もうすぐ期末テストだ。めんどくさー。

念願叶ってレギュラーになって、そしてダブルス組んだ相手はすごい、いいヤツで。
毎日、毎日練習が楽しくて仕方ない。朝早く起きるの寒いけど、でも、全然平気。
頑張って練習して、巧くなりたい。
俺より早くレギュラーになっていた彼に見捨てられたくない。

手塚に

取られたく

ない




(耳の奥が、うるさい…)


「えーじー?」


(なんだ?これ…。聞こえ過ぎてる?ちょっとの音でも鼓膜震えて、振動が…
振動が、気持ち悪い…)



「英二!?」

不二。
不二、俺がサーブいつまでも打ってこないから不思議そうな顔で俺の名前呼んでる。
だめ、気持ち悪い。ごめん。


俺は、耳を抑えて崩れるようにコートにしゃがみ込んだ。


「英二!」


うるさい。耳の奥がうるさい。
頭ん中に、周波数の全然合ってない雑音ばかりのラジオ突っ込んでる感じ。
「英二!大丈夫!?どうしたの!」
駆け寄って来た不二が地面にうずくまった俺の肩を強く掴んだ。

「不二…。耳が…、気持ち悪い…、うるさい…」
「英二…」
戸惑ったような不二の声が、雑音交じりに聞こえてきた。
俺と不二の周りに、皆集まってくる。足音と気配でわかる。
顔を上げると、すぐ側まで来ていた乾と目が合った。

「菊丸、どうしたんだ?」

…やっ

「いや!こないで!乾!喋んないで!!」
「…!?」
「乾の低い声、耳に響く…!」
脳みそぶるぶる揺すられてるみたい。気持ち悪い。



「英二!」

大石

「英二、どうしたんだ!?」

おーいし…

「おーいし…」

俺は大石に腕を伸ばした。
大石の胸元に、ジャージをきつく掴んですがりつく。
彼の腕が、俺を抱いてくれた。
ああ…

「英二…。
不二、英二どうしたんだ?」
「なんだか…、耳が気持ち悪いって言って…」
「耳…?」
「うん」
「わかった。
ここは俺に任せて、みんな、練習に戻ってくれ!」
大石が、俺を抱いたままよく通る声を張り上げる。

「大石、英二、大丈夫なのかい?」
珍しくうろたえた感じの不二の声。
「大丈夫…かどうかはわからないけど、俺の叔父さんが働いている病院があるから、とにかく
まずそこへ連れて行ってみようと思う。だから、英二は俺に任せて、練習に戻ってくれ」
「うん…、わかったよ」


「英二…。大丈夫か?
立てるか…?」
大石は、しがみつく俺の手をそっとはずし、俯いたままの顔を上げさせ言った。
「…うん。だいじょぶ…」
「俺の言ってること、聞こえる?」
「うん…。うるさいの、左だけだから」
「そうか。俺の声は、平気か?」
「…うん…、乾ほど低くないから…。響かないよ、大丈夫」
これはほんとよかったと思う。大石の声を嫌だなんて思いたくないよ。

「さっきも言ったけど、英二を俺の叔父さんの病院へ連れて行こうと思う。いい病院だから、
大丈夫。心配しないで。
それとも、かかりつけの耳鼻科とかあるか?」
「…ううん」
俺は首を横に振った。
「そうか。わかった。
…英二、ほら、立って歩けそうか?」

大石が、俺を抱えて立ち上がらせようとする。
俺は大石の両腕につかまって恐る恐る立ち上がってみた。
…大丈夫、おかしいのは耳だけで、他は全然平気みたい。

「うん…。大丈夫。一人で歩ける。
耳がうるさいだけで他はなんともないみたい」
「よかった…。じゃあ、行こうか。
………手塚!」
大石が少し離れたところで一年生を指導している手塚を振り返った。
「わかっている。竜崎先生には俺からちゃんと事情を伝えておく」
「ああ。頼む。
それから悪い、部のほうも、あと頼むな」
「わかっている」

大石、悪い、だなんて手塚にそんな言い方しなくてもいいって!
部長が部の面倒見るのなんて当たり前じゃん!
なのに手塚ってば大石に頼りっぱなしで。いくら生徒会長で忙しいからって。
その分大石にしわ寄せきてんのわかってんの!?

