青い空いっぱいに、白い雲がぽこぽこいくつも浮かび、流れていく。
その、雲のあいだからさす太陽のひかりに、揺れている木の、葉や、草が、ときどききらりと光る。

ああ、きれいだ。
なにか、今日は、いいことが、ありそうな。

そんなふうに思いながら、ぼくは、学校の、大きな石づくりの門を急ぎ足でくぐった。

最初の棟を通りぬけ、中庭を四角くかこむ回廊にきたとき、
ふと…
なにか 予感 のようなものに ふわり と 心が からだが 浮きあがるような
足元から ふ と 風が吹いて 髪が ふわり と 浮きあがるような
なんだか そんなきもちがして
だからぼくは そのまま 予感のような もの 風のような もの に 浮かされるまま に

目を
あげた

向こうの回廊をこちらに向かって歩いてくる、ひと。
三人いる。
突き刺さりそうにとんがった、高いかかとの靴、ぴっちり髪をひっつめた女の人、担任の先生。
おとなの、男の人。
そして、すこし下のほうをむいた、ぼくと同じ、制服を着た、同じ年、くらいの、男、の子、

…その、男の子の、

黒い髪、黒いひとみ。
キリ、と、綺麗につりあがった目、触れたらすべすべで、やわらかそうな、ほお。
悲しそうにひき結ばれたくち、寂しそうに寄せられた、まゆ。

…ぼくは、じぶんの、めも、みみも、こころも、なにもかもぜんぶが、
ぼくのぜんぶが、
その、男の子のほうに、強く、強く強く、強く、ひきよせられた気がした。

あの子は………


「おーい、キース!」

ぼくは、はっ、と声のしたほうを振り返った。
クラスメートが、たたたと駆けてくる。

「キース!どうしたのさ!?つっ立って!?」
「…え…、あ、うん」
「?」

ぼくの、答えになっていない答えに、クラスメートは不思議そうに首をかたむけた。

「あ…、せん、せいが…」
「先生?」
「ああ、うん。先生が、あっちに」

そう言って、ぼくは、さっきじぶんが入ってきた、校門のほうを、指さした。

…いない。
校舎の中に入ってしまったのか、それとも…
学校の外に出て行ってしまったのか。
あの男の子も、先生も、大人の人も、もう、誰の姿も見えなくなっていた。

「先生あっちに行ったの?」
「うん」
「もうすぐ授業なのに、なにか用事かな?やった、自習になるかも!」
クラスメートがにししと笑う。
ぼくも、それに合わせて、同じ表情を作った。けど、同じ表情をしていても、同じことを考えてはいなかった。

あの子は誰だろう。
また、会いたい。
同じ制服を着ていた。同じ学校のはずだ。
学年は?どのクラスなんだろう。どこに行けば会えるんだろう。

「キース?」
「えっ?」
「おまえ、さっきからなんかヘンだぜ?」
「そ、んなことは、ないよ」
「そうか?まあいいや!行こ!」
「うん!」

クラスメートが走り出す。彼がぼくに背中を向けたそのとたん、また、
じぶんの中があの男の子のことでいっぱいになった。





またあの子に会いたいというぼくの願いは、それから十五分後に叶った。
先生のあとからとぼとぼと、あの子がさっきと同じ表情で教室に入ってきたときの驚きといったら。

転校生だったんだ。
そうか。よかった。しかも同じクラスだなんて。
うれしい。うれしい!

教室の中が、突然入ってきた知らない男の子にざわざわと音を立てる。
静かにしなさい、と、先生の怖い声。
そのときなぜかあの子が、びくりと肩を震わせ、おびえた表情で、先生のほうを見た。

言葉が…、わからないんだ。

どうしよう、ぼくも、英語しか喋れない。
自分が叱られたのかもと不安になっているあの子に、
だいじょうぶ、キミが叱られたわけじゃない、だからそんな顔しないで、安心して、
と、言ってあげたくても、
ぼくは、伝えられないんだ。どうしよう。どうすればいいんだ。

ちゃんということを聞いて静かになったみんなに、先生は黙ってひとつ、頷くと、
まだ、心細そうに先生を見上げているあの子のほうはぜんぜん見ないで、ぼくたちに向かって話し出した。

