「部長…」
リョーマがのろのろと振り向く。
いつの間にか、自分の頬から温かな感触が消えていたことが酷く悲しかった。

「あ、部長。お疲れ様っす」
桃城が立ち上がって頭を下げた。リョーマも仕方なくそれに倣う。
「ああ…」
「そう言えば大石先輩帰っちゃいましたけど…
もしかして部長が鍵当番なんすか?」
「そうだ」
「そうなんすか…
じゃ、俺達も早く帰ろうぜ」
でないと、部長がいつまでも鍵閉められないしな、と桃城がリョーマの頭をぽんと叩いた。
「そうっすね」
「待て」
リョーマの手塚を見る目つきがキッ、ときつくなる。

「越前は残れ。
…話がある」
「わかりました。
桃先輩、ゴメン」
「…あ、ああ…
でも…」
「CDのお礼も兼ねて今度何か奢りますから」

(だから早く帰って)

ねっ?と笑うリョーマに、桃城も頷いた。
「わかった。じゃあ、また今度な。
部長、お先に失礼します」
「ああ。気をつけて帰るんだぞ」

ドアが閉まって、桃城の靴音が全く聞こえなくなるまで、二人とも口を開かなかった。


リョーマはゆっくりと自分のロッカーに近づくと、桃城から借りたCDを大事そうに自分のバッグの中に
仕舞ってから、ゆっくりと手塚が立っている方へ振り向く。
「…で、なんすか?話って」
リョーマの声が恐ろしく低い。
手塚は、リョーマの桃城に対する態度とのあまりの違いにカチンときた。

「…今日の、不二との試合形式の練習。
あの荒れたプレイは、なんだ」
「別に…
ちょっと調子悪かっただけっすよ。
今はもう、なんともありません。
以後気をつけます」
反省しているようにはとても見えないふてぶてしい口調で、リョーマは手塚の質問に答えた。

「どうして調子が悪かったんだ」
「…今はもうなんともないって言ってるんだから、いいじゃないですか」
「言え。
どうしてだ」
「…………」
有無を言わせない手塚の高圧的な態度に、リョーマはぷいと目線を逸らして黙り込んだ。

「越前」
「…………」
「越前、いい加減にしろ」
「…………」
「…俺と、大和部長のことを考えていたんだろう?違うか?」
「だったら俺に聞かないで下さいよ!!
わかってるんなら!!
俺に聞かないで下さいよ!!」
「…っ」
リョーマの剣幕に、手塚は怯んだ。
「俺言いましたよね?アンタの中の大和部長が許せないって。
なのに…
アンタがことあるごとに考えるのは未だに大和部長のことばっかり…!!
あんなこと言われて、俺がどんな気持ちだったかアンタわかってるんですか?
怪我、完治するって言われたのに…
俺とまたテニスが出来ることなんて、これっぽっちも嬉しくなかったって言うんですか、アンタは…!!」

リョーマが、大きな怒りを孕んだ瞳で手塚を睨めつける。
手塚は、その目を冷めた瞳で見返した。
「…だったら。
俺に不満があるのなら、直接俺に言えばいいだろう…!!」

自分が部室に入ってきたときの光景を思い出して、手塚の胸が痛む。
親密な様子で見詰め合っていたリョーマと桃城。
自分が入った瞬間に桃城はすっと離れたが、そのときのリョーマの名残惜しそうな様子が、悲しげな顔が、
目蓋に焼き付いてしまって離れなかった。

(どうして…、桃城に泣きついたりするんだ……)
越前は、自分を求めているのでは、なかったか。

「……直接?
そんなの、言えるわけないじゃないですか…!」
リョーマは辛そうに目を伏せた。
「なぜだ。
相談なら、桃城にするとでも言うのか?
桃城に甘える、いい口実が出来たとでも言うのか?」
「アンタ…!」

悪意のこもった手塚のセリフに、リョーマはカッと頭に血が上るのを感じた。
顔が熱く火照るのがわかる。
(やっぱりこの人全然わかってない…!)
答えられないリョーマに、手塚が『やはり』とでも言うように大袈裟にため息をついた。

「…部長」
「…?」
俺が部長に文句を言わないのは、俺に文句を言う資格がないからですよ」
「…どうし」
手塚が口を開いて何か言いかけるのに構わず、リョーマは喋り続ける。
「俺が…俺がアンタに文句を言えないのは…
わかってるからですよ、アンタが約束を破れないんだって。
大和部長がアンタにとって特別だから、だからアンタは約束を破れないんだって………」
「越前…」