言葉を交わした二人が頷きあっている。なにその『僕たち信頼しあってます』って目は!
もう、大石も、手塚なんか見んな見んな見んなー!





「英二。ここだよ」
着替えて連れてこられた病院は大きな総合病院だった。
「俺の叔父さんは外科なんだけど、ちゃんと耳鼻科もあるから…
じゃあ、行こうか。」
二人分のバッグを背負った大石が俺の背中をそっと押す。
耳以外別になんともないみたいだから、大丈夫、いいって言ったのにね。
優しーんだ、大石は…。


大石が心配して診察室の中まで付き添ってくれた。診察室の中は結構広くて、治療用の
機械が並んで、細かい振動音を立てて稼動している。
どうぞ、と促された、歯医者の椅子に肘掛をつけて無駄に豪華にしたようなゴツイ椅子に座って
俺は先生に症状を訴えた。
先生は耳の中や喉や鼻を一通り診ると
「じゃあ、鼻から耳のほうにちょっと空気を通してみましょうか」
とさらりと言った。
「は…、鼻から耳…??」
そんなの、できるの〜!!?
「大丈夫ですよ、鼻と耳は繋がっていますから。痛みもほとんどありません。
この一番細いのでしましょう」
先生が、細い金属の管を摘み上げた。

「お、大石…」
「大丈夫。俺がついてるから」
俺がおろおろと振り返ると、大石が大丈夫、とでも言うように大きく頷いた。
「う、うん」
俺は、息を深く吸って、吐く。
「そうそう、大丈夫です。はい、ちょっと上向いて…、はい、通しますよ〜」
固く目を閉じて上向いた鼻の中に何か入ってくる…ような感じがした。
ぷしゅぷしゅと、耳の奥のほうで風の音がした。
「はい、終わりましたよ〜。菊丸さん、耳どうですか?耳鳴りおさまりました?」
「………いえ〜、あ、あんまり、効かないみたい、です…」
…相変わらずうるさい、です。
うう…っ、鼻の奥からぞろりと出て行った管の気持ち悪い感触が消えてくれないよう〜…
ああ、あの管は俺の、俺の中の、いったいどこを通ったというのだ…!
この部屋全然暑くないのに、首筋に汗がたれた。

「じゃあ、聴力の検査をしてみましょうね。
…菊丸さんを、検査室まで連れていってあげて下さ〜い!」
先生が軽く手をあげて看護婦さんを呼ぶ。
「それでは、彼女に付いて検査してきて下さい。
終わったら、またこちらの待合で待っていて下さいね。もう一度呼びますから」
「は、はい〜…」
俺は立ち上がろうとした。

「あ、あれ〜…??」
立てない。足元ふにゃふにゃ。頭もくらくらする。え、え〜??

「英二?」
「菊丸さん!?」
大石と先生が俺を覗き込む。
「…腰抜けた、みたい、です…。た、立てません…」
あは、あは、と情けない笑いが出た。
…胸がどきどき落ち着かない。汗ばんできてるのになんだか寒気もする。
「大丈夫かい?かなり緊張したみたいだね…。落ち着いてね、もう大丈夫だからね、菊丸さん。
今、背もたれ後ろに倒すから、楽にして」
先生が、静かに椅子の背もたれを後ろへ倒した。はは…、俺みたいな人、結構いたりして…
だから、椅子、こんな風になる椅子なのかな…

「英二…」
大石が力なく肘掛に置かれた俺の手のひらをそっと包み込んだ。
あったかい…
そっから、力が戻ってくる。
「菊丸さん、ゆっくり深呼吸して、焦らなくていいから。ゆっくり…、ゆっくり…」
その声に合わせて、すーはーすーはーとしばらく深い呼吸を繰り返して、俺はやっと
立ち上がれるようになった。


