全国大会が、終わった。


表彰式のあとも祝勝ムード覚めやらぬ青学だったが、試合中負傷した手塚と、同じく試合中に負傷し病院へ
運ばれたにもかかわらずそこを抜け出してきた乾をまず病院へ連れて行かねばならないという事で、祝勝会は
また今度、全国大会が終わって三日後に予定されている毎年恒例のテニス部合宿が終わってから、それから
改めて、という事になり、その日はすみやかに解散となった。


夏が、終わった。





帰宅したリョーマは風呂で今日一日の汗を流し、洗い立てのTシャツと短パンに着替えると、濡れた髪も
そのままにベッドに体を投げ出して、これまでの事と、これからの事に思いをめぐらせていた。

決勝戦のあの激闘、決勝戦が始まる前テニスする事で自分の記憶をだんだんと取り戻していったあの時の
感覚、父親との山ごもり、それよりもっと以前の事……
そして、自分とテニスの一番古い記憶から、また、今日の決勝戦での自分の試合まで。

(楽しいんだ。俺は、テニスが。
もっと、テニスがしたい。もっと、強くなりたい。
もっと)


(そう、もっとだ)


押さえられない、とリョーマは思った。

シャツの胸元に手が伸びる。ぎゅうと握り締める。


この欲望を、自分は押さえられそうにない、体がじっとしていられない、突き動かされる。

リョーマは跳ね起きた。
もう、止められない。自分で、自分が何を本当にしたいかわかってしまったから。

(………)


だけれど、衝動に身を任せて動き出す前にきっちりさせておかなければいけない事がある。

リョーマは、階下に降りて、受話器を手に取った。





手塚が帰宅し、着替えて階下に下りてきたちょうどその時、玄関先に置いてある電話が鳴った。
手塚は、受話器を手に取る。

「はい、手塚でございます」
『…、越前です』
手塚の、受話器を握った手に僅かに力が入る。

「…越前か。どうした、何か用か」
『話したい事が、あるんすけど』
「…話したいこと…? なんだ」
『すいません、電話じゃなくて、直接…
直接、会って話したいんです』
「直接…」
『今から… 行ってもいいですか?』
「今から?」

手塚は受話器を耳に当てたままコードが伸びる限界まで電話から離れ、居間を覗き込んだ。
居間の壁にかかっている時計が示す時間は、まだそんなに遅い時間ではない。

「…構わない。大丈夫だ」
『…じゃあ、あとで』
「ああ、では」
失礼します、とリョーマは電話を切った。
手塚も、ちん、と受話器を置いた。





どこか上の空で夕食を済ませた手塚が居間で特に見るでもなくテレビを眺めていると、呼び鈴が鳴った。
「あ、はーい」
隣りの台所で洗い物をしていた母親が、濡れた手を拭って玄関へ行こうとするのを
「母さん、俺が」
と短く制して手塚はそそくさと玄関へ向かった。


どちら様ですか、と確認するのを忘れていたわけではない。
が、手塚は今その手間ももどかしかった。
扉を開ける。


「越前」
「あ… 部長。
こんばんは」

何の前触れもなくいきなり扉が開いたせいか、リョーマは少しびっくりした顔をしていた。
手塚は自分がこの小さな後輩を驚かせてしまった気まずさを誤魔化したくて、咄嗟に。
「……風が涼しいな。どこか…外で話すか?」

