バレンタインのチョコレートの礼に、越前が自分のうちでケーキを作って俺に振る舞ってくれるという。
喜んで、お邪魔させていただくことにした。
学校も部活も休みの日の昼過ぎ。待ち合わせている駅に着いて、改札を通り抜けると、スーパーの袋を
ぶら下げて、小さく俺に手を振る越前の姿が視界に入った。
「すまん、待ったか?」
「そんなに待ってないっす。じゃ、行きましょうか?」
越前がすたすたと歩き出す。
「わざわざ、迎えに来させてしまって…。すまなかった」
「いいんすよ、生クリームと苺買いに行くついでですから。気にしないで下さい」
ついで?と思わず口をついて出かけたが、俺を見上げる越前の邪気のない笑顔を前にそんなこと言えず、
ぐっと飲みこむ。
「越前、さっき生クリームと苺を買う、と言ったが、他の材料は買わないのか?」
「あ…、スポンジケーキ…って言うんでしたっけ?あれ。
あれは昨日のうちに菜々子さんに焼いてもらってますから」
「菜々子さん?」
「俺の従姉っす。菜々子さんのうちからだと大学まで遠いんで、学生の間はうちに住んでうちから通うことに
なってるんすよ」
「そうか」
もうだいぶ暖かくなった空気の中、越前の家に向かって並んでてくてくと歩く。
「越前。今日は…、その、ありがとう。招待してくれて」
「気にしないでくださいよ。俺、貰ったっきり何もしてなくて…
こっちこそ気がつかなくてすいません。
桃先輩は、すぐ俺にお礼くれたのに…」
「桃城?」
「先輩、俺にチョコレートくれたとき、最近は友人間でもチョコレートをプレゼントしあうらしいとテレビで見た、
それで、お前には何かと世話になってるから、って言ってくれたじゃないですか。
俺そんとき『やばっ!だったら俺桃先輩に渡さないと!』って思って、あのあとソッコー店走って桃先輩んち
行ったんすよ」
「そう、か」
「チョコはもうたくさん貰ってたから、先輩がいつも頭に使ってるムースあげました。
そしたら桃先輩、次の、次の日くらいにお返し、っつって俺に入浴剤くれたんす」
「どうして、入浴剤なんだ?」
「俺、入浴剤入れて風呂に入るの好きなんすよ。桃先輩それ知ってたから」
「そう、なのか…」
知らなかった。単純に、バレンタインだからチョコレート、と深く考えずにチョコレートを渡してしまったが、あまり
喜んでもらえなかったのだろうか。
「すいません、先輩には、遅くなったけど、今日、お礼しますから」
「あ、ああ、すまない。楽しみに、している」
「どうぞ、入って下さい」
「ああ…。
すいません、お邪魔します。」
「あ、今日誰もいないんで。気楽にしてくれていいっすよ」
「…そうか」
「じゃ、始めましょうか」
流しで手を洗って、腕まくりする越前。
「越前、俺は、どうすればいいんだ?」
「そこに座って待ってて下さい。切って挟んで塗るだけですから。すぐできますよ」
と、越前は目の前のテーブルの椅子を指した。
「わかった」
指された椅子に腰を下ろす。越前は、ここで毎日食事をしているのだろうか…
テーブルの上には、まな板と包丁、幾つかのステンレスボウル、泡立て器や、クリームを塗るへらなどが
並んでいる。
俺のために用意されていたのだと思うと、嬉しくなった。
流しで洗ってザルに入れて持ってきた苺のヘタを包丁で大きく切り取り元の四分の三くらいの大きさに
なったそれを横に半分に切ったのはまあ、許そう。このような場合、大概縦に半分な気がするが、それでも
食べてしまえば大差ない。
スポンジ生地を二枚にスライスしたとき、切り口がガタガタのボロボロになっていたが、中に挟むクリームや
上に塗るクリームで形の調節がきかないほど酷くはないのでこれもまあ、いい。
しかしだ。
「越前、どうしてお前は生クリームをすぐバターにしてしまうんだッッ!!」
「だって、仕方ないっしょ!?ちょうどよくなるまであと少しって思って混ぜてるうちに硬くなっちゃうんだから!」
「その手前でやめておけばいいではないか!まったく、力任せで加減というものを知らんのだから…!
