友の国バンデルフォンでの残りの予定を恙なく終え、私たちは盛大な見送りの中、デルカダールに戻った。

無事に王子とこの国に帰ってくることができてなにより、という王からのねぎらいを受けたあと、マルティナ様は
さっそく、自分の身に起こった伝説のデルカダールの盾のような出来事を王に話した。
王はその話を聞いて大層感心し、ですのでデルカダール王国からの礼として彼に斧を贈りたいのです、という
姫の言葉にもすぐに頷き、ならば盾に負けないくらい立派な斧を作らねばな、と微笑んだ。

姫と王子の結婚式が華やかに執り行われた後、斧作りが本格的に始められた。姫とその夫となった王子は、
国内での祝賀行事の合間を縫いながらどういう斧を作るか相談し、決まったことを私が鍛冶その他の職人に
依頼しに行った。
マルティナ様は最初、私も当事者のひとりで、なおかつ武器の専門家だから職人たちとの交渉を頼みたい、
けど、いくらなんでも将軍にそんな使い走りのようなことをさせるわけにはいかない、と思い、私を斧作りに
関わらせるつもりはなかったようなのだが、王子からその話を聞いて、すぐ直談判に行ったのだ。
私も彼には大きな恩がありますし、私の仕事がご心配なら、少しくらい私がいなくても私がいるのと変わりない
くらいの質が維持できるよう日々教育しておりますし、なにより、服を作るよりはずっとお役に立てます、と。
姫は、そうね、その通りだわ、と笑って、そして私は全面的に連絡役を任されることとなった。

グレイグに贈るための斧作りは、丁寧に、かつ、急がなければならない。なぜなら、姫と王子の結婚、そして
王子のデルカダール王族入りを国民みなに広く知らしめるための催しがすべて終わった後、今度はユグノアに
結婚の挨拶をしに行く予定になっているからだ。

マルティナ様と王子の縁談を取り持ってくれたのはユグノア。それは、ただ単純に姫と年齢の釣り合った王子が
いるというだけではなくて、バンデルフォンとデルカダールを結ぶことでユグノアには世界の穀倉を独占する気は
ない、と、クレイモランやサマディーに喧伝する意図があったのだろうと私は見ている。
ユグノアとバンデルフォンは国と国の距離が近く、また、ユグノアは勇者ローシュゆかりの国、バンデルフォンの
建国者はそのローシュと共に邪神と戦った戦士ネルセン、と、精神的な距離も近い。
有事の際はドゥルダ郷もユグノアに味方するだろうと他国からは見られているだろうし、クレイモラン、サマディー
そしてデルカダールに不必要な警戒心や猜疑心を抱かせないためにもこうしておくのがいい、と賢明なユグノア
先代の王、ロウ様は判断したのだろう。

そんなわけで、まずはユグノアに挨拶に行くのだが、もしそのときまでに斧が完成していたら、ならばそれを
届けるためにバンデルフォンにも立ち寄りましょうという話になるかもしれない。
そのときもし、ユグノア、バンデルフォン行きの護衛に、また私が任じられたら。私は、したいことがある。

斧作りは順調に進み、ユグノア行きの前に仕上がった。希望していた以上の出来だと、姫も王子も喜んだ。
姫たちはユグノアの帰りにバンデルフォンにも少し滞在することを決め、私を護衛に任じた。

その夜、私は私室の机の上に、引き出しの奥から取り出した薄い木箱をふたつ、並べる。これは子どもの頃、
モーゼフ様から受け取ったペンダント。

両親が相次いで亡くなり、家も失くして城に引き取られた私は、子どものくせに大人とばかり一緒にいたがって
同じ年頃の友人がまるきりいなかった。
子どものする遊びを私はやりたいと思わなかったし、物知りの大人と話しているほうが楽しかったから。
しかしモーゼフ様はそんな私のことを心配していたようで、生まれたばかりのマルティナ様を紹介されたとき、
話して通じない赤ん坊にどう接していいのかわからずうろたえている私に、この、デルカダールの双頭の鷲の
紋章が入った金の立派なペンダントをふたつ渡して言ったのだ。

「もし、この子とずっと友達でいたいと思う相手に出会ったら、友情の証としてこれを贈るといい」

これは、クレイモランに留学に行く少し前でもあったので、モーゼフ様はたぶん、留学先で友人を作るきっかけに
なればいいと考えたのだと思う。だから私はこれをクレイモランに持って行ったけれど、結局、そういう相手には
出会わなかった。
ペンダントはそのままふたつ揃って持ち帰られ、長い間、私の机の引き出しの中に仕舞われていた。
私はこれを、グレイグに贈りたいと思ったのだ。グレイグに持っていてほしいと、思ったのだ。

私はペンダントの入った箱を眺めながら、グレイグに手紙を書いた。
近々そちらに参ります、時間が取れたらあなたの家に訪ねていきます、と。

ユグノアへは、途中、バンデルフォンを通過する。マルティナ様たちは少しだけ城に立ち寄り、斧を預かって
ほしいと王に頼んだ。
王は快諾し、なら、帰りにまたここを訪れる際、グレイグも招いて、息子夫婦の歓待と、斧の贈呈式を一緒に
執り行うのはどうだろうか、と提案した。
そしてその提案を、ありがたくお受けしたわよ、と、ユグノア到着後、私は姫から聞かされた。