彼の名前は、リン・シウ、イギリス人の私たちとは違い、リンが姓で、シウが名前です、
遠く、中国という国からきました、今日から皆さんと一緒に勉強をします、

と、先生は、嬉しくも楽しくもないような調子でそう言って、そこで初めてあの子の…
リン・シウ、のほうを見下ろした。
そのときシウが…
いいよねだってぼくはキミのことなまえでよびたい
シウがまた、びくりと顔をこわばらせる。

なにか挨拶を、と、先生はシウに言った。
シウは、小さくくちびるをふるわせながら、なにも、言えずにいた。
ひどい。
シウはきっと英語がほとんどわからないのに、英語で言うなんて。

先生が、ゆっくりとぼくたちのほうを見た。
その先生を見てシウもぼくたちのほうを見た。
先生はシウが教室の中を見ていることを横目でちらとたしかめると、シウに、ゆっくり、なまえ、と言った。

その声に、先生を見上げたシウが、あっ、となにかに気がついたような顔になる。
シウは、こちらのほうを向いて… ああ、でもすぐに下を向いてしまった。
みんなもそう思ったのか、教室の中から小さく、あ、という声があがる。
シウは、だから下を向いてないで、言われたなまえを言わなきゃと思ったんだろう、ほおを赤くしながら、顔を
あげ、そして、
なに、か、を、喋った。

英語?の、ようなもの?
よくわからない言葉の中、その中になんとか、リン・シウ、と彼の名前がふくまれているのは、わかった。
のこりは…
英語?中国、語? わからなかった。

教室の中がしんとなる。シウはまた、下を向いた。

先生がシウの肩を叩き、教室のうしろの… すみを指さした。
そこには、いつの間にか机が運びこまれていて、先生はシウに、あそこに座りなさいと言った。
シウは、下を向いたままなにも言わずそこまで行き、静かに椅子をひくと、腰をおろした。
先生が、めんどうくさそうに、ふん、と、鼻でため息をついたのが、ぼくはなんだかとても頭にきた。

シウの席は、廊下がわの、いちばんうしろの席。
となりには誰もいない、ひとりだけ、ぽつんと、はみ出した席。
ぼくは、窓ぎわの、うしろから二番目。
シウとは、だいぶ離れている。
シウは、泣きそうな顔をしていた。

…シウ。

ぼくは中国語がわからない、シウは英語がわからない。
シウ、リン。シウ。
それはぼくの耳にとてもきもちいい、すてきな響きの名前だと思った。
シウ。
この名前をぼくが呼んだら、シウは笑ってくれるだろうか。
ほかに、なにひとつシウにわかる言葉をぼくがシウに言うことができなくても、

愛をこめて
シウの目をじっと見つめ
ぎゅっと強く両手で彼の両手をにぎり

『シウ』

と、名前を呼んだら。ぼくはシウと友達になりたいんだってこと、ちゃんと、シウに伝わるだろうか。





だけどぼくは、それを一回も実行することができなかった。
授業が終わって休み時間になるたびに、先生が、シウの机まで行き、どこかへ連れて行ってしまうのだ。

シウの姿が見えなくなるたび、聞こえてきたクラスメートたちのこんな話し声。

『いないな、アイツ』
『先生が、学校の中の案内とかしてんじゃないの?ほら、アイツ言葉わかんないみたいだし』
『でもさ…』
『先生、キライじゃん、ほら、アイツみたいな…』
『……人』
『…アイツ、いびられてなきゃいいけどな』



………。

シウ…


今日の、最後の授業が終わったあとも、先生がまっすぐシウの机へと向かう。
シウは急いで椅子から立つと、カバンを手に取った。

ってことは、もう、今日、シウはこの教室には戻ってこないんだろう。
そう思ったら、口が、勝手に動いていた。

「シウ」

えっ

どうしよう、ここでこんなふうに名前を言うつもりなんてなかったのに。
なかったから、中途半端な、呼んでるのか、呼んでないのか、よくわからない、大きくも小さくもない、独り言
みたいな。

