シウに手紙をわたした日の夜。
ぼくは、うれしさと、ほっとしたのと、その前の夜は手紙を書いていてあまり寝ていないのとで、
晩ごはんと宿題をすませたあと、すぐにぐっすりきもちよく眠ってしまった。

その次の日の、朝。
前の晩、早くに眠ったので、朝も早くにきもちよく目をさまし、
早くに朝ごはんを食べ、早くに準備をし、少し早くに、ぼくはきもちよく家を出た。

シウに手紙をわたすことができた。
きっと、ぼくのきもちはシウに伝わっただろう。
シウは、シウは今日、ぼくにどんな返事をしてくれるかな…!

わくわくするどきどきする!

ぼくはそわそわと小走りで学校に向かい、門をくぐる。
シウはもう、学校にきてるかなあ?
教室の中、シウの机に座って、入ってくるぼくに気づいたら、シウはぼくに、笑ってくれるかなあ?

ふふふ!

シウが笑ってくれるかも、そう思っただけでぼくは幸せなきもちになって、かってに顔が、笑っちゃう。
ぼくはにこにこそわそわと回廊を通りぬけ、どきどきと教室の扉をあけた。

まっさきに、シウの机を見る。

…いない。

ぐるっと教室の中を見る。
やっぱり、いない。

…うん、今日、ぼくは、いつもよりだいぶ早くにきてしまったしね…
それに…
シウはいつも、先生といっしょにくるし、きっと今日も、授業がはじまる鐘がなったら、先生といっしょに
くるんだ。きっとそうだ。

ぼくはクラスメートにおはようと声をかけて、じぶんの机の椅子に腰かけた。
シウ、先生といっしょに入ってきても、シウの机まであるく途中に、ぼくのほうを見たり、してくれるかな?

ふふふふふー。

と、ぼくは、そのときはまだなにもかもがうまくいってると思っていたのだ。





「ねえおばあちゃん!どうしてシウは学校にこなかったんだと思う!?」
「どうして、って、御用があるからって、先生が仰っていたんだろう?」

お昼までの授業が終わったあと、ぼくはおばあちゃんの家まで走って、おばあちゃんの作ってくれた
お昼ごはんを食べながら、ばたばたとテーブルとたたいた。

「これキース、お行儀の悪い」
「だってぇ…」

なにも刺さっていないフォークにかちりと噛みつく。
まずい金属の味がして、今のきぶんにぴったりだ。

…今日、シウは学校にこなかった。先生といっしょに教室に入ってはこなかった。
ぼくはびっくりした。声が出なかった。
となりのクラスメートがそんなぼくに気がついてくれたみたいで、先生に、
『り、リンくんは、どうしたんですか?』
と、たずねてくれた。
先生はそっけなく、
『用があってしばらく学校を休むと、お父さんから連絡がありました』
と、答えた。
休む?
さ、教科書をひらいて、と先生が言ったので、
ぼくは慌てて、そっとクラスメートにありがとうと言った。クラスメートはううん、と、やさしく笑ってくれた。

休む… 用事で… しばらく… しばらくって、いつまで?
明日の、へんじは…?
どうしよう。ぼくは、どうしよう。
心配だ。落ち着かない。だからぼくは、学校が終わって、すぐ、おばあちゃんのところにきて、こうやって
おばあちゃんと話している。

「ねえおばあちゃん、用事って、なにかなあ?」
「なんだろうねえ…」
おばあちゃんは、少しのあいだ、うーん、と、首をひねって、
「そうだねえ…
違う国からきてまだ日も浅いのだろうし、イギリスに移り住むための手続きがまだいろいろとあるのかも
しれないねえ」
と、ぼくに答えた。

「てつづき?」
「おばあちゃんも詳しくはわからないけど…
住む国を変えるということは、いろいろと大変なんじゃないかねえ」

住む国を、変える。
住む国を、変えるための、手続き。

…ん?

「…ねえ、おばあちゃん…」
ぼくは、がちゃりと落とすように皿の上にフォークをおいた。
「んん?」
「ねえおばあちゃん、どうしよう、その住む国を変えるための手続きが、またもとの国に戻るための手続き
だったら…!」
「ええ?」
「ねえおばあちゃんどうしよう!ぼくの手紙がどうしてだかわからないけどシウを怒らせてしまってそれで
シウがもとの国に帰りたくなってそのために学校を休んで帰る手続きしてるんだったらどうしようー!!!」
そう思うとぼくはとても怖くなって、テーブルのうえにつっぷして、
少し前にお行儀が悪いと言われたばかりだったけど、またばたばたとテーブルをたたいてじたばたと足を
動かしてしまう。
とても、じっとしていられなかった。

「これこれキース、落ち着いて、落ち着いて」
がたりとなにかが動く音がして、その次に、ぼくの頭の上になにかあたたかいものがのせられる。
…おばあちゃんの、手だ。
ぼくは、とまる。
おばあちゃんは、ふふふ、と笑った。

「キース、そんなに心配しないの。
もしも本当にキースの考えている通りだったら、おうちの方もそういうふうに先生にお伝えするだろうし、
先生もそれをそのまま伝えて下さると思うよ。
だって、なにも隠す必要ないもの。
だからおばあちゃんは、本当に用事でしばらく学校をお休みしなければならない事情が出来たんだって、
思うよ」

「…そう?」
ぼくは、そうっと目をあげて、おばあちゃんの、顔を見た。

「うん」
おばあちゃんは、にこにこ笑って、立ち上がってぼくにのばしていた手をひっこめて、腰をかけた。

「でも、明日はきてくれるかねえ?」
「うん…、そうなんだよね…
それもわからないから、困ってる。あしたは念のために、待ちあわせ場所には行ってみるけど…」
「そう。わかった。じゃあおばあちゃんもケーキとお茶の用意をして、ふたりを待っているからね」
「うん、ありがとう、おばあちゃん」

