我がデルカダール王国の姫、マルティナ様が二十歳を迎える年、バンデルフォン王国第二王子との縁談が
この度めでたくまとまった。
まずはバンデルフォンへ姫が結婚のご挨拶に。一週間後、王子と共にデルカダールに戻って挙式の予定。
護衛の騎士、お世話をする侍女、そして将軍の私を引き連れ姫はデルカダール城を出発する。街道を南へ、
見送りの民に手を振りながらデルカコスタまで。
手配していた観光地ソルティコや貿易港ダーハルーネの土産物もたんと積みこみ、王族専用の立派な船は
ゆっくりと陸地を離れた。
穏やかな内海を、船は滑るように進んでいく。
神話の時代の勇者ローシュが邪悪の神とやらを倒してくれたおかげで、恐ろしい魔物の大群が大国を一夜に
して滅ぼす、などの大きな災厄は既に大昔のものとなった。
五つの大国の結束も固く、国と国との争いというものも私は本の中でしか知らない。
世界に起こる災いごとの規模は小さく、局地的なものとなった。だから私も、将軍そして軍師でありながら
魔物の大群や他の大国から国を守るために城の奥深く控えているのではなく、少数の賊や魔物から姫を
守るため外に出ることができる。概ね平和なのだ、今は。
甲板に立って海上に目を配る私の、腰の下まで伸ばした髪を風がさらさらと撫ぜていく。この船旅は順調に
終わるだろう。
三日後の朝、何事もなくバンデルフォンの船着場に降り立った私たちは姫を含めた全員が全員、わあ、と
感嘆の声を漏らした。遠目からでもわかる、小麦畑の広大さ。
荒地の多いデルカダールは、開墾を進めたとはいえ自力でまかなえる食糧は潤沢というには程遠い。
羨ましいものだ。
だからこそ、この結婚でデルカダールとバンデルフォンの結びつきが強くなることには大きな意味がある。
絶対に、失敗があってはならない。
迎えにきていた馬車に乗り、一路バンデルフォンの城へと向かう。道の両側に見える小麦畑では、今まさに
収穫の真っ最中だ。
風に揺れる黄金の穂先、きびきびと手を動かして働く者たち…、とても美しいと思った。
豪奢な城門をくぐると、そこには色とりどりの花、香り。これが、花の都と謳われるバンデルフォンの城。
侍女たちの馬車から押さえ切れなかった歓声が聞こえてくる。もう城内に入っているというのに、はしたない。
だが、気持ちは私にもよくわかった。
バンデルフォンの王と王妃、そして姫の婚約者である第二王子は明るく気さくで、マルティナ様と私だけでなく
十数人いる護衛の者や侍女の全員を玉座の間に招き入れ、遠路はるばるよくきてくれたと歓待した。
これは破格の扱いだ。みな驚き、喜ぶ。旅の疲れも吹き飛んだ。
当初の予定通り、姫は王たちと昼食へ。護衛の者は今後の警備についてこの城の兵士と打ち合わせるため
兵舎へ、侍女たちは姫の滞在する部屋を整えるために、それぞれ案内の者に連れられ出て行った。
私と護衛の者たちは兵舎で、デルカダールの者は姫が城から出るとき以外は兵舎及び併設の食堂内にて
待機、ホメロス将軍のみ姫の供で城内を歩くことは許可されるがひとりで行動することはまかりならぬ、等々
取り決め、その後、では我々も昼食にしましょうか、と食堂へ促された。
自由に外に出られない私たちのために、ここの兵士たちがバンデルフォンの美味いものをいろいろ用意して
くれているのだそうだ。ありがたい話だ。
訓練用の中庭に面した食堂へと続く回廊、移動する部下たちの後ろについてそれとなく様子を窺う。並んで
歩くバンデルフォンの兵士たちとのやりとりはなごやかで、見て微笑ましい気持ちになる。これなら、一週間
うまくやれるだろう。
「ホメロス将軍」
打ち合わせの席で中心になって場をまとめてくれていた兵士長の声だ。私は振り返った。
「はい、何か?」
上背のある兵士長がすぐ隣りに立ち、なぜか照れくさそうに頭をかく。
「あ、いえ、とくに何かというわけでは…、」
だったらなぜ呼び止めた。兵士長はもごもごと言葉を続ける。
「ただ、その、」
「はい」
「ホメロス様みずからおいでになるとは思っていなかったので… 驚きました。国のことはよろしいのですか?」
「大事なバンデルフォンの王子を迎えにあがるのです。できる限りのことをせよとの我が王からの仰せです」
愛する息子を遠い異国の婿にやる、その決断をしてくれた親の気持ちを考えたら、こちらも礼をもって尽くすのが
当然だろう。
「それは、ありがたいお話です」
「恐縮です」
「ところで、」
なんだ、まだ何かあるのか。
「ホメロス様の書かれた各種魔物への対処法、私も読みましたよ。ためになりました」
「あれは、クレイモランの古代図書館に文献を残してくれていた先人たちの仕事の賜物ですよ。私は書かれて
いる内容が今にも通じるか検証して、編纂し直しただけです」
だから巻末に参考文献を記してあるだろうが。
「ご謙遜を、あなたの知将ぶりは遠くここバンデルフォンまで聞こえてきていますよ」
「それは、もったいないお言葉を」
この男はいったい何の話がしたいんだろうか。滞在中はいろいろ密に連絡を取り合わねばならないのだから