グレイグは、城にくるのか。しかし、城ではまずふたりだけになれないし、第一落ち着かない。
私はその場でマルティナ様に、バンデルフォンに滞在中、少しだけでいいから時間をくださいグレイグの家を
訪ねたいのですと訴えた。
姫は、くるのに?と言いたげな、怪訝そうな顔をしたが、私が、城では彼はご婦人方にひっぱりだこですから、
と言うと笑って許してくれた。
いいわよ、宴の翌日は私も夫と城内でのんびりしたいしね、あなたの仕事はなさそうだわ、と。

ユグノアへの訪問を終え、私は再びバンデルフォンの地に降り立った。
以前見た、秋まき小麦の収穫は既に済み、次は春まき小麦を収穫中の、夏の、終わり。

宴の日の夕暮れ、ひと通りの準備を終え兵舎で開始を待つ私のところに、侍女がやってきてそっと告げた。
もし、お時間があればお会いできないか、と、グレイグ様が。
すぐ立ち上がり控え室に行き扉を開け中にいるグレイグを探す。目が合う。するとグレイグは、
「ホメロス!久しぶりだな!」
と、明るく顔を輝かせた。私も嬉しい、再会を嬉しく思ってくれて、私も嬉しい。

「会いたかった、グレイグ、私も」
「そうか。よかった、時間があれば会えないかと、頼んでみて」
「ところでグレイグ、今日は、以前とは違う出で立ちだな?」
マルティナ様が贈ったデルカダール風の衣装とは違う、明るく優しい花のような色合い、柔らかい素材の服。
「ああ、これか?」
グレイグの話によると、あのとき着替えに屋敷を使わせてもらった貴族の奥方が用意してくれたのだという。
もしかしたら姫、あるいは使者が斧を持って直接グレイグの家を訪れ、必要なくなるかもしれないけれど、もし、
また姫や私がこの国を訪れ城で贈呈の式を行う、となったとき、新しい服で現れてびっくりさせましょ、という
ことらしい。なるほど、それでがらりと雰囲気の違う、バンデルフォン風の衣装というわけか。
あの奥方はグレイグを気に入って仕事のことでもいろいろよくしてくれているのだそうだ。新しい販路を紹介して
くれたり、品種改良や新しい肥料の開発を援助してもらう予定もあるらしい。
それでだな、とグレイグがにっこり笑った。
「どうだ?ホメロス、この服は」
俺はお前に褒められることを期待している、というような表情でグレイグが私の顔をじっと覗きこむ。まったく
お前はかわいいな。
「いいと思う。よく似合っている。マルティナ様たちもきっと驚き、お喜びになると思う」
賞賛されたグレイグの顔がありがとうと輝く。私も嬉しい。自分の友人が大事にされているのは、とても。

「そういえば、手紙には俺の家にきてくれると書いてあったが…」
それは今日ここでこうして会ったけれど、滞在中、また会いにきてくれるということか?と尋ねるので、そうだと
答えた。
ここだとゆっくり話せないからな、と言うと、グレイグが、そうか、それは楽しみだなと嬉しそうに笑う。私は心底
休暇を願い出てよかったと思った。
「明日の昼過ぎに訪ねたいのだが、構わないか?」
「ああ、お前がくるなら急いで仕事を終わらせよう」
「それは申し訳ない、私が手伝おう」
「なら、急いだ上にふたりだと、もっと早く終わるな」
どうだ名案だろうと言いたげな得意気な顔をして笑うのがなんだかとても微笑ましくて、私も笑った。

翌日、どうしても自分でせねばならない部下への指示などを朝のうちに済ませ、少し早めの昼食を取る。
質素で目立たない服に手早く着替え、ペンダントを忍ばせた鞄を肩にかけると私は城から馬を一頭借り、急ぎ
グレイグの家に向かった。

畑で働くグレイグとリタリフォン、どちらも体が大きいので、遠目からでもよくわかる。ほんの僅かな時間でも、
少しでも長い間、友の姿をこの目に映しておけるのは嬉しかった。

「グレイグ」
馬から降りて彼の名を呼ぶと、グレイグはこちらを見てよくきたなホメロス、と笑った。それから、教えてもらった
厩に馬を繋いで畑に戻ってきた私に彼が尋ねる。
「今日は、いつまでここにいられるんだ?」
「夜には戻ってこいと、言われている」
「そうか」
「だからまず、グレイグの仕事を手伝わせてくれ。仕事が残っていると、落ち着かないだろう?」
「そうだな、では、よろしく頼む」

私はグレイグに言われるまま、畑の仕事を手伝った。彼は私を、スジがいいと褒めた。そして、もしも将軍の
仕事が嫌になったら、いつでもここにきていいんだぞ、などと、ご機嫌な口ぶりで言う。
私がどう返事したものかと困っていると、お前だって俺のことをデルカダールに誘っただろう、俺だってお前を
誘っていいはずだ、と、グレイグは笑った。
「そうだな、お前の言う通りだ。それに、私だって、お前の誘いが迷惑なわけではない、嬉しい。しかし、姫が
この国の王子を婿に取って、これから、徐々に新体制に移行していくであろう時期に、私が祖国から離れて
ここにくるというのは… さすがに…」
さすがにそれは不義理極まりない、心が苦しい、と答えると、グレイグはそうだな、仕方ないな、ホメロスお前に
そんな難しい顔をさせて悪かった、と、すまなそうに少し笑った。
「だがホメロス、俺はいつでもお前を待っている。いつでもお前を歓迎する」
「グレイグ…」
私はひと言、ありがとう、とだけ言って、目を伏せた。