そのあと、ぼくはだまってお昼ごはんをすませ、おばあちゃんの、家を出た。





くらいきもちで家に帰り、なんだかすごくくたびれたかんじがして、ぼくはもってるカバンごと、ベッドに
どすりと寝ころがる。

あした…

シウは、きてくれるかな?
おばあちゃんはきっとちがうって言ってくれたけど、もしも本当にこのままシウがいなくなってしまったら…

ああっ!どうしようっ!
ぼくはまたじっとしていられなくなって、ベッドの上をころころところがりまわった。

だけどすぐにぼくは疲れて、ころがるのをやめた。

……

なんとなく、机の上を見る。二冊、重ねておいてある、中国語の辞書が、ぼくの目に入った。

…そうだ、明日はこれをもっていこう。
なにかシウに言いたいとき、言いたい言葉ののっているページをシウに見せれば、ぼくの言いたいこと、
きっとシウに伝えられる。
そしてシウにも、同じことをしてもらえれば…

そうしよう、うん、そうしよう。

ぼくは忘れないうちにカバンの中に辞書を入れようと思って、むくりと体をおこした。そして、また。

…そうだ、今のうちに、あした、シウに会ったときに使いそうな言葉を、調べて、なにか別の紙に書いて、
おけば。
そうすれば、いちいちぶあつい辞書を、めくらずに、すむ。
と、思いついた。

そうだ、その紙は、カードにしよう。
おもては中国語、うらは英語にして。いちまいに、ひとつの言葉。

ぼくは、あした、シウと、どんな話をする?どんな、ことを言いたい?

考える。

待ちあわせはお昼だからまず、『こんにちは』。
もしもぼくが遅れてしまったら、『ごめんなさい』。
それから、『おばあちゃん』、の、『家』に、『いっしょ』、に、『行きましょう』…

『ケーキ』、『食べる』?
『お茶』、『飲む』?
『砂糖』、『入れる』?『ミルク』、『入れる』?

それから、
『おいしい』?『楽しい』?

ねえ、シウ。どう?

考える。シウのために。

…なんだか、元気が出てきた。
…なんだか、わくわくしてきたぞ…!

シウのために、シウに、なにかしてあげたい、シウが喜ぶようなことを、なにか。
それを考えてるとき、ぼくはすごく、嬉しい。楽しい。元気が出る。

ん!そうとなったら、早くとりかかろう!
ぼくは、ノートと、はさみをとり出して、机の上においた。

あした、シウがきてくれるか、きてくれないかは、わからないけれど。
ぼくはシウのために、できるだけのことは、しておこうと思った。





次の日。

ぼく今日はお昼からともだちと約束があるんだ、
と言っておかあさんに少し早く用意してもらったお昼ごはんを食べて、ぼくは家を出た。

カバンの中には辞書が二冊とカードのたば。
準備は、した。
ぼくは、せなかに背負ったカバンを、もういちどかつぎあげる。

シウは、きて、くれるかな?

学校の門の前まで、きた。
いない。シウはまだ、きてない。
お父さんから借りた、腕時計の針は今、12と31をさしている。

あと、三十分。
シウはきて、くれるかな?

上を見ると、空は、シウと初めて出会った日のようにきれいに晴れていた。
青い空に、白いくもが、ぽこぽこと、うかんで。

ああ、今日も、あの日、シウと出会ったみたいに、いいことが起こればいいのに。
ぼくはまた、シウに、会いたい。

カバンをおろして、カードを出した。予習、しておこう。
だけどだめ、シウがくるかこないか気になって、ぜんぜん字が頭の中に入ってこないよう…!

カードをしまって、時計を見る。
長い針は、52。短い針は、もう、1にだいぶ近づいている。

シウ…

ぼくはきょろきょろとまわりを見た。シウの姿は、まだ、見えない…

54…

55…

56…

シウ… もう、こないのかな…
時計を見る、まわりを見る、なんかい同じことをしたんだろう?
そしてまたぼくは、
時計を見て、まわりを、

あ。

走ってくる、こども。髪が、黒くて。ぼくと同じくらいの、背たけの。

いた!シウが!きた!

ぼくは地面においていたカバンをつかんで駆けだした。
辞書二冊片手じゃ重い、立ち止まって背負ってしまいたい、でもそんなことより少しでも早くシウのそばに
行きたかった。

「シウ!」
ぼくたちはすぐに近づいて、今、ぼくの目の前にはずっと会いたかったシウが、苦しそうにはあはあと息を
している。ぼくもそうだ。ああ、シウ、会いたかったっていいたいのにどうしたらいいのかわからないよ!

「あ、あー、あー…!」
ぼくがおたおたと言葉を考えていると、シウは、ななめにかけたカバンの中から、白いふうとうをとり出して
ぼくにずいっと、さし出した。

「?、シウ?」
シウの手元をよく見ると、ふうとうになにか文字が書かれている。

『キース君へ
これをシウから受け取ったら、その場ですぐに読んで下さい』

ぼくは、顔をあげてシウを見た。シウは、そうだ、読め、と言いたそうな顔をして、大きく、頷いた。

ぼくはシウの手からふうとうをうけとり、のりのされていないふうとうをあけ、きれいに折りたたまれている
びんせんをとり出して、ひらいた。

『キース君へ

初めまして、シウの父です。
キース君からの手紙、読みました。今日は、シウをおばあ様のおうちに招待してくれてありがとう。

キミから手紙を受け取ったあと、返事もしないでシウを休ませてしまってごめんね。
どうしても外すことが出来ない大事な用が出来てしまったのです。
心配させたね。ほんとうに申し訳ない。

キース君も気づいていると思うけど、シウはこちらにきたばかりで、まだほとんど英語を話せません。
だけど、キミからの手紙を受け取ったあと、今日のために、出来るだけ言葉を覚えました。
少しだけど、ゆっくり話してくれたらわかることもあるから、だから、シウのために、今日はゆっくり話して
くれたら嬉しいです。

夕方の五時に、学校の門の前まで迎えに行きます。
またここで、待っていてください。

リン・シウの父より

追伸。
シウの名前が書けなかったこと、怒っていません。
英語で話し、アルファベットで書くキース君に中国語は大変な挑戦だったと思います。
シウのために、難しいことに挑んでくれて、ありがとう。

それと、用事はまだ残っていて、たぶん、水曜か、木曜まではかかりそうです。
それからは、ふつうに学校に通えるようになるから、また、学校でシウに会ったら、仲良くしてくれると
嬉しいです。

よろしくお願いします。』

…おばあちゃんの、言ったとおりだった。
ぼくの、手紙が、嫌だったんじゃ、なかったんだ…、よかった…

「キース」
今。
なまえを呼ばれた、シウから。

はっとして顔をあげる。
シウがまっすぐに、ぼくを、見ていた。

「キース、おれもおまえと友達になりたい」

シウは、英語で、はっきりと、そう、言った。

シウが、ぼくと、ともだちに、なりたい、って…!

