三月四日日曜日、練習試合の帰り道。
お前が持っているあの本が借りたいと言って、幸村は真田の家に一緒にくっついてきていた。
「待たせたな、幸村」
玄関から出てきた真田が、幸村に本を手渡す。
「せっかくだから、上がって、茶でも飲んでいけばいいのに」
「ううん。それは遠慮しておくよ。
真田、本、ありがとう。卒業式までには読んで返すね」
「急がなくても、いつでもだいじょうぶだぞ?」
「うん、わかった。ありがとう」
幸村は、背中に背負っていたラケットバッグを下ろすと、かがんで本をバッグの中に仕舞った。
「では、幸村…
また明日、学校で」
「うん、楽しみにしてる」
明日、三月五日は幸村の誕生日で、部員全員で祝うことになっているのだ。
「あ。真田」
背を向けかけていた幸村が、もう一度真田を振り返る。
「なんだ?」
「あのね…」
ずい、と幸村が半歩真田に身を寄せた瞬間、
「げんいちろー!まだー!?」
がらりと玄関の戸が開いて、中から子供が駆け出してくる。
そして真田の腰のあたりをめがけて勢いよく飛びついた。
「わっ!何をしている左助!」
「だって!げんいちろー遅いんだもん!」
幸村は盛大に眉根を寄せて、不快極まりないという顔をした。
真田と左助が互いに互いを見て自分のほうなどまるで見ていないのをいいことに。
「すぐ済むから中で待っていろと言ったろう!?」
(すぐ。ふーん…)
真田が甥の手前そう言うより仕方ないのはわかっているが、それでも今こうして自分と会っている時間を
さっさと終わらせてしまいたいようにも聞こえる言い方には少々カチンとくる。
「だからほら、離れなさい、左助!」
「やだ!」
「こら、離、れん、か!」
ますます強く真田にしがみつく左助の肩に、幸村はにこと笑って手を置いた。
「ごめんね。左助くん」
「ゆ、幸村…!」
「用事、すぐ終わるから、少しだけ待ってて」
左助が、真田の腰にしがみついたまま顔を上げる。
その左助にもう一度、待っててね、と言い、幸村は、
「真田」
「今日の夜、十二時きっかりに、俺を電話をしてくれないか?」
「俺の誕生日を、一番に真田に祝って欲しい」
と、真田の目をじっと見て、一言一言をはっきりと言った。
「それだけ言いたかった」
幸村はくるりと真田に背を向け、すたすた、と歩き出そうとして、しかし止まった。
振り向き、自分の肩越しに、まだ真田の腰にしがみついたままの左助を一瞥する。
そして、ふ、と笑うと、
「じゃあね、左助くん。お邪魔しました」
と言って、今度こそ振り返らず門から出て行き塀の向こうに姿を消した。
「幸、村…」
左助の頭上から、ぽつりと呟く声が落ちてくる。
呆気にとられた、でも、どこか嬉しそうな…
見なくてもわかる、叔父は今、甥の自分には絶対に見せないような、甘くふぬけた顔をしているに違いない。
(ちくしょう)
(だから、早く戻ってきてって言ったのに)
左助はイライラと心の中で毒づいた。
急ぎ足で自宅へ向かう幸村。
今、彼の頬が紅潮し、鼓動が早いのは、急いで歩いているせいだけではない。
(…ふふ)
何かと自分を目の敵にする真田の甥。
今ごろ彼は、どんな顔をして悔しがっているだろうか。
幼稚な高揚感。自覚はしている。
でも、悪い気分じゃなかった。
(…返事も聞かずに、大人げなかったかな…)
本当は、あんなに一方的に言い置いてくるつもりではなかったのだ。
就寝時間も、起床時間も早い真田に、少し意地悪してみたくなったのだ。困った顔を見たくなったのだ。
(…その顔を見たら、ごめんね冗談だよまた明日ね、って言うつもりだったのに…)
(なのに、あの子が邪魔するから)
(つい、ムキになってしまった…)