一度失敗したことを繰り返すんじゃない!」
「………っ」
越前は悔しそうに下を向いて黙り込んだ。普段生意気な越前も、さすがにこれは言い返せない。
「…まだ、新しい生クリームは残ってるのか?」
「……これで全部使い切ったっす…」
「…仕方ない。俺がスーパーまで行って買ってきてやるから、その間お前はそのバターを片付けておけ」
「え、でも」
「いいから」
楽しみにしていたのだ。だから、いいんだ。
生クリームが揺れないように苦心して走って走って、汗だくになって戻ってくると、越前は言われた通り、
綺麗に周りを片付けて俺を待っていた。
「すいません…」
「謝るなら、もう失敗するんじゃない」
「…っす」
バターを別の容器に移して綺麗にしたボウルに、三度生クリームを注ぎ込む。
そのボウルを氷水に当てながら、越前は神妙な面持ちで腕を動かしだした。
「…いいか。さっきも言ったが生クリームが硬くなるのは、水分中に散らばっている脂肪の粒子が攪拌される
ことによってぶつかり、くっつき、少しずつ大きな固まりになっていき、気泡を抱き込んだ網の目状に固まって
いくからだ。そしてそこまでならいいが、やり過ぎると今度は塊が大きくなり過ぎ、他の成分と完全に離れて
バターになってしまう。覚えておけ」
「…別にそんなこと覚えなくても生きてけ」
「何か言ったか?」
「いーえ」
「力が強いというのも、場合によりけりだな…。
ほら、もうそろそろやめたほうがいいんじゃないか?柔らかいものを硬くすることはできても、硬くなったものは
もうどうしようもないんだからな。」
「ういーす」
「それにしても、なんでそんなこと知ってるんすか」
皿の上に載せたスポンジに、どうにか出来上がった生クリームを丸く塗り広げて、その上に苺を並べながら
越前がぼそりと言った。
「以前、お前にケーキを作って欲しいと言われたとき、買った本に書いてあったからだ」
「あれは生クリームなんかのってなかったじゃん」
「それはそうだが…。知識として覚えておくことはできるだろう。うちでは作れないものばかり載っていたが、
無駄にならずに済んだようだな」
「作れない?」
「前に言わなかったか?うちにはオーブンがないんだ」
「あ、そう言えばそうでしたっけ」
越前は並べ終えた苺の上にさらに泡立て器でクリームを掬ってのせると、へらをくいくい動かして赤い苺を
白く覆った。
「先輩、それとってもらえます?」
越前が、俺の近くにあるもう一枚のスポンジののった皿を指した。
立ち上がって、ほら、と差し出す。
「すんません」
そう言って、越前が受け取った皿をテーブルに置こうとしたとき、皿のふちで生クリームの入ったボウルに
突っ込んであった泡立て器の柄の部分を強かはたいてしまった。
「!」
たっぷりとクリームをまとわりつかせた泡立て器が、床に落ちる。
咄嗟に手を出したが、間に合わなかった。
「っ!」
床に落ちた衝撃でついていたクリームが飛び散ったらしい。顔に、点々と冷たいものがかかった。
「先輩、大丈夫っすか…?」
ぺたんと床にしゃがみこんだ上から、越前のがらにもなくおろおろした声が聞こえてきた。
「すまん。受け止められなかった。」
そう答えて、越前を見上げると、なぜか彼はぷっ、とふき出した。
「?」
「…そういうの、顔射、って言うんでしたっけ?」
「………がんしゃ…?」
あ。
俺は、どう言っていいか、言葉に詰まって、俯くしかなかった。
一瞬意味がわからなかった分、『なにを言っているんだ』と怒るタイミングは完全にはずした。
「…………………」
「やだなあ、こんなの、軽く流して下さいよ。俺が恥ずかしいじゃないすか」
「…す、すまん」
「あー、だからそんなマジに謝んないで下さいって。
下手に動くとクリーム踏むからじっとしてて。俺何か拭くもの持ってきますから」
「すまん」