畑の仕事は、昨夜グレイグが言った通り、ふたりで働いたらあっという間に終わった。
今日、収穫を終えた畑、明日の収穫を待つ畑。広々とした、土と、穂と、海の景色。午後遅い、黄みを帯びた
日の光に照らされて眩しく、美しい。

「グレイグ…」
ん?とグレイグが私を見る。私は、景色に目を向けたまま続けた。
「私の両親は、ひどい凶作の年、小作人を守ろうと多額の借金をしてな… 金策に走り回っていたそのとき、
折り悪くふたりとも、流行り病にかかって… 借金を返すため、家も何もかも、両親のものは全て失った」
「城に引き取られ、王のもとで育てられ、城が新しい私の家で… それで十分だと思っていた… けれどこの、
グレイグの畑を見ていると、」
「こんなふうに、親の何かが残っているというのも、いいものだなあと、思うよ」
お前が少し、羨ましいよ、と笑うと、グレイグは私のそばにきて、元気づけるように、手をぎゅっと握った。
ありがとう、グレイグ。

ホメロス、手伝ってくれた礼がしたい、少し早いが軽く食事でもしていかないか?という誘いに、頷く。

「パンと… あとスープ… 酒はどうする?」
「馬できているからな、酔うとよくない。一杯だけいただこう」
改めて、再会を祝して杯を上げ、グレイグが今朝焼いたというパンを手に取った。これがあのとき、食べ損ねた
パンかと思うと感慨深い。指先で千切り、口に入れる。
「うまい。いい、香りだ」
「そうか、よかった」
「ああ、心の底から休暇をもらってよかったと思える味だ」
「それは光栄だな」

働いたあとの食事というのはいつも美味しいものだが、グレイグと食べるそれはとびきりだと思った。
私は満たされた気分で食事を終えると、テーブルの上にペンダントの入った箱をふたつ並べた。
箱の蓋を取って、中を見せる。グレイグが覗きこんで、言った。
「これは?」
「これは…」
私は、王からこれを受け取った経緯を話した。そして最後に、
「私はこれを、グレイグに持っていてほしい」
「ホメロス、」
「友情の、証として」

私は箱をひとつ、グレイグの前に押しやる。グレイグは少しぎこちなく、ペンダントを手にする。
しばらく、双頭の鷲の紋章をじっと眺めた後、彼はそれを、身につけた。

「ありがとう、生涯、大切にする」
グレイグは、胸の上のペンダントにそっと自分の手を重ねた。
「よかった、ありがとうグレイグ、私も嬉しい」
お前にこれを受け取ってもらえて、と、グレイグと同じその鎖に、私も首を通した。

私を見るグレイグの胸のペンダントがきらりと輝く。開け放した窓から西日が射しこんでいる。もう少ししたら、
海に日が、沈むのだろう。
「そろそろ日没だな… 名残惜しいが、行かなくては…」
「ああ」
「食事、ありがとう。美味しかった」
「また、きてくれるか?」
「ああ、今回のような機会があれば、必ず」
「そうか… わかった、待っている」
グレイグはそう言って、静かに微笑んだ。各国へ結婚の挨拶を終えたら姫たちは国のことにかかりきりになる。
今回のように供として他国を訪れる機会は当分ないだろう。グレイグもそれを察しているのか、次はいつだとは
聞かなかった。

私が席を立つとグレイグが扉を開けてくれたので、ありがとう、と外に出ようとすると、あ、ホメロス、と呼ばれる。
なんだろうと振り向いたそのとき、
「あ、」
足元の、窪みか小石にでも蹴躓いたのだろうか。ぐらりと体がよろめいた。
「ホメロス!」
グレイグの腕が私の体にまわって、支え、強く引き寄せる。
「あ…」
グレイグの顔がすぐ近くにある。見上げている。腕の力が強い。びくともしない。あたたかい。ほっとする。
気持ちいい、心地いい、これが自然なことだと思える。ずっと、このまま、こうして、グレイグと、

もう、離れたくない。

ふっと、グレイグの顔に暗い影が差した。表情が曇った。違う。そうじゃない。日が、落ちたのだ。
「…名残惜しいが、」
グレイグが一度、私を抱く腕に力を込める。それから、ゆっくりと、その力を緩める。私の体は、グレイグから
離れた。
「マルティナ様がお前をお待ちだ」
「グレイグ…」
ああ、そうだ、その通りだ。私は、帰らないと。
「マルティナ様に… デルカダール王に、ホメロスをお返ししなくてはな… 馬を連れてくる、待っててくれ」
そう、先ほどは馬は俺がと言おうとしてお前に怖い思いをさせた、すまなかったな、とグレイグが苦笑する。
「あ、いや、ありがとう…」
怖い?そんなことはない。むしろ、逆だというのに。

空が、薄紫からだんだんと深い青に変わっていく。そしてじき、暗くなるだろう。馬上から、別れを告げる。
「じゃあ、グレイグ… 本当に、世話になった。ありがとう」
ううん、と、グレイグが首を横に振る。
「俺のほうこそ、いろいろとよくしてもらって… 本当に感謝している。このペンダントは、大切にするよ」
「ありがとう、そう言ってもらうと、嬉しいよ」
ホメロスも、と、グレイグは私の胸元を指さした。
「ホメロスもそれを見るとき、いつも思い出してほしい。ここバンデルフォンに、お前を思う友がいることを」
「ああ、必ず」
「では、道中気をつけていくんだぞ… 元気でな」
「グレイグも、元気で」
手紙を送るよと手を振るグレイグに私も手を上げて答えながら、私は、この広い小麦畑をあとにした。