しかしリョーマは小さく首を振って答えた。
「いえ、すぐ済みます。ここで」
「そうか」

手塚は、後ろ手に扉を閉めて表に出た。


「…で、俺に話とはなんだ?」
リョーマはすと息を吸い込むと意を決したように言った。

「部長、俺、アメリカに行きます」


手塚は、驚きに自分が目を見開いたのがわかった。
同時に、やはり、という気持ちもあった。
リョーマが何を思ってアメリカに行くと決めたのか、だいたいの察しはついた。


「…いつだ」
「準備が出来次第、すぐに。
たぶん… 一週間かからないと思います」

リョーマの返答には淀みがない。
まるで手塚があれこれ追求してこない事をわかっていたかのようだ。


「そうか」

そこで、それまで手塚をまっすぐ見上げていたリョーマの目がほんの少し、ほんの少し小さく揺れたのに
手塚は気づいた。


(…越前…
地区大会、都大会、関東大会、全国大会と…
ずっと戦って戦って勝ち進んできたお前に、これからのスケジュールはさぞ物足りないだろう。
全国大会に相当するような大きな大会はない、部内でも三年が部活に参加しなくなる、そして俺は…
俺は三月までしか日本にいない。
外部との練習試合にも限度がある。何よりお前と鎬を削った選手はほとんどが三年生、受験生だ。
相手をしている時間もないだろう。
お前は力をもてあましてしまう。それはいけない。力をもてあましてはいけない。
常に出し切って、全力を使い切っていないと、そうしないと、今以上の強さは手に入らない)


「そうか… お前は… アメリカに…」
「………」


(伸びたいと、今伸びたいと望む越前の頭を俺の一存で押さえつける事なんて出来ない。
何より、俺が越前の成長を強く望んでいる)


だから、と手塚は思った。


「越前」
「…、はい」
リョーマが小さく構える。
俺がお前に恨み言でも言うかと思ったのか?と手塚は考えて、内心苦笑した。


「今日、決勝戦のシングルス1で幸村に勝って、青学を優勝に導いたお前はもう、立派な青学の柱だ。
お前が青学にいても、アメリカにいても、どこにいても。
お前がテニスを続ける限り、そして強くあり続ける限り、お前は青学の柱だ」


(だからお前は、自分の行きたい場所で、自分のテニスを、自分の強さを… 求めてくれていいんだ)


不安げに少しだけ揺れたリョーマの目に、力が戻る。
「…、はい!」


「越前、俺は」
「?」
「俺は、卒業したらドイツに行く。プロになる為に」
「…部長」
「アメリカに行ったお前がどれくらい強くなるのか、楽しみにしている」
「はい…!」

手塚とリョーマは、互いの目を見たまま、幸せそうに、嬉しそうに、小さく笑んだ。
胸の奥から溢れる幸福感が、柔らかく優しく表にこぼれ出るような、そんな笑みを。


「…ところで、部長」
「なんだ?」
「腕は… 大丈夫なんすか?」
リョーマ自身の目で見たわけではないが、今日の対真田戦で手塚が左腕をひどく痛めた事は知っている。

(…しかも…
俺が、煽った、あの。
あのやり方で…)


「…しばらくは控えなければならないが、じき治る」
「…そうすか」
よかった、とリョーマは心から思った。

「…テニスをしたいのは山々だが…
俺は一年の時からこの左腕に無理ばかりさせてきた。
…潮時だ。卒業までに完全に治す」
と、手塚は包帯を巻かれた部分にそっと手を這わせた。

「そうですね。そうして下さい。俺もいつまでも冷や冷やするの嫌だし」
「冷や冷やしていたのか」
「そりゃあもう」
リョーマは肩を竦めて見せた。
「部長に負けっぱなしのままなんて絶対に嫌ですから」
と、いつもの挑発的な笑みを口元に浮かべて、リョーマは言う。
「そうか」
申し訳ない、だけど嬉しい… 自分の中に沸き起こるそんな感情に手塚は少しだけ相好を崩す。


「…じゃあ、俺、行きます」
「…ああ」


小さく会釈して、踵を返すリョーマ。
足早に立ち去る。
振り返りはしないだろうか、一度でも、と、手塚は家に入る事が出来なかった。
しかしリョーマは一度も振り返る事なく曲がり角を曲がり、そして彼の姿は手塚から見えなくなった。





リョーマは家に戻るとまっすぐ父親のいる居間に向かった。
そして襖を勢いよく開ける。
「親父、俺」
畳の上に寝転がってテレビを見ていた南次郎が、少々辛そうな体勢で顔だけちらりとリョーマに向けた。