そのために親睦を深めたくてしている雑談なのか。ならこちらからも何か言ったほうがいいのか。だったら早く
食堂に行って、
「あっ、」
気づいた。今、周囲に、私たちふたりの他、誰もいない。
一緒に兵舎を出たみなはもう行ってしまったのだ。
「ホメロス様、私はあなたに憧れていました。よかったら今夜、私の部屋であなたのその知識の一端にでも
触れさせていただけませんか」
「残念ですが、今夜はマルティナ姫の会食の供で城の外に出て、おりませぬ」
「なら戻ってきてからでも… 部屋に、美味い酒を用意して待っていますよ」
「いえ、私たちは城内を勝手に歩くわけには参りませんので…」
「なら、朝まで私の部屋で共にすごしましょう」
朝、一緒に出ればなにも問題ないでしょうってこちらとしては大いに問題がある。だいたいお前と夜を共に
するために私はバンデルフォンにきているわけではない。
一介の兵士長風情が、無礼だとは思わないのか。そう言ってしたたか蹴り飛ばせたらどんなにか。
しかし私は、父親代わりの、大恩あるモーゼフ様から、姫とこの国のことをよろしく頼むと仰せつかっている。
揉めごとは避けたかった。
「ホメロス様のこの髪… 日の光のもとで見てもとても美しいですが、夜、燭台の明かりのもとではどんなふうに
見えるのでしょうね…」
兵士長が手を伸ばして私の髪をするりと撫でた。三十年と少しの人生、こういうことが今まで一度もなかった
わけではない。自分の容姿が他人からどう見られどう扱いたいと思われるのか私にだってわかっている。
しかし、何度されても慣れるものではない。不愉快極まりない。
ん、と小さくうめいて兵士長が目をすがめた。昼を過ぎて傾いた日が回廊の屋根から射しこんできたのだ。
「兵士長」
「な、なんですか」
「お話の途中ですが、船の積荷が城に到着している時間かと思います。食堂に向かう前に一度、様子を見に
行ってもよろしいですか?もし荷降ろしが済んでいるようであれば、その旨侍女たちに伝えたいのです」
「ああ、かまいませんよ。では、ご案内いたします」
そう言って兵士長は私の腰に手を当てた。こいつ、少しばかり顔がいいからって図に乗るのも大概にしろ。
「兵士長、そういうことは…、その、人の目のある場所では、あの、」
困りますので、と、私は恥らうふりをして顔を伏せた。わかっています、と兵士長はここぞとばかりに私の体を
引き寄せる。ああ忌々しい。
他国の将軍との醜聞はさすがによろしくないとわかるのか、兵士長は倉庫に辿り着く直前すっと離れる。
願わくば、もう二度と近寄ってきてほしくない。
荷降ろしをしている人夫が目に入ったので声をかけてみると、まさにそれがデルカダールからの船の積荷で
しかもちょうど、作業を終えるところだった。
ざっと数えた感じ、過不足はなさそうだな。よし、侍女に知らせてあとは彼女たちの采配に任せよう。
誰か、伝言を頼めそうな、城内に戻りそうな使用人はいないだろうかと、荷物の間をすり抜け、辺りを見回す。
高く積まれた荷物の山の角を曲がった先、人がいる気配を感じて私はとっさに足を止め、見上げた。
「あ…」
海だ。
じっと見ていると、美しい海のような瞳がぱちぱちと、まぶたに覆われる。私ははっと我に返った。
「失礼、思わず、見とれて」
「あ、いえ」
と、海の目を持つ大柄な男が少し微笑んで首を振る。よかった、ほっと息をつく。
「申し訳ない、不躾に… 私の暮らすデルカダールは岩と山の多い土地、あなたの目のような美しい色に
出会うことは少なくて、つい」
そうですか、と、男は笑った。
「幼い子どものころ、両親に連れられて一度だけ行ったソルティコの海を思い出しました」
「ソルティコ… 美しい海だそうですね。そんな海の色に似ているだなんて、光栄です」
「本当に、ずっと見ていたいくらい綺麗ですよ。あ、そうだ、ところで」
「はい」
「あなたは、この城で働いているのですか?もしそうなら、少し、頼みたいことが」
「あ、いえ、違うのです」
ゆっくり首を振る男に、ああ二回も失礼を、と慌てて詫びると、男はいいんですよとまた首を振った。
「あなたは先ほど、デルカダールの方だと仰っていましたね。あと、その鎧… もしかして、マルティナ姫の」
「そうです、供の者です」
「俺は、姫をもてなすための料理に使われる、小麦粉を納めにきたんですよ」
「あ、なら、バンデルフォンで小麦を作っている…」
「はい、農家の者です」
「そうだったんですね… バンデルフォンの小麦… デルカダールでも人気です。パンが美味しく焼けると」
「ありがとうございます」
「私も大好きです」
「それは嬉しいですね」
あっそうだ、と、男は腰に下げた袋の中を探った。
「よかったらひとつ、いかがですか。今朝、焼いたものです」
男の武骨な手が丸いパンを差し出す。おいしそう。そういえば昼をまだ食べていなかった。しかし…
「ホメロス将軍!」
兵士長が後ろから私の肩を強く掴む。