バンデルフォンからの帰りの船の中、残りふたつの訪問先のクレイモランとサマディーでも供を務めよと姫から
命を受ける。
ならば次の訪問先へ旅立つ前に、デルカダール国内でなければできない仕事を終わらせておかねば。少々
気忙しい毎日が続く。夜、私室に戻って机の上にグレイグからの手紙が置いてあるとほっとする。
書いてあることといったら、小麦の収穫が無事に終わったとか最近は涼しくなったとか、王子はそちらでお元気
だろうかとか、他愛のないことばかりで、私も読んだら短い返事を書いた。
クレイモランとサマディーの訪問後は、そこで買った土産を送ったりもした。どちらも、グレイグから丁寧な礼状が
きた。律儀なやつだ。

手紙のやりとりだけでは寂しく物足りない悲しい気持ちになるかと思ったが、マルティナ様や王子を通じて
かなり頻繁にあちらは暑いとか寒いとか、このような行事が執り行われた等といったバンデルフォンの様子は
伝わってくるし、グレイグはグレイグであの奥方を通じてデルカダールのことをいくらかは把握しているフシが
あるので、国と国との距離が遠く離れているわりには、気持ちとしてはあまり離れている気がしなかった。

グレイグはときどき自分で描いた絵も同封してくる。四季折々の木々、花、収穫した果物、馬。夕日だったり
山だったり、海、城近くを流れる川、滝などのこともあった。
デルカダールはだいたいが荒涼とした山間部か、緑があってもわざわざそこに立ち入ろうとは思わない密林
なので、彼の絵はいつも私の心をなごませてくれた。私はいつも美しいありがとうと返事に書いた。

小麦栽培のことについて意見を聞かれることもあった。私は念のため王の許しをもらった後、意見を述べた。
なぜなら私の知識は国費を投じて得られたものだから。以前、王とグレイグの話になったときペンダントのことは
打ち明けており、王は相手がグレイグならばと快く許してくれた。バンデルフォンの王族と縁戚になった今、かの
国の繁栄はデルカダールのそれに等しい、お前が役に立ちそうだと思ったことなら教えるといい、とも。
しかし、確かに私はクレイモランで小麦その他食用にできる植物のことはひと通り学んできたが、痩せた土地の
デルカダールで効果のあることが肥沃なバンデルフォンでも同じ結果になるかどうか。
その点が少し気になったが、そう前置きした上で私が書き送ったことへのグレイグの反応は悪くなかった。山の
ほうまで畑を増やすつもりなのだろうか。

それから、あの斧だが、デルカダールから贈られた立派な斧を見てみたいとバンデルフォンだけではなく、遠く
ユグノアやグロッタからもかなりの頻度で人が訪ねてくるようになったのでグレイグはあれを城に預けたという。
そうだな、グレイグは畑仕事で家にいないことも多いだろうし、そのほうがいいのかもしれない。

そんな手紙のやりとりを始めて、四年の月日が経とうとしていた。

グレイグと手紙のやりとりをするのは楽しかった。しかし、私はグレイグにあのペンダントを渡したときから、
私の中の私を形作っているものの何かが、決定的に欠けているような気がしてならなかった。
不快な気持ちではない、ただ、何か大きくて、重要で、強烈な何かが、ごそりとない。そしてそれを、必要とも
取り戻したいとも思わない。ない、ただそれだけ。
それは、グレイグという友に出会って満たされた一方、その友に自由に会うことができない、という不満が
私にはあって、そこからくるものなのかと思ったが、それとはどうも、違う気がする。

この気持ちはなんだろう。グレイグと出会って、もっと、こう、何か、私を強く揺さぶるような、変化させるような、
どうしようもなく抗えない何か、そういう気持ちを私は獲得しなければ、獲得しているはずだという気がして。

しかしその何かがなんなのか、私は知らなくていいような、知ってはいけないような気も、するのだ。とても強く。

なんだかはっきりしない、自分で自分にきちんと言葉で説明できない、そんな気持ちを心の内に、ただ、抱えた
まま。
四年が過ぎ、私もグレイグもその年の誕生日を迎え、互いに三十六になったのを祝い合った。その、少し後。

グレイグは今まで一度も言わなかった、ホメロスに会いたい、という言葉を手紙に書いてよこした。

私はそれを見て具合でも悪いのかと心配になったが、そうではないという。困らせて悪かった、とも。
「私だって…」
私だってグレイグに会いたい。だが、グレイグが小麦畑を放ってここにこられないように、私だって王や姫たちを
放ってバンデルフォンには行けない。
また何か、供としてバンデルフォンを訪れるようなことがあれば。しかしマルティナ様は今臨月で、子を連れて
義理の両親に会いに行くとしてもあと数年は先だろう。
どうしたものかと思案していたとき、ふと。
ふと私は、グレイグと出会ってから四年あまりずっと感じていたあの気持ちがきれいさっぱり消えてなくなって
いることに気づいた。あの感覚、もう思い出せない。まるで、そこだけ死に絶えてしまったかのように。

数日後、仕事を終えて私室に戻るとグレイグからの手紙がきていた。鎧を外すのも後まわしに急いで開封すると
そこには以前と変わらない調子で、もうすぐ収穫の季節です、収穫の頃になるとホメロスと初めて出会った時の
ことを思い出します、と。
嫌な兵士長から逃れたくて行った倉庫で出会った海のように美しい目を持つ男、私を危機一髪のところで救って
くれた男、こっそり用意した衣装が驚くほどよく似合って立派だったこと、差し出した手を握ってくれたこと、ずっと
誰にも渡す気になれなかったあのペンダントを受け取ってくれたこと… 懐かしくて愛おしい大事な思い出だ。
そのとき、便箋を持つ指先に僅かにざらりと違和感を覚え、私は紙をひっくり返して裏を見た。そこには小さく、

