「国光」
関東大会が間近に迫ってきた。
疲れを残したまま大会に臨むような馬鹿な真似はしたくなかったので、ここしばらくの間、一日おきに
部活を早く切り上げる日を作っており、そして今日は早く帰る日だった。
学校から帰って早めの夕食をとり、自室で宿題を片付けていると、こんこんとドアが叩かれて、母が顔を
覗かせた。
「なんですか?母さん」
椅子をぎしりと軋ませて振り向く。
母は、何か小さな紙切れのようなものを手に俺の側にやってきた。
「お祭りでやってる福引の券が余ってるの。
よかったら、お友達を誘って行ってみたら?」
そう言って、名刺ほどの大きさの紙を二枚差し出す。
「俺は宿題がありますから…
母さんが使って下さい」
「私はもう昨日国晴さんと行ってきたのよ。
で、帰ってきてから、そう言えばお隣りの方にもいただいた券があったって思い出して。
お祭りの日は旅行でいないから、って私に下さったのを、別のところに仕舞っていて使い忘れてしまった
のよ。
そういう訳でせっかく二枚あるんだから、国光も誰か誘って行ってらっしゃいな」
そう言って母はにこにこと俺に券を差し出している。
しかし…
「俺はいいですから。もう一度父さんと一緒に行ってきたらどうですか?」
「やぁよ」
母は拗ねたようにぷいと顔を背ける。
「えっ?」
母にしては珍しいあまりにも子供っぽい仕草に俺は少し驚いて思わず声を上げてしまう。
「だって、私も国晴さんも二回ずつくじをひいて全部末等のポケットティッシュだったんですもの。
今年はもう行きたくないわ」
周りには誰もそんな人いないのよ、と母は情けない面持ちで苦笑する。
「今日は早く帰ってきたんだし、たまには遊んで息抜きしてらっしゃいな。ね?
それとも、そんな暇もないくらい宿題がたくさんあるの?」
「いえ…」
「それなら、ね?」
母は俺の手をとると、その上にそっと券を載せた。
「…じゃあ…、
行ってきます」
「そう。よかったわ。今年は夜店がたくさん出てたわよ。
楽しんでらっしゃい」
そう言って微笑むと、母は部屋を出て行った。
手のひらに載せられた二枚の紙に視線を落とす。
友達と遊んでおいでと言われても、その時特に会いたい人間も思い浮かばなければ、暗い中突然呼び
つけるなどという非礼が許されるほど親しく付き合っていると思う人間もいなかった。
だから、これは母に使ってもらいたかったのだが…
あまり頑固に拒否するのも…、と思って受け取ったものの………
どうすれば………
誰を
誰と
…越前と…
越前と、部活や学校以外の場所で会って、部活や学校でするよりもう少しだけ多く話ができたら。
電話して、突然誘って悪いと彼に詫びて…
いや、駄目だ。
早く帰宅し、大会に向けて体を休めるべき日に、部員をわざわざ外に遊びに連れ出すなど部長としてしては
ならないことだ。
仕方ない、一人で行こう。
宿題も、あと一問で終わりだ。
うっすらと西の空に太陽の明るさが残る中、俺は歩いて十分ほどの距離にある神社まで歩いた。
昼間の暑さもだいぶ和らいでいて、時折髪を揺らす涼しい風が気持ちいい。
日が暮れてから出かけるなんて、自主練習で走るときくらいだったので、たまにはこんな風にゆっくり歩く
のもいいなと思った。
夕食は既に済ませており別段腹も空いていなかったので、神社の中を適当に歩き回って祭りの雰囲気
だけを楽しむことにした。
…もっと小さなころは、母に連れられてこの夏の祭りに来たものだったが、テニスを始めてからは全く来て
いない。
テニスと、学生として最低限必要な学力を身につけること以外に、あまり興味がなくなっていたから。
今こうしてここにいることが、なんだかとても不思議に思えた。
…そろそろ帰るか…
一通り歩き終わった俺は、最後に福引をして家に帰ることにした。
券を渡して、箱の中から二枚、三角形の紙を取り出す。
目の前で切って開かれたそれには、『四等』、『三等』と、書かれていた。
「はい、これが四等と三頭ね!」
と手渡されたのは、四等と判で押した紙を巻かれた小ぶりな小麦粉の袋と、同じく三等と判で押してある
紙を巻かれた醤油のペットボトルだった。
「…ありがとうございます」
母には、喜んでもらえる…、だろう。おそらく。
引き当てた賞品を手にひとつずつぶら下げながら、福引会場を離れて神社から外に出るべく夜店が並ぶ
細い道を右に曲がろうとしたとき、ふと、左の目の端に見慣れた鞄がちらりと見えた気がして、振り返った。
あれは…
ラケットを入れる大きな鞄を背負っているのは
制服の白いカッターシャツ、黒いズボン
立てた黒い髪と、小柄で…
小柄で…
桃城と越前…?