でも、シウは、立ち止まった。
立ち止まって、じぶんを呼ぶ声を探すように、くる、と首を動かした。

「シウ」
ぼくは今度ははっきりと、シウの名前を呼んだ。
シウが気がつく、
気づいて、ぼくを見る、
だから、

「シウ、また、明日」
「また、明日ね」

大きな声で、はっきりと、ぼくは言った。
だってぼくは、また明日もシウに会いたい。

シウは、目を大きくみひらいて、小さく息を飲んだ。
クラスメートたちが、うかがうように、ぼくとシウをかわるがわるに見る、なにも言わず、黙って。
シウは…
シウは、きゅっとまゆを寄せ、すごく困ったような顔でぼくから目をそらすと、下を向いてしまった。
「そうですね。また明日」
シウじゃなく、先生がそう言って、行きますよ、と、シウの肩を叩いた。

……。

がっくりと下を向いてしまったぼくに、クラスメートたちが、
キース、おまえ勇気あるなー、
と、口々に声をかけてくる。

「勇気?」
ぼくがそう言うと、クラスメートたちはまた、口々に、
だって言葉わからないしな。な。どうしたらいいのかわかんないしな。な。
と、ぽそぽそと囁きあった。

「それはそうだけど…」
それはそうだけど、でも、ぼくは…
…シウと友達に、なりたい。

クラスメートたちは、
アイツが英語を覚えてくれたらな。な。そうだな、それからだな。な。
と、また口々に言いあって、
じゃキース、またな、と、ぼくの周りから離れていった。

シウが英語を覚えるまでなんて待ってられないよ。
その前に、誰か中国語のわかるヤツが現れて、ぼくより先にシウと友達になっちゃったらどうするのさ。

そうしたらもう、シウは、英語しか喋れないぼくになんか、見向きもしなくなるかもしれない。
嫌だ。それは嫌だ。

ぼくは、ぼくは、シウと
声をかけあいたい。目と目を合わせたい。親しい友達みたいに肩に手を置いたりしたい。笑いあいたい。

もっとそばにいきたい。

けど、
そうできるようになる為には、どうしたら、いいんだろう。
さっきの、シウの顔が、頭の中に浮かぶ。

驚いた、困った、ぼくからそらした。

………。

ぼくがなにを言っているか、ぜんぜん、わからなかったのかな?わからなかったんだろうな。
シウ、と、じぶんの名前を呼ばれたことも?
ぼくのシウ、って発音、ヘンだったかな?シウが名乗ったときのを、忠実に真似たつもりだったんだけど。
真似をすることにいっしょうけんめいになりすぎて、ぼくは、あのとき、
こわい顔にでも、なっていたのかな……

どうしよう、失敗してしまった?
どうしよう、ぼくは、シウと友達になるために、これからどうしたらいいんだろう。

ぼくは、机の上の本やノートをカバンにしまうと、学校から走り出た。





学校からの帰り道、じぶんの家を通り越して少し向こうに行ったところに、ぼくの、おばあちゃんの家がある。

おばあちゃんは、ひょろりと痩せているのに、どうしてか、とても、どっしり、とした感じがする。
どっしりとしていて、いつも、ぼくが泣いても、怒っても、笑っても、
なにをしても、おばあちゃんはぼくをしっかりと抱きしめて、受けとめてくれる。
おばあちゃんのところに行けば、いろんなことが、『だいじょうぶだ』って、思えた。

ものしりで、料理が上手で、テーブルにはいつも、ぱりっときれいなクロスをかけているおばあちゃん。
おばあちゃんに相談すれば、きっと、今ぼくが困っていることも、きっと。

午後のあたたかく晴れた空の下、石畳の道を駆けぬけ、おばあちゃんの家へ向かう。
大きな道から小さな道へ、空が広く見え、顔を、さらさらとなでていく風に緑のにおいが混ざりはじめたら、
もう、すぐそこだ。

キィ、と軋む金属製の門扉を押し、たくさんの草や花が茂る庭、その中を通る小道をたどり、ドアを開けて、
ぼくは、家の中に飛びこんだ。

おばあちゃんがいつもいる、ダイニングキッチンのほうから小さな物音がする。
「おばあちゃん!」
「おやキース、よくきたね」
入ってきたぼくを見て、おばあちゃんが笑う。
おばあちゃんは、ゆげの立つ鍋の中身をかきまぜているところだった。
ラズベリーの、甘くていいにおいがする。ジャムだ。

「ねえおばあちゃん!ぼく、おばあちゃんに相談したいことがあるんだ」
ぼくは、カバンをおろして椅子に座り、
テーブルに肘をついてがたがたと椅子を前に動かしながら、向こうがわにいるおばあちゃんのほうに、
大きく体をのりだした。