ムキになって、つい、真田は眠らない俺のために、真田は起きている俺のために、ということをあの生意気な
子供に、どうしても、
(…見せつけてやらずには、いられなくて…)
幸村は、歩く速度を少し落とすと、小さく苦笑した。
(はは。…俺は、大人げないな…)
でも
(…負けたくない)
目の前であんなことを言われた左助は、きっと、真田が幸村に電話するのをなんとしても阻止しようとするだ
ろう。どうにかして真田をふだん通りの時間に、就寝させようとするだろう。
(…だけど絶対に真田はそうしない)
それこそ一服盛りでもしない限り。
けどあんな子供にそんなことができるはずもない。
深夜、電話をするためにひとり自室に入っていく真田。
やんわりと、だが追いやられ、無情に閉められる扉の前で、あの子供はどんな顔をするだろうか。
もしくは朝、目を覚まして、真田の携帯電話の通話履歴を見たとき、あの子供はどんな顔をするだろうか。
想像する。
幸村は、躍りだしたい気持ちになった。
(…あ、そうだ)
真田は、いつもの就寝時間である夜九時から、深夜十二時まで、
(…彼は、なにをして、時間をつぶすんだろう)
(…俺のために、なにをして)
ああ、胸の中がほかほかしてくる。
(真田が俺に電話をくれたとき、聞いてみようそれを。詳しく。楽しみだな。すごく)
誕生日。二度と、こなかったかもしれない誕生日。
そんな誕生日の一番始まりに、真田の声が聞ける。
真田が本当なら眠っているはずの時間を、自分のためにどんな風に使い過ごしていたのか、それを真田の
声で、真田の言葉で聞ける。
なんて、幸せなんだろうと、幸村は思った。
左助は、しがみついていた腰から離れると、真田を見上げた。
「ねえ」
「ん?」
「ゲンイチローは、あの人に電話するの?」
「する」
「夜遅いのに?」
「そうだな。左助の言う通り、夜は遅い」
真田は、しゃがんで、左助と目の高さを合わせた。そして、ぽんぽんと左助の頭を撫でながら言った。
「けれど、三月五日は、特別なのだ」
「とくべつ」
「そうだ」
「だったら、電話できなかったら、ゲンイチローは、泣く?」
「…は?」
「泣く?」
「…泣きは…、しないぞ…?
詫びは、するが」
「そう。なーんだ」
「な…!
なーんだ、とは、なんだ!」
こら!と真田は立ち上がる。
左助は背の高い叔父にも一歩も引かず、
「泣かないんだったら、それはトクベツじゃないじゃん!」
左助は言い終えるなり玄関に駆け込み、ぴしゃりと戸を閉めた。
「あ…」
ひとり置いてけぼりにされた真田は、今、左助に言われたことをもう一度思い出す。
『泣かないんだったら、それはトクベツじゃないじゃん!』
特別じゃ、ない…
「そんなことは… ない、だろう……」
内心、そう思いながら、けれど、左助のその言葉は真田の胸にちくちくと刺さった。
夕食後、幸村はベッドに横になり、真田から借りた本を広げた。
読みたくて借りた本なのに、真田からかかってくる電話のことが気になって、内容が全然頭に入ってこない。
数行読み進めては、あれ?なんて書いてあったっけ?と、戻ることのくり返しだった。
(…真田は今、なにをしてるのかな…)
時計を見ると、ちょうど、九時だ。
真田は夕食の席で、もうすぐ進学なので少し勉強しておきたい、夜遅くに自分がうろうろしていてもそういう
理由なので気にしないで欲しい旨を家族に話し、自室に戻った。
机で教科書を開く。
しかし、先ほど左助に言われたことがどうしても頭から離れない。
(…泣かないなら、特別じゃない…)
では、関東大会で負けたとき、涙を流さなかった自分は
(幸村に対して、俺は何かが欠けていたのだろうか)
反省が足りない?誠意が足りない?