どうして…
こんなところで…
二人の姿が見えなくなりかける。俺は二人の姿を追った。
少し離れたところから見える二人は、笑っているように見えた。
桃城が何か買って、越前に手渡す。そして、桃城は越前の腕をひいて、人込みの中に入って行った。
どうして、あの二人が、ここに。
俺の家は、学校からかなり離れたところにある。だから通学には電車を使って…
桃城は自転車で、越前は、徒歩だ。二人とも学校からそう離れたところに住んでいるとは思えない。
どうして、こんな遠くまで。
どうして。
どうして二人は
どうして二人で
さっき見た越前達の姿を思い出すと、ひどく気が滅入り、苦しくなる。
体がとても重たく感じて、しゃがみ込みたい気持ちになった。
行きは日が暮れて熱さの薄れた空気を心地よく思っていたのに、帰りは周りの空気がどうかなんて
まるきりわからなかった。
二つ賞品を持って帰ってきた俺に母が怪訝そうな顔をする前に、『突然呼び出すのは申し訳ないと
思ったので一人で行ってきました』と告げる。
引き当てた品を母に渡すと、母はただ、『ありがとう、国光』とだけ言ってにこりと笑った。
自室に戻り、予習をしようと教科書を開くが、ちっとも内容が頭に入ってこない。
ちらちらと浮かぶのは桃城と越前の姿ばかりだ。
何度も何度も繰り返して。
俺は、机の上に突っ伏した。
…ああ、そうだ。
明日
明日、注意しなくては
休養のために早く部活を切り上げているのに、家に帰らず遅くまで遊びまわっているなんて何事だ、と。
そう決めると、頭の中の二人の姿は急速にぼやけた。
「越前」
次の日の朝、軽く菊丸と打ち合ってコートから出てきた越前に声をかける。
「なんすか?」
「昨夜は、桃城と一緒に祭りに来ていたな」
「あれ、なんで知ってるんすか?」
「あの神社の近くに住んでるんだ。たまたま散歩がてら行ってみたらお前達の姿が見えた」
「なんだ、見てたんなら声かけてくれたらよかったのに…」
越前はそう言って綺麗に笑う。昨夜桃城といた時のことでも思い出しているのか。
「それより、どうしてあんなところにいた?桃城もお前もあの場所は家からだいぶ遠いはずだろう?」
「ああ、あれは…
昨日、桃先輩の好きなアーティストのCDが出るって言うから、じゃあまだしばらく先だけどそれを桃先輩の
誕生日のプレゼントにしてあげますって、一緒に買いに行ったんすよ。
でも、結構マイナーなアーティストなんで見つからなくて…
それで、少し足を伸ばそうってことになって」
さっさと帰れ。
「で、少し遠くの品揃えのいい店まで行って、買って戻ってくる途中であの神社見つけて。
桃先輩が、お前外国暮らししてたからこういうのよく知らないんじゃないかって言って、寄ってくれたんすよ。
言われた通り、俺よく知らなかったから嬉しくて…
桃先輩もいろいろ説明してくれて、奢ってくれて。すげえ面白かったっす。
部長知ってます?桃先輩射的めちゃくちゃ巧」
「あまり遅くまで出歩くのは感心しないな」
嬉しそうに桃城のことを話す越前の話を遮りたくて口にした言葉は自分でも嫌になるくらい冷酷な響きが
あった。
「部長…」
突然意地の悪いことを言われて驚いたのか、越前は大きな目を見開いて一瞬ぽかんとした。
すぐに二三度ぱちぱちとすばやく瞬きをすると、彼の顔にすっと冷ややかな怒りの色が浮かび上がる。