「おやおや、なにかしらね?
…ああ。キース。でもちょっと待ってね」
おばあちゃんは、うん、これくらいでいいかね、と、つぶやくと、鍋の下の火を消し、
それからくるりと振り返って、
かけてると曇ってしまってねえ…、と、テーブルの端に置いてあったメガネをひょいとつまんでかけた。

「またせたね。キース」
おばあちゃんは、ぼくの向かいの椅子をひき、よいしょ、と腰をおろすと、
「なんだい?」
と言って、テーブルの上でしわしわの手を組んだ。

「おばあちゃん、今日、ぼくの学校に転校してきた子がいてね」
「まあ、それはステキだこと」
「それで、ぼくは、その子と友達になりたいと思ったんだけど」
「うん」
「でも、その子は中国からきた子で、言葉がわからなくて」
「うん」
「その子の言うことがぼくはわからないし、ぼくの言うこともその子はたぶんまるきりわからないと思う」
「うん」
「他のクラスメートは、その子が英語を覚えたらいいんだ、それからだ、って言ってたけど、ぼくは、そんなに
待ってられない。シウと…
あ、その子はシウって名前なんだ、ぼくは早く、シウと友達になりたい」
「うん。なるほど」
おばあちゃんは、ゆっくりと頷いた。

「じゃキース、どうしたらいいのか、お茶を飲みながらおばあちゃんと一緒に、考えようか」
「うん!」
「ではまず、きちんと上着をかけて、手を洗って、お母さんに電話して、ここにいることを知らせておいで」
「うん!」
「その間、おばあちゃんはお茶の仕度をしているからね」
「わかった!」

ぼくが困っておばあちゃんの家に行くと、
おばあちゃんはいつも、おいしいお茶とお菓子を出してくれた。

どんなに困っていても、
おばあちゃんが用意してくれたお茶とお菓子がぼくの前に並べられるとほっとして、
そのお茶とお菓子がおいしいのが嬉しくて、
おばあちゃんとしゃべっているといつのまにか元気が出てきて、
そうして、おなかがいっぱいになるころにはいつも、ぼくはおばあちゃんと一緒に、
こうしたらいいんだ
という、答えを見つけ出すことが、できているんだ。

「おわった!おばあちゃん!」
「おや、キース、もう終わったのかい?」

ぼくが走って戻ってくると、おばあちゃんが、
焼けた薄いケーキの上に、赤いジャムを塗っているところだった。

「あ、サンドイッチケーキだね」
「そうだよ」

丸くて薄い型をふたつ使って、ケーキを二枚焼く。
その二枚のケーキのあいだにジャムをはさんだ、ヴィクトリア・サンドイッチケーキ。

ぶ厚く焼いたケーキを二枚に切って、ジャムをはさむんじゃあ、ない。
型をひとつじゃなくて、ふたつ使うということは、
上の、茶色くこんがり焼けた香ばしいところも、ひとつじゃなくてふたつ、だっていうこと。
それが、このケーキのいいところ。ぼくも大好きだ。

「カップとお皿、出すね」
「うん、お願い」
おばあちゃんが、二枚重ねたケーキの上に、白い粉砂糖をふりながら答える。
ぼくは、棚から食器を出してテーブルに並べた。

おばあちゃんがケーキにさくさくとナイフを入れていると、ケトルがしゅんしゅん音を立て始める。
「はいはい、ちょっと待っておくれ」
エプロンをひらりと揺らし、ケトルにかけよるおばあちゃん。
ぼくは、切り分けられたケーキののった皿を、じぶんのほうにひっぱりながら、たずねた。

「おばあちゃん、ケーキはいくつにする?」
「そうだねえ… じゃあ、まずひとつ」
「わかった。ひとつだね」

指さきとフォークでケーキをひと切れつまんで、皿の上に移す。
ぼくは…
ぼくはどうしよう、ひとつ…? ううん、やっぱりふたつにしよう。
だって、おばあちゃんの作るケーキは、とてもおいしいんだもの。

ぼくの、お皿の上には、サンドイッチケーキが、ふた切れ。
さらさらとした粉砂糖。バターのいい匂いがする、ふかっと焼けたケーキ。そこからのぞく赤いジャム。
おいしそう。

…シウにも、食べさせてあげたいな。
食べたら、シウは、笑うかな。

「…………」

想像してみる。
シウは、ひとくち食べて、まず最初はびっくりするんだ。あんまりおいしくて。
それから次に、急いで、たしかめるようにふたくちめを、ほおばる。
大きく口を動かして、飲みこんで。
そのあと、
きっと、ぱあっと、笑顔になる。

…あれ?

