部活の合間の休憩時間。
水飲み場で顔を洗ったリョーマが帽子をかぶってコートへ戻ろうとしたとき、そこに手塚がやってきて
「すまない、ちょっと持っていてくれないか?」
と、メガネを外してリョーマの手に押しつけた。
「え…あ…っ」
「頼んだぞ」
困惑するリョーマに気づいているのかいないのか、手塚は水飲み場のふちにタオルを置くとぱしゃぱしゃと
丁寧に顔を洗い始める。
(めんどくさー…)
リョーマは、メガネをそっと水飲み場のふちに載せて立ち去ってしまおうかとも思ったが、そんな事をしたら
あとで手塚に何を言われるかわからなかったので仕方なくそこで待つ事に決めた。
と、そのとき。
桃城もタオルを手にしてすたすたこちらに向かってきているのにリョーマは気づいた。
「おっ、越前」
リョーマの姿に気づいた桃城がタオルを持った手を軽く上げる。
「桃先輩…」
(桃城?)
手塚は顔を洗いながら内心ちっと舌打ちした。
せっかくリョーマを自分の側に少しでも長くひきとめておこうとメガネを渡したのに。
あわよくば自分のメガネを外した顔について、何かリョーマからコメントしてもらえたら、そう例えば『カッコ
いいっすね』等のコメントをしてもらえたら、そしてそこから二人だけの楽しい会話が始まったらいいのにと
思っていたのに。全身全霊でそのような事態が起こる事を期待していたというのに。
それなのに。
(…なんという事だ…!)
「なー越前。部長を待ってるならついでに俺のこれも預かってくれよ」
桃城は悪戯っぽく笑うと、タオルとメガネで両手の塞がっているリョーマの頭の上に、ぽんとたたんだ
タオルをのせた。
「わっ、も、桃先輩…!」
突然頭の上にのせられた小さくたたまれたままで安定の悪いタオルの塊。
落としそうになって、リョーマは慌てて自分のタオルを掴んでいる握りこぶしを頭上に押し当てた。
なのに、桃城はあたふたするリョーマをからかうような口調でのんびりと
「頼んだぞ〜」
と言うとばしゃばしゃと顔を洗い始めてしまう。
「もー、桃先輩てばー…」
手塚の耳に、リョーマの甘ったるく拗ねた声が入ってくる。
(…いつまで顔を洗ってるつもりだ、俺は…)
二人の会話に割り込むきっかけを掴めずに、結果ずっとぱしゃぱしゃぱしゃぱしゃやっていたわけだが、
やっと桃城が顔を洗い出した気配がして会話が途切れたので顔を上げて蛇口に手をかけた。
(…たく、タオル、落としてもしらないんだからね!)
両手の塞がった自分をからかうためにわざとたたんだままのタオルをのせた桃城に少々腹を立てつつも
それ以上にそういう子供っぽい悪戯を楽しそうに仕掛けてくる桃城を可愛い人だとリョーマは思う。
それにしても、握りこぶしだけで押さえているのはどうにも安定が悪い。
(…これは、かけちゃおうか…)
左手を塞ぐ邪魔なメガネを顔にかけて、桃城のタオルを手に取った。
瞬間、リョーマの視界がくにゃりと歪む。
世界がぐらりぐらりと揺れだして、気持ちが悪くて立っていられない。
「う、わ…っ!」
よろよろと後ろによろめく。足がもつれてバランスを崩す。
(…あ!やば、汚れ…!)
転ぶ瞬間、思わずタオルのほうを庇ってしまい、咄嗟に両の手を地面について衝撃を殺す事が出来なくて、
どん、と尻餅をついてしまう。
「いてー!」
意外と酷い痛みに、リョーマは彼らしくもなく大きな声を上げてしまった。
リョーマの大声に桃城はぱっと顔を上げた。
「越前!?どうした!」
手のひらでざっと水滴を拭い、声のしたほうを見てみると、リョーマが地面にへたりこんで目を白黒させて
いる。
桃城は駆け寄ってリョーマの前にしゃがみこんだ。
「大丈夫か!?」
「も、桃先輩…
気持ち… 気持ち悪い……」
「え!?」
(…越前?桃城? どうしたんだ?何が起こったんだ?)
手塚は濡れた顔を拭くのもそこそこに、タオルを手にしたままきょろきょろと辺りを見た。
ぼんやりとしか周りが見えない。はっきりわからない。
今ほど自分の視力が悪いことをもどかしくそして悔しく思った事はない。
リョーマの身に何かが起こったようなのに。
そして自分はリョーマのすぐ側にいるのに。
真っ先に駆けつけたのが桃城だなんて…!
