夏のある日、仁王くんと私はふたりで居残り練習をしました。
既に他の部員は全員帰っており、部室で着替える時もふたりだけでした。
私達は電灯を点けるのを面倒くさがって、オレンジの夕日の光だけで着替えていました。

「柳生」
「はい?」
ボタンを留めていた手を止めて声のしたほうを見ると、仁王くんが下に下着も着ないで直にカッターシャツに
袖を通し、ボタンも留めずに前を開けたままの体をこちらに向けていました。
いけませんね、Tシャツなりなんなり適当な下着を身につけないとカッターシャツが汗でぺたぺたしますよ。
と私がそう言おうと思った瞬間仁王くんが言いました。

「キスマークつけて」

「………は?」
私には、仁王くんの言っている言葉の意味がさっぱりわかりませんでした。
いや厳密に言うと何を要求されているのかはわかりましたがなぜそれを『私に』『こんな場所で』『仁王くん』
が要求してくるのかがさっぱりわかりませんでした。
私が何も言えずに黙っていると、仁王くんは、彼のツリ目をにやりと細めながら、ここらへんに、とむき出しの
首筋、鎖骨の辺りに指を這わせます。
え?私が?あなたに?あなたの体に??

「…な、なぜですか!?」
「俺女子に迫られてて断ったんだけどなかなか諦めてくれんの。
だからこういう事する相手が俺には別にいるからって言いたいの」
仁王くんは私の質問に淀みなく答えました。
「…嘘を、ついて断るというんですか?
そんな… ねえ仁王くん、時間はかかるかもしれませんがちゃんと本当の事を言ったほうがいいです。
嘘で騙して女性を失恋させるなんて… そんなの誠実じゃないです」
「でもこれ以上つきまとわれて部活に支障が出るようになったら困るのお前だろうが」
仁王くんは少し怒ったように言いました。
確かに、今は県大会とはいえ大会中の大事な時期…

「ですが…」
「柳生。なんでも本当の事を言いさえすれば相手が納得してくれるとは限らんのやぜ?」
「でも……」
私なら、本当の事を言って欲しい…
「馬鹿正直に、『付き合っている女子はいません』『好きな女子はいません』『でもあなたの事は好きになりま
せん』、こんな事言うより、嘘でも諦めざるを得ない理由を用意してやるほうが場合によっては優しさなんじゃ
ないかと俺は思う」
う…
確かに、確かにそれも一理あるとはわかりますが…
「………」
「柳生」
仁王くんが、真剣な顔で私を見ています。
「柳生、頼む」
「……」
「柳生」
うう…

「わかり、ました…」
「…ありがとう」
私が承諾すると、仁王くんはほっとした様子で、嬉しそうな笑みを見せました。


私は止まったままだったボタンを留める手を動かしボタンを全部留めると仁王くんの前に立ちました。

「………」
「…早く」
仁王くんが薄く笑ってシャツをくい、と広げます。
その仕草がやたら様になっていて妙に色っぽくてなんだか泣きたくなりました。
どうして私は誰もいない薄暗い部室で仁王くんとこんな事しているんだろう…

「…柳生?」
「わ、わかってますよ」
私は仁王くんの首筋に顔を近づけました。
「…ふ、柳生」
「な、なんですか?」
見上げると、仁王くんが可笑しそうに笑っています。
「せめて俺の肩か腕くらい掴めよ。場所が定まらんじゃろ?」
嫌ですよ、そんなの、まるで恋人にするみたいじゃないですか。
と思いましたが、確かに仁王くんの言うことももっともなので、しぶしぶ彼の両肩を掴みます。
もう一度、首筋に顔を近づけました。