どうしてだろう、
むねが痛い。のどが、苦しく詰まる。

まだ見たこともない、シウの笑った顔。思い浮かんだとき、ぼくはとても幸せなきもちになったのに。
でも今、なんだかぼくは、泣いてしまう、前のような、きもち。

どうして。
ううん、どうしてじゃない。ぼくはわかってる。
ぼくの、想像の中のシウは笑顔になったけれど、ほんとうのシウは、そうじゃないからだ。

シウ…
今ごろはもう、家に帰ってるかな。
明日、学校に行きたくないと、ひとりでベッドで泣いていたらどうしよう。
どうしよう、
ぼくは、どうすればいいんだろう、

「キース、カップをこっちに…」
大きなポットを持ったおばあちゃんが、ぼくをふりかえる。
「あ… うん」
ぼくは、おばあちゃんにわからないようにはなをすすって、おばあちゃんの前にカップをふたつ、押し出した。
「キース…」
「なんでもないよ」
「うん、…さあ、おばあちゃんがおいしいお茶を淹れてあげるよ。それを飲んで、元気をお出し」
「、おばあちゃん…」

笑うおばあちゃんの顔が歪んで、慌てて下を向くとぽたりとクロスが音を立てた。

ぼくには、こうして、困ったときに、優しく笑って、お茶をいれてくれるおばあちゃんが、いるけれど。
もしも、もしも、
シウには、いなかったら、どうしようぅ…!

「キース」
ごとりと、ポットがテーブルに置かれる音と、さわわと布がこすれる音がしたと思うと、
ぼくは、おばあちゃんにすっぽりと抱きしめられていた。
「よしよし、キース。がまんしなくて、いいよ」
「おばあちゃん…!」
ぎゅっと、おばあちゃんにしがみつくと、
おばあちゃんも、ぎゅっと腕に力を入れて、それから、ぼくの頭を、何度も何度も、なでてくれた。





濃く出すぎてしまったお茶には、熱いミルクをたくさん、砂糖もいつもより多めに。
……。
うん、これはこれで、おいしい。

「ごめんね。おばあちゃん」
ぼくは、向かいあって一緒にお茶を飲んでいる、おばあちゃんに、謝った。
「急に、泣き出したりして」
「ううん」
おばあちゃんが静かに首をふる。
ぼくはほっとして、ケーキを口に入れた。

「…おいしい」
「そうかい。ありがとう」
「…ぼくは、おばあちゃんの、ケーキを見てね」
「うん」
「これを、シウに食べさせてあげたら、きっと喜ぶって… でも、ぼくはシウにそう言うことができなくて」
「うん」
「どうすればいいんだろうって、悲しくなって」
「うん」
「そうしたら、おばあちゃんが、ぼくに、お茶をいれてあげるから、元気をお出し、って、言うから…」

おばあちゃんがまた、うん、と、優しく頷く。
ぼくはまた、目が熱くなってきて、涙が、出てきそうに、なる。

「ぼくは、ぼくにはおばあちゃんがいるけど、シウにはいなかったら、どうしようって…!」
「…キース」
「シウが悲しいとき、そばに誰もいなかったどうしよう、って…! そ、そう、思ったら…!」
「よしよし、キース、だいじょうぶ、だいじょうぶ」

おばあちゃんが椅子から立ち上がって、
ぼくの、フォークを握りしめた左手の上に、おばあちゃんの右手を重ねた。

「だいじょうぶキース、だいじょうぶ、キースはちゃんとわかっているからだいじょうぶ」
「…だ、いじょうぶ?」
「そう。自分がどうしたいのか、それがはっきりわかっているから、だいじょうぶ」
「わかってる…」
「そう。その子と友達になりたい。その子が辛かったらキースも辛い。だから優しくしてあげたい。たとえ、
言葉がわからなくても」
「…うん」
「ならあとは、かんたん。方法を考えて、やってみるだけ」
「え、だけど」
「難しいと思うかい?キース」
「だって…、ぼくは言葉がわからないし…。シウも」
「だったら、諦める?」
「やだ!」
「だったら、おばあちゃんと一緒に考えよう」
おばあちゃんは、ふふふと笑ってぼくから手を離すと、よいしょとまた椅子の上に腰をおろした。
それから、
お茶をひとくち飲み、ケーキをひとくち食べ、うん、おいしい、と、にこりと笑って、ゆっくりとぼくのほうを見る。