「アメリカに行くから」


「…そうか」
それだけ言うと、南次郎はまた、テレビに戻ってしまった。
リョーマもすたすたと自分の部屋に入る。


南次郎は、思い出した。
(いつだったか… リョーマが夕方、珍しくアイツのほうからテニスしようって言ってきて…)

そしてその時の彼の気迫に、日本に帰ってきて青学に行かせてよかったと思ったのは

(そんなに昔の話じゃねえのになあ…)

薬が効き過ぎたかと南次郎は肩を震わせて苦笑した。





それから二日間、リョーマはテキパキと渡米の準備を行った。
今は気心の知れた両親の知人に管理も兼ねて住んでもらっているが、向こうには家もある。
急な話で申し訳ないが、一部屋くらい間借りさせてもらえるだろう。
幸い、そういう事が許される間柄の知人だった。
他にも細々やる事はあったが、もともとこの日本よりずっと長く暮らしていた土地だ。
そう難しい事ではなかった。


(…終わった。あとは…)

リョーマは旅行鞄の口を閉めると、よ、と立ち上がった。
窓の外はもうだいぶ日が傾いていて、日の光に照らされる雲が明るい真っ白から、あたたかみを帯びた金に
移り変わろうとしていた。
それを見たリョーマは階下に下りて受話器を手に取る。


呼び出し音が二回鳴ったあと、はいはーい、と元気のいい大きな声が聞こえてきた。
「あ、桃先輩?」





リョーマは、桃城を夕暮れのストリートテニス場に呼び出した。

そこで待ち合わせた二人は、テニス場の喧騒から逃れるために、少し離れたところにある公園へ向かった。
そこはテニス場と同じく高台にあって、夕日に照らされる街がよく見えた。

桃城は、眼下に広がる金色の街にすげえなと独りごちながら、うーん、と気持ちよさそうに大きく伸びをする。

「八月も終わりになると日が暮れるのがちょっと早くなった気がするな。
つっても、まだまだ明るいし暑いけど。
で、なんだよ?話って」
そう言って、後ろのリョーマを振り返る。

「…桃先輩」
複雑な表情で、言葉を選んでいるような素振りのリョーマに桃城はぎょっとして一歩、後ろに下がった。

「おい、お前まさか…
夏休みの宿題が手付かずなんですとかそういうのはカンベンしてくれよ?」
俺だってついさっきまで必死でやってたんだからと桃城はひきつった笑いを浮かべた。
しかし、すぐに。

「…だけど、まあ。
どうしてもって言うなら… 面倒見てやらない事も、ない。
うん!それが先輩としての、務めだ、からな!」

考え考え、言葉をつむぎながら、それでも任せとけと笑って胸を張る桃城を見て、リョーマは、ああやっぱり
自分は本当にこの人が大好きだと思った。

「明日からは合宿だしな、遠慮すんな」


自分はこの人を置いて行く。離れて行く。
切ない、泣いてしまいそうだ、とリョーマは思う。
しかしここでリョーマは泣きたくなかった。
力を入れて、堪えた。
堪えて、少し笑った顔を作った。


「…俺、明日アメリカに行きます」


「アメリカ」
桃城は、何を言われたのかよくわからないといった体で、ぽかんとしている。
「はい」
「…え?
え?え?え…?アメリカ?え?
だってお前、明日から合宿じゃねえか。それどうすんだよ」
「…テニス部は、退部しました」
「…たいぶ…?」

桃城は、もう一度、言葉の意味を確認するように、たいぶ、と小さく呟いた。

「…どうしてだ?」
桃城の眉根がみるみる寄せられる。辛そうに。
桃城にそんな顔をさせたくなかった、リョーマの胸も切なく痛む。
「…家の都合か?
何か、何か、向こうに戻らなくちゃいけない事情でも、出来たのか?」

リョーマは黙って首を振った。
「じゃあ…」
「桃先輩。俺、もっと強くなりたい。強くなりたいんです。だから」
「えち、ぜん…」
桃城ははっと気がついた。
要するに、物足りないのだと、言われたのだ。

(全国大会の決勝戦、あれだけの相手と、あれだけの試合をすれば、そりゃ、なあ……)