「英二、よかった…」
大石が胸に手を当ててほっと微笑む。
「うん…、ごめん」
えへへ恥ずかしいと笑うと、大石は、ううんと首を振りそれをやんわりと否定した。
「病気のときは誰でも気が弱くなる。恥ずかしくなんか、ないよ」
「うん…、アリガト」
「じゃ、検査行こうか」
大石が、バッグを担ぎ上げた。


防音壁に囲まれた小さな暗い小部屋の中に座らされて聴力検査。
俺は平気だけど、こんな人ひとり座るだけでいっぱいになっちゃうような場所、閉所恐怖症の
人とか、どうするんだろ?
耳にかぶせられたヘッドホンから聞こえる音に合わせて、持たされたリモコンみたいなのに
くっついているボタンをしばらく押したり放したりしてるうちに検査は終わって小部屋の重たい
ドアが開かれた。うーん、開放感!
自分では、特に聞こえにくいとか、そういうのはなかったような気がするんだけど…
ど、どうなったんだろ…結果。
テストの結果待ちというのは、基本的に、ニガテ。

「英二。終わったか?」
「うん」
検査室の前で待っていてくれた大石が立ち上がり、ぺこりと頭を下げた。
ん?
ああ、俺のあとに検査室から出てきた看護婦さんに会釈、か。
大人っぽいな〜、そーゆー大石。


再び呼ばれた診察室。先生は、検査結果の用紙を見ながらちょっと眉を寄せた。
「ちょっと、聞こえにくくなってるようですね…。
突発性の難聴かもしれません。とりあえず、薬を投与して様子を見ましょう」
えっ、難聴!?
「…え。じゃあ、俺、耳聞こえなくなっちゃうの!?」
「いやいや、それはまだわかりません。薬を点滴で入れて、だんだん量を減らしていきながら様子を
見ましょう。それで症状が治まれば、それでよし。万が一それでダメなら、また別の治療を考えましょう」
「先生。治療にはどれくらいかかりますか?」
大石が、身を乗り出した。
「まず一週間薬を投与しましょう。九分九厘、それで治まるでしょう。
えーと、明日明後日は休みですねえ…、薬出しますのでそれを飲んでください。あとは点滴で。
しばらく毎日通ってもらうことになりますが、大丈夫ですか?」
先生がこっちを見た。
「あ、はい。大丈夫です。学校が終わったあとなら…」
ちょうど、テスト前で部活なくなるし。

「先生、それから、原因はなんなんでしょうか?彼は、今日部活中に突然症状を訴えたんですが…」
「そうですね…。おそらくストレス、でしょうね」

「ストレス…?そうですか…
もうすぐテストで…。勉強と部活、両方が忙しいからかもしれません。
それに俺たちは、四月から最上級生になって、後輩を引っぱっていく立場になりますし、
そういうプレッシャーも、もしかしたら、あったのかも…」
大石が、ちらと俺を見た。俺は先生に大石の言葉を肯定するべく小さく頷く。
先生はふむ、と頷いた。
「そうですか。たぶん、いろんな疲れが重なってのものでしょう。
菊丸さん、とにかく、治療中はなるべく、ゆったり、ゆったりと過ごして下さいね。
根詰めちゃ、ダメですからね?」
「…は、はあ」
ゆったり…ねぇ。
「それから、部活、って言ってたけど、なにか運動でも?」
「テニス部で、テニスをしています」
大石がはきはきと答えた。
「そうですか。せっかく頑張ってるのに残念だけど、激しい運動も控えて下さい。軽いストレッチくらいなら
大丈夫ですが…」
「えー!!」
「こら、英二!仕方がないだろう。もうすぐテスト前で部活も休みになるんだからいいじゃないか」
「でも…」
「治るまで、少しの辛抱ですよ。
じゃあ、さっそく治していきましょうか。ええと…。何か今服用中の薬はありますか?」
「いえ。ありません」
「わかりました…。それから、尿検査をしてきてもらいたいんですけど…。大丈夫ですか?」
「…あ…、学校出る前にトイレ行っちゃったんで…
ごめんなさい、無理、です…」
膀胱すっからかんです。
「わかりました。じゃあ検査は次回に…。
じゃ、点滴しますので、あちらのベッドへ…。それから、三十分くらいかかりますが、時間は
大丈夫ですか?」
「は、はい…」