シウの発音は、手紙に書かれていた、まだほとんど英語を話せません、が信じられなくなるくらいきれい
だった。
練習したんだ。シウは。ぼくのために。ぼくに、これを、言いたくて。

「…キー、ス?」
まっすぐぼくを見ていたシウの目が、ゆれる。心配そうに。

…ああ!

「シウ!」

ぼくは両手をのばして、シウをぎゅっと抱きしめた。
びんせんも、ふうとうも、ぐしゃりとつぶれてしまうのがわかったけど、それでもぼくは今、シウをぎゅっと
抱きしめたかったんだ。

ありがとうシウ。ちゃんと通じたよ。シウのことば、ぼくに通じたよ。うれしい。うれしいうれしい!

シウはびっくりしたんだろうな、少しのあいだ、びくっとなったまま体をかたくしていたけど、だけどぼくの
背中に、シウも両手をまわして、ぎゅうっとしてくれた。

…ああ、こうやってくっついていると、なにも言わなくても、シウがぼくを好きなんだってわかる。
きっと、シウにも同じことがぼくから伝わっているだろう。なにも言わないのに。ふしぎ。

目をとじて、ずっとこうしていたいな、と思った。
けどシウが、もぞもぞ動くから。
目をあけたら、道を通る人たちが、ちらちらと、じろじろと、ぼくたちを見ていて。

うっ、これは… ちょっとはずかしい…

体をはなしてシウのことを見ると、シウも恥ずかしそうにほっぺたを赤くしていた。
「…ごめんね」
と言うと、シウは、ん、と頷いた。

ぼくは両手にもったままだったふうとうとびんせんを中にしまい、カバンを背負った。
そして、ゆっくりと、はっきりと、シウに、言う。

「じゃあ…
行こうか、シウ!」

そして、ぼくはシウに手をのばした。
わかった、かな…?

シウは、うん、と、ぼくののばした手を、握ってくれた。わあ!
うれしい!
ぼくは、しっかりとシウの手を握って、おばあちゃんの家に向かって並んで歩き始めた。





ときどき…
手をつないでとなりを歩くシウの足が、ふいに遅くなったように感じるときがある。

そういうとき、ぼくはふしぎに思ってシウを見るんだけど、だけどそのときはもうシウは遅くなくなっていて。
なんだろう?
気のせいかな?それとも、ぼくが速すぎるのかな?

なのでぼくは、横目でずっとちらちらとシウを見た。そして、あっ、と、気がついた。

シウは、街の中をもっとよく見たいんだ。
だけど、それをぼくに言えなくて、しかたなく、がまんして、ぼくに合わせてるんだ。

どうしよう。
きっとそうなんだろうと思っても、
まだ時間はあるよ、立ち止まってよく見ていいんだよ、って、ぼくもそれをシウに言ってあげられない。

だからぼくはシウを見た。
シウの目が、頭が、体が、ふっとなにかにひかれてそっちに動くときはないかって、見ていた。
そして…

あっ、動いた。

ぼくは立ち止まる。
「?」
それに気がついたシウが、ふしぎそうにぼくを見た。
ぼくは、きっと今シウはあそこを見たんだな、と思ったところを、指で、シウに、さし示して見せた。
それから、あれが気になるの?と、たずねたそうな顔で、少し首をかしげる。

シウは少しおどろいた顔になった。どうしてわかったの?って、顔だ。
それは、ぼくがずっとシウを見ていたからだよ、って、教えてあげたいけど、教えてあげられない。
だから黙っていると、シウにもなんとなくぼくが答えられないことが伝わったのか、
シウはどうしてなのかふしぎに思うことをやめた、って顔で、こくりと頷いた。

そうか、うん、やっぱり、シウは街の中を見ていたんだね。

シウが見ていたのは、たくさんの花が並んでいる花屋さんだった。
ぼくはまず、英語でゆっくりと、花屋、と、言ってみる。
シウは少し考えていたけど、花屋はわからなかったみたいで、困った顔で、しょんぼりと首をふった。

わからないんだね。わかった。

ぼくは次にカバンから辞書をとり出して、花屋、という言葉を探した。
そして、シウに、そのページを見せてみる。
シウは、ああ、と、わかった、って顔になって、ぼくに向かって、頷いた。

あれ?なんだか… 微妙な反応?
嬉しくも、楽しくも、ない、みたいな。そんな。

ぼく、なにか間違えたかな…

あ、そうだ。
ぼくは、もう一冊の辞書を出して、シウにさし出した。
シウにもこれを使ってもらえば…

シウはそれを受けとって、ぱらぱらと中を見る。シウはそれですぐなにに使うものかわかったみたい。
うん、と、大きく頷いて、
それから、ぼくの腕を、ひっぱった。

「え?」

シウは、ぼくを花屋さんの前までひっぱっていくと、とてもきれいな薄い青の花の前で立ち止まった。
そして、ぱららっ、と、辞書をめくって、
『きれい』
と書かれたところを、ぼくに見せた。

あっ!今、ぼくとシウ、辞書を使って、話せた!

もともと、そういうつもりでもってきたものだけど、それがほんとうにうまくいったことが、こんなにも、考えて
いたよりももっとずっと、嬉しい。

ぼくは、うん!きれいだね!って気持ちをこめて、笑って、頷く。
シウにも、ぼくにシウの言いたいことがちゃんと伝わったってちゃんと伝わったんだろうな。
満足そうに、ほっとした顔で、笑って頷いた。

それからぼくたちは、片手に辞書をもって並んで歩き、シウが足を止めたり、ぼくがシウに見せてあげたい
ものがあるたびに、立ち止まって、さっきの、
『あれは花屋だよ』『そう。きれいだね』
と、いうのと、同じような会話を、辞書を使って、した。

ぼくは、そうやってシウと話をすることが、嬉しくて、楽しくて、だから、夢中になってしまって…

とつぜん、シウが、はっとした顔で、ぼくの腕をつかんだ。
えっ?なに?なに??
おどろいていると、シウが、ぼくの腕時計を指でつつく。

あっ!!!
あわてて文字盤を見ると、どうしよう!もうすぐおばあちゃんとの約束の時間だ!!!