「………」
どきどきします。どきどきなんてしたくないのに。したくないのに。
ぎゅっと目をつぶってえいやと口を仁王くんの首にくっつけました。
…あ。
眼鏡…
「柳生、眼鏡邪魔じゃないか?俺、持ってるけど…」
私は彼の首筋に少し触れたくらいかと思いましたが、痛かったのでしょうか。
仁王くんが言いました。
「あ、はい… どうもすみません。痛かったですか?」
私は体を起こして謝りながら、外した眼鏡を彼に手渡しました。
「大丈夫、ただ、お前がやりにくいんじゃないかって思っただけ」
と、仁王くんは自分の顔に眼鏡をかけて笑いました。
彼の気遣いがなんだかひどく恥ずかしくて、私はまた泣きたくなりました。

三度目の正直、私はやっと仁王くんの肌を吸いました。
ほんとに、私はどうしてこんな事を…
ちゅっと吸ったあと、顔を離して確認するとあまりはっきりついておらず…
私が困っているのがわかったのか、仁王くんが聞きました。
「ど?柳生」
「ごめんなさい、薄くしか…」
「それは困る。はっきりとつけんと」
「はあ… そ、そうです、よね…」

私は、今度は先ほどの三倍ほどの強さで三倍ほどの長さ、吸いました。
吸う力を弱めて、私が仁王くんから離れようとしたまさにその時私の頭上から。

「あ…」

ぞるぞるぞる、っと悪寒が這い上がり、背筋が震えました。
「仁王くん!ヘンな声出すのはやめて下さい!!!!」
こちらにそういう意図はまったくないんですから!!!!

「…あ、ごめん。気持ちよくて、つい」
カーッと頭に血が上りました。
仁王くんは悪びれもせずふにゃりと笑っています。
あ、あなたねえ…!!!!
「だだだだだ黙ってないともうしませんよ!!!!」
噛んでしまったじゃないですか恥ずかしい!

「うん」
私は顔から火が出そうなのに、仁王くんは涼しい顔して平然と答えます。
もう!嫌いです、仁王くんなんか!


ものすごく頑張って気を取り直し、私は先ほど私が口をくっつけていた場所を見ました。
よかった、今度はちゃんとついています。くっきりと。
「…ちゃんと、ついた?」
「…ええ」
疲れたような、怒っているような、そんな声が出てしまいました。
他人とそんな接し方をするなんて、と思いますが、私だって人間ですいつでも機嫌がいいわけじゃない。
それでも仁王くんはそんな私の不機嫌などさらりと流し、落ち着いた声音で私に命じます。
「…もう少し、あと五ヶ所くらい。見えるところに」
「…はい」

何度もちゅうちゅう吸っているうちに、本当に涙が出て、閉じた目の中が潤んでくるのがわかりました。
恥ずかしい。こんな事、したくない。
私がこんなに苦しく思っているのに、仁王くんは何やら手をもぞもぞ動かしています。
何してるんですか、人にこんなことさせておいて。頭の辺り、で…?

やっと五ヶ所つけ終わって顔を上げると、私の目の前に、前髪を私と同じように分けて撫でつけた仁王くんの
顔が。
まるで鏡のよう、自分そっくりの顔。
その顔が、頬を紅潮させてうっとりと満足げに微笑んでいるのです。
私の目から今度こそ、ぽろりと涙が零れ落ちました。

ぶん殴りたい。

しかし仁王くんはそんな私の感情の一切を無視し、ありがとうと言って眼鏡を外すと、そっと私の手を取って
それを載せました。
そしてくるりと背を向けると、鍵は俺が閉めておくから、と彼はボタンを留めながら言いました。

私はいたたまれなくなって鞄を引っつかむと部室を飛び出しました。
ああ、ネクタイを忘れてしまった。でもそんな事、もういい…!!!