俺は、先生が指差した、診察室の隅っこに備え付けられたベッドへのろのろと移動する。
点滴、初めてなんだよね〜…、やったこと、まだ、ないんだよね〜…。


「はい、頭をこっちにして横になって下さいね〜」
学ランの上着を脱いで右手の袖をまくって横になった。
「英二、上着持ってる」
「うん、ありがと大石」
手にした上着を手渡す。
「あ、ベッドの下に椅子がありますので。付き添いの方、よかったら使って」
看護婦さんが、横になった俺の体にタオルケットをかぶせながら大石に声をかけた。
「あ、はい。どうもありがとうございます」
大石は肩に担いでいたバッグを床に下ろすと、ベッドの下を探る。
そして小さな丸椅子を取り出すと、その上に腰を下ろした。

「はい、手をグーにして…ぎゅっと握っていて下さいね」
むき出しの肌に巻きつけられたゴムが少し痛い。看護婦さんは俺の肘の内側を指でなにかを
探すように、なにかを確認するように軽く撫でていく。
少しの間そうして、刺す場所を定めたのか、こしこしとアルコール綿で擦られた。ひゃっこい。
うう、刺される…。全身固くなった。見たくなくて目を閉じた。

「少しちくっとしますよ」

…いてっ。

思わず胸元に置いていた空いてる左手でタオルケットをぎゅぎゅっと握り締めてしまう。
眉毛も、ぎゅっと寄ってしまう。
「…はい、いいですよ。手、楽にして下さいね」
着けられていたゴムもぴろんとはずされた。

…ふ〜…!

「どうですか、痛みはないですか?」
「…はい。大丈夫です…」
きつく閉じていた目を開けて、どうにか笑ってみせる。
「そうですか。じゃ、このまま楽にしていて下さい」
点滴の管が、腕にテープでぴたぴた貼り付けられる感触がする。刺さってるところを見るのは
怖いから見ない。

「時々様子を見にきますけど…
痛いとか、なにかあったときは、声かけて下さいね。すぐに来ますから」
「わかりました」
俺の代わりに大石が落ち着いた声で返事をする。看護婦さんはにこりと会釈すると、ベッドの
周りを囲むようにして付いているカーテンをひいて、その場から離れた。
ベッドの傍らに突っ立っている棒にぶら下げられた袋から、蛍光の黄色みたいな色した液体が
ぽたりぽたりと管に落ちていってる。袋は結構大きくて、こんなにたくさん入れて、俺の血管は
破裂したりしないのだろうかと思った。

「…ふー…」
「英二。大丈夫か?」
「うん。刺すときはちょっと痛かったけど、針入っちゃえば、もう平気」
「そうか。よかった」
「あ、大石、時間いいの?外、だいぶ暗くなってるみたいだけど…」
「大丈夫。俺が連れてきたんだよ?そんな、英二を置いて帰ったりはしないよ」
「でも…」
「病人はそんなこと気にしなくていい。英二、ゆったり、ゆったり、だろ?
心配しないで、大丈夫だから…」
「うん…。ごめんね」
「英二、いいから…
そうだ、少し眠るか?疲れただろう?」
「うん。ちょっとね…
でも、もしうっかり寝返り打ったら、って思うと…」
ちょっと、いやかなりコワイ、と苦笑する。すると
「じゃあ、こうしてるよ」
と言って、椅子を持って俺の右側にやってきて、そして俺の右手のひらに大石の手のひらを上から重ねた。
「…かえって、落ち着かないかな?」
「ううん。そうやってしっかり抑えといて」
「わかった」
重ねた手にほんの少し力が込められる。
俺は、ゆっくりと目を閉じた。