「………」
桃城は、何と言えばいいのかわからなかった。言葉が出てこない。
リョーマも、黙っている。


(…正直、越前に抜けられるのは、キツイ)

主戦力の三年生は明日からの合宿を最後に部を引退する。
それでも時間があれば部内の練習には参加し後輩を鍛えてくれたりはするだろうが、試合に出る事は、もう
ない。

大幅な戦力ダウン。

もちろんみながんばっている。しかし、冷静に、客観的に見て…
やはり今年度よりは、見劣りする。

今年は全国優勝出来た。でも来年は?
三年の抜けた穴を自分達で本当に埋められるか、桃城はそれを時々、たまらなく不安に思った。

だけど、と、桃城は考える。


(…だからって、自分が不安だからって、今すげえやる気出してる後輩にそんな情けない事、言えるか?
…言えるわけねえ、言えるわけねえよ!
ここは、笑って、どーんと送り出してやらなけりゃ、いけねえよ!)
先輩として、あとは任せろ!行ってこい!くらいは余裕で言えるくらいじゃねえと、と桃城は思った。


「…そうか、がんばれよ。越前」
桃城は、ニッと口角を上げた。

「…桃先輩」
「行ってこいよ。
そして強くなってこい。
なあ越前、お前がアメリカでがんばってると思う。それだけで俺も、他のヤツらも、お前に負けねえって
がんばれる。勇気が出る。俺達はいつまでも仲間だ。お前はいつまでも俺の可愛い後輩だ。がんばれ。
がんばれ越前。俺もがんばる。そしてまたいつか、試合、しような」
桃城は目をぱちぱちさせながら早口でまくし立てた。

「…はい。桃先輩」
「…もう、行っちまえ行っちまえ。
お前、強いヤツとやりたくて仕方ないんだろ?
あーくそ、悔しいなあ。俺じゃ足りないのかよ、くそ、悔しいなあ。あーもうお前、次会った時は絶対
コテンパンだからな。畜生、覚えて、ろよ」
目を激しく瞬かせて必死に涙がこぼれそうになるのを堪えていた桃城は、とうとう堪えきれなくなって
背を向けた。

「あーもう暑い暑い。汗がだらだら出て、止まんねえよ」
震える手が忙しなく顔を拭うのが、背中越しにリョーマにもわかった。

(……桃先輩…、…ありがとう… ありがとう、ございました)


手だけでは全然足りず、最後は着ていたTシャツの裾まで動員したところで、やっと桃城の涙は止まった。

「…なあ越前、お前、この事…」
「…手塚部長には話してます」
「そうか…
つかお前、なんでこんなギリギリ…」
「…すいません」
「…まあ、大げさな送別会、なんて、確かにお前のガラじゃないかもしれねえけどよ…」
引け目を感じているのだろうと、桃城は思った。
越前は、たぶん、自分がする事を、青学テニス部に対する裏切りだと、そう思って。

(…けどよ)

誰もそんな事を思ったりはしないのに。
驚きはすると思う、少々困ったなとも思うと思う。
けど、最終的にはみんな、自分と同じ事を考えると桃城は信じている。

(お前を可愛がってる先輩はたくさんいる。お前を慕っている一年生はたくさんいる。
いるのに…)

その全員で送り出させてくれないリョーマが桃城は少し憎たらしい。
けど、テニスコートではあんなにふてぶてしいのに変なところだけ常識的で控えめな、そういうところも桃城は
嫌いじゃなかった。

「たく、こんな時間からじゃ…」
桃城はぐるりと辺りを見た。既に日は落ちて空は残り少ない夕焼けの赤を僅かに含んだ紫色。

「…他の先輩達に知らせるだけで一日が終わっちまう。
せめて、俺には、送別会やらせてくれよ?」
「はい、ありがとうございます」
「あーあ、こうやってお前とメシ食いに行くのもこれが…」
と言いかけて桃城は言葉を止めた。

