俺が越前の生まれた日を知ったのは、部活中に例のノートをペラペラやりながらぽつりと呟いた乾の
『そう言えば、越前の誕生日はクリスマスイブか…』
その言葉だった。
期末テスト前は部活がない。今日は寒いし、さっさと帰って勉強しようと急ぎ足で校舎を出たところで、
同じくせかせかと足を動かしている越前に出くわした。
俺は、だいぶ前に耳にしたそのことを思い出し、ちょうどいい機会だと、並んで校門までの道を歩く越前に
聞いてみた。
「お前、もうすぐ誕生日なんだろう?…何か、欲しいものとかあるか?」
「げっ。なんで先輩俺の誕生日なんか知ってるんすか。気持ち悪い」
「き、気持ち悪いとは何だ!」
「ははっ、冗談すよ、冗談!」
「俺は、ただ、以前乾がそんなこと話していたのを、お前の顔見たら思い出して…」
「うわ〜、じゃあ気持ち悪いのは乾先輩だ」
困ったように苦笑する乾の顔が頭に思い浮かんだ。
ひとつ小さく溜息をつく。
「…越前」
「冗談す」
「…で、お前の誕生日が十二月二十四日であることに変わりはないのだろう?
何か欲しいものはあるか?」
「いーすよ、別に。気を遣ってもらわなくても。俺、先輩の誕生日だって知らないし」
「先輩につまらない遠慮をするものではない。甘えておけ」
「…………うーん……………………………………………………………………………………
…………………………………………………………………………………………………………
……………じゃあ、ケーキ。
ケーキ食べたい。先輩が作ったヤツ」
まさか、そんな答えが返ってくるとは思わなかったので俺は面食らった。
「……………別に、俺が作らなくても、その日ならケーキは選り取り見取りだと思うのだが。
どうせなら、ちゃんとした店のもののほうがいいのでは」
「やだ、先輩のじゃないならいらないす」
越前はそこでべえええと舌を出して見せた。
「俺が作るのか?本当に、いいのか?
どんなものが出来ても知らんぞ?」
俺が念を押すと、越前はぱっと笑って俺を見上げて
「楽しみにしてます」
と言った。
校門の前で越前と別れた俺は、帰りの電車を途中下車して大きな書店へ向かった。
店内に入ってすぐ、さっと見渡しただけで、目的のものはすぐに見つかった。
あるわあるわ、写真だったりイラストだったり様々だが、とにかくケーキが表紙を飾っている本が、売り場の
結構な面積を使って平積みされていた。
いったい、どれを買えばいいんだ…!?
その種類の多さだけでも大いに困惑させられるというのに、さらに、並べられた本の周りを取り囲む、若い
女性達のきらびやかな雰囲気に気圧された。
あれこれ見比べてはきゃっきゃとはしゃぐ高校生達や、作ったケーキをプレゼントする相手のことでも考えて
いるのかどこかうっとりと甘ったるい表情の若い女性や、その他諸々の若い女性の集団の中に割り込んで
本を選ばなくてはいけないのかと思うと、目眩がした。
いつまでも入口付近で突っ立っていると邪魔なので、俺は一歩一歩目的のものに近付く。
恐る恐る足を動かしながら、俺は考えた。
とにかく、簡単なものでないと話にならない。自分は初心者だ。
とにかく、『かんたん』『初心者』『すぐできる』『らくらく』などをキーワードに。
俺は、なんとなく息を殺してそっと女性達の輪に滑り込んだ。並べられた本のタイトルに、端から端まで
一通りすばやく目を走らせる。
すると、思っていたよりずっとたくさんの本が初心者向けのものなのだとわかった。
そう言えばここに来て本を購入すると思われる人間は大抵素人なのだから当たり前と言えば当たり前だな。
ふんふんと頷いていると、なんだか視線を感じる。そうだ、俺は場違いな人間なんだ。
俄かに、恥ずかしさがこみ上げてきて、手近なところにある初心者向けの本の中で、この本の表紙の
ケーキが一番美味そうだ、と思った本をひっつかんで足早にレジへと逃げた。
店を出て、顔に吹きつける風がことさら冷たく感じるのは、汗が滲んでいるからだ。
それが、過剰にきいている暖房のせいだけじゃないことは自分でもわかっている。
恥ずかしい。
書店の袋を腕に抱え帰宅した。
夕食を済ませたあと、俺は自室の机に向かって買ってきた本を袋から取り出しぱらぱらとめくった。
初心者向けというだけあって、全くケーキなど作ったことのない俺にでも理解できそうだ。
慌しく、かなり適当に選んだにしてはうまく当たりを掴めたようだ。
工程ごとに写真が載っていて、その写真の横には全て丁寧な説明が付いていた。
なぜ、こうするのか、またはこうしてはいけないのか、理に適った解説がされていてわかりやすかった。
さらに、失敗しやすい個所や、重要な個所には目立つ印が入っている。
なるほど、ここを特に押さえておけば失敗する確率がぐんと減るわけだな。
他に、準備から出来上がりまでの目安の時間を示した作業の進行表も載っている。
これなら、思ったより時間がかかって他の予定に響くということは避けられるだろう。
なるほど…、生地が出来て焼くところまで進んだときにちょうどオーブンが温まっているようにするのか……
………ん?
