「も〜う、どこ打ってるんすか」
「す、すまない。灯篭の光に目が眩んで…」
手塚のラケットに当たったボールは、ぽぉんと曲線を描いて鐘の後ろへと飛んでいった。
「…月があんなに高い…
そろそろ上がりましょうか」
「そうだな」
言って手塚は踵を返し、今までリョーマと二人で壁打ちをしていたところから少し離れた場所に置いてある
自分の荷物のところへ行って着替えようとした。
「あ!ちょっと待って部長!!」
リョーマが、手塚の腕をきつく掴む。
「…なんだ?」
「部長が鐘の後ろや植木の中に飛ばしたボール!
まさかそのままほったらかしで帰るつもりじゃないっすよね!?」
ここが一年生が何でもやってくれる学校のテニスコートではないことを手塚は思い出した。
「…あ。そ、そうだな…
でも、もう遅いし…、暗いし。
申し訳ないが、また明日の夕方、練習を始める前に拾ったほうが」
「ダメー!
親父のボール、ちょっとでも少ないとアイツになに言われるか!」
リョーマが、ボールの入ったプラスチックのバケツを指差す。
練習を始める前はバケツのふちより盛り上がってたくさん入っていたボールが、今はほとんどバケツのふち
すれすれになっている。
「帰りに俺から南次郎さんに詫びておくから。
こんな暗い中、茂みの中に入ったら危ないだろう?」
「親父に頭下げるなんて絶対やだ!
いいよもう!部長が探さないなら俺一人で探すから!俺だって飛ばしたし!ついでに部長のも拾っといて
あげますよ!
ほら、さっさと着替えて帰ったら!?」
「お前は、そんなにお父さんに借りを作るのが嫌なのか…」
「…………別にいいでしょ」
リョーマはふんと背中を向けてしまった。
「…わかった。俺も探す」
「……ども」
振り返らないまま、小さく返事か返ってくる。
「俺が打ち損ねたのも、あるしな」
「………っすね」
「六回飛ばしたから、六個、っすね」
「…数えてたのか?」
「まあ、ね。
あとで探すの楽でしょ?
じゃ、俺こっちから探しますから、部長はあっちの方からお願いします」
「ああ。わかった」
ついさっきまで濃い黄色をしていた丸い月が、今はもうだいぶ高くなり放つ光も澄んだ青白いものに
変わっている。
頭上から降り注ぐその明るい光のおかげで、思ったよりも楽に二人はボールを見つけることができた。
「…部長、そっちいくつ見つかりました?」
「三つだ」
「…俺は二つ。
じゃあ、もうひとつはここらへんかな」
リョーマは端と端から歩いてきた二人が出会った鐘の真裏あたりをぐるりと顎で指し示した。
「そのようだな。
手に持ったままじゃ探しづらいだろう。
それは一旦バケツに戻してくるから、待ってろ」
「すんません」
リョーマは、差し出された手塚の手のひらの上に持っていたボールをのせた。
受け取った手塚は、茂みをがさがさ鳴らしながら一度リョーマの視界から出て行った。
「…ふー…、あっつい…」
太陽がすっかり落ちてしまってもなお昼の暑さの余韻を残した生温い空気が体にまとわりつく。
リョーマは指で襟元をぱたぱたと動かしながら、空を見た。
少し前に見上げた空にはほとんど雲などなかったのに、いつの間にか今は空の半分くらいを覆っている。
「雨、降るかも…
よかった、拾うの明日にしなくて…」
分厚い雲が、月にかかった。
闇が増す。
「待たせたな」
「…!」
視界がぐんと悪くなったのと同時に声をかけられて、リョーマはびくりと体を震わせた。
「越前?」
「…なんでもないっす。
ちょっと暗くなったけど、灯篭の明かりだけで部長大丈夫っすよね?」
「ああ、これくらいなら、なんとか…」
びびった自分に気がついてはいないようだ。リョーマはほっと安堵の息をついた。
二人は少し離れて、五分ほど黙って探していた。
「ない…。
越前、そっちはどうだ」
「…ないみたいっす…」
問いかけの声にリョーマは立ち上がり、手塚のほうを向いて首をふった。
手塚はひとつ息を落とすとリョーマのほうへ歩き出した。
「困ったな…、一度戻って懐中電灯でも借りたほうが…っわっ!」
「部長!?
あ…ッッ!」
どさり。
「い、た…っ」
「つ…。だ、大丈夫か?越前…」
「大丈夫、みたい、っすけど…
なにやってんですか、部長…」
「す、すまない…
何かに蹴躓いて…」
何かに躓いてよろめき倒れた手塚は今、リョーマを押し倒す形で上にのっかっていた。
鐘の裏は灯篭の光が届きにくく、さらに間の悪いことにちょうど雲が厚く月を覆い隠していて周囲は
闇に沈み、心配して上から覗き込んだリョーマの顔もよく見えない。
「別に、いいっすけど…
…んん」
手塚の大きな体の下で小さなリョーマの体が苦しそうに身じろぎする。
「あ、す、すまない…!」
下敷きにしてしまった華奢な体から手塚が慌てて離れようとするのを、リョーマが手塚の肩の辺りに
手をかけて押しとどめた。
「部長」
「な、なんだ」
再び手塚はリョーマの体に覆い被さることになる。
「今暗いから…。
慌てて動かないほうがいいんじゃないすか?