「そろそろ、戻りましょうか。お時間が」
「わかりました、すみません」
私は胸苦しく男に頭を下げた。
「申し訳ない、行かなければ… お気持ちだけ、受け取らせてください、ありがとう」
「あ、いえ、」
「素性のわからない者からの食べものなど、将軍は口にせぬ!仕事が終わったのなら、早く帰れ!」
口にせぬ、それは確かに、そうだ。だが、わざわざ言わなくてもいいだろう。結局、食べることはなかったのだ。
どうかお気になさらないで、という男の声を背中で聞きながら、私は寂しくその場を去った。
食堂に入ると、大部分の者は既に昼食を終えていて、なので私は部下のひとりに侍女への伝言を頼んだ。
せっかくの美味しいごちそうだが、この兵士長と一緒だと美味しいものも美味しくなくなる。
私が食事をもそもそ食んでいると、使いにやった部下が戻ってきて、人手が足りないのでデルカダールの
兵はみな荷運びにまわってほしいとのこと。兵士長と離れられるなら万々歳だ。私は速やかに食事を終え、
席を立った。
デルカダールとバンデルフォンの侍女たちの指示に従い、荷物を各部屋に運び終わったころ、姫から声が
かかる。そろそろ城を出発します、兵舎まで呼びに行くのは面倒だから私のそばにいて頂戴、と。よかった、
これはついている。
王妃も招いての国一番の大貴族との会食は大いに盛り上がり、夜遅くまで話は弾み、よかったら泊まって
いらして、という奥方からの提案を、姫も王妃も喜んで了承した。もちろん、お供の私も姫と一緒にだ。
使いの者が城へと走り、バンデルフォンの兵を呼ぶ。兵士長は屋敷の外で寝ずの番をすることになった。
ざまあみろ。
私は、姫と扉ひとつ隔てられた次の間の、簡素だがふかふかのベッドでひとりゆっくりと休むことができた。
夜が明け、朝食をいただいた後、城に戻る。今日はマルティナ様と私と、あとバンデルフォンの兵士の誰かを
ひとり伴って小麦畑の視察だ。
あの兵士長は急な夜勤で疲れているだろうから別の者がくるだろうと思っていたのに、少し仮眠を取ったのか
元気だった。残念だ。
私たちは馬車に乗り、城から離れた集落へ。集落の中心部に馬車を止めたら、そこからはのんびりと徒歩だ。
バンデルフォンの国民とじかに触れ合いたいし、なにより、お城の中で食べてお喋りしてるばかりじゃ、体が
なまっちゃうわ、と、姫様たってのご希望で。
城の役人がデルカダールの姫の訪問を集落の者たちに知らせてくれていたおかげで、みな、私たちに愛想よく
挨拶してくれる。なので、こちらからも話しかけやすかった。ありがたい。
「ああ、このへんからが春まき小麦の畑なのね」
今、収穫の時期を迎えているのは、昨年の秋に種をまいた小麦。このへんは、今年の春に種をまいた小麦。
穂にはまだ、緑の色味が残っている。
「このへんは人も少ないようだし、ぐるりとひと回り歩いたら引き返しましょう」
「は、」
緑残る穂先から黄金の穂先へ。ちょうどその境目あたりにきたとき、ガサガサと小麦が揺れる音がした。
人が畑をかき分けて歩いてくるような音に似ているが、音のした方には誰もいない。
うわっ、と兵士長が声を上げた。キラーパンサーだ。キラーパンサーが飛びかかってきたのだ。
マルティナ様が素早く、自分と魔物の間に私を挟む形で私の背後に移動する。こういうときの姫の見極めは
確かだ。私はキラーパンサーの正面からドルマを放ち、怯んだところを剣で追撃。仕留めた。
「ホメロス、まだいるわ!」
私たちを取り囲むようにガサガサ、ガサガサ、音が移動する。その円は、小さくこそならないものの少しずつ、
少しずつ横にずれていく。ちっ、足場の悪い小麦畑の中に入らざるを得なくするつもりだな。
キラーパンサーの黄色い毛皮が金の穂先に紛れてわかりにくいが、おそらく三頭は確実にいる。
マルティナ様は、懇意にしているユグノアの王妃からあの国の習わしを聞いてみずから霊山ドゥーランダでの
修行を願い出る剛の者だ。国に戻ってからも鍛錬を欠かさない。そのへんの並みの兵士よりずっと強い。
だけれど今はバンデルフォンの王子を婿に迎える他国の姫として、きちんとしたドレスに身を包んでいるのだ。
今日は歩くからと服も靴も簡素で動きやすいものを選んではいるが、しかし戦うにせよ逃げるため走るにせよ
いずれにしてもこの格好では分が悪い。
油断していた。王族の血はやはり特別なのか魔物に狙われやすいと古文書で目にしたことは、あったのに。
せめてここにもうひとり、兵がいたなら…
そのとき、
ウオオオオオとものすごい雄叫びが聞こえて誰かが走ってきた。雄叫びのした方向にいたキラーパンサーが
そちらに走る。が、高い断末魔をあげて、一刀両断された。斧で。
あ、あれは、
昨日の。
「リタリフォン!ご婦人を!」
男が叫ぶと、漆黒の馬が風のように走ってきて姫を狙っていた魔物を弾き飛ばした。荷馬車か農耕具から
外したばかりなのか、手綱を付けただけの馬にマルティナ様はドレスの裾を翻してひらりと飛び乗ると、
「ありがとう!応援を呼んできます!」