オーブン?
うちに、あったか?
「母さん」
台所へ下りて、夕食の後片付けをしている母に声をかけた。
「なあに?国光」
母は、洗い物をしている手元に目をやったまま返事をした。
「うちに、オーブンはありますか?」
「オーブン?」
きゅっと、水道を閉めると母は手を拭いながら振り向いた。
「うちには、ないけれど…」
やっぱり。
「オーブンが、どうかしたの?」
「いえ…、その…、ちょっと…」
いくらなんでも、後輩の誕生日プレゼントのためにオーブンを買ってくれというのは躊躇われた。困った。
黙り込んだ俺に怪訝そうに母は言った。
「オーブントースターじゃ、ダメなのかしら?」
「………ケーキを作りたいのですが…」
「ケーキ」
母も、まさか俺がこんなことを言うとは思わなかったのだろう。軽く目を見開いて、驚いた顔をしている。
「はい」
母はちょっと首を傾けて何か考え込むと、『ちょっと待ってて』と台所を出て行ってしまった。
しばらくして、母は、何か薄い冊子のようなものを手に、戻ってきた。
「これね、オーブントースターを買った時に付いていたレシピ集なの。
ここに…」
言いながら母はぱらぱらとページを繰っていく。
「あ、あった」
母が食卓の上に広げた冊子を覗き込む。
「覚えてない?何回かあなたにも焼いてあげたでしょう?」
茶色い、ぎざぎざの縁をした丸い菓子。マドレーヌだ。
…そうだ、小学生のころ時々おやつに食べた。
だが、俺が作りたいのはもう少し…
「誕生日のケーキのような、丸いケーキは、出来ませんか?」
「うーん…
そういうのはこれには載ってないわねえ…
それに、うちのじゃたぶんそんなに大きなものは焼けないんじゃないかしら」
火力もそんなに強くないから、小さなものならともかく大きなものは火が通らないと思うわ、と母は苦笑した。
言われてみれば確かにそうだ。
それに、食パン二枚でいっぱいになるうちのオーブントースターには市販の直径二十センチ近くあるケーキ
型など、入りそうもなかった。
「ケーキ、これじゃ、ダメ?」
母が、困ったような顔で俺を見た。
今、うちにあるもので出来るものはこれが、精一杯なのだな…
「………いえ、これを作ることにします」
俺は頷いた。
これだって一応甘いものだ。
越前にはちゃんとどんなものが出来ても知らんと言ってあるから、別に構わないだろう。
たぶん。
そうだ、越前だって俺の作るものだ、そんなに大きな期待をしているわけではないだろう。
…たぶん。
食べられるものならいい、くらいの期待しかしていてくれないのなら、ありがたいのだが。
…それはそれでちょっと癪な気もするが…
というわけで俺は越前のためにマドレーヌを作ることにした。
あんなに恥ずかしい思いをして買った本は無駄になってしまったが、仕方がない。
ちょうどテスト期間中で早く帰宅できるので、俺はせっせと菓子作りの自主練に励んだ。
テストが済んで、部活が再開したあとも、暇を見つけては練習した。
学校から帰る途中、少し遠回りしてスーパーに寄り、卵と砂糖と小麦粉とバターを買い込む。
オーブントースターのおまけの冊子は見開き二ページの解説しかなく、出来上がりの写真と分量と、あとは
作り方が文章でのみ説明されているだけで、全く初めての俺にはわからないことこの上ない。
母に質問するという手もあるのだが、母だって年末ということでいろいろと忙しい。
俺につきっきりで教えるわけにもいかない。
そんなわけで俺は試行錯誤を重ねながら自力で菓子作りの技術を習得していったのだった。
やり始めるとこれが結構奥が深くて、思いもかけないほどのめり込んでしまった。
生焼けになったので次は焦げない程度にギリギリまで焼いていたらなんだか表面や縁ががちがちに固く
なってしまったりとか、卵をがちゃがちゃかき混ぜたら空気が入り過ぎて、きめが粗くばさばさした口当たり
になってしまったりとか、とにかく加減が難しい。
満足いくくらいの焼き上がりになるまで、ずいぶん焼いた。
初日に、失敗することも考えて多めに材料を買い込んだにも関わらず、そのあとも結構頻繁にスーパーに
寄り道することになってしまったのだが、その甲斐あって、きめ細かくしっとりとした、美味いケーキを作れる
ようになった。
そして十二月二十四日が来た。
今日は部活がある。学校へ持って行って、練習後まで部室のロッカーなどに入れておくのは嫌だった。
なので一度家に取りに戻ってから越前の家に届けることにした。
ご家族と祝っているかもしれないが、手渡すだけだから別に構わないだろう。
越前の周りに人がいなくなったタイミングを見計らって声をかける。
「越前」
「なんすか?」
「今日は帰ってからずっと家にいるのか?」
「いますけど…」
「部活が終わったら、一度家に戻ってケーキを届けてやる。待っていてくれ」
「…ほんとに作ってくれたんすか?」
なぜ驚く?
