでるなんて…

「あっ、も、もしかして、」

さ、澤村くんもいっしょになって俺のことバカにしてたらどうしよう。
ふたりでくすくす、シャフス、今日も失敗してたな、とか、シャフス、でかい図体して気は小さいな、とか。

「……」

目の前が真っ暗になる。
こわい。どうしよう。こわい。これから三年間もそんな状況、耐えられない…

「…うう」

俺はどうにかしてこの恐怖から逃れたくて、状況の打破を試みてみることにした。
もしかしたら、もしかしたら俺の気のせいってこともあるかもしれないし…

「かっ、帰ろう… とりあえず…」

気のせいじゃなかったという可能性は見ないようにする。怖いから。



次の日から俺は、菅原くんと澤村くんの動向に注意した。ふたりが話をしているときはそれとなく近づいて
シャフスと聞こえてこないかと耳をそばだてる。しかし、聞こえてくることは、一度もなかった。

それと並行して、菅原くんの目も耳も届かないところで、澤村くんとふたりきりで話をする機会を窺う。
わざわざ彼のクラスに行って尋ねたりなんかしたら、警戒されるかもしれない。あくまで、自然に、自然に。

数日後、その機会がやってきた。用事があるからと、菅原くんが自主練を少し早めに切りあげたのだ。

帰り道、思い切って澤村くんに聞いてみる。
「あの、さ、シャフス…、って、知ってる?」
「シャフス?なんだそれ?」
人の名前か?と逆に尋ねられたので、うん、と頷く。
「いや… 俺は、聞いたことないな… なんだ?海外の俳優か?それとも、洋楽のアーティストか?」

えっ?

あっ、シャフスって、そんなふうに聞こえるんだ?

「あ、いや、俺もよくわからない」
「そうか。なにか探してるなら、他のヤツにも聞いてみようか?」
「あっ!いや!それはいいんだ!」
「あ、そ、そうか?」
強く否定されて澤村くんが目を丸くする。
「あ、いや、その… お、俺の聞き間違いかもしれないから… だからほんとはシャフスじゃないかも…」
「そうなのか」
「あの、せっかく聞いてもらってもさ、そもそも俺が間違ってるかもしれないし、だから、まだ誰にも聞かないで」
「おう、わかった」
澤村くんが笑って頷く。シャフスについて質問したときからずっと、彼の様子におかしなところはない。
嘘をついているようには見えなかった。たぶん、本当に知らないのだろう。

よかった… とりあえず、ふたりで俺のことを悪く言っている、という可能性は限りなく消えた…

と、なると、あとは菅原くんだけなんだけど…

澤村くんと別れ、さっき澤村くんが言ったことも含めて、ひとりでよく考えてみる。

俺は、シャフスって絶対、俺が初日に噛んだあのときのだろ!と、思ったけど、

けどなにも知らない澤村くんには、俳優か、アーティストの名前だと思えた。澤村くんにとって、シャフスって
いうのは、どちらかというとカッコいい響きの言葉だったんだ。

と、いうことは、

「菅原くんは、俺にカッコいいあだ名をつけてる??」

事実、彼は、シャフス、のあとに、続けてすごいと言っていた。じゃあ、もしかしたら、

菅原くんの中で、俺がヒーロー扱いになっている可能性が、あるかも??

「いやいや、さすがにそれはないだろ…」

烏野で出会って一ヶ月と少し、カッコ悪いところもそれなりに見せているし。

だけど、

俺、バレーでだけは、ちょっとした有名人だし。これだけは、自惚れではなく。

菅原くんはセッターだ。俺のスパイカーとしての力を、評価してくれているのかも。他の人より、俺の良さを
わかってくれているのかも。頼もしい、と、思ってくれているのかも。

「だったら嬉しいんだけどな…」

今まで、菅原くんが俺に見せた表情を思い浮かべる。いちばん多いのは、東峰くんはしょうがないなあ、と、
苦笑している菅原くん。けど、それを思い出しても、嫌な気持ちになったりはしない。
どちらかというと、逆に、ありがとういつもお世話になってます、と、あと、少しの照れ、みたいな気持ちだ。