「キース」
「なに?」
「キースは、シウくんと友達になるのに、なにがいちばん必要だと思っているんだい?」
「そりゃあ言葉だよ。だって…」

ぼくは、最後の授業が終わったあと、シウに声をかけたときのことをおばあちゃんに話した。

「…どんなにきもちをこめても、やっぱりわからなかったらわからないんだよ」
ぼくはしょんぼりしたこころをなぐさめるように、ケーキをはむとほおばった。

「そうかい。それは残念だったね」
「ねえおばあちゃん。ぼく、中国語をぜんぜん知らない。
ぼくが中国語を話せるようになるまで、いったいどれくらいかかると思う?」
おばあちゃんは、めをぱちくりさせ、少し困った顔で、

「うーん… それはおばあちゃんにもわからないねえ…」
「えー!?」
ぼくは思わず両手でテーブルをうちならし、足をばたばたさせてしまう。
「これキース。お行儀が悪い」
「あ、うん、ごめんなさい。でも…」
「うん」
「でも…、だったらどうすればいいのさ…」

そのとき、かすかに門がキィと軋む音が聞こえた。カチャン、と、留め金をおろす音も。
「あ…」
「どうしたんだい?」
「誰かきたみたい。音が…」
ぼくは、玄関のほうをふり返った。
「そうかい?おばあちゃんにはなにも聞こえなかったけれど…」

そのとき、呼び鈴が鳴った。
「あらあら、キースの言った通りだったね」
おばあちゃんは、はーい、と立ち上がった。
「ちょっと待ってて、キース」
「うん」

おばあちゃんがぱたぱたと部屋から出ていく。
ぼくは、椅子に座りなおして、またもうひとくちケーキを食べようとフォークをつきさした。

…あっ。

そうだ。
ぼくの言ってることがわからないシウ。
これ、聞こえない、に、似ていない?
もしも、ぼくの言っていることがわからない、じゃなくて、聞こえない、だったら、
ぼくはきっと、シウに、字を書いて、見せるだろう。

「…そうだ…」
中国語、を、音、で、伝えることはむずかしくても、字、なら。
「どうしよう、でもわかんない」
そのとき思い出す。
ぼくが読み書きをひととおり覚えたころ、
『わからない言葉があればこれで調べなさい』
と、お母さんが用意してくれた、あの、ぶ厚い本。
辞書。
あれは英語の言葉の意味が英語で書いてあるけれど、もしも、もしも、中国語の言葉の意味を英語で教えて
くれる辞書が、あったら?
それなら、それを見たなら、ぼくもシウに… シウに、手紙、を、書けるかもしれない…!!!

「…そうか…!」
中国語が喋れなくても、シウにぼくのきもちを伝える方法は、あった!
ぱっと、目の前が明るくなった、気がした。

わ、わ、わ。
だったら急がないと。
ぼくは、ケーキののこりをもしゃもしゃと口の中に押しこんで、お茶をごくごく飲んだ。

「キース、おまたせ」
「おばあちゃん!!!」
ぼくは椅子を蹴って立ちあがった。
「あら、キース、どうしたの!」
おばあちゃんに飛びつき、両手を両手でつかんでぼくはぴょんぴょんととびはねる。
「おばあちゃん!ぼくわかったんだ!わかったんだ!」
「おやおや、わかった、って、なにを?」
「わかったんだよ!」
「ああ、ああ、キース。わかったから。キース、ちょっと、おばあちゃんを腰かけさせてくれるかい」
「あっ。うん、ごめん」
「うん、ありがとうね」
おばあちゃんは、あわてて手をはなしたぼくの頭をぽぽんとなで、よいしょと椅子に腰をおろした。
お茶をひとくち飲んで、ふ、とひといきつくと、
「それで?キース、それでいったいなにがわかったんだい?」
と言って、ぼくのほうへずいとのりだした。