「…最後だとか思わねえから」
桃城の笑顔に、今度はリョーマが言葉を詰まらせた。
「…、はい」
「よし、じゃあ、行くか!なんでもお前の好きなもの、驕ってやる!」








その次の日。
青学テニス部の部員は、今日から始まる合宿に参加するため、早朝から学校に集まっていた。

同学年の部員に混ざって談笑している桃城のところに、菊丸がすすすと近寄ってきた。
「桃ー、おチビいないよ?
お前今日迎えに行かなかったの?」
「あ… 英二先輩… それなんすけど…」

もごもごと口ごもる桃城に菊丸が大きく首をかしげたところで竜崎からの集合の声がかかった。
ヘンなももー!、と言い残して、菊丸は走っていった。
桃城は、そっとため息をつく。
ヘンだと言われた事に対してではない。これから菊丸が知る事についてだ。

(…英二先輩も、越前の事、可愛がってたもんなあ…)
お別れが言えなかったと知ったら、本気でわんわん泣きそうだ。
そして
(俺は聞いてたって知ったら、めちゃくちゃ怒るんだろうなあ…)
桃城は、またそっとため息をついた。



「みんな、おはよう!」
顧問の声に、部員もおはようございます!とはきはきと挨拶を返した。

「昨夜はよく眠れたかい?
今日からの合宿はキツイよ?
三年はこれが公式には最後の部活動になる。思う存分、後輩をしごいてやるように。
そして二年、一年は、三年から受け取れるだけ、受け取るようにな!
二学期始まってすぐのランキング戦、期待しているよ!」

はい!と大きな声が響く。


「…それから」
言いにくそうに言葉を切った顧問の様子に、合宿経験者の二年と三年は違和感を覚える。
このあとは点呼を取って、バスに乗り込むだけだ。
この時点で他に、顧問からの連絡事項など、あっただろうか。


「越前は、アメリカに行きたいからと言って、二日前に退部届けを出した」

事情を知っている手塚と桃城以外、全員が、呆気にとられた。
そして次の瞬間、騒然となる。

菊丸が、声を張り上げた。
「アメリカ!?まさかもう、行っちゃったの!?」
「いや… 今日、発つそうだ」
「今日…? そんな……」
突然の別れに、菊丸はがっくりと肩を落とす。

「竜崎先生」
乾が手を上げた。
「越前は、なぜ、アメリカに…」
「もっと強くなりたいから、と、言っておったよ」

竜崎の返答に、乾は、はっとなってあとの言葉を飲み込んだ。
他の部員達も黙り込む。
二年の中には、気まずそうに俯く者も多い。

そうやって下を向いてしまった同級生の気持ちが、桃城は痛いほど理解出来た。

しょんぼりとしていた菊丸がむむむと唸る。
「けど…、だからって… なんで…
先生、おチビが部を辞めるって言ったの、二日前なんでしょ!?
なんで、教えて」
「夏休みの宿題で忙しいお前達を煩わせたくなかったんじゃよ」
どうして全国大会のあと、合宿まで少し間を空けるか、お前さんもわかっとるだろ?と、竜崎は首を竦める。

「そりゃたまった宿題を片付けて心置きなく合宿で汗を流すためですけどー!!!
…でも…、でも…
水臭いよ、おチビ…
おチビのために、時間作るくらい、そんなのわけないのに…
気にしなくていいのに…」

菊丸の眉がみるみる真ん中に寄り、今にも泣きそうな顔になる。
他の部員も、みな一様に頷いたり、『そうだ』と口にした。

「てか!」
今にも泣き出さんばかりだった菊丸が突然きっと顔を上げる。
「桃、お前、知ってたな!?」
「ひっ!」
ものすごい形相で振り向かれて、桃城は飛び上がった。

「…や、俺も… 昨日、おそ…」
「ひどい!桃!」

キャー!と悲鳴をあげて逃げ出す桃城。菊丸がその桃城を追おうとするのを…
「まあまあ、英二、落ち着いて」
と菊丸の前に体を割り込ませた不二が、やんわりと肩を抱いて止めた。
「だって、不二!」
それには答えず、不二は竜崎の方を見る。