どうしよう、おばあちゃんはシウが今日きてくれるかどうかも知らないし、遅れたら心配かけちゃう!

「ごめん!気づいてくれてありがとう!シウ!」
ぼくは急いで、
『ごめんなさい』『急ぐ』『走る』、の、ページを開いてシウに見せた。

シウはそれでぼくの言いたいことをわかってくれたみたいで、さっとぼくの貸した辞書をじぶんのカバンの
中にしまうと、
だいじょうぶだよ、って顔で、明るく笑って、それから、最初にぼくがシウにしたみたいに、
「行こう!キース!」
と、ぼくに手をのばしてくれた。

「ありがとう!」
ぼくは、その手を、しっかり、つかむ。
それから、ぼくたちはふたり並んで、いっしょに走りだした。





はっ、はっ…

シウは、足が速かった。
ぼくだって、けっこう速いほうなのに。シウは、ぼくと同じくらい?いやそれよりも?速い。

シウは、運動が得意なのかな…?
シウ、テニス、知ってるかな…?
いっしょにテニスをしたら、とても、楽しい、かもしれない…!





「おばあちゃん!!!」
ぼくたちは、手をつないだままおばあちゃんの家の玄関に駆けこんだ。

「おばあちゃん!遅れちゃった!?ごめんね!!」
はー、はー、大きくすったり、はいたり。
くるしい。
握っている、シウの手が、熱い。

…はなさなきゃ、手を。着いたから。

ぼくはそっと、握った手をひらいた。シウもそっと、そうした。
ぱたぱた…
奥から、足音が聞こえてくる。

「ふたりともいらっしゃい。大丈夫、だいたい時間ちょうどよ」
と、おばあちゃんがにこりと笑った。
よかったー!
「さ、キース、お客様をご案内しましょう」
「うん」
ぼくの返事に、おばあちゃんは頷くと、すっと、シウの前にきて、それから少し体をかがめて、シウの
両方の手をとった。
それからおばあちゃんは、聞いたことのない言葉でシウに話しかけた。

えっ?なに?
おばあちゃん、今、なんて言ったの?シウになんて言ったの!?

ぼくにはわからない。だけどシウは、ふふっと笑って、こくりと頷いた。おばあちゃんもそれを見てほっと
したように笑う。
「さ、行きましょう」
おばあちゃんはよいしょとかがめていた体をおこして、シウの背中をやさしく押した。
ぼくもあわててふたりのあとを追いかける。

「ねえおばあちゃん、今、なんて言ったの?」
「ん?今のはね、
初めまして、シウくん、キースの祖母です、
今日はきてくれてありがとう、さあ、中に入ってお茶とケーキを召し上がれ、
…だけど、ごめんなさいね、ちゃんと話せるのはこれだけなの。あとは、」
「あとは?」
「身振り手振りで失礼します、って言ったのよ」
「そうだったんだ」

だからシウは笑って、頷いてたのか…、なるほど。
「だ、」
けどおばあちゃんはそれをどこでおぼえたの、と聞きたかったけど、もうダイニングキッチンだ。
気になるけど、あとにしよう。
今はシウのおもてなしを、ちゃんとしないと!

そう思って、ぼくがシウのほうを見ると。
ダイニングキッチンの中を見たシウの目が、ぱあっ、と、大きく、ひらいた。

テーブルの上には、ぱりっとしわのないテーブルクロス。
庭のかな?きれいな花をいけた、小さな花瓶。ころんと丸い、大きな白いティーポット。

それから…

わ!あれ!
いつもは使わないって、大切なお客さまのときにしか使わないって言ってた、おばあちゃんの、大事な、
とくべつ綺麗なカップとお皿だ!

そして、テーブルの上に並べられた三人分のカップと、お皿の、真ん中の…
大きな、お皿の上には…
おばあちゃんが作ってくれた、ヴィクトリア・サンドイッチケーキ!

シウの顔。とっても嬉しそう。
ありがとう!ありがとうおばあちゃん!

ぎゅうっと手を握って、おばあちゃんを見あげると、おばあちゃんも嬉しそうににこっと笑って、
「さ、椅子をすすめてさしあげて。
おばあちゃんはお湯の具合を見てくるからね」
と、ぼくの手を、ぎゅっと握りかえした。

ぼくのおばあちゃんが用意してくれた、食器や、ケーキを見て、シウが目をかがやかせている。
それがなんだか、ものすごく嬉しくて、なんだかとても胸をはりたい気分になって、
だからぼくは、とてもかっこつけて、いつもぼくが座っている、大きな窓から庭がよく見えるところにある
椅子を、ひいた。

「シウ」
呼ばれたシウはとことこやってきて、カバンを足元におろすと、すっとぼくがひいている椅子とテーブルの
あいだに、立った。
ぼくは、ゆっくりと椅子を押した。シウが、それに合わせて、ゆっくりと、腰をおろす。
ぼくが押すのをとめたとき、シウの動きもぴたりととまった。

うん、今、とてもうまくいった!ぼくたちとてもぴったりだった!
ふふふ、うれしい。

ぼくがそう思って喜んでいると、シウがこっちを見あげて、
「あ、ありがとう」
と言った。それから、言ったあとに、少し心配そうな顔になる。

だいじょうぶ、シウのありがとうは、ちゃんと伝わってるよ。
ぼくが笑って、うん、と頷くと、シウも安心したように、うん、と、頷いた。

しゅしゅしゅ、と、小さな音が聞こえてくる。きっとすぐお湯がわいて、お茶が入るはず。

えっと…

テーブルの上のケーキは、もうナイフできれいに切り分けられていた。
よし、じゃ、お茶が入るまでのあいだに、ぼくがシウやおばあちゃんのお皿に、ケーキをとりわけておこう。

ぼくはテーブルの向こうがわに手をのばして、じぶんの皿の上からフォークをとった。
そのフォークと、指さきでケーキをひとつ、そっともちあげて、シウのお皿の上にそっとおろす。

きれいに切り分けられたケーキのふちから、ほろりとこぼれおちる白い粉砂糖。
重ねたケーキのあいだからのぞく、真っ赤なジャム。
ふわりと鼻をくすぐる、バターのいいにおい。

シウが小さく、わ…、と、声を出した。

どう?シウ、おいしそう?