(そんなことだから、負けてしまったんだろうか。俺は)
いや、違う。
(負けたのは、心身ともに己の鍛錬が足りないからだ)
幸村を思って涙を流すのもいい。
しかし、そんな暇があるなら、もっと練習に励むべき。
そうだ。
それが、俺の幸村に対する誠意だ。
(と、わかってはいるのだが…)
でも、なぜかしっくりとこない。なぜかそれでは納得できない。
真田は考える。
テニスで勝つこと、負けない約束を守ること、副部長として部をあずかること…
それらについては、ただひたすらに己を鍛えるのみ、が、一番の誠意なのだと思える。
しかし、テニスとはまた別のことである誕生日については。
(…誕生日に約束していた電話ができない…。それで、自責の念で泣いてしまう…)
(それは、誠意か?)
(それは…、誠意なのか…?)
真田にはわからない。相手の幸村はどう思うのだろう?
(泣く暇があるなら、次に同じ失敗をしないことを考えろ…。こう、だろうか…)
しかし、真田にはそれも少し違う気がしてならない。
(…幸村が約束を楽しみにしてくれている。それを俺が裏切ってしまう…)
考えただけで、胸が痛み、気分が沈む。でも、まだ続けて考えてみる。
(…幸村は、がっかりするだろう)
(そんな幸村の姿を見て、俺も悲しくなる。裏切ったのは自分のほうなのに、自分勝手にも悲しくなる。
そんな自分が情けなくて…)
泣くんだろうか。
(…でも、それは)
ひどく、格好悪いことのように真田には思えた。
そこに幸村に対する、『特別』、な気持ちが含まれているようには、思えなかった。
(…よく、わからない…)
今まで自分は部長の幸村を支えようと、副部長である自分の全てを捧げてきた気でいたが、
(そうでは、なかったという、ことか…?)
わからない。
ひとりの相手に、自分を捧げきるということは、それはつまりどういうことであるのか。
(…と、とにかく今は起きて、時間通り電話することだけに集中するのだ…!)
そう思ってぎゅっと目を閉じた瞬間、
コンコン、
とドアが叩かれる音がして、真田はびくりと体を震わせた。
「は、はい!」
返事すると、ドアが開いてパジャマ姿の左助が入ってきた。
「左助か…
ん?それは?」
見ると、左助は両手にマグカップを持っている。
左助は可愛らしくお尻でドアを押して閉めると、とことこと真田の側までやってきて、
「ゲンイチローに。差し入れ」
と言って、カップをひとつ置いた。
「おお、これはすまないな」
「勉強するって言ってたから。夜はまだ寒いし、あったまるように」
「ありがたい。ちょうど喉が乾いて、なにか飲みものが欲しいと思っていたところだ」
真田は、左助の持ってきたカフェオレを一口、口に含んだ。
左助がその様子をじっと見る。
「…ん」
「ゲンイチロー、美味しくなかった?」
「いや、そんなことはない。美味しいぞ。ありがとう」
左助の持ってきてくれたカフェオレは、真田にはかなり甘いものだった。
しかし、自分のためにせっかく用意してくれた左助の気持ちを傷つけたくなかったので、真田は、それ以上
何も言わずごくごくと飲み干した。
牛乳がたくさん入っているのだろうか、あまり、熱くはなかったので。
「ご馳走様」
「うん」
「あ、左助。お前まさか、子供のくせにコーヒーなぞ…」
「飲まないよ。これはホットミルク!」
左助はカップを少し傾けて真田に中身を見せた。確かに真っ白だ。
「そうか、すまない。
左助、それを飲んだら、ちゃんと歯を磨くんだぞ」
「わかってるよ」
左助は空になった真田のカップを手に取った。
「一緒に下げとくね」
「おお、すまんな」
「ゲンイチロー、開けて?」
カップでふさがった両手をあげて、真田に見せる。
「わかった。…と」
椅子から立ち上がった真田が、少しの間ぼうっと動きを止める。
「…ゲンイチロー?」
「いや…、なんでもない」