と、一目散に駆け出した。
「及ばずながら、加勢いたします」
「ありがたい、と言いたいところですが、民を守るのが私たちの務め。姫を逃がしてくれただけで十分です。
あなたは離れてください」
「しかし相手は、そうさせてはくれないみたいですよ」
つい先ほど三対一になったのに、いつの間にか馬に蹴られたものが戻り、さらに二頭増えて、今、五頭の
魔物に周りを取り囲まれている。
収穫前の小麦が自分たちを隠してくれることをわかっているのだろう、キラーパンサーは姿勢を低くまるで
小麦の海に潜るようにして私たちのそばをゆっくりと回っている。
キラーパンサーの跳躍力はだいたいわかる。ひと飛びで獲物の喉をかき切るためにはこの程度の間合いを
取っているだろうという推測はできる。
だから、その辺にドルマなりなんなり呪文を浴びせてやれば、あぶり出せるはずだ。しかしそうするとせっかく
実った小麦が吹っ飛んでしまう。
私たちに攻撃をしかけてくることもなくただぐるぐると回っているだけのキラーパンサーは賢い。小麦を駄目に
したくなくてこちらが火や氷の呪文を使いたがらないのをわかっているのだ。
このまま私たちが疲弊するのを待ち、こちらの緊張が切れたところですかさず飛びかかってくる腹だ。
そんな私の心の内を読み取ったように、男が言った。
「ここは俺の畑です!好きにしてください!」
しかし、と、私がそう思うのも心得ていますとでもいうように、
「人の命のほうが大事です!」
と続ける。
「わかった、ドルマ!」
キラーパンサーの気配に呪文をぶつけた。当たりだ。ギャアと喚いて飛び出すのを男が斧でばっさりと薙ぐ。
驚いた。私が呪文を放つ呼吸に合わせて既に動き出していたのか。
「あと四匹!」
男が叫ぶ。ドルマ!手応えあり!あとは男に任せていい!私は振り向きざま背後にいたもう一頭に呪文を
ぶつけみずからの手で叩き切った。次は兵士長の近くにいる一頭!呪文で足をやられたのか鳴き声をあげ
その場に動かなくなる。兵士長がすかさず駆け寄りとどめを刺した。
最後の一頭はもう駄目だと思うだろう、なら呪文でいぶし出される前に仕掛けようと思うはずだ、私の背後に
まわってな。
背中に気配、読み通りだ。このまま振り返って真っ二つにしてやる!
と、剣を振りかぶったら兵士長がホメロス様!危ない!と、私とキラーパンサーの間に割って入ってきた。
私が突然襲われたとでも思ったのだろうか。庇うつもりかもしれないが、邪魔だ!
まずい、このままでは兵士長を真っ二つにしてしまう。
そのとき、男が兵士長をすごい勢いで蹴り飛ばした。兵士長は吹っ飛んだ。
そして男は勢いづいた私の剣を斧で受け止める。斧は砕けた。
剣を弾かれ両腕をあげたままよろと後ずさりそうになる私に伸びてきた男の左腕が私の胴に巻きついてきて
留め、留めるだけでなくそのまま引き倒した。私は、仰向けに倒れている男の上に腹ばいで乗る格好になる。
男の心臓の響きが伝わる。一瞬、視界が暗くなる。キラーパンサーが飛び越えていったんだ。まさに、つい
先ほどまで、私の頭のあったところを。
なら着地と共にまたすぐ飛びかかってくるはず。私はころりと左に半回転して男の上から地面の上に降りると
ふんと腹筋に力を入れて起き上がり強く地面を蹴った。下から、宙に浮いているキラーパンサーの喉笛に剣を
突き立てる。終わった。
「兵士長!ホメロス!」
マルティナ様の声だ。剣を鞘に納めて顔を上げると、姫が馬に乗った兵士を数人連れてこちらに駆けてくるのが
見えた。
「巡回中の兵士と出会ったから連れてきたわ!けど… もう終わったみたいね。大丈夫?ケガはない?」
「はい、あの者の助けで、全員無事です。魔物もすべて倒しました」
「そう、よかったわ…」
マルティナ様が馬から降りてほっと胸を撫で下ろす。私は男の姿を探した。男は自分が蹴り飛ばした兵士長を
助け起こしているところだった。兵士長は蹴られたところを痛そうにさすってはいたもののしっかり自分の足で
立っていたので、まあ無事だと言っても嘘にはならないだろう。
姫は後ろの兵士たちを振り返ると、詳しいことはまた自分たちから報告をするが、魔物が出たここら一帯、
巡回の兵士を増やしてほしいことだけ至急王にお伝えしてくれと頼んだ。兵士が駆け出す。
「残りの皆さんはこのへんの警戒をお願いします。私たちを助けてくれた人と話がしたいの」
兵たちは、はっ、と短く返答し、周囲に散っていった。
マルティナ様が貸してもらった馬を引いて男の元へと歩み寄る。私もあとをついていった。
「あの、」
という姫の呼びかけに、兵士長の体についた小麦の切れ端を払ってやっていた男が顔を上げる。兵士長は
すまなかったと男の背を押し、姫と向き合うように促した。
「はい」
男は片膝をつく。その様はまるで歴戦の騎士のよう。
ああ、これは、デルカダールの盾の伝説。
「私はデルカダールの第一王女マルティナです。あなたの、お名前を聞いてもよろしいかしら」
「は、グレイグ、と申します」