早く、お茶といっしょに、シウに食べてもらいたいな!
そろそろお湯は、わいたかな?

と、思って顔をあげると、ちょうどおばあちゃんがケトルをもって、テーブルのほうにくるところだった。
ポットのふたをあけて、ケトルからお湯をそそぎこむ。
白いゆげと、お茶のいいにおいが、ふわんと部屋の中にひろがった。

シウが、すっと息をすう。
シウ、このお茶のにおい、好きかなあ?好きだったらいいなあ。

あ!早くぼくも、ケーキをお皿にとりわけなきゃ!

ぼくがケーキを皿にのせているあいだに、おばあちゃんはそれぞれのカップを引き寄せ中にお湯を入れ、
ミルクを用意し、カップの中のお湯を捨て、
そして、ポットから、きれいな濃いこはく色をしたお茶を、カップにそそいだ。

わあ!いいにおいだ!

ぼくが椅子に座り、おばあちゃんがカップののったお皿を、シウの前と、ぼくの前にさし出す。
おばあちゃんは、立ったまま、シウに、また、なにか言った。
シウが、嬉しそうに大きく頷く。
それからぼくに、
「さ、キースも。召し上がれ」
と言って、おばあちゃんも椅子に腰をおろした。

あ、わかった!今、シウにも召し上がれって言ったんだね!
ぼくは笑って、シウと同じように、大きく頷いた。

シウは…
おばあちゃんに、めしあがれ、って言われて、頷いた、シウは、
お茶を飲んで、どんな顔をするかな?
サンドイッチケーキを食べて、どんな顔をするかな?
おいしい、って、思ってくれるかな?うれしい、って、思ってくれるかな?
女王陛下をおなぐさめした、そのやさしい味のケーキは、シウの心も、なぐさめて、くれるかな…?

シウの指が、お茶の入ったカップにのばされる。
「いただきます」
シウは、英語でそう言って、お茶の入ったカップに、口を、つけた。
どう、かな?
ひとくち飲んで、シウが、カップをお皿の上に戻す。
「おいしい…!」
シウの目が、きらきらと輝いた。
わ…!

「よかった!」
ぼくは立ちあがって腕をのばし、シウのケーキの皿を、ずいと押した。
「これも!食べてみてよ!」
シウは、うん、と頷き、フォークでケーキを切ると、はむっと口に入れた。

どう?どう??シウ。

シウはまじめな顔でもぐもぐと口を動かした。それから、飲みこんで、びっくりした顔で、
「おいしい…!とってもおいしい…!」
と、言った。

やった!!!
ぼくとおばあちゃんは顔を見合わせてにっこり笑う。
そのとき、なんだか、見られているような気がしたので、ぼくは、シウのほうを見た。
するとやっぱり、シウがぼくのほうを見ていて。

どうしたん、だろう?

シウは、ぼくに、少し恥ずかしそうに笑いかけながら、こう言った。
「おいしい。ありがとう。キース」
それからシウは、おばあちゃんのほうも見て、もういちど同じことを、言った。

…ぼくは、なんだか、泣きそうになる。
学校ではじめてシウに会ったとき、シウは、寂しそうで、辛そうで、だからぼくも苦しくなって、ぼくはシウに
なにかしてあげたい、なにかシウが喜ぶことをしてあげたいと、そう思って、それだけ考えて、おばあちゃん
にもいろいろ助けてもらって、そうやって、今、シウが、おいしい、ありがとう、って、笑って、くれて…

よかった。シウが喜んでくれて、よかった。
なのになんだか、むねが痛い。のどが詰まって、痛い。
泣きそうになるすぐ前みたいに。
この痛みは、はじめてシウに会った日に、ここにきて、ひとりぽっちのシウのことを考えて、悲しくなって、
泣いてしまったときと同じなのに、だけどきもちは、あのときとはぜんぜん違う、逆のきもちなんだ。
どうしてだろう?
どうしてぼくは、嬉しいのに、泣いてしまいそうなんだろう?

だけどここで泣いたら、きっとシウをびっくりさせてしまう。
シウがきて、楽しくないみたいに、思わせて、悲しくさせてしまう。きっと。

だからがまんだ。

ぼくは、ぱちぱちとまばたきをして涙をがまんする。
それから顔をあげると、シウが、こっちを見ているのが見えた。

そのシウの顔… なにかを、待っているような…? なにかを、期待しているような…?

……

あっ、もしかして。

ぼくは、じぶんの皿のうえのケーキを、フォークでさくりと切って、口に入れた。
それを見たシウも、すばやく、ぼくと同じことをする。

ぼくたちは、向かいあって、いっしょに、もぐもぐと口を動かした。
それから、
いっしょに飲みこんで、
いっしょに、おいしいね、と、笑いあった。

そのとき、
シウの笑った顔が、もっと、ぱあっと、明るく、なる。

その、シウの、顔…
嬉しそう。今までで、いちばん、嬉しそう。とっても嬉しそう。とっても、とっても、嬉しそう…!

…ぼくは。
シウに、おいしいケーキを食べさせてあげたら、きっとシウは、笑ってくれるんだと思ってた。
けど、それは少しちがった。
シウは、おいしいケーキも、喜んでくれた。
けど、同じものをいっしょに食べて、いっしょに、おいしいね、って言いあって、いっしょに、笑いあったその
ときに、
そのときに、シウはいちばん、嬉しそうに、楽しそうに、幸せそうに、笑ってくれた。
ぼくが想像していたよりもずっと、嬉しそうに、楽しそうに、幸せそうに、笑ってくれた。

…ぼくは。
ぼくは、ぼくで、シウを、こんな笑顔に、してあげることが、できたんだなあ…!