「落としたのは俺のせいっすよ…。気にしないで。
それにしても、猥談もできないなんて…、先輩もまだまだっすね」
越前の忍び笑いが降ってきた。
俺は床にへばりついたまま顔を上げることができなかった。
打ちのめされた気分が元に戻らないまま、ケーキは出来上がった。
二段重ねのスポンジを、生クリームでコーティングしただけの、飾りも何もない白いケーキ。
「はい、出来上がり!全部切っちゃったから上に飾る苺ないですけど、その分中にはいっぱい入ってるんで、
いいっすよね!」
さっきまでガミガミ言っていた俺がおとなしくなったからか、越前はのびのびとはしゃいでいて、どことなく嬉し
そうだ。
「ほら、先輩もさっきのことなんかいつまでも気にしないで!さっそく食べましょうよ!ね!」
「あ、ああ…」
「今お茶入れますから、待ってて!」
越前はテーブルを布巾でさっと拭うと、てきぱきと汚れたものを流しへ運びこみ、紅茶の入ったカップふたつと
砂糖とミルクの入った器を盆にのせて戻ってきた。
「どーぞ」
「ありがとう」
かたりと硬い音を響かせて置かれたカップからは、ふわりといい匂いがした。
「じゃ、切りますよ。どれくらいの大きさがいいっすか?」
「そうだな…。八分の一くらい」
「少ないっすね〜。もしかして…、ケーキ好きじゃなかったっすか?」
「いや、そんなことはない。ただ…、食べられずに残すのはみっともないだろう?
まだ食べられそうなら、もう一度いただくから」
「ふ〜ん。なくなっても、知りませんからね…」
越前は俺の分を切り分けると、その三倍くらいの大きさのケーキを自分の皿に切って移した。
「すごいな…」
「俺、甘いものは結構好きっすよ?
………はい」
越前がケーキののった皿を差し出した。
切らなければわからないのに、切るとわかるスポンジの厚さや上に塗ったクリームの不均等具合。
可笑しくて、思わずくすりと笑ってしまう。
「…なに笑ってるんすか」
「いや…、前にお前が話してくれた、不味いクリスマスケーキのことを思い出してな…」
「あっ、ひっどーい!見た目はよくないけど味はいいはずなんすからね!」
「本当か?」
くすくす笑って一口食べてみる。
「あ、美味い」
「だから言ったでしょ…。うん…、美味いっす。
…よかった」
越前は嬉しそうにぱくつく。それを見て、俺も嬉しくなった。
夕方、だんだんとオレンジ色を増す太陽の光の中、駅まで送ってもらう。
「いいのか?残りを全部いただいて帰って…」
結局全部食べきれず、俺は残りのケーキを詰めたタッパーの入った紙袋を持たされていた。
「当たり前じゃないすか。先輩へのお礼なんすから」
「ありがとう」
「どういたしまして」
「それから、借りたタッパーだが…」
「そんなのいつでもいいっすよ。また今度うちにくるときにでも」
「…そうか」
駅で切符を買っている間、越前に紙袋を持って待ってもらう。
「すまんな」
足早に戻ってきて、受け取ろうとすると。
「先輩…」
と越前が俺の手をそっと握ってきた。
「越前…?」
越前は、僅かに俺の掴んだ手を下に引くと、何か言いたげな目で、じっと俺を見上げた。
「どうした…?」
誰にも聞かれず耳打ちしたいことでもあるのかと思い、ゆっくりと体を越前のほうへ屈めた。
「ねえ…」
熱い吐息混じりに耳元で囁かれて、どきりとする。
「え、越前…!?」
「大丈夫っすよ、先輩が顔射知らなかったこと、俺誰にも言いませんから」
「越前…!」
がばと体を起こすと、越前がけらけら笑っていた。
「はいこれ!今日は楽しかったっす!じゃ、さよなら!」
またしても何も言えない俺に紙袋を握らせると、越前は笑いながら走って行ってしまった。
ああ…
俺も、まだまだ、だな。
(03/04/01)
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