俺なら…、別に平気っすから」
「あ、そ、そうだな」
「でも動かれると苦しいんでじっとしてて下さいね」
「あ、ああ」
手塚が言うと、返事の代わりにどこかぐったりとしたなまめかしい溜息が聞こえてきた。
「……………………」
こんな風に、誰かと体を寄せ合うことなど今までなかったから、なんだか、変な感じがする、と手塚は思った。
普通なら、部活の後輩とはこんなことしないだろう。好意を持った異性とならいざ知らず、同性の後輩と。
普通なら。
わけもなく、鼓動が速くなるのを感じた。なぜだ。仕方なくこうしているというのに。
普通ではない状況だと思うからそうなるのか。それとも、それとも…何か別の。
練習して汗をかいて互いにべたつく腕や腿を触れ合わせているというのに、不快感よりその肌の柔らかさ
滑らかさのほうが気にかかるのはどうしてなのだろう。
手塚はぶんぶんと頭を振りたくなったが、じっとしていろと言われているので我慢した。
雲が途切れて、ふ…っと周囲の景色がクリアに浮かび上がる。
「越前…」
手塚は内心おや?と思った。確かに明るさはさっきより増しているのに、すぐ側のリョーマの顔がよく
見えない。
「部長、メガネが…」
「メ、メガネ?」
「メガネ、ないっすよ」
「え…?あ」
そう言えば耳や鼻に当たるいつもの感触がない。見えないはずだ。
「見えます?」
「あ、ぼんやりとなら…」
「じゃあ、立って。明るいうちに」
「あ、ああ…」
「で、じっとしてて下さいよ。
俺がメガネ探しますから」
二人は立ち上がった。
「ふー…」
「越前、すまない。
怪我はないか?」
「大丈夫っす。下は柔らかい土だったし…
部長、うまく手をついて俺にあんまり体重かからないように転んでくれましたからね。
部長のほうこそ手首ひねったりしてないですか?」
「大丈夫だ」
「そうすか。よかった。
じゃ、そこから動かないで下さいよ。
あ…」
「越前?」
「メガネあった」
リョーマは少し離れたところでレンズをきらきらさせている手塚のメガネの側に歩み寄り、上半身を
折り曲げてそれを手にした。
「ありましたよ。
あれ…?」
「どうしたんだ?」
メガネがなくてろくに周りが見えないまま突っ立っている手塚の声はいつもに比べて若干心細そうな
響きがあって、それがなんとなく可愛らしく感じられる。
リョーマは、メガネに顔を近づけて月明かりの下しげしげと見た。
「割れて…、いや、ヒビが…」
「…えっ?」
「ああ、ヒビ入ってますよ。
ほら」
リョーマはすたすたと戻ってくると手塚の右手にそれを載せてさらに左手をとってレンズに指先を触れ
させた。
「…ああ…
本当だ、な…」
つるりとしているはずのレンズの表面に不自然なひっかかりがある。
「部長…
大丈夫っすか?」
「ん?」
「メガネなしで、着替えて、帰れます?」
「大丈夫だ。よく見えないのはここが月明かりだけだからだ。
着替えは別にいつもしてることだから多少見えなくても問題ないし、街灯のある道なら歩くのも大丈夫だ」
「そうすか」
「すまないな、心配かけて」
「いえ」
「あ、ボール…」
「え?だけど今日はもう…」
「いや…、あそこにぼんやりと黄色いものが見えるんだが…
違うか?」
「あ。ホントだ。
…よかった。見つかって」
「…そうだな」
手塚も小さく微笑んで頷いた。
着替えて、リョーマの家でよく冷えた麦茶を一杯飲んで、そして街灯の人工的な光に照らされた道路を
二人は並んで手を繋いで歩いていた。
「本当に、駅まで送ってくれなくても大丈夫だが…」
「ダメっすよ。部長の家の側ならともかく、ここは部長のよく知らない道なんすから!」
「だからと言って、別に手を繋がなくても…」
「おじいちゃんと孫みたいっすね、あはは」
リョーマは笑って急に足を速める。
「わ、こら、越前…!」
そのまま二、三歩手を握られたまま引きずられる。
「大丈夫?おじいちゃん?」
「越前…!」
突然止まって手塚を振り向くリョーマに、手塚はむっと眉を寄せた。
それを見てまたリョーマは声を出して笑った。
あんまり彼が嬉しそうに笑うので手塚はリョーマの手を握りなおして自分からすたすたと歩き出した。
見えない後ろではまだリョーマが微笑んでいる気配がした。
(03/08/13)
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