「当たり前だ。だいたいお前がそれがいいと言ったんじゃないか…!」
まさか、俺をからかったんじゃないだろうな、越前!
カチンと来て、思わずそう言いかけたとき
「ありがとうございます、手塚先輩」
と普段の越前からは想像も出来ないような可愛らしい顔で嬉しそうに笑ったので、俺は言いかけた言葉を
ぐっと飲み込んだ。
「待ってます」
まるで花が咲いたようなその笑顔に驚いて何も言えずにいると、越前は、じゃ、と頭を下げて行ってしまった。
越前は、何かものすごいものを期待しているのかもしれない…。
でも、もう今さらどうしようもないぞ!
前日焼いて冷ましておいたケーキを、ひとつひとつアルミ箔でくるんで、紙袋に詰める。
紙袋は、プレゼントするのだと知った母がわざわざ買ってきてくれたもので、地味だがなかなかセンスのいい
上品な色合いをしている。これで少しは中身がマシに見えてくれるといいのだが。
「ちょっと出かけてきます」
と告げて、俺は越前の家へと向かった。
インターフォンを鳴らすと、間を空けずに越前の声が聞こえてきた。
「手塚先輩?」
「そうだ」
「今行くからちょっと待ってて!」
会話が切れてすぐ、慌しげな足音が玄関に近付いてくる。
やはりものすごく期待をされているのか…!?
俺は咄嗟に手に持った紙袋を体の後ろへ隠してしまった。
「先輩!」
「………………越前…、どうしてお前は家の中でそんなに厚着をしているんだ?」
俺の前に現れた越前は、コートを着てマフラーを巻いて、手には手袋を持っていた。
「せっかく届けてもらったんすから、せめて帰りは送ってあげようと思って」
「それは…、どうも、すまない…」
「いえ」
「あ…、越前、誕生日おめでとう。
…すまない、うちには道具が揃ってなくて、これくらいのものしか出来なかった…
でも、ちゃんと、俺が全部作った」
差し出した紙袋を、越前は持っていた手袋をコートのポケットに突っ込むと、両手で恭しく包み込んで
受け取った。
「開けていいすか?」
「ああ」
がさがさと紙袋から丸い塊を取り出す。
「…なんすか、これ」
「…マドレーヌだ」
やはり期待を裏切ってしまったのか!?
越前は手にしたマドレーヌを見つめたまま黙り込んでしまった。
「……………あ、そうだ。
ねえ、先輩、今時間あります?」
口を尖らせて上目使いに、
『俺が欲しかったのはこんなんじゃなかったのに…』
と言われるかと思って身構えていた俺は、思わずぽかんとしてしまった。
「…あ?ああ、別に何も用はないが…」
「母さーん!!ちょっと出かけてくる!!」
「越前?」
いきなり振り向いて大声を出すものだから驚いた。
「近くに綺麗なイルミネーションがあるんすよ。そこ、行きましょ?」
そう言うと、俺の返事は聞かずに、紙袋を胸に抱えた越前は歩き出した。
五分ほど歩くと、なんだか視界が明るくなり始めた。
「…!」
「綺麗っしょ?」
「…ああ。」
庭の木々や塀に、ちかちかと瞬く小さな明るい電球がたくさんくっつけられている。
なにかの店か…?いや、個人宅のようだ。これはまたずいぶんと凝ったことを…
「ちょうど、あの家の前に小さい公園があるんす。
見物するのにうってつけ」
そう言って越前が指差した先には、砂場とブランコ、ベンチもひとつしかない、こぢんまりとした公園があった。
「前、偶然桃先輩と見つけたんすよ。
今日、先輩がうちに来てくれるって言ったから、ついでにここ見せようと思ってた」
越前は俺を見上げて得意そうに笑った。
「そうか」
「最初、ケーキは受け取って家に置いてくるつもりだったんですけど…
これ、食べるのに、ナイフもフォークも必要なさそうだったし。
なら、ここで…って。いいっすよね?」
「ああ」
越前はさっさとベンチに腰を下ろすと、がさがさ中身を取り出し、アルミ箔とケーキについた紙を器用に指先で
剥がしてぱくりとかじりついた。
もぐもぐ口を動かす越前を、俺も並んで腰掛けて眺める。
「………めっちゃ美味いっす」
「…よかった」
そして越前は無言のままひとつぺろりと平らげた。
「…ありがとう、ございます、手塚先輩」
「喜んでもらえて俺も嬉しい」
越前の笑顔に俺は心の底から安堵した。
「俺だけ食いながら見物してるってのもなんだし…
はい。先輩。ひとつあげる」
「すまん」
「でもひとつだけっすよ。あとは全部俺の」
「お前の誕生日にプレゼントしたものだ。…好きにしろ」
「…ん」
「越前…。お前、どうしてケーキが食べたかったんだ?