本当はあのとき帰したくなかった

グレイグと最後に会ったあのとき。私を姫と王にお返しせねばとグレイグが言った、あのとき。
私の目から、グレイグが手を握ってくれたときのようにはたはたと涙が零れ落ちた。
私だって、あのとき、離れたくなかった。
グレイグの、隣りにいたい。私はグレイグの隣りにいたい。

グレイグと出会ってからずっと心の内にあった、私を強く揺さぶる、私を変化させる、どうしようもなく抗えない
何か、ずっとわからなかったそれはきっと、これだったのだ。

手紙を置いて、王を探す。玉座の間においでですというので、私はそこに向かった。
王、お話が、と言うと、私の表情に何か察するものがあったのか、王は人払いをした。部屋に私とモーゼフ様、
ふたりだけになる。私は片膝をつき、恭しく頭を下げた。
「本日をもって、私は、デルカダールの将軍の職を辞したいと思います」
「なにゆえ…、いや、」
王は少しだけ考えて、言った。
「バンデルフォンへ… 友のところへ、行くのだな?」
「はい」
「そうか…」
「どうかお許しください、モーゼフ様… 実の息子のようによくしてくださったのに…」
嗚咽を堪えられない。言葉に詰まる私の背中を、モーゼフ様は優しく抱いた。
「なんとなく、わかっていた… いつか、こんな日がくるだろうと」
「モーゼフ様…」
「もっと早くに、送り出してやればよかったな」
見上げたモーゼフ様の目にも、光るものが浮かんでいた。私はなんて、幸せ者なんだろう。
「今までご苦労だった、ありがとう将軍。お前が城にきた日から私はお前のことを息子のように思っているし、
それはこれからも変わらぬ。さあ、ホメロス、行きなさい」
「ありがとうございます」
私たちはもう一度、互いに互いを強く抱きしめた。

玉座の間を出ると、父親に用があるのか大きな腹部が重そうなマルティナ様とばったり出会った。
口を開きかけた私に、すっと片手をあげ、わかっているというようににこりと微笑んで遮る。

「行くのね、バンデルフォンへ」
「はい」
「あなたの幸せを、祈ってるわ」
「私も、マルティナ様とそのご家族の幸福を、ずっと…!」

旅立ちの準備は手早く。デルカダールの白い鎧を脱ぎ捨てシャツとズボン、上から頑丈なチュニック、帯剣の
ためのベルト。当座いりそうな着替えと片道の船賃、あとグレイグからの手紙、ぜんぶ。大きなトランクひとつと
肩かけ鞄ひとつに納める。
部屋を出ると見張りの兵士がぎょっと私を見た。
「私はもう将軍ではない、明日、王がみなに知らせてくれるだろう。さようなら、ありがとう」
城を出て城下町を走り抜け城門をくぐるともう闇夜だ、私は魔法で宙に火球を浮かべた。旅人のために放牧
している馬に飛び乗り馬で行けるところまで馬で行く。王族が利用するデルカコスタからの航路はもうただの
人になった自分には使えないのでソルティコへ。イシの村に繋がる洞窟を抜け、ナプガーナ密林の蔓や枝を
切り払いながら夜通し進む。少しずつ闇が薄まる中、ソルティアナ海岸を左に見ながら花畑を駆けた。
朝を待ち、ソルティコからまず貿易港ダーハルーネまで、そこでバンデルフォン行きの船に乗り換え泥のように
眠る。起きる、食べる、寝る、時間が止まっているようにもどかしい、船の上が永遠だとすら思えてくる。
バンデルフォンに着く、もう午後、城下町へ向かう馬車の出発を待つ時間が惜しい、走り出す、雲がぶ厚い空が
暗い、ぱたぱたと雨粒が落ちてくる、粒が大きくなる、顔を叩く、頭が重い、体が重い、初めてバンデルフォンに
きたときに通ったこの、両側に小麦の黄金の海が広がる道をひた走る。
雲が切れる、日が射す、海面が金に輝く、小麦が輝く、道を曲がる、扉を開ける、グレイグ、

「きたぞ、歓迎してくれ」

テーブルで何かの野菜の皮を剥いていたグレイグは目と口をまんまるに開いた。そして立ち上がると、

「ああ、歓迎する」

そう言ってずぶ濡れの私を抱きしめた。

ああ、やっと、やっと在るべき場所に私は在る、と、思えた。

濡れた服を着替え、夕食を食べさせてもらってベッドも貸してもらった。長旅疲れただろうと。私はありがたく
その親切を受け、もう脱ぐのすら億劫だったので服を着たまま潜りこむ。
ちょうど明日から収穫を始めようと思っていたところだ、ふたりなら明日のぶんの仕事も早く終わるだろう、
終わったらホメロスのための物をいろいろ調達しに行こう、とグレイグは嬉しそうに笑い、床に敷いたぶ厚い
毛布の上に大きな体を横たえた。

その夜、私は、誰かがさ迷い歩いている夢を見た…

ホメロス、と肩を揺さぶられて、目を開ける。まだ、薄暗い。
「…どうしたんだ…、グレイグ…」
「まだ寝ているところ、すまないな。お前に見せたいものがあって」
目の前のグレイグの顔は、なんだか楽しそうだ。
「なにを…?」
「いいから、外に行こう」
「うん…」
私は手櫛で髪をまとめて結うと、グレイグの後から外に出た。