だから、たぶん、きっと、そこまで悪い意味じゃないと思うんだ、菅原くんのシャフスは。
悪い意味なら、おそらくもう少し、顔に、出ると思うんだよね。

だから、たぶん、気にしなくても大丈夫だと… 思うんだけど…

うーん… どうだろう… けどまだちょっと… 気に… なるかな…

とにかく、

「菅原くんにとって、シャフスが…」

愛称、だったらいいなあ、蔑称、じゃないと、いいなあ。



菅原くんは別に澤村くんとふたりで俺をシャフスと呼んで笑い者にしているわけでもないし、そこをヘタに
つついて菅原くんと気まずくなっても嫌だし、
だから、こっちからはなにもしないで放っておいたほうがいいのかなあと思ってなにもしないまましばらく
時間は経ったけど、
けど、やっぱりどうしても気になるので、俺はもうちょっとよく、彼の態度なり素振りなりを近くで観察してみる
ことにした。

「菅原くん、今日、お昼お弁当、いっしょに食べない?ちょっと相談したいことがあるんだ」
朝練後、体育館を出るとき声をかける。
菅原くんは笑って、いいよ、俺はカップ麺だから買ってくるあいだ待たせちゃうけど、と、了承してくれた。
かまわないよと俺は頷く。
「じゃあ買ってきたら俺がし東峰くんの教室に行くね」
「うん、わかった待ってる」

俺は心底そ知らぬ振りをして待ってると答えたが、いま菅原くん、しあずまねくん、って、言ったよね?
たぶんシャフス、って言いかけた、よね?
うまく誤魔化せた相手は気づいてないと思っているのか、それとも、言い間違えかけたことにすら気がついて
いないのか、並んで部室へと歩く菅原くんから動揺している気配は感じ取れない。

これは… どう考えたらいいのか…
もう、菅原くんの中では、俺はシャフスで定着してるのかなあ…

「どうかした?」
菅原くんのくりっとした目が下から俺を覗きこむ。本当に、なにも気にしてない、後ろ暗いところのまったくない
顔だ。
「なにも、ないよ。早く着替えなきゃ、って、思っただけ」
「そっか」
そうだね、と、菅原くんは少しせかせかと、足を速めた。

昼休み、両手でカップ麺を抱えた菅原くんがやってきた。教室の入り口で、どうせなら屋上に行かないと言うと
こくりと頷く。俺たちは階段を登った。

並んで座って、カップ麺の紙蓋をぺりぺりとはがしながら、うちは共働きだから、と菅原くんが呟いたので、
それならばと、俺は、
「よ、よかったら、なにか食べる?野菜とか」
と、フタを開けた弁当箱を差し出した。
けど、と遠慮する菅原くんにさらに言う。
「いいんだ、たくさんあるし、どれでも好きなの選んで」
こんな、食べもので釣るみたいなこと、ちょっとずるいかなとは思ったけど、けど、これで俺のことを少しでもよく
思ってくれたらな、と。嫌いにならないでいてくれたら、と。イジワルしようとか悪口を言おうとか、そういうことを
考えないでいてくれたらな、と。
菅原くんは、じっと弁当箱の中を見つめて、じゃあ、これとこれとこれ、と、おかずをみっつ、指でさした。
わかった。彼が選んだおかずを弁当箱のフタに載せて渡す。

地面にそっとカップ麺を置いて、両手でフタを受け取った菅原くんが、箸でおかずをつまんで口に運ぶ。
もぐもぐもぐもぐ、と、みっつ続けて食べ、ありがとう、おいしい、と彼は目をきらきらさせて笑った。
よかった、喜んで、もらえたみたいだ。
ほっとして、ちょっと気が抜けてしまって、俺はすぐに返事ができなかった。それを菅原くんは気にしたのか、
ほんとにすごくおいしい、ともう一度褒めてくれた。

「どういたしまして」
と、今度はちゃんと笑って言えた。菅原くんはたぶん、俺が、本当に美味しいと思ってくれた?大丈夫だった?
と不安になってると思ったんだろう。だから重ねて、おいしいと言ってくれたんだ。

そういう気遣いする人が、心の中でこっそり、人のことをバカにしてるなんて、やっぱり考えられない。
疑うようなことして、悪かったな。

「あ、そうだ、相談って?」

はっ!そうだ、そういう理由でお昼をいっしょにって誘ったんだった。俺は、トスを少し調整してもらいたい旨を
伝えた。
本当は、そこまで不満があるわけじゃない。けどせっかくだから、もっと話して、もっとちゃんと合わせたいと
思った。菅原くんが、どんと自分の胸を叩いて笑う。
「どんなことでもいくらでも言って。すぐ直すよ」
ああ!嘘つくみたいなことしてごめん!けど、頼もしいその言葉、嬉しかった。
食べ終えて、体育館に移動したあと、菅原くんは本当に真剣に俺の話を聞いてくれて、何度も丁寧にトスを
あげてくれた。