あ、また、泣きそうになる。がまん!がまん!!!

ぼくは笑った。嬉しいから、嬉しい顔をシウに見せたかった。だからただシウに向かって笑った。
シウも、また、もっと笑ってくれた。

ああ、よかった。ほんとうに、よかった。

ぼくは今度は、お茶を飲んだ。シウも飲む。
ぼくたちはいっしょに、かちりとカップをお皿にもどした。そしてまたいっしょに、おいしいねと笑いあう。

それが嬉しくて、とても嬉しくて。

ぼくはまた、ケーキを食べた。シウもまた食べる。
ぼくたちはそしてまた、おいしいね、と、笑いあった。

あ。
シウのケーキが、もう、ない。
おかわりを、すすめなくっちゃ。

ぼくは足元においたカバンから、辞書とカードをとり出した。
ぼくがそうするのを見て、シウはぼくがなにかむずかしい話をすると思ったのかな?
シウもじぶんの足元のカバンに手をのばして、中から辞書をとり出して、テーブルの上においた。

「あら、辞書、貸していたのかい?」
おばあちゃんがぼくにたずねる。ぼくは、カードのたばの中から、『ケーキ』と『食べる』をぬき出しながら、
答えた。
「うん。これで言いたいことを調べてね、見せあいっこしてたんだ。
そうすれば、言葉を話すことができなくても、言いたいことを伝えられるでしょ?」
「なるほど。
だったらキース、その辞書、シウくんにプレゼントしてあげたら?」
「えっ?いいの?」
「うん、いいよ」
ただ仕舞っているより、役に立ててもらったほうが、きっとおじいちゃんも喜ぶから、と、おばあちゃんが
笑う。
ぼくは、少し不安そうな顔で、じっとぼくたちの話を聞いていたシウに、ゆっくりと、言った。

「シウ。その辞書を、シウに、プレゼントするよ」
「…?」
シウが首をかしげたので、ぼくは椅子から立って、辞書とカードをもってシウのそばまでいく。

まず、プレゼント、という言葉を辞書の中からさがす。
それから、そのページをひらいたまま、シウの前においてある辞書を、これを、と、指さし、
シウに、と、シウのほうにてのひらを向け、
そして最後に、ひらいたままの辞書の中の、プレゼント、という言葉を、指で、ぎゅっと、さして見せた。

シウが、これを?というふうにシウの前の辞書を指で、さす。うん、と、頷いた。
それからシウは、じぶんに?というふうに、シウのむねのあたりを指でさした。ぼくはまた、うん、と頷く。
そして最後に、シウはそっと、ぼくの指のさきに、じぶんの指をくっつけた。

うん!そう!そうだよ!

ぼくがにっこり笑って頷くと、シウもぱっと花が咲いたみたいに笑った。

「ありがとう」
小さくつぶやいて、シウは、辞書をぎゅっと抱きしめる。

嬉しいなあ、シウが、喜んでくれて、嬉しいなあ。

「あ、それでね…」
シウにカードを並べて見せながら、ぼくは、『食べる』に、『?』とつけたすように、首をかたむけて見せた。
シウが嬉しそうに笑って、うん!と答える。
よかった!うれしい!
ぼくはこんどはシウのフォークを借りて、シウのお皿の上に、またケーキをひとつ、つまんで、のせた。

ぼくたちは、さっきみたいに、いっしょに食べて、いっしょに飲んで、いっしょにおいしいねと笑う。
もう、一回ずつケーキのおかわりをして、ぜんぶでみっつ。
お茶も、二杯目はミルクティーにして、おかわり。すっかりおなかいっぱい。
シウも、そんな顔をしている。

どうしよう…?だからもう、おかわりはすすめないほうが、いいかなあ?
だけど、おなかいっぱいに見えるのはぼくのかんちがいで、ほんとはもっと食べたくてすすめられるのを
待ってるかもしれないし…
と、考えていると、シウのほうから先に、
「ありがとう。ごちそうさまでした」
と、言われてしまった。ああ、やっぱり、シウもおなかいっぱいだったんだね。よかった、すすめなくて。
ぼくは、どういたしまして、というきもちをこめて、シウにひとつ頷いて、みせた。

「おばあちゃん、ぼくも、ごちそうさま。ありがとう、おいしかった」
「どういたしまして」
おばあちゃんは、シウと、ぼくを、かわるがわる見て、にこにこと笑っている。

えっと…
いっしょにケーキを食べて、お茶も飲んで、おなかいっぱいになって、ごちそうさま、って言って。
どうしよう、なにをしよう、このあと。

壁の時計を見ると、約束の五時までにはまだ少し時間があった。
そうだ。
「シウ」
ぼくは辞書をもってシウのそばまでいく。そして言葉を探して、シウに見せた。
だけどシウは、それを見て、考えこんで、考えたけどわからない、というふうに、困った顔で、首をふった。

そうか、シウは『テニス』、知らないんだ…

ぼくはこんどは、『待つ』をシウに見せる。シウが頷いたので、ぼくは辞書をおいて部屋から出た。

ぼくがテニスを始めたころ、とにかくラケットをもってボールを追うのが楽しくて、
クラブの練習だけじゃぜんぜんたりなくて、
だから、無理いって、おばあちゃんにもぼくの相手をしてもらっていたことがある。

ぼくがすぐにうまくなってしまって、最近はもう、
ときどき、たとえば的当てなんかをして、ぼくの上達っぷりをおばあちゃんに見せてあげるためにしか使わ
なくなっていたけれど、だけどここには、ラケットが二本と、ボールがいくつか、ある。

それをもってきて、シウに見せれば。

「シウ。おまたせ」
ぼくはかかえてきたラケットとボールをひとつ、テーブルにおくと、
その一本を手にとって、
シウの前で、ラケットでボールをぽんぽんとはじいて見せたり、ラケットを振って、ボレーを打つマネを
して見せたりした。

どうかな?
ラケットがボールを打つ道具で、このラケットを使って、ふたりで、ボールを打ちあいたいんだって、
伝わった、かな?