「どうだ、これ、きれいだろう?」
目の前に広がる畑のあちらこちらに、ぼうっと、白い明かりのようなものが灯っているのが見える。
夜明け前、その不思議な光は、幻想的で、とてもきれいだ。
「ああ、そうだな…」
「目が覚めたので外の空気を吸いに出たらな、あちこちで光っていて… 夜が明けたらきっと光は見えにくく
なるだろうから今のうちにホメロスにも、と… あ、ほら、ここにも… このきれいな模様、誰が描いてくれたん
だろうな」
グレイグが地面を指さす。模様?私はてっきり、光を放つ虫か何かの類いかと…
近寄ってしゃがんで見る。これは…
「グレイグ、これはきれいな飾りなんかじゃない、魔法陣だ、危険なものだ」
「ええ!?」
即座に靴の裏で踏み消す。
「こうやって一部でも消せば術は発動しない。何があるかわからないから素手では触るな」
この魔法陣、古代図書館で見た。しかし本は不完全な状態で使用に至るまでの知識を得ることはできなかった
はずだ。どこかに完全なものが残っていたのか、断片的な情報から推測し完成させたのか、それとも、実際に
それが使われていた古代から生き残っている魔物の仕業か。
いずれにしても放っておいていいものではない。
「周囲の様子を探りながら説明する」
私は立ち上がりぐるりと辺りを見回した。見渡す限りいたるところにある。土が乾くのを待ち、誰にも見られない
ように人の寝静まった夜中に描く、土地の広さからして、おそらくつい先ほどまで畑の周辺にいたはずだ。
港に近い畑から描き始めて城の方へと描き進め、そのままユグノアもしくはグロッタ方面まで逃げていたらもう
捕らえられまい。しかしこれが魔物の仕業ならば…
私は、山のほうに歩いた。グレイグもついてくる。
「この魔法陣は発動すると火を噴く。しかしこれだけでは発動しない。術者が、自分の血を使って発動させる
ための魔法陣をまた別に描かなければならない。これだけの数の魔法陣がいっせいに火を噴いたら山と海に
挟まれたこの平野では逃げ場がない、術者は自身の安全を確保するため離れた場所に行く必要がある。そう、
たとえばあの山とか」

「あっ!」
グレイグが声を上げる。いた。山沿いに、ふわふわと空を飛ぶ人影が見える。人が空を飛ぶわけがないから
あれは魔物と見ていい。思った通りだ。魔物なら、畑や人が燃える地獄を近くで見たいに違いないからな!
魔物の移動速度は遅く、かなり魔力を消耗しているようだ。もともと大した使い手ではないのか、それとも、
よほど広範囲に魔法陣を描いているのか。
前者ならいいが、こういうときはより悪い事態が起こっていると想定して動いたほうがいい。あいつが囮である
可能性もある。しかし、魔法陣を消しながら逃げるにせよ、とにかく今ここで潰せそうな敵の手はすべて潰す!

「グレイグ」
「あっ、ああ」
「術者はおそらくあいつだ。今から私の魔法をぶつけて落とす」
私は自分の左肩をぽんぽんと叩いて見せながら足早にグレイグから離れた。
「お前は奴の方を向いて、しゃがんで、立って、肩で私を上に飛ばしてくれ!行くぞ!」
グレイグはぐっと頷くと私に背を向けた。駆け出し、しゃがんでもなお高さのある肩にひらりと飛び乗る。今だ、
立て、と思った瞬間、グレイグは立ち上がるだけでなく飛んだ。
「わっ!」
高い。高いのはいい。狙いやすい。しかしこのまま着地するとケガをする。ところがちょうど私が落下するだろうと
思われる場所に干し草の山。なるほど、考えたなグレイグ!
「ドルマ!」
狙いは背中、肩甲骨の辺り。万一仕留め損なってもそこをやられたら魔法陣を描くのは辛かろう。暗い光が
空を裂き、魔物の背中に当たる。しかし遠すぎて落とすまでには至らなかった。チッ。私はくるりと一回転して
背中から草の上に落下しながら叫んだ。

「リタリフォンを!」

ぼすりと草の山に落ち、跳ね返る勢いでころんころんと転がり落ちる。地面に手をついて素早く立ち上がると
家の中に飛びこみ剣をつけたベルトと手袋をひっ掴んで外に出る。
腰に剣を携え両手に手袋をはめたところでグレイグが馬具を着けたリタリフォンを連れてきた。
「落とせなかった。今から追う。借りるぞ」
馬に乗り、短く言う。
「できるだけたくさんの人を起こして魔法陣を壊しながらなるべく風上を通って城のほうに逃げろ。頼んだぞ。
術者を倒したらその印として魔法で火球を上げる」
「わかった」
「グレイグ、私はお前と死ぬまで一緒に小麦を作るためにここにきた。デルカダールに、出戻らせるなよ!」
リタリフォンが駆け出す。起きろと叫ぶグレイグの声が大きいと思った次の瞬間にはもう彼の声が聞こえなく
なった。この馬、風のように速い。
山裾の林を迂回しようと手綱を引いた。すると、まるで大丈夫だ任せろとでも言うように私の手綱捌きには
従わず、リタリフォンが林の中に突っこむ。
「っ!」
これは、すごい。障害物の中、何もない野原を一直線に駆けるのと変わらない速さでリタリフォンは進む。
木も枝も、土の中から出ている根も、すべてわかっているようだ。私はただ、じっとしているだけでいいなんて。