彼がどういう理由で俺をシャフスと呼ぶのか、それはわからないけど、けど、少なくとも嫌われてはいないと
思う。菅原くんがその呼び名を気に入っているのなら、だったらもうそれでいいかなと思えた。

仮に、

仮にもし、バカにする意図があったとしても、けど、俺が菅原くんにとってカッコいいエースでありさえすれば、
きっとシャフスも、カッコいい意味に、変わると思うんだ。変わると思うし、変えられるようにがんばろうと思う。



この日以降、たまに、しゃずまねくん!とか呼ばれたりする。
けど、呼ばれて振り返ったとき、そのとき菅原くんはいつも楽しそうだったり、嬉しそうだったりしているので、
まあいいかな、と、思っている。
俺がシャフスであることで、彼が毎日朗らかにすごせるのなら、俺も、悪い気はしない。



インターハイ予選が終わり、三年生の先輩は引退した。
次の主将に、新しいマネージャー。今日は、そのマネージャーもいっしょに、一年四人で街にお使い。

あまり来ることのない場所だから、迷って、みんなを待たせたら申し訳ないと思い、早めに家を出たけど、

「誰もいねえー…」

ケータイを取り出して時間を確認すると、待ち合わせの時間まで、うわっ、まだ三十分以上もある。

「うーん…」

ヒマだから、と、うろうろして、迷って、戻ってこられなくなったら大変だよな… うん、ここでじっとしてよう…

建物の壁にもたれかかって、ケータイを眺める。どれくらいそうしていたんだろう、ふいに脇腹のあたりにドンと
衝撃を感じた。えっ?えっ、なに???

衝撃のやってきた方向を見やると、そこには小柄な男の子がひとり。両手にはソフトクリームの載ってない
ソフトクリームのコーンを持って、俺を見上げたままじっと立っている。そして衝撃を受けたところを見ると、

「あっ…」

ソフトクリームがべったりと。しかも、チョコと苺だ。あちゃー…

どうしたもんか、と、考えていると、背後からキャッという短い悲鳴と、なにかが落ちる音が聞こえた。
そちらを振り返ると、かわいい女の子がひとり、こっちをじっと見て口元に手を当ててがたがたと震えている。

あー、なんか状況がわかった気がするぞ…

そのとき遠くから、俺のことを呼ぶ声が聞こえたような気がした。シャ。顔をあげると、菅原くんが見えた。
とても、心配そうな顔してる。

大丈夫。こんなふうにカンチガイされるのは、慣れてる。

俺は女の子に近づくと、なるべく低い姿勢になるようにしゃがんで、地面に落ちている紙袋を拾った。
ハイ、と、その子に差し出す。
「ごめんね、俺があの子にぶつかっちゃったんだよ」
この子たち、たぶんデートだよね。恥をかかせたら、かわいそうだ。

「苺とチョコレートだね。買ってくるから、ふたりでここで待っててね」
女の子の背に軽く手をあてて、男の子のところに促す。彼に店の場所を尋ね、同じものを買って戻ってくる。

「はい」
差し出したソフトクリームをふたりは受け取った。けど、まだ、申し訳なさそうにもじもじしている。
俺は、洗濯すれば大丈夫、気にしないでと笑った。
「ほら、早く食べないと、溶けるよ」
ふたりはありがとうと言うと、ぺこっと頭をさげた。歩き出す後ろ姿に俺はほっとして手を振る。

よかったー、泣かれなくて…

菅原くんがこっちに向かって走ってくる。まるで相手のマッチポイントをひっくり返してこっちがセット取った
みたいな顔して。
へへ、俺、カッコよかった?うまくできてた?

「かっこいいじゃん!シャフス!」
あ、もろ言った。
さすがにこれは本人も気がついたのか、菅原くんが顔を真っ赤にして慌てる。
「あっ、そ、そうじゃなくて、しゃ、つ、シャツ、新しく買おう!シャツ!汚れてるから!な!」
「そうだな」
まだ時間あるし、と答えると、菅原くんは俺の手をひっ掴んでぐいぐいと歩き出した。

そんなに慌てなくても、大丈夫、ちゃんと、気づいてない振り、してあげるのになあ。
こっちを見られていないことをいいことに、俺は思いっきり苦笑する。

だけど、そうだな…
もうそろそろ、旭って呼んでよ、って、提案してみるのも、いいかもしれない。





(16/11/14)

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