真田がドアを開けてやる。
「じゃ、ゲンイチローおやすみなさい」
「おやすみ。
左助、ありがとう。とても温まったぞ」
「そう?だったらよかった!」
左助は嬉しそうににこっと笑って、真田の部屋から帰っていった。
叔父の自分を呼び捨てにしたりして生意気な部分もあるが、ああいう無邪気に笑った顔を見ると、やっぱり
まだまだ子供だな、可愛いなと思う。
(さ、では時間までがんばるか)
真田はどさりと椅子に腰を下ろした。
ドアが閉まった瞬間、左助はにやりと笑った。
(そりゃあったまるでしょ。だってお酒入れたもん)
正月など、親戚が集まったときになどに場に出されるその液体。
飲んでなんともない人間もいれば、急に陽気になったり、泣いたり…
そして、眠ってしまったりする、液体。
叔父の弦一郎は、親戚の大人がふざけて彼に酒をすすめても、未成年だからとまずは固辞する。
しかししつこさに根負けして、少しだけ口にするときも、まれにある。
そんなとき、叔父はいつも目元を赤くして、ぽうっとなってしまうのだった。
そうなったら、叔父は必ずその場から逃げ出してしまう。
そして左助は、自分も叔父にくっついていって、ふたりだけで遊ぶのだった。
(そういうとき、弦一郎はいつも、いつもよりぼうっとしてるんだ。眠たそうに)
だから、居間に誰もいないのを見計らって、左助は叔父のカップにブランデーを入れた。
これは個人のものではなく、父や祖父、たまに母も飲むものなので、少々減っても怪しまれまい。
叔父が言葉に詰まるほど砂糖をたくさん入れたのは、味を誤魔化すためだ。
左助は酒など飲んだことはなかったが、ブランデー入りのケーキを一口かじらせてもらったことはある。
なんだか、へんな味、甘いけど苦い…と思わず顔をしかめてしまい、母親は、あらあら左助にはやっぱりまだ
早かったわねと残りを全部食べてしまって、それきりだが。
(でも、味は覚えてる)
あれだったら、コーヒーに入れてもさほど違和感はないだろう。
また、大人の飲む姿から、少しの量で酔うことも知っていた。
(早く寝ちゃえ。電話なんかしないで)
自分のことを鼻で笑って帰って行ったあの男。
アイツが喜ぶのかと思うと、
(ホントに!腹が立つ!)
左助は、少し冷めてしまったホットミルクを飲み干した。
本当は部屋でゆっくり飲むつもりだったが、幸村の顔を思い出したらとてもそんな気分じゃなくなったのだ。
それに、
(…早く、証拠インメツ、もしておかなきゃだしね!)
くるりと踵を返して台所に走って行くと、左助はふたつのカップの中を勢いよく水で流した。
幸村は、借りた本をほとんど読み進めることができなくて途方にくれた。
(まだ、十時か…)
(あと二時間が…、ものすごく長く感じる…)
真田は教科書を開いたままぼんやりしていた。
体がほかほかとあたたかくて、とても気持ちがよくて、
(少しでも気をぬくと、眠ってしまいそうだ…!!!)
もう、教科書の内容などまったく頭に入ってこない。
(仕方ない。体を動かして眠気を追い払おう…!)
立って、スクワットでもしていれば眠り込むこともないだろう。
そう考えた真田は、椅子から立ち上がった。
すると、
コンコン、と、今度は先ほどより控えめなノックの音が聞こえてきた。
「左助か?」
真田がドアを開けると予想した通り、そこには小さな甥の姿があった。
「まだ起きていたのか。どうした?」
「うん…」
「廊下は寒いから、早く入れ」
「うん」
小さな肩を抱いて促すと、左助は素直に中に入った。
そしてドアが閉まるなり、真田にしがみつく。
「どうした、怖い夢でも見たのか?」
真田は、しがみついて顔をうずめたままの左助の髪を優しく撫でた。
「ううん。でも、眠れない」
「そうか」
「テレビで、家が燃えてるニュースを見て…」
家が燃える、とはなんの映像だろうか。
火事?