(…な、なんという、事だ…!!)
屈辱だ、と手塚は思った。
ここは自分も早く側に行って様子を確かめねば。
自分の手で優しく助け起こさねば。
(そしてそのためにはまずメガネを返してもらわねば…!)
「…え、越前…!大丈夫か!」
手塚は、ぼんやりと青と白が固まっているように見える辺りをめがけてふらふらと歩き出した。
「越前、どこだ!どこにいるんだ!」
手塚の大声に桃城が振り向く。
手塚は目隠しされた人間のようなおぼつかない足取りで、それでも正確にこちらに向かってきていた。
しかしやはりおぼつかない足取りには変わらず、今にもばったりと転んでしまいそうに不安定だ。
「わっ、ちょ…!
部長!危ない…!動かな…」
桃城は必死に制止を呼びかけたのだが、時既に遅し。
ものの見事に手塚はすっ転んでしまった。
彼の大きな体がリョーマと桃城の上に倒れこんでくる。
「越前、悪ィ!」
桃城が、ぐいとリョーマの体を地面に押し倒した。
「えっ???」
(…?)
リョーマは恐る恐る目を目を開けてみる。
歪んだ視界の中、自分のすぐ目の前に誰かの顔らしきものがあることしかわからなかった。
この忌々しいメガネを取りたくても、両腕は誰かの体の下にあって動かせない。
「…もも…先輩…?」
「…ごめんな。
痛くなかったか?」
「…痛い…? いえ…」
「なら、よかった…」
「…そういえば、部長は…?
なんだか… 倒れて、きてませんでした…?俺、よく見えなかったけど…」
「…大丈夫、俺が受け止めたから」
そこでリョーマははたと気づく。
(桃先輩… 俺を庇って…)
手塚から自分を庇うだけではなく、手塚の下敷きにまでなって。
なんて優しい、先輩なんだろう。
リョーマは、感動で胸が熱くなるのを感じた。
(…ありがとう、桃先輩…!!)
「いた… いったい…どうなっているんだ…?」
ひとり状況がよくわかっていない手塚がうめく。
リョーマと桃城は、声を出さずに苦笑した。
「…キミたち、何やってるの…?」
水飲み場にやってきた不二は誰に向けてでもなく呟く。
妙にときめいている表情のメガネリョーマと、もそもそと手足を動かしている手塚を見た感じ、度の合わない
メガネをかけて気持ち悪くなったリョーマが転んで、そこに駆け寄った桃城が、あとから裸眼でやってきて
足元がよく見えずに転倒した手塚からリョーマを庇い、手塚のクッションにもなったといったところか。
(…ふーん)
「越前、大丈夫?」
不二はかがんでリョーマの顔からそっとメガネを外した。
揺れなくなった視界にリョーマはほっとため息をつく。
そしてリョーマがちらりと桃城の顔を見たあと、幸せそうに小さく微笑んだのを不二は見逃さなかった。
良い事をしたなあと、後輩の姿を見て不二も嬉しくなる。
「手塚は…と」
手塚は、四つんばいになった桃城の上で未だ手足をばたつかせていた。
桃城がリョーマを庇うために少し体を持ち上げているので、その上の手塚の体も地面から結構浮き上がって
しまい、手足を地面について起き上がりたくてもぐらぐらしてバランスが巧くとれないらしい。
「桃、手塚のためにちょっと体下げてくれる?」
「こうすか?」
桃城がゆっくりと手足を伸ばして姿勢を低くした。桃城の顔がリョーマの首筋のすぐ側に埋まる。
リョーマは息を飲んだ。
(う、わっ…)
自分の体と桃城の体がほとんどぴったりといっていいくらい、くっついている。
(……せんぱい)
頬を染めるリョーマをちらりと視界の端でとらえて、また良い事をしたなあと不二は笑った。
「ほら手塚、もう手も足もつくでしょ?