「グレイグさん、今、私たち三人が生きているのはあなたのおかげです。本当にありがとう」
「滅相もございません」
「あなたにお礼をしたいけれど、私たちは急ぎ城に戻りこの状況を王に報告しなければなりません。今夕、
使いの者をよこします。あなたのおうちは、あちらかしら?」
姫は、ここから一番近い家を指した。
「はい」
「わかりました、それから、」
「はい」
「この馬、リタリフォン… だったかしら?とても強く、立派な、賢い馬ね。巡回中の兵士に気づいてそちらに
私を導いてくれたのはこのリタリフォンです。本当に感謝しています」
姫がたてがみを撫でる。馬は嬉しそうに鼻を鳴らした。
「さあ、立って、顔を上げてください」
立ち上がった男の手に、姫が手綱を握らせる。
「グレイグさん、それではまた。兵士長、ホメロス、行きましょう」
「は」
私と兵士長は、あなたの勇気に心から感謝しますと一礼して、姫のあとを追った。
私たち三人は先ほどの兵士たちの馬を借り、急ぎ城に戻り、王に事態の報告をした。
王は既に巡回の兵士の数と回数を増やすよう命を出しており、兵士長もそちらの仕事に借り出されていった。
「ホメロス、身なりを整えたら私たちの昼食の席に同席して頂戴。あの人へのお礼を一緒に考えてほしいの」
「はい」
「昼食のあとは出かけます。街の中で目立ちたくないの。鎧は着けないで、軽装できて」
「は、はい」
街?軽装?、と、姫の命令はなんだかよくわからなかったが、私はとりあえず言われたように身なりを整えて
急いで姫のところに戻る。通された部屋では姫と王と王妃がこれはデルカダールの盾だと喜んでいる。
マルティナ様は自分の身に伝説と同じことが起こったと興奮しているし、王と王妃は自分たちの先祖が受けた
恩を返すことができたと嬉しそう。魔物が出たことへの対処もひと通り終えているからか、楽しげに、ここは
伝説にのっとって盾を贈るべきか、いやいや農家に盾があっても邪魔なばかりでは?と、話を弾ませている。
「姫、それでしたら斧はいかがでしょう」
「斧?どうして?」
「戦いの最中、あの者の持っていた斧が壊れてしまいました」
正確には壊してしまいました、なのだが、まあ、そこは伏せておいても問題ないだろう。
「あら、そうだったのね。なら斧にしましょう。盾と斧。防具と武器でちょうど対になるわ」
姫にかけてと促されたので、私は席に着いた。
なら、記念の斧の贈呈はデルカダール王家にお任せするとして、私たちは何をいたしましょう、と、王と王妃が
考えこむ。
そこに、城の役人が入ってきて、王に書類を手渡していった。
「王、そちらは?」
「これか?これは、姫を助けてくれたグレイグという者のことで、わかることはぜんぶ書いて持ってこいと言って
作らせた書類だ」
どんなお礼なら彼が喜ぶか、それを考えるためにはなにより本人のことを知らねばな、という理由らしい。
あの男は、国の記録によると、六歳のころに両親を亡くし、それ以降は親戚や近所に住む者たちの世話に
なりながら成人を迎え、今はひとりで親の残した小麦畑の面倒を見ながら暮らしているそうだった。
王は、ふむ、とひとつ頷き、
「ならば、バンデルフォン王家としては、あの者の親戚と、それから同じ集落の者たちの小麦、これを今年は
倍の値段で買い上げることにしよう」
それはまた、太っ腹な。私が驚いたことに気づいたのか、王は笑って言った。
「ははは、もともと今年は、王子と姫の結婚を国民みなが祝ってくれた礼として、すべての小麦を例年より少し
高めの値段で買い上げるつもりだったのだし、その額が少々増えたところで問題はない」
ちゃんと、そのための用意はしてある、と。
それでは、斧はデルカダールが用意する。しかし、挙式やそれに関係する予定は変更できないので、それらが
ひと段落ついてから、改めて。
その間に、バンデルフォンからのお礼をする、ということで話はまとまり、私たちは急いで昼食を済ませ、姫は
私を連れて部屋を出た。
「ふふ、結婚して初めて夫と一緒にする仕事が、夫の国の国民を称えるためにどんな斧を作るか考えることだ
なんて胸が躍るわね」
姫は幸せそうに笑う。私も姫のそんな顔を見て嬉しくなった。
「けどね」
「はい」
「その前に急いで用意しなければならないものがあるわ。ホメロス、あなたも力を貸してね」
真剣な目の姫にこちらも背筋を伸ばしながら、私たちはあと侍女をふたり伴って街へ出た。
そうして着いたところは、小さいが上品な店構えの仕立て屋。
「こういうことは、こっそりしないとね。あなたたちもここでのことは他言無用よ」
こういうこと、とは、どういうことだろうか?よくわからないが、私と侍女たちは神妙な顔で頷いた。
姫の言う、こういうこと、とは、自分の恩人のために服をあつらえることだった。そして明日の夜に城で催される
宴に彼を招きたいのだと。
明日の宴はこの国の名門貴族や大商人を集めて大々的に姫を紹介するためのもの。その席に招待して彼の
手柄を褒め称えようというのだ。彼にとっても悪い話ではないだろう。