「おばあちゃん、ぼく、シウに手紙を書こうと思う」
「てがみ」
「うん、中国語を話すことはできないけど、中国語を調べて書くことだったら、ぼくにも、
すぐにできると思うんだ」
「なるほど」
「それでね、おばあちゃん、おばあちゃんは、中国語の言葉の意味を、英語で説明した辞書って、もってない
かな?」
「残念だけど、おばあちゃんは持っていないねえ…
けど…、そうだね、もしかしたら、おじいちゃんの本棚には、あるかもしれないね」
「ほんと!?」
「うん、おじいちゃんは、いろんな本をたくさん持っていたからね。ひと休みしたら、探しにいこう」
「わーい!ありがとう!おばあちゃん!」
「ふふ、どういたしまして。でも、よかった、キース。方法が、見つかって」
おばあちゃんはにこにこ笑う。
「うん!
あー!あるといいなあ!辞書!あー!あったら、なにを書こう!友達になってください、だけじゃ、短すぎる
よね!?」
「そうだねえ…」

おばあちゃんは、ふと手元を見た。
そこには、まだ食べている途中のサンドイッチケーキ。

あ…

「そうだ!おばあちゃん!ぼく、シウをお茶に招待してもいいかな!?」
おばあちゃんがぼくを見て、びっくりした顔をする。
そしてその目がみるみる細くなっていって、
「いいよ」
と、おばあちゃんはにっこりと笑って大きくうなずいた。

「わあ…!ありがとう!おばあちゃん!」
「ふふふ。さっき言っていたものね。このケーキを、食べさせてあげたい、って」
「うん!」
「ケーキなら、いつでも焼いてあげるから、ぜひ、呼んでおあげ」
「うん!ありがとう!」

「じゃあぼく、辞書を見て、一緒にお茶を飲みませんか?、って、書くね!」
「ええ、ええ、そうしておあげ。
ああそうだ…、それに…」
おばあちゃんは、じっと、ぼくの顔を見た。
「?」
「おや?キースは知らなかったかねえ…?このケーキのこと」
「このケーキのこと?」
なんだろう?ぼくは、首をひねった。
おばあちゃんは、知らなかったみたいだね、と言って、話し始めた。

「キース、この、ヴィクトリア・サンドイッチケーキはね、
昔、大好きなお婿さんを亡くして、深い、悲しみに沈んでいる女王様の、そのお心をお慰めするために、
作られた、ケーキなんだよ。
女王様に、また、笑顔になっていただきたい、そう願って作られたのが、このケーキなの」

…そうなんだ…
笑顔に… なって欲しくて…

…シウ…

「そうなんだ。ねえ、じゃあおばあちゃん、ぴったりだね」
「そうだね。ぴったりだね」
そう言っておばあちゃんがふふふと笑う。ぼくも笑った。

…シウ。
はやく、シウにこのサンドイッチケーキを食べさせてあげたい。
はやく、ほんとうに、笑っているシウの顔が見たい。





おばあちゃんはお茶を飲み、のこりのケーキを食べて、
ぼくはその間にまたもうひとつケーキを食べて、
それから、
ぼくは懐中電灯、おばあちゃんは火を入れたランプを手にもって、
おじいちゃんの本棚がある屋根裏部屋へと向かった。

二階から、屋根裏部屋にのびる木でできた階段が、ぼくとおばあちゃんをのせて、少し軋む。
静かに駆けあがった先の廊下は、
壁紙が貼られていない、むき出しの木の、乾いた匂いがし、西にある明かりとりの窓から入る日の光で、
思っていたほど暗くはなかった。

「おばあちゃん、だいじょうぶ?」
「だいじょうぶだよ」
「上、まだ明るいから。ランプ、手元になくてもだいじょうぶだよ。もってあげる」
ぼくは途中までおりて、おばあちゃんに手をさしのべた。
「重いよ?大丈夫かい?」
「だいじょうぶだよ。じゃあぼく先に部屋に入ってるからね」
「すまないね。ありがとう」