古代図書館で見た古い古い魔法書。魔法陣を発動させるための血の魔法陣が描かれたページがなかった。
だからその魔法陣がどういうものか私にはわからない。
どうか少しでも描くのに時間のかかる複雑なものであってくれ、グレイグが少しでも遠くまで逃げられるように。
リタリフォンの背に揺られながら、私は祈った。

木々の群れが後ろに飛び去る。林から踊り出た。山を見上げる。見つけた、斜面すれすれの高さでゆっくりと
飛びながら北に移動している。そういえばこの先には滝があったな。そこまで行くつもりか。風向きによっては
山の上でも危ない。水の近くならより安全だということか。

近くで見る魔物は、人の形をした、影のような姿をしていた。実体があるのかもわからない。
黒い、霧、影、あるいは念… 強い怨念のようなもの… 神話の時代から残る、強い何か…

そうだ、あの姿、夢の中で…!くそっ、過ぎたことを言っても仕方ないが、あのとき目を覚ましていれば!
見覚えがあるといえば、魔物が手にしている杖にも見覚えがある。どこで見たのだったか… 思い出せない。
大事なことだったような、気がするのに!
しかし今は考え事をしている場合ではない。滝の向こうに行かれたら、こちらは川を渡るため橋を探しに大きく
遠回りすることを余儀なくされる。それは避けたい。

「リタリフォン、あいつにもう一度ドルマを当てる。並んで、同じ速さで走ってくれ」
リタリフォンはすぐぴたりと位置を合わせた。いいぞ。
「ドルマ!」
当たった!魔物はふらふらと高度を下げ、とうとう斜面に着地せざるを得なくなった。あとは、魔法陣を描くのを
阻止するか、黒幕がどこにいるか吐かせるだけだ!

「止まれリタリフォン、お前に山は登れまい」
降りて顔を見ると、ひん、とリタリフォンは不服そうに首を振った。まだ行けると言いたげだ。
しかし、この馬にケガをさせたらグレイグに申し訳が立たない。
「私なら大丈夫だ。ありがとう。さあ、戻ってグレイグを助けてやってくれ」
首筋を軽く叩く。リタリフォンはひとつ、高くいななくと走って行った。私も岩山を見上げる。国土の多くが急峻な
山間部であるデルカダールの兵を舐めるな。

岩山をよじ登り、滝の源泉、湧き水のほとりで魔物を見つけた。こちらに背を向けて、地面に伏している。
魔法陣を描いているのか。こちらを見ていないならちょうどいい、背中からまっぷたつにしてやる。

静かに剣を振りかぶったとき、魔物がぴくと動いた。振り向きざまに私を杖で薙ぎ払おうとするのを、後ろに
飛んで寸でのところでかわす。気づいて誘っていたのか、頭のいい奴だ。
魔物がこちらを向いたことで魔法陣が見える。模様は複雑で、まだ三分の一も描けていないようだ。
けれど私が完成形を知らない以上、楽観はできない。どうにかして隙を作りたいが…
私は剣を鞘に納めた。

「あのような古代の魔法陣を知り使うあなたは、さぞかし長命の、名のある存在かと思うが、いかがか」

問われた魔物の口が、まるで耳まで裂けたようになる。笑っているのか、あれは。褒められるのが好きな
ようだな。後ろ手に、気づかれないように少しずつ少しずつ魔力を溜める。

「あなたのような力のある存在が、このちっぽけな人間たちに何をしようというのです?」

持ち上げられて機嫌がよくなったのか、魔物はべらべらと喋った。小麦を焼けば、人は飢えて死ぬ。その骸を
魔物が食べる、すると魔物は強くなり、魔物が世界を統べるだろう、と。
それは困る。

「そんな恐ろしいことをなさるのは、どうか許していただけませんか。あなたはもう、十分立派だ」

魔物が不満げに唸ったのを合図に、私はドルマを放ち、相手が怯んだところを一気に切りかかった。
「ならばここで消えてもらう!」
しかし敵もさるもの、こちらの剣は杖で受けられ、なかなか相手に致命傷を与えられない。まずい、力のない
私は長びくほど不利になってしまう。
弱気を見抜かれたのか、魔物がひときわ強く杖を振る。私の体は飛ばされ、そして振った杖の先にはバギの
魔力が込められていたらしくあちこちの皮膚が裂けた。

「くっ…」
立ち上がった胸元に光を感じてそこを見ると、破れた服からあのペンダントが覗いている。
グレイグ… なんとしても私はグレイグの元に帰らねば…!

剣を構え直すと、なぜか魔物がにたりと笑った。私は何も賞賛の言葉を口にしていないぞ。どうした?
魔物の体がぐずりと崩れ、ぐちゃぐちゃと近寄ってきて私を掴もうと手を伸ばす。あまりの薄気味悪さに私は
必死で剣を振った。魔物の両腕が落ちる。それでもなお、魔物は私に近づいてこようとした。
私は剣を横に持ち、腕のない魔物の胴を押し止める。

「くそっ…!なんだ…!」
「デルカダールの… 双頭の… わし…」
このペンダントのことか?これがいったい、どうしたのいうのだ。
「お前… 見逃してくれたら… お前を魔物の王にしてやろう… お前をこの世で、一番にしてやろう…」
何を言い出すかと思ったら、そんなくだらない甘言に私がのると思うのか!
「そんなもの、要らぬ!」
私は一度剣を胸に引き寄せ、それから思いきり押した。魔物がよろけたところにドルマを食らわせる。魔物は
後ろに倒れた。

これまでの…

これまでのすべてを投げうってでも生涯隣りにいたいと思う友がいて、王に本当の息子のように送り出して
もらって、姫に子どもができて、これから友と一緒に小麦を作ることでかつて仕えたその王と姫と家族を遠く
離れてなお支えることができて、それ以上、何を望むことがある?