なるほど、姫が私についてこいというのはこういう理由か。一緒に戦って、間近で見た私に彼の体型を説明
しろというのだな。侍女は、事情を把握してもらってこまごまとした連絡、世話などにあたってもらうためか。
この店は似たような依頼が多いらしく、姫の言いたいこともよく汲んでくれ、話はとんとんと進んだ。
せっかくだから、ここではあまり見ないような、デルカダール風の、まるでデルカダールの将軍が着ているような
力強くて、なおかつ華のある雰囲気の衣装にしましょう、色はこう、形はこう、大きさはこういう感じで…、と、
姫は私の説明を時折まじえながら店主に話し、それでは明日の午後二時までにお願いします、と店を出た。
次は靴屋に寄って靴選び。うまい具合に姫が思い描いていたものに近い雰囲気のものがあり、万一合わないと
大変だからと大きさの違う靴を計三足買った。
そして最後は最初の夜に訪れた貴族の屋敷に。事前に使者を行かせていたのか奥方はすべて心得たように
靴を預かってくれた。明日できあがる服もこちらで受け取ってくれるそうだ。
「じゃああなたたち、明日はここでグレイグさんの身支度をお願いするわね」
姫の言いつけは、私たちは明日の午後からここで待機、城から彼の家に向かった使者が彼をここに連れてくる
から着替えさせて城までお連れして、というもの。
私は広間の警備があるからその打ち合わせのために夕方までには城に戻っていないといけないが、侍女に
案内を頼めば大丈夫だろう。馬車に乗って移動するだけなのだし。
城の兵舎に戻ると、魔物の件でバンデルフォンの兵士が忙しそうにしていたのでその手伝いをしたり、城内の
兵士が少なくなることで最初に決めていた警備の予定が白紙になってしまいその打ち合わせをし直したり、と
気忙しく、将軍にあてがわれた兵舎の中の小さな個室のベッドに入ってようやく私は、ほっとひと息つくことが
できた。
あらためて、またあの男に会うのだと思うと、どういうふうに接すればいいのかよくわからないな。
美しい海のような目の色の、騎士のように強い男。
あの男のおかげで、私は、自分の国の王家の縁戚となる国の兵士長を死なせるという致命的な失態を
免れたし、なにより、マルティナ様と私の命を助けてもらった。
どうしよう
ただ、他国の、自分がお仕えする姫を守ってもらった騎士、という立場ではなく、もっと、こう、私的な範囲でも
親しくなりたいと、私は感じている
ありがとうと言って、これきりになりたくない
そういえば、兵士長はバツが悪くなったのか私のそばに近寄らなくなったな。はは、彼が兵士長を蹴っ飛ばした
ところは痛快だった。ありがとう、
グレイグ
初めて心の中で呟いた彼の名前は、まるでずっと前から知っていたように、私の体の深いところまで馴染んだ。
翌日の午後、私は、昨日の侍女ふたりに加えてバンデルフォンの侍女もふたり伴い、城を出る。
彼を連れて城の中を歩くためには城の侍女の協力が欠かせないからな。
屋敷に着くと服は既にできていて、大きさを調整するためのお針子がひとり、服と一緒に客用の寝室で私たちを
待っていた。
「仕上がりを確認させてくれ」
お針子が大きなトランクから服を出し、ベッドの上に広げる。私たちを案内してきた奥方、侍女たちから歓声が
あがった。
「これは… 素晴らしいわね!」
奥方がうっとりと言う。
「マルティナ姫とホメロス将軍がこれを見立てた殿方… さぞ男らしく逞しい方なのでしょうね」
「はい。騎士のように立派な男性です」
侍女たちからも小さくどよめきがあがる。
さて、ただ待っているだけでは退屈だからお茶でも用意させましょうか、と、奥方が使用人を呼ぼうとしたとき、
いらっしゃいました、と屋敷の侍女が入ってきた。
「わかりました、こちらまでご案内して」
侍女に連れられて部屋に入ってきたグレイグは、私の顔を見て信じられないものを見た、というような顔で
驚いていた。服を着替えるだけ、と言われてきた場所に、およそ着替えることには関係のなさそうな兵士の
私がいたからだろう。
「あ、あなたは、」
「お会いするのはこれが三度目なのに、まだ名乗っていませんでしたね。デルカダール王家に仕える騎士、
ホメロスと申します」
「あ、お、覚えて…」
「美味しそうなパンをいただき損ねてしまいましたからね」
グレイグがくすっと笑った。よかった、少しでも緊張がほぐれてくれればいいのだが。
「俺も、あなたの黄金に輝く小麦畑のように美しい金の髪は目に焼きついていますよ。だからあのときもすぐに
あなただとわかったし、おそらく連れているご婦人は、マルティナ姫様だろうと思ったのです」
「それは… あ、ありがとうございます」
彼の、真心こもった褒め言葉になんと返事をしていいかわからず、礼しか言えなかった。
そんな私の動揺を奥方は察したのか、
「さ、お話はまたあとでいくらでもできますわ。今は先に、服を合わせてしまいましょう」
と、言ってくれる。
そして、用意が整うまで私は出ていますわね、と部屋から出て行った。