大石の手は、あったかいなー…
薄目を開けてちらりと横を見ると、制服のポケットにでも入れてたのかな、単語帳を右手で器用にめくって
いた。
大石って、なんでこんなに、親切なのかな…
どうしてなのかな。


ストレス。精神的なもの。テスト勉強と部活に忙しかったからなんて、それだけなわけない。
成績がめちゃめちゃいいわけじゃないから、確かにテストは不安だ。でもめちゃくちゃ成績が悪いわけ
じゃない。よほどのことがない限り、そう酷いことにはならないはずだ。部活は楽しいけど体力を消耗
すると言えばする。しかしそんなの、なんてことない。寝ればすっきりだ。

手塚だよ。アイツに苛々してるんだよ、大石。
同じときに入部したからか、もともと大石と手塚はそれなりに仲がよかった。先輩たちが引退して、大石と
手塚が部長と副部長になってからはますます二人は一緒にいるようになった。
そしてそれが三学期に入ってからはもっと激しくなった。手塚、三学期は行事が多くて、そのせいで生徒
会に行くこと多くて、部にいないとき結構ある。だからいいかと言えばそうでもなくて、そのぶん大石が部の
面倒見るはめになって、結局俺との練習その他の時間はほとんどなくなっちゃう。手塚があとから遅れて
来たら来たで大石はその間部活であったことを説明しなくちゃいけなくて、部活終わったあとも二人は一緒。
俺、最近あんまり大石と話してないんだけど。鍵当番なのはわかってるよ、待ってたいのに。
待ってる間も、帰り道でも、別れるときまで話をしていたいのに。手塚が大石にべったりで。
それでいつも大石は俺に『悪い、遅くなるから先に帰ってくれ』って困ったように笑って言うんだ。そのとき
大石の側にいる手塚の『邪魔だ』って言いたげなあの細っこい目ったらさ!むかつく!
大石が好きだと思えば思うほど、手塚が死ぬほど嫌いになる。
偉そうな先輩が仕切ってて、なんかあんまり雰囲気よくないぽいよ?の噂に、テニス部に入るのを迷った
自分を心底悔やむ。
あのとき、すぐ入部していれば。手塚に先を越されなかったのに。悔しい。

無意識にタオルケットをきつく握り締めてしまう。
…耳が、またうるさくなった。


「英二…?」
大石が小声で俺を呼んだ。
「えっ?……な、なに?どしたの?」
ふいに声をかけられてびっくりした。考えていたことが考えていたことだったから。
「英二、今、歯を食いしばらなかった?
なんか、それっぽい音が聞こえて…
見たら、なんだかこう、きゅっと」
と言って大石は自分の眉をきゅっと寄せた。
「眉が寄ってたし…
どうした?具合悪いか?それとも、針が痛い?」

大石は本当に心配そうだ。
…ごめん。

「あはは、違う違う!なんだろ、なんか変な夢でも見たのかにゃ〜?
俺、全然覚えてないんだけど」
「目が覚めたら、さっきまで見てた夢、全然思い出せないときってあるもんな」
「あるよね〜。たぶん、そんなんだと思うよん!
耳以外、どこもなんともない、大丈夫!びっくりさせてゴメン、大石」
「大丈夫なら、いいんだ」
大石が、俺の額をそっと撫でた。

「あ…」
大石が軽く目を見開く。
「?」
「もしかして、喉元が苦しかったのかな?
ここ…、ボタン外そうか?」
「…うん」

…大石の指が俺のシャツのボタンを二つ外す。
少し襟を左右に引っ張って、前を広げて寛げた。

「ありがとう」
「ううん、ほら、まだ時間あるし…
おやすみ」
「うん…」




保険証も持ってなかったし、手持ちの現金全然足りないしでツケにしてもらった。
仕方ないこととは言え、は、恥ずかしい…
とっぷり日の暮れた帰り道を二人で歩く。なんだか、久しぶり?こういうの。