しかも、俺の作ったもの、だなんて。
普通に市販のケーキでよかっただろうに」
イルミネーションをぼんやりと眺めながら、俺はふと思った疑問を口にした。
「………クリスマスのケーキには、やな思い出があるんすよ」
「嫌な思い出?」
「そうす」
越前は口の中のものをごくんと飲み込むと、ひとつ息を吸って話し始めた。
「俺がまだちっちゃかったころ、誕生日にケーキ食べたいって言ったんすよ。
そしたら親父が、クリスマスってのは、菓子屋の一番忙しい時期だ、雰囲気だけは明るく楽しそうに
してるがなあ、何日も遅くまで仕事してそりゃおめえ中は殺伐とした修羅場に違いねえよ、そんな
ところで出来たケーキがうめえわけねえよ、それでも食うか、それでもお前今ケーキ食うのか?って
言ったんす。
…今思えばアイツ、きっと寒いから外へ買いに出んのやだったんでしょうね、他にもいろいろ言ってた。
でも、俺は、んなわけねーだろと思って、仕方ないから自分で買いに行ったんす。
…そしたら…」
「そしたら?」
「それが不味かったんすよ〜〜。とても」
越前は涙を零す直前のように顔をくしゃりと歪ませて下を向いた。
しかしすぐにキッと顔を上げて
「もうクリームなんか表面がなんか乾燥しちゃってるし、飾りつけも雑だし、切ってみたら中の苺ちゃんと
並んでなくてすごく偏ってて入ってるとこと入ってないとこあるし!中に挟んであるクリームだって薄い
ところとやたら分厚いところあるし!スポンジぱさぱさだし!おまけになんか冷蔵庫のニオイするし!
親父はそれ見たことかって笑うし!!」
と一気に捲くし立てた。
しかし、それほどひどいケーキがあるのだろうか?
「それ以来、トラウマなんすよ、クリスマスのケーキ。あれ、初めてだったし」
越前は苦笑してぽつんと呟いた。
「…それは、また災難だったな…。
でも越前、その、お前のお父さんが言ったことは必ずしも全てのケーキに当てはまるものではないと、
思うぞ…?
俺も、ときどきクリスマスにケーキを食べたが…、どれも、美味しかったし…
だいたい、そんなものばかり出回っていたら、みんな買わなくなって今頃とっくにクリスマスにケーキを食べる
習慣はなくなっているだろう。
それに、従業員の健康管理をきっちりやっている店では、殺伐とした雰囲気になることも、ないだろう」
「…うん、それは、俺もわかってます。たまたま、ハズレに当たったんだってことも。
だってあの店すぐ潰れちゃってたし…
でも、やっぱりなんとなく、やで…」
「だから、誕生日には、ケーキ…、か。
越前、お前…、俺がものすごく下手なもの作ってきたらどうするつもりだったんだ…」
「くそ真面目な先輩なら、絶対テキスト通りのものが出来てくると思ったから」
実際そうだったし。売ってるヤツみたいでしたよ?そう言って、越前はくすくす笑った。
「…ありがとう、先輩。美味しかった」
「…あれでよければ、毎年焼いてやる」
「へへっ、嬉しいっす」
「…十月七日」
「…へっ?」
「…俺の誕生日だ。
覚えておけ。
それなりに…、期待しているから」
越前は、しばらく黙って俺を見て
「はい」
と、頷いた。
(02/12/30)
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