「約束なんか… 守れなかったらよかったんだ…
全国大会になんか、間に合わなければよかったんだ…
大和部長に、顔向けできなくなってしまえばよかったんだ…!!
だけど…」
リョーマの握った両のこぶしが震える。
「だけど、俺は、今自分がどれだけ酷いことを言ってるかわかってる…!
わかってるんだ…!!
アンタにとって、大和部長が特別なように、俺にとってのアンタだって、そうだから…!!
俺だって、絶対にアンタとの約束を破れやしないんだ…!!」
「え…」
「アンタ俺にあんなことしといて…
大和部長がアンタにしたことと同じことを俺にしておいて、そんなこともわかんないんですか!!!!」

「越前…」
手塚の胸に誇らしい気持ちが溢れてくる。
やはり自分は、リョーマの中で、とても大きな存在なのだ。

「もうやだ… こんな苦しいの…
それでも俺は、アンタとのテニスを捨てることなんて、出来ないんだ…!!」
リョーマは、下を向いて肩を震わせだした。
嗚咽のようなうめき声も僅かに漏れ聞こえてくる。

「越前…
…悪かった… 俺が、悪かった…」
手塚は下を向いたまま顔を上げようとしないリョーマの側に歩み寄ると、その体を自分の胸の中にそっと
抱き寄せた。
泣いているからか、抱きしめたリョーマの体は酷く熱く感じられた。

「越前…
俺は、ずっと待っていた…
俺と、同じ場所を目指してテニスが出来る人間を…
だから、お前に会えて嬉しかった…」
「…………」
「大和部長は… 確かに俺にとって特別で… 大事な人だ…
でもそれは…
あの人がいたから、あの人が俺を引きとめてくれたから、だからお前に出会えた。
そのことを感謝している気持ちだって、大きいんだ…
だから、あの人の夢を、俺の手で叶えたかった…」

「俺が必要としているのは、お前だ、越前…」
「…………」
「俺は、お前のことが、ずっと、好」
「言わないで」
リョーマは渾身の力で手塚の腕の中から逃れ出た。
手塚は驚いて、リョーマが離れていくのを咄嗟に引き止めることも出来ない。

「それ以上、言わないで」
「…越前?
……どうして…」
手塚は、それだけ絞り出すのが精一杯だった。

「俺は、部長とテニスすることを望んでる。
部長は、テニスするために俺を必要としてくれている。それだけ聞ければ十分です。
ありがとう… 部長」
リョーマは微笑んだ。

「え………」
「俺も、手塚部長が必要です。だから、嬉しい」
「だ、だが…、越前、俺は…!」
「要らないんです」
「…要ら、ない?」
「部長の、その気持ちだけが欲しいんです。
あとは… 要らない」
手塚は、背筋がぞっと震えるのを感じた。

「…要らない?」
「はい」
「……そんな」

「…どうして…
俺と大和部長のことで、お前はあんなに心を乱していたじゃないか…
不二と… まともに試合も出来なくなるくらい…」

「…それなのに、そんなに俺のことを考えているというのに…
どうして…! どうしてお前は俺の全てを求めてくれないんだ…!!」
『要らない』だなんて…!
手塚はリョーマの腕を掴むと強く引き寄せてもう一度胸に抱きこんだ。
「どうして…!」
手塚は涙が零れそうになるのを必死で堪えて、きつくきつく小さな体を抱きしめた。

「…俺が、あなたに全てを差し出せないから」
リョーマも、手塚を優しく抱きしめ返す。

「…じゃあ、お前は、誰に……」
「その質問には…
…答えたくありません…」
そう言ってリョーマは、返事の残酷さとは裏腹な艶かしいため息を手塚の腕の中で満足げに零した。

「…それでも、それでも、俺は… お前を…」
「…勝手にどうぞ。
俺は、受け入れませんけど…」

一瞬、『ではもうお前とは二度とテニスをしない』と手塚の喉まで出かかった。
しかし、そんなことを言ったところで軽蔑されるだけだろうと手塚は思った。
大体、自分のほうがそんなこと、とてもじゃないが出来そうにない。
自分にとっても、リョーマとのテニスは手放し難いものだ。

「…ねえ。部長。
俺が、俺が強いだけじゃ、駄目なんですか?
俺があなたを好きでなければ、あなたは俺とテニスをしてくれないんですか?」
「…越前。
お前は、それを俺に答えさせたいのか…?
酷い奴だな…」
「だったら」
「それでも、俺は、お前のことを…」



「結局… 俺達は、それでも… テニスがしたいんだ…」

互いに、どんなに求めても手に入らないものを欲しがりながら。
互いに、どんなに求めても埋まらない心を抱えて。
それでも。



(05/09/16)

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