そう、そこ…」
不二は、手にした手塚のメガネの蔓を口にくわえると、手塚の手足が桃城の体を踏みつけてしまわない
ように地面の上に導く。
そうしてもらって、ようやく手塚は体を起こす事が出来た。
「すまん、不二…」
「いえいえ、どういたしまして」
桃城とリョーマも起き上がる。
「すんません、不二先輩」
「ありがとうございました」
「いいよ、気にしないで。
それより二人とも、怪我はない?」
はい、と口々に頷く二人を見て不二は満足そうに微笑んだあと、手塚にメガネを渡した。
やっと、やっとまともに目が見えるようになった手塚は、バツが悪そうに尋ねる。
「不二… …越前、桃城…
いったい何が…?」
(…俺だけ、何もわかっていないなんて…)
何もわかっていない恥ずかしさに無様に転んでしまった恥ずかしさも相俟って、思わず眉根が寄る。
手塚の問いかけに、リョーマが俯いてぽつぽつと話し出した。
「…あの…
すいません。手が塞がったから、メガネ、顔にかけたんですけど、そしたら視界がおかしくなって気持ち悪く
なって…
それで転んでしまって…
先輩にも、部長にも、迷惑かけてしまって、すいません」
とリョーマは桃城と手塚に向かって頭を下げた。
(お、俺が悪いのか…!?)
ひとり青くなる手塚をよそに
「越前、俺がお前にタオルのせたからだよな?ごめんな」
「いいんすよ。桃先輩だってわざとやったわけじゃないんだし…
すぐきてくれたし…」
リョーマと桃城の互いを思いやるやり取りが目の前で繰り広げられる。
そして
「それに…
ちゃんと、庇ってくれたし…」
と、リョーマがうっすらと頬を赤く染めてはにかむのを手塚はよく見えるようになった目でばっちり見て
しまった。
(どうやら… 俺が悪いわけではないようだが…
それにしても俺がよく見えてないところで、…な、な、何が…)
絶句する手塚には全く気がつかない様子で
「そりゃお前、後輩助けるのは先輩として当たり前だろ」
と桃城がリョーマに向かって無邪気に微笑んだ。
(…だが、俺は…
先輩なのに、後輩に助けられたのでは…)
手塚の顔がほんの僅かひきつる。
「…ところで桃城。俺が倒れたとき下にいたのは」
「あー俺っす。
とっさにコイツ」
と桃城はリョーマを指差す。
「庇っちゃったんでちゃんと部長受け止められなかったんすけど、大丈夫でしたか?
マット代わりにくらい、なってたんならいいんすけど…」
なんだって?と手塚は思った。
(…庇う?
という事は…)
自分の下に桃城がいて、桃城の下には越前がいて…
(…俺は、わざわざ自分で桃城と越前の二人をみ、密着させてしまったという事か…!!!?)
不二が先ほど口にした、『桃、手塚のためにちょっと体下げてくれる?』という言葉が手塚の頭の中を
ぐるぐる回る。
「…部長?」
「…あ、ああ。俺は大丈夫だ。すまなかったな…
それより、お前は大丈夫だったのか?」
「はい。頑丈なのが俺のいいところっすから」
そう言って桃城がにこにこと笑う。
「…そうか。なら、よかった…
桃城、本当に、すまなかったな… 申し訳ない…」
「あ、いや、そんなに気にしないで下さいよ。
部長はあのとき目がよく見えなかったんだし。仕方ないっすよ」
「…すまない。
…越前も、申し訳ない」
「…気にしないで下さい。俺は桃先輩のおかげでなんともなかったんだし」
そう言って嬉しそうに笑うリョーマに手塚は心の中で泣いた。号泣した。
「さ、桃も越前も、汚れた手を洗ってきたら?
特に桃、キミはまだ顔も濡れたままだよ?」
不二がふんわりと笑いながら下級生二人に声をかける。
「あ… タオル…」
リョーマは両手に持ったタオルを見た。自分が転んだときは庇えたものの、桃城に押し倒されたときは
庇えず、地面につけて両方とも泥だらけにしてしまった。
「タオルか?いいっていいって。
元はといえば俺が悪いんだし。
鞄の中にはまだあるからさ」
じゃ、それ取ってきますよとリョーマが言いかけるのを、不二は柔らかく制止して言った。
「大丈夫。僕のを使ったらいいよ。
少しくらい濡れたって、構わないから」
「ほんとっすか?すいません」
「いいよ。遠慮しないで」
不二のタオルを借りて手を洗ったあと、笑顔で仲良くコートへ戻っていくリョーマと桃城の後姿を手塚は
何も言えずにただぽかんと眺めていた。
「…手塚」
「……え?」
「キミも手を洗ったら?顔もまだちょっと濡れてるよ?」
「あ、ああ…」
「メガネ、今度は僕が持っててあげるからさ」
「…すまない」
「いいよ。気にしないで」
(………だって色々と楽しませてもらったもの)
不二は、ふふ、と小さく笑った。
(05/10/15)
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