シウはそんなぼくを見て、やっぱりちょっと、よくわからない、というような顔をしていたけれど、
ぼくがなにかあそびに誘っているのだということはわかってくれたみたいで、ぼくが、庭を指でさしたとき、
うん、と頷いて立ちあがってくれた。

ぼくは、ラケットとボールをかかえると、おばあちゃんに、
シウのお父さんが五時に学校まで迎えにきてくれることと、それまで、庭でテニスをしていることを伝えて
シウといっしょに、部屋を出た。

玄関で靴をはいて、庭のほうへとまわる。
テニスコートほど広くはないけど、ラケットでボールを打ちあえるくらいのスペースは、あるんだよ。

ぼくは、もってきたラケットの一本を、シウにわたして、後ろにさがった。

ぽん、と、シウにむかって、ボールを打つ。

ボールはワンバウンドして、ちょうど、シウがラケットをまっすぐ振りさえすれば、当たるところに、うまく、
飛んでいった。
シウは、ぼくが、こうすればうまく打てるよ!って、思ったとおりのフォームで、
ぽん、と、ボールを、ぼくのところまで、打ちかえした。

わ、上手だな、シウ。

テニスを知らないなんて、信じられない。

ぼくの、すごく打ちやすいところにかえってきたボールを、ぼくもまた、シウの打ちかえしやすいところを
めがけて、ぽん、と打つ。

それはまた、シウの打ちかえしやすいところまで飛んでいって、シウもまた、そのボールを、ぼくの打ち
かえしやすいところに、ぽん、と、打ちかえした。

長く、ラリーがつづく。

テニスって、ほんとは相手に打ちかえされたらだめなんだけど。
だけどいいよね、ここはちゃんとしたテニスコートじゃないし、ぼくたちをわけるラインもネットもないし、
これは試合じゃないんだし。

ぼくの打ったボールが、うまく、シウの打ちかえしやすいところに飛んでいくと、嬉しい。
シウが、ボールがじぶんの打ちやすいところに飛んできた、と、嬉しそうな顔をするのが、嬉しい。
なによりいちばん、
シウが、ぼくの打ちやすいところに打とう打とうとしてくれてるのが、わかるのが、とても嬉しい。

ああ、ずっと、シウとこうしていたいなあ。
シウと、テニスしたいなあ。
誘ったら、いっしょにクラブに通ってくれるかなあ?
ぼくといっしょにテニスをしよう、いっしょにクラブに通おう、って、どう言えば、いいのかなあ?

「あっ!」
地面に、かたい石かなにかがうまっていたのかな?ぼくに向かって打たれたボールが、高くはねた。

飛びあがったボールを、目で、追ったら…
「あっ…!」
太陽の光が!まぶしい!

かたむきはじめた太陽の光がまともに目に入って、ぼくは思わずぎゅっと目をつむった。わわっ!
なんだかよくわからないうちに、ぼくは、うしろにすてんと、しりもちをついてしまった。
「…っ!」
かさりと、草のはっぱが動く音がする。
きっとボールだ。地面に、落ちてしまったんだ。

…ああ、ぼくで、ラリーを終わりにしてしまった。せっかく、長くつづいてたのに…

「キース!!!」
悲鳴のような声でなまえを呼ばれて、ぼくははっと、顔をあげた。
すぐ目の前に、髪の毛をばさばさにしたシウがいて、ぼくに、なにかを言っている。

え?え??なんだろう??

言ってること、ぜんぜんわからない、どうしよう。
シウの顔を見る。
なんだかよくわからないけど、必死だ。まゆげが、きゅっと寄っている。
泣きそう?なのかも?

だけどぼくは、どうすれば、なんて答えれば。

シウが地面にひざをついて、ぼくの肩をつかんだ。そしてまた、なにか叫ぶ。
ど、どうしよう。
わからなくて、ぽかんとしていると、
「キース!」
と、また、辛そうな声で、ぼくのなまえを呼んだ。

あ、ぼくは今、シウに心配されているのか。

わかった。やっとわかった。
ぼくは、だいじょうぶだよ、のきもちをこめて、にっこりと、思いっきりにっこりと、笑って見せた。

「キース…」
ほうっと、安心したような、気のぬけたような、声で、シウがぼくのなまえを、小さくつぶやいた。
ぼくがシウに、だいじょうぶだよ、と言いたいのは、ちゃんと、伝わったらしい。

「キース」
シウがぼくにしがみつく。シウがぼくのせなかをなでる。
ああ、ぼくは今、シウに優しくされているんだ。シウは、ぼくに優しくしてくれているんだ。
ありがとう、シウ。

「ありがとう、シウ」
ぼくは、感謝のきもちをこめて、優しくシウのせなかをたたいた。
シウが、ゆっくりと、ぼくから体をはなす。それからシウは、じっと、ぼくの顔を、見た。
「ありがとう」
ぼくはまた、シウに向かって笑った。シウも、ほっとしたように、くすりと小さく笑った。
それからシウはちょっと照れたようにへへへと笑って、ばさばさになった前髪を、ぐいとかきあげた。

シウが立ちあがって、ぼくに手をのばす。
「キース」
ぼくは、うん、ありがとう、と、さし出されたシウの手をつかんで、立ちあがった。

腕の時計を見る。
少し早いけど、もう、終わりにしたほうが、いいな。

ぼくは、寂しい、残念だ、ってきもちをこめた笑顔を作って、シウに時計を見せた。
シウも、ぼくと同じ顔をして、頷いた。

ぼくたちは、落としたラケットとボールを拾って、玄関に向かう。

あれ?シウの前髪が、また少し顔にかかってる。かがんで、ラケットを拾ったときにかな?
シウは、また指で髪を上にあげたけど、また落ちちゃった。
シウがじゃまそうに、ぷるぷると首をふる。

じゃま、かな?じゃま、だろうなあ、やっぱり。

じゃあ…

ぼくたちはラケットとボールをかたづけて、ダイニングキッチンにもどった。
「おばあちゃーん」
「ああキース、テニスはもうおしまい?」
洗い場のそばに立って、食器をふいていたおばあちゃんが、にこにことふりかえる。

「うん、もうすぐ帰る時間だし」
「そう。そうだ、外は暑くなかったかい?なにか飲む?」
「うん、ああでも、じぶんでやる。ね、おばあちゃん、レモンある?」
「半分でよければ、あるよ」