侍女たちがてきぱきとグレイグの着ている服を脱がせる。こういうことには不慣れなのか、顔が、耳まで赤い。
魔物相手には鬼神のような強さを見せるのに。かわいいな。
彼のために姫があつらえた服はほとんど直しの必要がないくらいぴったりだった。お針子はグレイグに腕を
あげさせたり屈ませたり、ひと通り動いてもらった後、数ヶ所縫い縮め、今後、グレイグ様からのお直しは
いつでも承るようにマルティナ様から仰せつかっています、なにかございましたらここに、と、店の名前と場所が
書かれた小さなカードを残して、それでは失礼しますと退出していった。
靴は、一番大きなものがぴったりだった。これ以上大きなものはなかったので、私はほっと胸を撫で下ろした。
服を着て、靴を履いて、仕上げに髪を撫でつけられたグレイグは、本当に将軍のよう。
本人の前で声をあげるのは憚られると口をつぐんではいるが、侍女たちの目は輝き、頬は紅潮している。
姿見の前に連れて行かれたグレイグは驚き顔。私は後ろに立って、言った。
「よくお似合いですよ」
「俺がこんな格好を、しているなんて… 生涯、忘れられないでしょう。ありがとうございます、ホメロス将軍」
「グレイグさん、デルカダールの恩人から将軍などと仰々しく呼ばれるのは面映い。ホメロス、と呼んでください」
「えっ、しかし」
「私があなたに、そう呼ばれたいのです」
「なら、俺のこともグレイグ、と呼んでくれますか」
「わかりました、グレイグ」
「そこはわかりました、じゃなくて」
グレイグが笑う、だから私も笑って答えた。
「わかった、グレイグ」
グレイグが私の返答に満足そうに大きな目を細める。
「ありがとう、…ホメロス」
扉を叩く音がして、そろそろよろしい?と奥方の声。私は侍女に頷いた。侍女が扉を開ける。入ってきた奥方は
まあ!と目を見開いた。
「とてもよくお似合いですわ」
「あっ、ど、どうも恐れ入ります」
グレイグはかしこまってぺこりと頭を下げた。
「ふふ、あなたはデルカダールとこの国を救ってくれた英雄よ。どうぞくつろいでらして」
奥方が優しく微笑むのに、グレイグはまた恐縮して肩をすくめた。
「グレイグ」
「はい、あ、うん」
「はは、いちいち言い直さなくていいぞ。…私も支度があるので城に戻らねばならん。あとは、」
侍女に案内してもらってくれ、と言おうとしたら途端に水をかけられた子犬のような心細そうな顔になるので、
「…別行動のつもりだったが、一緒に行くか?」
と、苦笑すると、グレイグは嬉しそうに頷いた。
「では、奥様、失礼いたします」
「私も楽しかったわ。では、またあとで、お城でね」
「はい」
「さ、誰にも見られないようにこっそり行くわよ」
どうしてですか?とグレイグが首を傾げる。
「英雄の登場は劇的なほうが人々の心に残るわ。強く、深く、鮮烈にね」
私たちは人目を避けて馬車に乗りこみ、屋敷をあとにした。
城に到着し、私が鎧を着けるため兵舎のほうに行こうとすると、グレイグがまたしても不安そうな顔をするので
それではと四人いるうちの侍女たちふたりに、話し相手としてそばにいてやってくれと頼んだ。
わかりました、ではグレイグ様、控え室にご案内します、と、侍女に追い立てられるようにグレイグは行った。
私も急いで身支度をせねば。
鎧を着け、今夜の宴の護衛の任について確認する。ホメロス将軍は名目上は姫の護衛として広間に入るが、
実際の護衛は他の兵たちに任せてグレイグの相手をしてやってほしいと姫からお達しがあったと聞く。
よかった、それならグレイグも安心だろう。
広間に招待客が集まり、王と王妃、王子と姫が入場し、いよいよ宴だというとき、バンデルフォン王が、今夜は
我が息子の妻となるマルティナ姫の他にもうひとり、皆様にご紹介したい人がいます、と広間の橋から端まで
通るような大きな声で高らかに宣言した。
もうお聞き及びの方もいらっしゃるかもしれませんが、と前置きして、広間の大扉の横にいる兵士たちに頷く。
扉が開く。グレイグの堂々とした佇まいに広間中の人間の視線が集中した。
「デルカダール王国と、そして我がバンデルフォンの恩人、英雄、グレイグです」
グレイグは一礼して、王の元まで進み、恭しく膝をついた。
王や王妃、王子やマルティナ様が口々にグレイグに礼を述べ、まるで伝説のデルカダールの盾の話のようだと
褒め称え、心よりの感謝の印として褒美をとらせましょう、というのを私は壁際でじっと眺めていた。
王が、では皆様、最後にもう一度この英雄に拍手を、と言い、大きな拍手が巻き起こる。
グレイグは深く頭を下げて浴びるように拍手を聞いていた。王はグレイグのそばに歩み寄り、さあ、と立つように
促す。
それを合図に使用人たちがいっせいに酒の入ったグラスを客に配った。王は全員に酒が行き渡ったことを確め、
それでは我が息子とマルティナ姫の結婚と、その恩人の英雄グレイグに、乾杯!と、グラスを高く掲げた。
華々しく宴が始まり、グレイグはいそいそと私のところにやってくる。緊張した、と。