いや、今は三月だ、空襲の映像かもしれない。
真田は毎年この時期、そのニュースが流れるたびに祖父がそっと手を合わせるのを見ていた。
「そうか。怖かったな」
左助が何を見たのか気にならないわけではない。
けれど、怖いと言っているものをわざわざ思い出させるのもかわいそうだった。
追及はしまい。
「しばらく一緒に寝ててやるから、安心しろ」
「ほんと?」
左助は、やっと顔を上げた。しかしまだだいぶ不安そうだ。
「ああ」
真田は力強く頷く。
「こんな格好で、風邪をひいては大変だからな。行くぞ」
「うん」
叔父と甥が、仲良く並んで廊下を歩く。
(まさか…、まだ起きてたなんて)
眠っているのを確かめにやってきたら、中から予想外にはっきりした声が返ってきて左助は驚いた。
(だけどもう、また飲ませることもできないし)
部屋で起きていた叔父は、ぼんやりはしていたようだった。
しかし、顔の赤みはだんだん薄くなりつつある気がする。
(だけど…)
いつもなら、ぐっすり眠っている時間なのだ。
酒のことがなくても、それだけでもう十分に眠たいはずだ。
(一緒におふとんに入れば、絶対に)
眠ってしまうはずだと、左助はまだ諦めていなかった。
「ゲンイチロー、電気消してね」
ベッドの中にもぐりこみながら、左助が言う。
「ああ」
真田は消灯すると、暗闇の中、手探りで布団をかぶった。
「ゲンイチローがいると、あったかい」
左助は、真田の体に抱きついた。
「そうか。ならばお前も安心してすぐに眠れるな」
よしよし、と真田は左助の背中を撫でる。
「たぶんね。ねえ、眠るまで絶対ここにいてね?」
「ああ、わかってる」
それから二十分ほどして…
(眠ったか)
真田は、するりとベッドから這い出、静かに、部屋の外に出た。
(ふう…)
思わず、ほっとため息が出る。
(危うく、俺も一緒になって寝てしまうところだった…)
そうならなかったのは、ひとえに、空いているほうの指に髪の毛を巻きつけ常にきつく引く、という、真田の
努力の賜物だった。
引っぱられた頭皮も、細い髪が食い込んだ指も、両方が
(…とても痛かった…)
でも、痛くなかったらとてもではないが起きていられなかっただろうから、それも致し方ない。
部屋に戻ると、そろそろ十一時になろうというところだった。
(あと、一時間…)
真田は椅子にどさりと腰を下ろし、教科書を広げる。
そのとき、
(あ…)
真田は、勉強しようと思いながら、ずっと、左助に言われたことについて考えていたことを思い出した。
しかし、
(俺は、そのことについて、どう考えていたのか…)
頭がぼんやりして、はっきりと思い出せない。
いや、そもそもはっきりと考えていたのかすらどうか。
(幸村に電話できなかったら、俺は…、泣くのか…)
想像してみる。
たとえば、今二時間ほどうたた寝してしまい、目が覚めたらとっくに約束の時間をすぎていた場合。
電話をするにはかなり遅い。もう幸村は怒って寝てしまったかもしれない。だけどもしまだ起きて待っていて
くれたらどうする。しかし、起きているのは怒りのため、叱責のためだったら。
(…なるほど。…少し、泣きたくは、なるかもしれない…)
しかしだ。
相手に嫌われること、叱責されること、それを恐れて泣きたくなるのは、
(やっぱり、左助の言う『特別』とは…)
程遠い気がする。
どうも、うまく結びつかない。
左助に真意を問うのが、一番早いだろうか…
それとも…
真田は目をこする。
(ああ…、あともう十五分で)
幸村の、誕生日だ。
幸村は、はっとなった。
ベッドに仰向けになり、胸に抱いていた携帯電話が震えている。
十二時だ。ハッピーバースデー。
がばりと体を起こして、通話ボタンを押す。
「…真田!」
『幸村』
「真田……」
『幸村…、誕生日、おめでとう。祝えて、とても嬉しい』
「ありがとう真田。俺も真田に祝ってもらって、とても嬉しいよ」
幸村は、うっとりと深く、息を吐いた。
ぽすん、と、またベッドに体を沈める。
「ねえ、真田」
『なんだ?』
「真田はこんなに遅くまで、なにをして過ごしてたの?」
『……』
「…あれ?真田?」
聞こえなかったのかな?と幸村が思った瞬間、
『お前のことを、考えていた』
「えー!?」
驚いて、思わずまた起き上がってしまった。
だってまさか
(そんな直球な答えが帰ってくるなんて思わないじゃないか)
『…幸村?』
「あ?え?あ、ううん?なんでもない。
…あの、真田」
『なんだ?』
「俺のこと、って…
……どんな、こと?」
『……』
(どうして黙るの?)