「先生、越前が出発するのは今日ですよね?」
「ああ、そうだ」
「なら、今から空港に行ったら間に合うんじゃないんですか?」
不二はニッコリと微笑んで言う。

「ちょうど全員が乗れるだけのバスもありますし。
それに、あの朝の弱い越前が…」
不二の言いたい事を察した菊丸の目が輝く。

「そっか!あの遅刻常習犯のおチビが、朝早い便を予約してる可能性は、ゼロに近い!」
「そう、加えて僕達はこんなに朝早い時間に集まってる。行動を起こせる。
十中八九、空港で彼をつかまえられると思うよ?」

不二のその言葉に歓声が上がる。
「ちょっと待て、お前達…」
鞄を抱えてバスに向かって走って行こうとする部員達に、ちょっと落ち着けと竜崎が声をかける。
しぶしぶ、部員達はその場で足を止めた。

「先生」
大石が竜崎のもとに歩み寄り、大きく頭を下げた。
「お願いします、行かせて下さい!」
見ていた他の部員達も大石に倣って、口々にお願いします!と言って、頭を下げた。

(まったく… コイツらは…)
竜崎は考えた。教師として、ここはうまく言いくるめて諦めさせて予定通り行動するのが一番妥当なのだろう
と。
しかし、彼女はそうしようとは思わなかった。
生徒達の思いを汲んでやりたかった。

「いいから、ちょっと待て」
「先生!」
大石から鋭い非難の声が上がる。竜崎はそれをニヤリと受け流して
「まずは点呼を取ってからじゃ」
「先生…?」


「全員が揃っている事を確認してから、それから全員で空港に向かう!」
と、きっぱりと告げた。


うおおお!と歓喜の声が上がる。
「こら!まだ朝早い時間だ!静かにせんかいバカモンが!」
怒鳴る声は大きい。
けれど竜崎の顔は嬉しそうだった。





青学テニス部員32人全員を乗せたバスは、今高速道路を走っている。
幸い渋滞もしておらず、これなら先ほど乾が検索した所要時間通りの時間で空港に到着出来そうだ。


「…そうか。ああ、わかった。すまないね、倫子さん。じゃ」
先頭の座席に座り、携帯電話でなにやら話していた竜崎が後部座席を振り返った。

「今電話で確認したが、越前はついさっき家を出たそうじゃ!」
歓声の声と、安堵のため息が混ざったものが車中に満ちる。
とりあえずバスに乗って出てしまえと確認を後回しにしたが、その選択に間違いはなかったようだ。


ため息組の不二は、ほっと肩の力を抜く。

(ああ言ってみんなを煽って出てきたものの… でも本当に追いつけるという確証はなかった。
よかった……)

これでもし目的を達成出来なかったら、顧問としてこの勝手な行動の責任を追及されるかもしれない竜崎に
申し訳ない。
不二は、もう一度、ほっと息をついた。

(…越前… 僕達は… 絶対にキミをつかまえる)









空港に到着したリョーマは仰天した。
なんだ、この見覚えのあるジャージの集団は。
こんな時間に、こんな場所で、見るはずのない、この見覚えのあるジャージの集団は。
そしてそのジャージの集団から口々に、越前、越前!という声が上がる。
どうやらこれは夢でも幻でもなく、しっかり現実らしい。


「おチビー!!!」
集団の中からたたっと飛び出してきた菊丸に、リョーマはぎゅうと抱きしめられる。
「…俺に黙ってアメリカに行こうなんて…
おチビ、俺はおチビをそんな親不孝者に育てた覚えはないぞ!」

その光景を見ていた全員が内心『ちょっとアナタいつ越前の親になりましたか』とツッこむ。
しかし菊丸はそんな事まったくおかまいなしに、満足そうにリョーマの頭を撫で回した。

「…英二先輩… どうして…」

その質問には、菊丸ではなく不二が答えた。
「ふふふ。合宿の集合時間が早朝だった、おかげ」
「不二先輩…」
リョーマが菊丸の胸から顔を離すと、いつの間にか、周りを部員に取り囲まれていた。