「英二」
「ん?なに?」
「さっきは、部活と勉強が忙しいから…って言ったけど…
もし他に、何か悩んでることや、辛いことがあるなら、相談してくれ、俺に。
俺に出来ることなら、なんでも力になるから」
そう言って俺のほうを向いた大石の顔は、真面目だった。

手塚と付き合わないで下さい。口きかないで下さい。
そう言えたらね。

「だいじょーぶ。大石の言った通り、時期も時期だし自分じゃ気がつかないうちにいろいろ疲れが
溜まってたんだよ。テストで部活も休みになるし、気分転換に軽いストレッチするくらいにしておいて、
ゆっくり体休める」

ほんとのことなんか言えない。それがどれだけ自分勝手で我侭な要求かわかってるから。

「…そうか」
「うん。大丈夫。ちゃんと薬も飲むし、病院にも通う。だから心配しないで」
「うん…」

「そうだ。今日、椅子から立てなくなっててビックリした。
英二、ああいうの怖いタイプ?」
大石がくすっと笑う。
「笑わないでよ〜。恥ずかしいなあ」
「あはは、ごめんごめん」

「あのね、平気なときは平気なんだけど…
あの管が、俺の頭ん中のどこ通ってるんだろ、動いたらとんでもないところに刺さるんじゃないかとか、
耳ん中のカタツムリのすぐ側通過してんのだろかとか、そういうことが一度頭にちらつくと、もうダメ。
頭ん中で勝手にグロい粘膜とかの映像捏造しちゃって、それだけで…、おえっとなる」
俺はまた戻ってきたあの感覚を追い出したくてふるふると首を振った。
「あ…、ごめん。やなこと思い出させて…」
「ううん。いーよ平気。大石ついててくれたから大丈夫!」
「そうか。よかった。でも、ごめんな」
「ううん、気にしないで」

「英二…今日は家まで送っていくから」
「えっ、いいよ」
「心配なんだ」
「……
うん…
ありがとう」




土日の休みが明けて月曜日。放課後、帰り支度をしていると、大石が俺のクラスに顔を出した。

「英二」
「あれっ?大石。」
どうしたの?と聞くと、大石は今日帰り病院に行くだろ?俺も付いて行くから、と言う。

「え…でも、俺ちゃんと場所覚えてるから…、大丈夫だよ?
大石、勉強あるだろ?」
「いいんだ、そんなことは。英二のほうが心配だよ。
そうだ、具合は?」
「うん、薬がちゃんと効いてるみたい。耳にね、壊れたラジオ突っ込んでるみたいにうるさかったんだけど、
だんだんそれが遠くのほうへ行っちゃうカンジ」
「そうか、よかった」
大石はすごく嬉しそうな顔をしてくれた。ありがと大石!

「じゃあ、行こう」
「大石、俺は嬉しいけど…、ほんとに、いい?」
「当たり前だろ、治ってきてるならもうあまり心配しなくてもいいかもしれないけど…
それでもまた倒れるようなことになったら…」
「大石」
「俺、あの時見てたんだよ。不二が、何回か英二の名前を呼んでいただろう?
それで、なんとなく気になってそっちを見たら、英二が」
「あ…」
「もうあんなところ見たくないし、知らないところで英二があんな風になったらって思うと、心配なんだよ」
「大石…」
「だから、ちょっとうっとおしいかもしれないけど、付き添わせてくれないかな?」
「うっとおしくなんかない!ありがとう大石!」
ぎゅー。抱擁。嬉しい。
「こら、英二。こんなところで恥ずかしいだろ?」
恥ずかしくなんかない。
「さ、帰りが遅くなるといけないから」
大石は、俺から離れた。




「あ、英二、ちょっと待ってて」
校門を出てしばらく歩いていたとき、大石がそう言って自販機に駆け寄って行った。
喉乾いてたのかな?