「さな」
『幸村、今日』
「あっ、うん、続けて」
『今日、お前が家にきたときに』
「うん」
『会っただろう、左助に』
「ああ、真田の甥っこさんだよね」
「彼が、どうかした?」
『左助が言うのだ。もしも、俺が今日眠り込んでしまって、幸村に電話することができなかったら、泣くのか?
と』
「うん」
(なんだい、それは)
『泣かない、と答えたら、左助に…、そんなのは特別じゃないと言われた』
「うん」
(なに、それ)
『俺はそれがよくわからなくて、ずっと考えていた』
(そ、そう)
『俺はまだ、お前にとって足りないのだろうか』
「えっ?」
『俺はまだお前に俺の全てを差し出せていないのだろうか』
(真田?)
「…真田」
『幸村、どうして俺は左助に言われたことがわからないのだろう』
「真田、ねえ、真田」
『ん?』
「真田、たぶんね」
『ん』
「左助くんの言っていることは、すごくシンプルなことだと思うよ」
『はあ…、シンプル…』
「俺に電話できなくて、俺を幸せにできなかったことを、すごく悔しく思うのか」
「その、すごく、って部分が、左助くんにとっては、泣くほど、ってことなんだと思う」
『そうか』
『では、泣かなくても、特別なのだな』
「って、ことだと思うよ」
『ならよかった』
「感情の表現の仕方は、人それぞれだからね」
『そうだな』
「でも」
「真田が、そういうときに泣くようなタイプじゃないっていうのは知ってるけど」
「むしろ堪えるタイプだっていうのは知ってるけど」
「もし泣いても、俺はそういう真田も好ましいと思うよ」
『そうか。ありがとう』
「俺はどんな真田でも大好きだよ」
『そうか。ありがとう』
(…やられた)
「ね、真田、ところで他にはなにかしてた?勉強とか?」
『あ?ああ、そうだ。予習をしようと思って教科書を開けたが…』
「…」
『お前のことばかりが思い浮かんで、頭に何も入ってこなかった』
「そう」
「ねえ、左助くんって、とても可愛らしくて、とても賢そうないい子だよね」
「真田が、珍しく夜遅くまで起きてるなんて、心配してたんじゃないの?」
『ああ。夜は寒いからと、コーヒーを差し入れしてくれた』
(ほ、)
(ほんとに一服盛られた…!!!!!!!)
「そう、…やっぱりね」
『幸村?』
「ううん、なんでもない」
おかしいと思ったのだ。
真田が言わないようなことばかり言うから。
最初は、眠気が高じてのものかと思ったけれど…
(…お酒を入れられたのか)
子供と思って侮った。
左助は電話を阻止することはできなかったが、
(…こんな、アルコールで心ここにあらずな真田の口から)
(聞きたくなかったよ)
(今、真田が俺に言ってくれたこと全部)
「…真田」
『なんだ?』
「今日は俺の我侭を聞いてくれてありがとう」
『いや…』
「遅くまでごめんね。じゃあ、もうそろそろ…、あ」
『?』
「真田、最後にひとつだけ教えて」
「俺と左助くん、どっちが好き」
『…選ぶことなどできない』
「そう言うと思った」
「でも」
「真田の意思なんておかまいなしに俺は真田を選ぶから。じゃ、おやすみ」
幸村は、電話を切った。
(…あー…)
幸村は、ぐったりとベッドに体を預けた。
自分と話している真田が正常な状態ではないと気づいたときは
(心の底から最悪だー、と思ったけど)
(でも)
今となっては
(こんな燃える誕生日も…、ふふ、これはこれでいいんじゃない?)
相手は手強そうだ。いや、確実に手強い。
けど、
(俺はもう、絶対に負けない)
幸村はさっさと部屋の明かりを消すと、目をつむった。
(12/03/05)
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