「こんばんは」
ガラス戸に映る暖簾の影が揺れたかと思うと、不二のやわらかい声と一緒にがらりとその戸が開いた。
「不二。いらっしゃい」
「お邪魔します」
「お邪魔だなんて… いつもありがとう。こっちきて座って。…どうしよう、なにか握ろうか?」
「んー… ううん、それは、あとで」
「わかった。じゃあ、お茶淹れるよ」
「ありがとう」
不二は、手にしていた大振りの紙袋をそっとカウンターの端に置き、コートを脱いで椅子の背にかけると、
自らも、その椅子に腰をおろした。
「はい」
河村が、湯飲みを差し出す。不二は微笑んでそれを受け取る。
河村が、不二からまた店の中に視線を戻す。
「………」
不二は、カウンターの一番奥の席を陣取りながら、そこから店内を眺めた。
閉店間際だというのに、まだだいぶ客が残っている。
しかし彼らは一様に静かで、和やかだった。
タチの悪い酔客はいない。
いずれ、閉店時間に合わせて、三々五々、帰っていくだろう。
「……」
湯飲みがあたたかい。口に含むと香ばしい。
11月15日。ボジョレー・ヌーボーの解禁日の夜。不二は毎年、ワインを手に、河村寿司を訪れる。
「……」
不二は、湯飲みで手をぬくめながら、河村を、じっと見た。
仕事をしている彼を見るのが、好きだ。
姿勢がぴしりとしていて、流れるような体の動きには無駄がない。
食材や道具、食器を恭しく扱う手指が美しいと思う。いつか自分も触れてもらえたらと思う。
まめに店内を見、細やかな気配りをするその目に、自分だけを映してくれたらと思う。
十五分後、不二がすっかり湯飲みの中を空にし、冷たくなっていた手も、湯飲みと、店内の暖房で、すっかり
ぬくまった頃、
「ありがとうございました。また、いらして下さい」
と、
河村が最後の客に、頭を下げた。
河村は見送りがてら客と一緒に外に出る。ガラス戸が閉まる。
不透明なガラス越しに、彼がまた、深く、お辞儀をしているのがわかった。
そんなところも、とても好きだと不二は思う。
たっぷり一分も経っただろうか。
「不二。おまたせ」
外した暖簾を手に、河村が店内に戻ってきた。
「ううん」
河村はガラス戸の錠を下ろすと、暖簾を手早く仕舞い、再びカウンターの中に入る。
「じゃあ、始めようか」
「タカさん、ひと休みしてからでも」
「不二を待たせちゃったしね。俺は大丈夫だから」
「ごめんね。気を、遣わせてしまって」
「なに言ってるんだよ。不二のおかげでほんとに助かってるんだから。当たり前だよ」
「…、ありがとう。でもごめん」
「謝らないで。それに、俺も、こうやって不二と話すの、楽しみにしてたんだしさ」
、と、不二は小さく息を飲む。
僕もだよ、そう、言っていいのか、咄嗟に決めることが出来なかった。
河村は後ろの大型冷蔵庫を振り返り、
「今年の出来ばえを予想して、少し、作ってみたんだ」
と言って中から出した皿を不二に見せた。
ラップフィルムで覆われた皿の上には、河村の創作寿司が綺麗に並べられている。
「わあ…、美味しそうだね」
「ありがとう。持ってきてくれたワインに合うといいんだけど」
「ふふ。タカさんなら、きっとだいじょうぶだよ。
僕が少し教えただけで、すぐ、いろいろ自分でも勉強して、覚えちゃったじゃない」
「美味しいもの好きの、食いしん坊だからね」
河村は、はははと明るく、笑った。
河村がグラスを出し、不二がワインを開ける。
カウンターに並んで座る。
ふたりで味わいながら、河村の寿司を食べ、思いついたら、新しく作り、またそれとワインを味わう。
「…うん、概ね、予想外してなかった」
心地よく酔い、腹いっぱいになり、ふっと一息つき、まるで秘密の相談をするようにふたりは肩を寄せた。
「僕の言った通りになったね」
「ははは」
「やっぱり、タカさんはすごい」
「はは、照れるな」
「ほんとのことだよ。ほんとに、僕はそう思ってる」
「不二… うん… ありがとう…」
耳が熱くなるのを感じる。不二は、空になった皿の上に目を落とした。
河村が、お茶淹れるね、と席を立つ。
河村は、カウンターの向こう側からひょいひょいと手を伸ばして、食器や残ったワインを手早く片付けると、
また、湯飲みを持って不二の隣りに戻ってきた。
「はい」
「ありがとう」
「不二、今日は本当に、遅くまで、ありがとう。おかげで、明日には出せそうだよ」
「ううん、どういたしまして」
「不二に教わって、一年中、ワインも出すようになったけど…
不二が選んでくれる、このボジョレーとのメニューが一番楽しみです、って、お客さん、たくさんいるんだよ」
「ほんとう?」
「ほんと」
河村が嬉しそうに笑う。不二は、なんだか、じわっと、体が溶けるように熱くなった。
「本当にありがとう、不二。俺がこうやって店をやってられるの、不二の力が、すごく大きい」
「そんな…、ほめすぎだよ…」
「そんなことない。本当に感謝してる」
「……」
「ありがとう、不二」
「…、タカさん…」
「ん?」
「ありがとう。僕のほうこそ、タカさんの、役に立てて、嬉しい。ありがとう、そう言ってくれて」
「不二」
「僕、がんばるよ」
「えっ…」
河村が驚いて目を見開く。
「あ…」
重かったか、今のは。不二は、誤魔化す言葉を探す。
しかし河村はにこりと笑って、
「いや。うん。ありがとう。不二。俺も、がんばる」
と、不二に告げた。
外の風が、酔って火照った体に心地いい。
「じゃ、不二。気をつけてね」
「うん、ありがとう」
「あの、タカさん」
「ん?なに?」
「ほんとは、当日にまたこようと思ってたんだけど…、忙しいかもしれないから、今日渡すね」
「?」
不二は、カバンの中から小振りな包みを取り出した。
「誕生日プレゼント、少し早いけど、おめでとう」
「…あっ」
「はい」
「あっ、ありがとう。なにかな?」
「手袋。タカさんは、手を大事にしないとね」
「ありがとう。嬉しいよ。大事に使う」
「うん」
不二は、河村を目を合わせて笑うと、ほら、タカさんはコート着てないんだから、と、店の中に押しこみ、
がらりと、ガラス戸を閉めた。
ボジョレー解禁になるたびに毎年妄想していた大人不二とタカさん。やっと書いた。タカさん誕生日おめでとう! 121118 |