「…あれが、そんな言い方されるほど、遅い時間だったとは、思いませんけど」
「休養するために早く部活を切り上げているのに、家に帰らずに暗くなっても遊びまわっているなんて、
問題だとは思わないのか?」
「でも、部長だってあそこにいたんでしょ…!?」
「自分の家からすぐ近所を気分転換に散歩するのと、わざわざ一生懸命自転車をこいで遠出するのとを
一緒にするな」
「…だったら。
俺たちを見たときにそう言えばいいじゃないすか。なんで今頃言うんすか」
越前は、腹立たしげな表情で吐き捨てた。
「それは…」
それは
それは…
「あの時は、お前達を見失ったからだ」
嘘だ。
追おうと思えば追えた。
俺は
俺はあの時
俺はお前達を見て嫌な気がしたんだ。
俺はお前達に、嫌な気がしている自分を見られたくないと思ったんだ。
見失ったなんて、嘘だ。
追おうと思えば追えた。
「…だから、言えなかった………」
「…そうすか。じゃあ次からは気をつけます。
部長の目に、入らないようにね!」
「…越前!」
「おーおー、なに叱られてんだよ、越前!」
…桃城。
お前またなんかやらかしたのか〜?と越前をからかうように笑っている。
「…桃先輩」
「ん?どうした?」
越前の桃城を見る表情。つい今し方までの棘はどうしたんだ…
「…なんでもないっす。もう終わりましたから」
桃城が来てから一度もこちらを見ないまま、行きましょ、と桃城の腕を引く越前に、カッと頭に血が上った。
「桃城」
「へっ?あ、はい」
桃城は、越前、と小さく彼の名を口にして越前を止めると、掴んだ手を振りほどいて俺に向き直った。
「桃城。お前も先輩になったのなら、後輩を遅くまで連れまわすような真似はよせ」
言われた意味がよくわからないという顔をした桃城は、すぐにあ、と気がついた顔に変わった。
そして桃城の斜め後ろでじっと待っている越前のほうを見る。
「越前、お前昨日の事で怒られてたのか?
悪かったな、誘ったりして」
「桃先輩は悪くないすよ。もう少し遠くまで行きましょうって言ったの、俺ですから。
俺が悪いんす。
それに、もう説教はちゃんと聞きましたから」
互いに互いを庇おうとする越前と桃城の姿が我慢できないくらい不快だった。
…俺はこういう感情がなんと呼ばれているか、知っている。
………嫉妬だ。
「ねえ。部長、もう行っていいでしょ?」
…越前は心底俺から離れたそうに、再び桃城の腕を掴もうとした。
「おいおい越前、お前部長に対してそういう態度はなあ…
おいこら、ちょっと手ェ離せ」
「だって」
「いーから」
そう桃城がにっこり笑うと、越前はおとなしくなった。
「部長」
桃城が、俺を真っ直ぐ見上げる。
人からの視線を痛いと感じることがあるのだと、俺は知った。
「すんませんした。次からは気をつけます」
さっと頭を下げる桃城。
………俺はいったい何をしているんだ………
「……わかった。大会も近いんだ…。気をつけろ」
「…っす。
ほーら、お前も」
桃城が越前を促す。
「…すんませんした」
言われるまま、素直に頭を下げる越前に、俺は泣きたくなった。
(03/12/14)
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