「先輩達… どうして」
「おチビ、水臭い」
菊丸がぴしゃりと言う。

「英二先輩…」
「何も言わないで… こんなのすっごく… 寂しい」
「…ごめん、なさい」
「もう二度としないって言いな。
言わなきゃ、許してあげない」
「英二先輩…
…はい… もう二度と…
しません」
「ならいい」
菊丸はまた、リョーマの頭をよしよしと撫でた。


「英二ばっかり、いつまでも独り占めしないでよ」
「…あ、不二」
察して、菊丸がすすと離れる。
リョーマの目の前に立った不二は、しかしリョーマではなく手塚に向かって話しかけた。


「手塚。キミはどうせもう話、してるんだよね?」
ぴくと頬を強張らせる手塚。
そんな手塚を菊丸が冷たい目で一瞥した。
少し人の悪い笑みを貼り付けて不二は続ける。
「だからキミが最初じゃなくてもいいよね?」


(…わかっているなら、わざわざ言うな、不二…)
別に悪い事をしたわけではないが、やはり少々気まずい。

(ハハハ、僕だって教えてもらえなかった事、おもしろくないに決まってるじゃない)

宿題なんて、そんなもの。
とっくに終わっていたというのに。

(…たった一度、越前と全力で戦うくらいの時間なら、あったんだ)

「越前」
「不二先輩」
「キミとは… 結局決着をつけられないままだったね。
いつかまた、僕と試合してくれるかい?」
「はい、ぜひ」
「楽しみにしてる。行っておいで」
不二は、リョーマに手を差し出した。リョーマははい、とその手をしっかりと握り返した。


「越前」
「大石先輩」
「越前、短い間だったけど、楽しかったよ。ありがとう」
「…先輩」
「お前の存在が、お前の強さが、俺達をどれだけ支え、奮い立たせてくれたか。
本当にありがとう、越前。
体に気をつけてな。たまには連絡しろよ?」

そう言って、大石は慈しむように両手で優しくリョーマの肩をぽんぽんと叩いた。
目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「大石先輩… ありがとうございました」
リョーマは、ぺこりと頭を下げた。


「越前」
「乾先輩」
「ランキング戦のリベンジが出来なくて残念だよ」
「つか俺らもうランキング戦ないじゃん」
菊丸が割り込む。
「…!いや、それは… そういう意味じゃなくてだな…!
ランキング戦に限った話ではなく、しばらく試合の機会がないなという意味であって…!」
「うん、はいはい」

自分からツッこんだくせに、菊丸はもう興味をなくしたようだ。
ギリギリと歯噛みする乾のジャージの裾をリョーマが引っぱる。
「乾先輩」
「あ、あー… コホン。
俺のデータから考えるに、越前お前も、俺も、まだまだ伸びる余地はある。
がんばろう、お互いに。
そしてまた、テニスしよう」
「はい!」
「あ、それから」
「?」
「牛乳二本は、続けるように。先輩からの忠告だ」
「……あ」
特に牛乳が大好き、というわけではないリョーマは、少し困ったように苦笑して眉を寄せる。

「…技術だけじゃなく、体のほうも成長してもらわないと、倒しがいがないんでね」
乾が、にっと口の端を釣り上げた。なるほどね、とリョーマも不敵に微笑む。
「…ういっす」


「…おい」
「…海堂先輩」
「がんばれよ」
海堂は、俯き気味に視線を逸らしたまま、ぼそりと呟いた。
「海堂先輩も、ね」
目を合わせようとしない海堂の顔を、リョーマは挑発するように下からにゅっと首を突き出して覗き込む。

「…うるせえ。わかってんだよ」
逃げられないと思ったのか、やっと海堂がリョーマを見た。
「俺もがんばります」
「わかっ、た」
海堂はずれたバンダナを整えるような仕草で指先を額に当てると、そのままぷいと背を向けた。