「一番に… お前を… 世界の…」
両腕のない魔物はひっくり返ったまま起き上がれず、じたばたとまだ繰り返す。
「うるさい、消えろ」
ひと突きに息の根を止めてやろうと、一歩、
「うわっ!」
近づいた瞬間、魔物が口から火を噴いた。かろうじて直撃は免れたが、髪が、
私は結び目に刃を当て、燃えるそれを切り落とした。
「私の髪を、よくも…!」
「世界… 滅ぼす… 世界… お前のもの…」
「うるさい!」
ドルマで魔物の口を潰す。魔力はもう空だ。次でケリをつけてやる。
「世界をもらってもその世界に世界より大事な友がいないのでは話にならん!」
今度こそ、今度こそ魔物の心臓に深々と剣を突き刺す。
魔物の体はどろりと液体のように溶け、霧になって消えた。奴の血で描いた魔法陣も、同様に。

「ウルノーガ…」

黒い瘴気が晴れたとき、ふと口をついて出た言葉。なんの事だろう。考えても、私にはもうわからなかった。

魔力は底をつき、印の火球も上げられない。グレイグが心配しているだろう。早く、戻らなければ。
杖も持っていこう。何かの手がかりになるかもしれない。

転がり落ちるように山を降り、斜面に背中を預けたまま動けないでいたそのとき。
「ホメロス!」
声が。目をそちらに向ける。ああ、リタリフォンが、グレイグを連れてきてくれたのか。
「大丈夫か!ホメロス!」
グレイグが駆け寄って膝をつき、私の肩を抱きかかえる。ああ、また会えてよかった。
「グレイグ…」
「血が…」
「浅い、大丈夫だ… それより、城お抱えの術士に伝えてほしい、クレイモラン、古代図書館の閲覧不可の書を
誰かが見た疑いあり、と…」
グレイグが神妙な顔で頷く。頼むぞ、他にもあの魔物の仲間がいたらたまらんからな。
「あと、この杖も… あ、」
「どうした?」
「そうだ、これ… ウラノスの…」
思い出した。これはウラノスの杖。あの魔物、神話の時代の大魔法使いの杖を盗んで悪さをしていたのか…
バチ当たりめ…
「この杖も、一緒に、渡してくれ… 渡せばたぶん、わかる」
「わかった」
取り急ぎ伝えることはこれくらいか… もう、目を開けていられない…
「ホメロス、髪が…」
ああ…
「燃えてしまって… 切るしかなかった… すまない… せっかくお前が褒めてくれたのにな…」
「いいんだ… お前が生きていてくれるだけで、十分だ…」
「ありがとう… まあ、髪はまた、伸びるさ…」

だめだ… もう… 意識が…

私が意識を失った後、ここからなら城の方が近いとグレイグは私を城に担ぎこんだ。話によると私は丸二日間
眠りこけ、その間、城お抱えの術士たちが畑の安全を確認、逃げた人たちはみな自分の家に戻り収穫作業に
入ったという。
私が目を覚ましてすぐ、バンデルフォンの王がやってきて言った。もう将軍ではないことはわかっているが、
どうかこの国の兵士と共に魔物が消えた滝の上の調査と、クレイモランへの報告に行ってくれないかと。
事態を最も把握しているのが私となればそれも致し方あるまい。
私は城に留め置かれたまま調査をし、もうあの場所には何も問題がないことを確認し、その後、杖を携え
クレイモランに向かう。手伝おうと思っていた小麦の収穫は結局グレイグひとりにさせてしまった。
古代図書館では閲覧不可の書を収めている書庫に不審な者の侵入の形跡はなく、魔物の形状から考えて
古代の魔物の念や気、あるいは思いのようなものが残っていたんだろうという結論になった。
ウラノスの杖、もともとどこにあったものなのか。調べてみると、勇者ローシュと大魔法使いウラノスが友情を
誓った地、ドゥルダにひっそりと受け継がれ、保管されていたらしい。これはクレイモランの学者が届けると
約束してくれた。
クレイモランから戻ると今度は城でバンデルフォンの小麦を守った私の活躍を称える宴が友グレイグも招いて
昼間から盛大に行われ、やっとグレイグの家に戻れるとなったのは春まき小麦の収穫も間近な夏の終わりの
夕方だ。

家まで送ります、という馬車を集落の中心部までで断って、私とグレイグは着飾った格好のまま、ゆっくりと
歩いて帰る。
「私はもう将軍ではないのに… こんな格好をしていると、まるでふたりともどこかの国の将軍みたいだな」
ははは、と、グレイグが大きく口を開けて笑う。

海から風が吹き、ざあ、と、実った小麦を揺らす。夕日に照らされて、穂が、黄金に輝く。

「ホメロス」
「なんだ?」
「俺は子どものころ、親が死んだとき、なんでも話せる同じ年の友達がいたらどれほど救われただろうと思った。
ホメロスと初めて会ったとき、ああ俺が子どものころほしかった友達は、きっとこういう人だと思った。こんなに
美しくて賢い友達がそばにいてくれたらどんなに心強かっただろうと。心を明るく照らしてくれただろうと。
ホメロス、お前は今でも、俺の光だ」





(17/12/12)

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