その、次の日。
私は朝から時折視線を感じていました。
なんだろうと不思議に思いはしましたが特に嫌な感じがするものでもなかったのでそのままにしておいたの
ですが…

昼休みに仁王くんが私の教室にやってきました。
昨日のことが気まずくて、私は朝練の時彼が私のほうにこなければいいと思っていました。
そして彼もきませんでした。
せめて今日一日くらいは、放っておいて欲しかったのに…
恥ずかしくて、たまらないんですよ。

「何かご用ですか?」
彼と向き合うと、嫌でもあの紅いものが、目に入る。苛々しました。
私はそれを見たくなくてただ彼の目を見つめました。
「ん。昨日の事でちょっと。
…ここじゃあれだから、外で」
「はあ…」


校庭の、人気のない木陰の下に彼は私を連れてきて、話し始めました。

「柳生、昨日はありがとう。おかげで彼女も諦めてくれた」
「本当ですか?それは… よかった…」
ほっと笑みが零れるのが自分でわかりました。
あんなに恥ずかしい思いをしたことが、無駄にならなくて本当によかった。
その女生徒には申し訳ないと思いますが…
でも仁王くんになんか… こんな意地の悪い男になんか…
関わらないほうがきっと、幸せですよ。ええ、そうですとも。

「うん、俺柳生とこういう事してるからキミとは付き合えん言うたら諦めてくれた」
………え?
「な、なんです、って…!!!?」
「だってお前がそう言うたんじゃろが。嘘をついて断るなんて誠実じゃないって」
「…………」
二の句がつげない。
「でも、俺は本当の事を言ったのに、あの子は
『そんな嘘までついて私の事断りたいの!?もういいっ!』
って言って走って行ってしもうた」
…ご丁寧にモノマネまでしてくれて…
おかげで、その女生徒が誰かわかってしまったじゃないですか…
私のクラスの、人だ。
ああ、だから、今日、視線…

「柳生?」
あ…、でも。
「…仁王くん…
その人は、『そんな嘘までついて』って…
つまり、あなたの言ってる事は嘘だと、そう思っているんですよね?」
「ああ、完全に嘘だと思われた」
「…そうですか…」
ほーっと長い、ため息が出る。
よかった… 何か変な誤解をされているわけではないようで…
そうだ、感じた視線も嫌な感じではなかった。
仁王くんの言う事を信じてはいないけれど、でも少し気になってしまって、私を見た…
おそらく、そんなところでしょう。
もう一度、長いため息が出る。

「…あんまりあからさまにほっとせんでくれよ。傷つく」
仁王くんは… 本気で腹を立てているような顔でそう、言いました。
「なに言ってるんですか。
あなたが誤解を招くような事を言うからいけないんですよ」
「誤解?何が。俺は本当の事を言った」
「だから、私があなたとそういう事をする間柄というのがまず嘘で…」
「嘘?じゃあこれは誰がつけたって言うんよ?」
仁王くんはぐいと襟元を広げました。
「私ですよ。私ですけどでもそういう事をする間柄だからという理由でつけたわけじゃない」
仁王くんは、そこでぐっと言葉に詰まりました。
「あなたが何かで困っているなら、私はあなたの友人としてあなたを助けます。
でも、こういう嘘は二度とつかないで下さい」
「………」

仁王くんは、顔を伏せて黙っています。
しばらく待ちましたが、けれど彼は顔を上げません。
「……仁王くん?」

「…柳生」
と顔を上げた彼の顔は…
…泣き顔でした。
両方の目から、涙がぽろぽろ零れ落ちていました。
「…な」

「バーカ!!!!!!」
仁王くんはそう言って走って行ってしまいました。

…え?なぜ?
………
…バカは…
…っあなたでしょうが!!!!!
バカバカバカバカバカバカバカバカバカバカ!!!!!!!!

知りませんよ!あなたの事なんて!!!!

…と私が思ってみたところで、きっと明日にはけろりとしているんでしょうねえ…

案の定、次の日、そうなりました。
ほんとに、仁王くんあなたって人は…

人を振り回すのもいいです。あなたらしいですよ。
けど度を越した冗談はやめて下さいよね?
と言うように私が苦笑して肩を竦めて見せたら、仁王くんは楽しそうに目を細めました。





(08/08/02)

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