また階段をあがって、北と南にひとつずつある屋根裏部屋の、北のほうのドアを開けた。

斜めの天窓。
そこから入ってくる光で、まだ、明かりがなくてもなんとかだいじょうぶそうだけど、
でもすぐに暗くなってしまいそう。

急がなきゃ。
ぼくは、ドアの近くにランプを置くと、部屋のいちばん奥まで走った。

おじいちゃんの本棚は、屋根裏部屋のいちばん高さのある壁にそって、いちめん、ずらりと並べられている。
本棚にはたくさんの本が入っている。
ずいぶん古いもの、わりと新しいもの。大きさも厚さも様々な。

おじいちゃんが生きている間中、ずっと集めていた本を、おばあちゃんは捨てないでここに仕舞っている。
ここには、ぼくが読んでわかるような本はほとんどなかったけれど、
でもぼくはたまにここにきて、
天窓から射しこむ昼の日の光のなかで、図鑑のような絵や写真の多い本をぱらぱらとめくってすごしたり、
気まぐれに本を棚から取り出しては、
そのなかにきれいな栞や押し花なんかがはさまっていやしないか、まるで宝探しをするみたいに、めくって
みたりしていた。

そういえば、テニスを始めてからはぜんぜんきてなかったなあ…

おじいちゃん、ひさしぶりにきてこんなことをお願いするのはちょっとあつかましいってわかってるけど。
どうかこのおじいちゃんの本で、
ぼくを、助けてください。

「キース」
「おばあちゃん」
「どうだい?見つかったかい?」
おばあちゃんは手をのばしてランプをひろいあげた。
「ううん。まだ。
ねえ、ぼくこっちから探していくから、おばあちゃんはそっちからお願いしていい?」
「うん、いいよ」

すぐに、キース、と、おばあちゃんの声がした。
「あったよ」
「ほんと!?」
ぼくはおばあちゃんに駆け寄った。
おばあちゃんは、本を棚からひきぬいて、ぼくに渡してくれた。
「キース、すまないけど自分で中を見てくれるかい?
辞書みたいな小さな字、おばあちゃん、もう少し、明るくないと…」
「うん、わかった!あっちにいって、見てみるね!」
ぼくは懐中電灯を床に置くと、まだ明るい天窓の下に走っていって、本を開いた。

英語の言葉と、中国の、文字。
きっと、英語のこの言葉を、中国語にすると、この言葉になる、ってことだ。

これだ。
これを見れば、英語を中国語にかえて書くことができる。

おばあちゃん、これでまちがいないよ!
そう言おうと思ってふりむくと、
おばあちゃんが、また本棚にランプの光を当てていた。

「…キース、ちょっときておくれ」
「どうしたの?」
「さっき渡した本と、もう一冊、よく似た装丁の本があるんだけれど…」
おばあちゃんがまた本を一冊ひきぬいて、ぼくにさしだす。
「ほんとだね。
こっちも、なか、見てみるね。ごめんおばあちゃんこれもってて」
「うん、わかった。持っているから見ておいで」

ぼくはまた天窓の下で本を開いた。
こんどは、
中国語の言葉の次に、英語の文章。
そうか、こっちは、中国語の言葉の意味を、英語で説明しているんだ。

「おばあちゃん、だいじょうぶ。こっちも、中国語の辞書だよ」
「そうなのかい?」
「うん、そっちが英語を中国語にかえる辞書で、こっちが中国語の言葉を英語にかえる辞書」
「そうだったのかい。
ああ、だから似ていたのかねえ?
もともと、二冊で一組の辞書なのかもしれないね」
「うん、きっとそうだと思う。
おばあちゃん、見つけてくれてありがとう!」
「どういたしまして。真っ暗になってしまう前に、見つかって、よかった」
「うん!」
「さ、下に降りよう」
「うん。
あ、おばあちゃん、それ、ぼくがもつよ」
「そうかい?ありがとうね」

おばあちゃんからもう一冊の辞書をうけとって、二冊大事に胸にかかえた。
これは今、ぼくとシウをつなぐたったひとつの、ツール。
ぼくはもう一度、右手でしっかりと本をかかえなおすと、床の懐中電灯をひろって、部屋を出た。
外で待っていてくれたおばあちゃんが、ゆっくりとドアを閉める。

ドアが閉まるとき、光のぐあいなのかな、
なんだか部屋の中の空気が、ほっと、やわらかくなったような気がした。

…おじいちゃん、ありがとう。ぼく、がんばるからね。





(12/09/18)

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