「とてもそうは見えなかった。立派だったぞ」
「とんでもない、一緒にいてくれた侍女さんがあれこれ作法を教えてくれたからどうにか格好がついただけだ」
「そうか、でも、かっこよかった」
「グレイグ、何か、食べるものを取ってこようか?酒は?」
私は、テーブルの上に並べられた料理の数々を目線で指し示した。
「この日のために用意したダーハルーネの焼き菓子もあるぞ」
「いや、いい、もう、胸がいっぱいで… 何も食べられそうにない… 水がほしい… 喉がカラカラだ…」
「わかった、もらってこよう」
水の入ったグラスを持ってきてグレイグに渡すと、ホメロスは?とグレイグが尋ねる。
「私は仕事中だからな」
「え、そうなのか」
グレイグは少し思案して、水を飲み干し空のグラスを使用人に渡すとテーブルに行って、料理をいくらか皿に
のせて戻ってきた。
「人に酔ったかもしれない。少し、外の空気に当たりたい」
「そうなのか?」
ぜんぜんそうは見えないが… しかし、本人がそう言うのならそうなんだろう。私は、客人の気分がすぐれない
ので少し外の風に当たりに出る、と近くにいた兵士に告げ、テラスに出た。
宴も佳境を過ぎればここも酔っ払いで混み合うのだろうが、今はまだ誰もいない。私たちはなんとなく人目から
逃れるように、テラスの手すりにではなく、扉のすぐ横の壁にもたれた。
「はい」
グレイグが、皿を差し出す。食べろ、ということらしい。
「今なら誰もいない」
そうだな。
「ありがとう、では、少しだけ」
菓子をひとつと、果物を数切れ。
グレイグが残りのものを口に運ぶ間、私たちは少し話をした。年が同じであること、親がいないこと。ひとりで
仕事をして、生きていること。
「グレイグ、あの、私は思ったんだが、」
うん、と、グレイグが頷く。
「デルカダールに、こないか…?」
グレイグが、目を丸くひらいた。
「グレイグの戦いぶり、グレイグみたいな騎士が私の隣りにいてくれたらと思った。だめか…?」
グレイグはゆっくりと、首を横に振った。
「俺には、両親の残した畑がある。小麦を作るのも、性に合ってる。ホメロスが俺を求めてくれるのは嬉しいが」
「、そうか」
そうだな、グレイグ、お前はもう、バンデルフォンの英雄だものな。
「悪かった、突然。忘れてくれ」
「忘れない」
「えっ」
「嬉しかった」
グレイグが笑う。なら、ならば。
「ならばグレイグ、これからも、」
私は壁から離れてグレイグの正面に立った。右手の手袋を取る。
「遠いデルカダールの地に、あなたを思う人間がいると、友がいると、思っていてくれるか?」
私はグレイグに手を差し出した。
その瞬間、なぜだかよくわからないけれどひどく胸が、痛く締めつけられる気がした。違う、本当に痛い。これは
なんだ。
手を出していたくない。ひっこめたい。出した手を引けば楽になれる。なぜこんなことを私は思う。
しかし私がそうする前に、私の恐れと不安と苦痛で冷たくなった手が、
「もちろんだホメロス、喜んで」
グレイグのあたたかくて大きな手に包まれ、ぎゅっと握られる。はたはた、と、涙が零れ落ちた。私の目から。
「ホメロス、」
「ありがとう」
私は、ずっとずっとずっと、ずっと前から、グレイグにこうしてほしかった気がする。
「ありがとう、グレイグ、嬉しい」
「そうか、よかった」
と、グレイグは私の手に左の手も重ねようとした。が、手がふさがっているのを忘れてしまったのか、彼の手から
皿とフォークが滑り落ち、かん高い音を立てて割れてしまった。
「あ!」
テラスの扉が開く。どうやらご婦人方がグレイグを探していたようだ。引きずられるように連れて行かれる。
私もさっと目元をぬぐって、音が聞こえたのかやってきた使用人に皿の片付けを頼み、広間に戻った。
取り囲まれるグレイグを助けに行ったほうがいいかと思ったが、グレイグお前はここバンデルフォンで生きて
いくと決めたのだ。せっかくの機会なのだからがんばって顔を売っておくといい。
私はしばらくにやにやと英雄の様子を眺めていたが、さすがにこれ以上は彼も疲れてボロを出しそうだと
思ったので姫と示し合わせ、姫がお呼びだと言ってご婦人方の輪の中から連れ出した。
「疲れたか?」
「疲れた」
「もう、帰るか?」
「そうしたいかな」
「わかった」
私は近くにいた使用人に控え室の侍女たちを呼ぶよう頼み、グレイグを王やマルティナ様のところに連れて
行き、帰宅したいとの旨を伝える。
王たちは名残惜しそうにしていたが、それでも快くグレイグを送り出した。
私はグレイグと一緒に広間を出、侍女たちがくるのを待った。
「帰りたいが、ホメロスとはまだいたい」
「なら、宴に戻るか?」
「それは…」
「はは」
困った顔で眉を寄せるグレイグに私は笑ってまた、右手を差し出す。
「手紙を書くよ」
「なら、俺もホメロスに書く」
そう言ってグレイグは、今度は両手で私の手をしっかりと握った。もう、涙は出なかった。
ただ、あたたかかった。
続く
(17/12/01) |