「はい」
戻ってきた大石の手には無糖の紅茶缶。それでそれを俺に差し出している。
「?」
「ほら、今日、この前できなかった検査があるだろ?
ためとかなくて大丈夫か?」

あ。

「やば。忘れてた…」
「俺が覚えててよかったな。はい。
…ちょうど少し先に公園があるから、そこで飲んでいこう」
「う、うん」

助かったけど…、検査内容がアレだから、少し照れくさいと言うかくすぐったいと言うか恥ずかしいと言うか。
そんなことの面倒まで見られて、どこか居心地悪い、気持ち。
でも、俺のこと覚えててくれて、嬉しいから、いっか。




それから毎日一緒に病院に行った。点滴する三十分間、手を握ってもらったままうつらうつらしたり、小声で
テストに出そうなところを確認しあったり、カーテンで仕切られた狭い場所で二人で過ごした。
日常から少しかけ離れたシチュエーションに軽く昂揚感を感じていた。楽しかった。

体に異常をきたすほど強く俺は大石を思っているんだという事実が、どこか嬉しくもあり、胸を張って誇りたく
もあった。


「なあ、英二。点滴されるってどんな感じ?」
「どんなって、なに?」
「あのさ、口から飲んだら胃っていう入る場所があるだろ?
でも点滴って直接血管に入れるじゃないか。
……血管がぱつんぱつんになったりとか、するのか?」
「あはははは!そんなのならないよ〜!
いや、実は俺もそれが不思議だったんだけど…。
えっと、とりあえずそんなことにはなってないよ。別になんともない。フツー。
あーでも、すぐにトイレに行きたくなる」
「ふーん。」
「家に帰ったらもう、すぐ。あんな色のヤツ、出るよ」
俺は薬の入った袋を指した。
「…ぷっ」
「すぐに腎臓で漉されちゃうのかにゃ〜」
「はは、そうかもな」




今日、もう一度点滴をして、明日検査してなんともなかったら治療はおしまい。
毎日真面目に通ってるからか、うるさかった耳鳴りはもうほとんどしない。
いつも大石と一緒にいてちゃんとリラックスもしてるし。
これでまた一緒にテニスできるね。

だけど、少し寂しい。
気持ち悪くないのは嬉しいけど、治っちゃったらこんな風に一緒にいるのもおしまいだもん。


「今日で終わりだな、点滴」
大石が、触れさせている手のひらを僅かに動かした。
「うん。もうほとんど耳鳴りしない。
俺、初めてここ来たときずいぶんうるさいな、治療用の機械の音かなって思ってたんだけど違った。
こここんなに静かだったんだ…」
「よかった、よくなって…。テストが終わったら、またテニスできるな」
「うん!体育も見学でもうなまってなまって…。
また、がんばらないと」
「こら英二、あまり無理しちゃダメだからな」
「大丈夫!わかってるって」
「ならいいけど」
「あはは」


「大石、ありがとう」
「ん?」
「…ごめんね」

勝手な理由で病気になってごめんね。
ほんとのこと言わなくてごめんね。
大石の優しさにつけこんでごめんね。
好きになったせいで迷惑かけてごめんね。
大石と仲良しの手塚が大嫌いでごめんね。

「…ごめん…、っ」
「英二…?」
「…ごめん」
「英二…。俺は迷惑かけられたとか、負担だなんてこれっぽっちも思ってないから。
友達が困ってるときに、自分ができることをしてあげるのは当たり前だろ?
大丈夫だよ」
「うん。ありがとう」

ごめんね。




検査結果に異常はなかった。耳はもうすっかり治っていた。

「よかったな。英二。ちゃんと治って」
安心したよ、と大石は嬉しそうだ。
「ありがと。ほんと、大石にはお世話になりました」
ぺこん、と頭を下げる。
「どういたしまして、英二。お前の役に立ててよかった」

「大石…。ありがとう」
「わかってる、英二。もう気にしないで」
「うん。もう一回だけ。ありがとう、大石」
大石が笑って頷く。俺も笑い返そうとしてうまくいかなかった。それを誤魔化そうともう一度。
「…ありがとう」

ごめんなさい。



(03/04/17)

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