ぼくは、シウの手をひいて椅子に腰かけさせてから、冷蔵庫をあける。

切りくちを皿にぴたりとふせられた半分レモン、シロップ、炭酸水を出して、グラスをふたつ、もってきて、
その中に、シロップと炭酸水を入れる。
それからレモンをぎゅっと絞って、窓ぎわにおいてあるミントの鉢から葉っぱをちぎって洗って、グラスに
ひょいとほうりこんだ。

「ね、おばあちゃん」
「ん?」
「シウ、前髪がじゃまそうだから、とめてあげたいんだけど、あまってるピンある?」
「ピン?わかった。少し待っててね」
おばあちゃんが部屋から出ていく。ぼくは、グラスをはこんで、はい、とシウにさし出した。

それをシウは、少し困ったような顔をして受けとる。
ぼくになにか言われて、外に出ていったおばあちゃんのことが気になってるんだろう。

お先にどうぞ、と、言ってあげたいけど、言えないので、ぼくも、グラスを手にもったまま、シウのそばに
立ってた。

うーん、先に飲んでから、おばあちゃんにお願いしたほうが、よかったな…

どうしよう、飲んでいいのかな?だめなのかな?って、顔で、シウがぼくをちらりと見る。
ぼくは、どうしていいかわからない顔で、黙って、おばあちゃんの出ていったほうを見ていた。

シウも、そんなぼくを見て、待ったほうがいいのかなと思ったみたい。
ちらっとシウのほうをうかがったら、シウも、体をねじって、おばあちゃんが出ていったほうを、見ていた。

ごめん!ぼく、なんだか順番まちがえた!

「キース、これでいい?」
ピンを二本。
ぼくに見せながら部屋にもどってきたおばあちゃんが、ぼくの顔を見るなり小さくふきだす。
きっと、なんだかおかしなふんいきになってるのが、おばあちゃんにも、わかっちゃったんだろう。

「うん、ありがとう」
「鏡ももってきたよ」
「あ、ありがとう!」

ぼくは、グラスをテーブルにおいて、おばあちゃんからピンと、手鏡を受けとった。
そして手鏡もテーブルにおいて、
「シウ」
と、シウのほうを見た。

シウが、ぼくのほうに体を向けて、ぴしりとせすじをのばす。
ピンを見て、ぼくが今からなにをするか、わかった、の、かな?

だけど念のため、ぼくはじぶんの前髪を、ピンでとめて見せた。
そして、じぶんのそこを指でさして、そのあと、このぼくの前髪と同じことを今からシウにもするよ、という
ふうに、シウの前髪にも、そっと、ふれる。

シウは、ん、と、頷いて、立ってるぼくのほうを見あげたまま、目をつむった。

あ、このシウの顔、かわいい。すごく。

ぼくはピンをもって、じゃまそうにシウの顔にかかっている前髪をもちあげ、ピンをさしこんだ。
あ、一本じゃ、落ちてくるな。
急いでじぶんの髪のピンをはずし、それもさしこむ。
よし、これでだいじょうぶだ。

「シウ」
シウが目をあける。ぼくは鏡をとってシウにわたした。
シウはその鏡でじぶんを見たり、頭にちょっとさわってみたりして、それから、嬉しそうに笑って、
「ありがとう」
と、少しほっぺたを赤くしながら、言った。

喜んでくれたみたい。よかった。
嬉しい。ぼくも、にっこりとシウに笑いかえした。

シウから受けとった鏡をおばあちゃんにかえす。
「ありがとう、おばあちゃん」
「どういたしまして。きれいにとめられたね」
「うん!」

あ、そうだ、忘れるところだった。
ぼくはテーブルの上に出したままにしていた辞書をひっぱりよせて、もういちど、『プレゼント』のところを
ひらいて、シウに見せた。そのピンは、シウにあげるよ、って。
辞書を見たシウは、なんだかちょっと、くすぐったそうに笑って、指で、髪をとめたピンをたしかめるように
なぞりながら、
「うん、キース、ありがとう」
と、また少しほっぺたを赤くしながら、ふふふと笑った。

ほんとによかった、シウを、招待して。
嬉しくなって、ぼくもいっしょにふふふと笑った。

嬉しくなったぼくは、それからシウのとなりにある椅子に座って、そしてまた、いっしょに、冷たい炭酸水を
飲んで、おいしいね、と、笑いあう。

よかった、ほんとに、シウといっしょに、笑うことができて、ほんとによかった。ほんとによかった。

もうグラスも空になって。
もう、ここを出ないと、いけない時間だ。

シウの用事は、あと何日かしたら終わって、それからまた、毎日学校で会えるけど、
けど、寂しいなあ…

だけど、遅れたら、だめ。お父さんに、心配かけちゃ、だめ。

ぼくはシウに、時計を見せた。
シウが、うん、と、頷く。

ぼくたちは立ちあがって、カバンをかけ、手に、辞書をもった。

「おばあちゃん、じゃあ、ぼくたち、帰るね」
「わかった。また、いつでも遊びにおいで」
おばあちゃんが、ぼくと、シウの頭を、よしよしとなでる。
「うん、ありがとう」

おばあちゃんもいっしょに外に出て、門の扉のところまで見送ってくれた。
「気をつけて帰るんだよ、ふたりとも」
「うん、わかった」
シウが、おばあちゃんを見あげて、言う。
「ごちそうさまでした。ありがとう。さようなら」
「ええ、さようなら」
おばあちゃんがかがんで、笑ってシウの手を優しく握る。シウも嬉しそうに笑った。

「じゃ、行こうか、シウ」
「うん」
ぼくとシウは、また、手をつないで、歩きだした。

外は、少し暗くなって、辞書を使うのは、ちょっとたいへん。
だからぼくたちは、黙って歩いていた。
ときどきとなりのシウを見ると、シウもぼくを見てにこりと笑った。
シウがぼくを見ているのに気づいたら、ぼくもシウを見て、にこりと笑った。それだけで、とても楽しかった。

学校の門の前に、見覚えのある男の人が立っている。
その人が、こっちを見た。
ぼくとシウは、いっしょに大きく手をふった。





(13/05/31)

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