「越前」
「河村先輩」
「俺は、中学でテニスをやめてしまうけど」
「……」
「けど、お前がテニスを頑張るように、俺も寿司屋の修行を精一杯頑張る。
世界は違うけど、でも、頑張るのは一緒だ。かわらないよ。
テニスの世界で頑張るお前を見て、俺は頑張ろうと思う。俺もお前を奮い立たせるだけの頑張りを、俺のいる
世界で、しようと思う。
日本に戻る事があったら、絶対また、うちに寿司を食いに来てくれよ。
俺…、頑張るからさ」
「はい。必ず」


「…おチビ」
「英二先輩」
ぐすぐすと鼻を鳴らしている菊丸の髪を、今度はリョーマが手を伸ばして撫でた。
「やっぱり、寂しいよ、おチビ」
「…先輩」
「けど」

「おチビがそうしたいって言うなら俺おチビを応援する!
がんばれおチビ!俺もがんばる!」
菊丸の大きな目から、とうとう涙がぽろぽろとこぼれた。

「英二」
大丈夫か?と大石が菊丸の肩を抱いて、少し離れたところに連れて行った。


他の部員達も、口々に、がんばれ、俺もがんばるから、と、リョーマに声をかけた。





「…おい」
他の部員達がリョーマを取り囲む事でひとりぽつんと集団から外れたところにいる形になった海堂のところに
桃城がやってきた。
「お前、いつまでそうやってバンダナ直すフリして泣いてるつもりだよ」
「…泣いてねえよ!」
「はいはい」
桃城は、海堂の顔を見ないように、海堂の少し斜め後ろに並んで立った。

「…今だけだぜ海堂。
ここを出たら… 俺達には、もう泣いてるヒマなんかねえんだ」
「だから泣いてねえっつってんだろ!」
「泣いてないなら、いーけど」
桃城は、海堂の肩をぽんとひとつ叩くと、そこから離れた。


(泣いてるヒマなんかねえ?そんなの、俺だってよくわかってんだよ…)
強力な三年が抜ける穴は大きい。
そしてその穴を埋めるべく、自分と桃城は部を牽引していかなければならない。
それが後に残るレギュラーの務めだ。

不安は、ある。


(だからって怖がってばかりいられねえ…
やるしかねえ… がむしゃらに…
がむしゃらに、やるしかねえんだ…!)


海堂は、手を離してきっと顔を上げた。
そこには、前を見据える力強さだけがあった。





(越前…)
手塚は、リョーマに声をかける部員達の表情を見て、思う。
別れが辛そうな人間もいる。いつもリョーマと一緒にいた堀尾達は特にそれが目立っていた。
しかし、最初は辛そうにしていても、言葉を交わすうちに、晴れ晴れと、力に溢れた表情になっていく。
海堂も、いつの間にか、そんな表情になっていた。


(がんばれ、俺もがんばる、か…)
そうやって、部員を奮い立たせる存在。そうやって、みなを高みへと導く。


(…部の要職に就く事だけが、柱ではないのだな…)
あの時、自分がリョーマに言った事は、柱に囚われず旅立ちを促すための方便ではない。
しかし、心のどこかで、部に残って部を支える事を拒否したリョーマに対する不満のようなものが、自分には
あったのかもしれないと、手塚は思った。
だけれど。
今、この光景を見て、手塚はわかった。自分が不満に思う事など、何もなかったのだと。


(…越前、お前は… 俺以上の、立派な、青学の…)


全員と別れを済ませたリョーマがこちらに歩いてくるのが手塚の目に入った。
手塚が自分を見ていることに気づいたリョーマが、いつもの憎らしいまでに自信に満ちた笑みを浮かべる。


(柱だ)





「部長」
「行ってこい、越前」
「ういっす!」




リョーマは、大きく頷くと、くるりと後ろを向いて、帽子を取った。
深々と、思いをこめて、頭を下げる。

そのあと、ゆっくりと体を起こしたリョーマは手にした帽子を一度ひらりと掲げ、そして。

ゲートの中に消えていった。








夏は、終わった。
そしてまた新しい季節が始まる―――





(08/07/07)

ブラウザバックでお戻り下さい