幸村の帰還




(サイド幸村)

手術は、成功した。

今から半年以上前、二年の冬。
夏の大会で引退した三年生は、ほとんどが内部進学予定で受験がないという気楽さから引退後も時々
部に顔を出していたが、卒業式や春からの新しい生活への準備に追われだし、この頃はもうほとんど姿を
見ることはなくなっていた。
いよいよ本格的に自分が部を牽引し、誰も成し遂げられなかった偉業、全国三連覇に向けて突き進まねば
と気を引き締めた、そんな時だ。
俺が、倒れたのは。

原因不明、体が麻痺、思うまま動く自由を奪われた。
長期にわたる入院、検査でわかったことは
『事と次第によっては命に関わる』
『手術を受け、それが成功すればほぼ確実に完治』
『手術せずにいた場合、せいぜいが現状維持。治る見込みはほぼなし』
『しかし成功率はさほど高くはなく、失敗すれば今より悪化の可能性、最悪の場合は、死に至る』
だった。

今すぐどうこうというわけではないが、放っておいても治るわけでもなく場合によっては死んでしまう。
手術が成功すればいいが、失敗したら。
今すぐどうこうというわけではないのだから、運がよければ、そう、運がよければ。
明日、いやほんの一時間後にでも、完治が確実な薬なり治療法なり、見つかるのではないか。

待っていれば確実な治療法が、ということは両親も考えたのか、俺に手術を急かす事はなかった。

いつどうなるかわからない肉体に怯えながらいつ見つかるかわからない確実な治療法とやらをひたすら
じっと待つのと、生か死か一か八かの手術に今挑むのと。

もうひとつ。

おそらくは少しでも長く生きていて欲しいと思っているであろう家族や友人達と、一刻も早くテニス部に
仲間のところに戻りたい自分の渇望との。

それらの間で俺は揺れた。

成功するかしないかわからない手術に挑んですぐ死んでしまうより、一分一秒でも長く生きていたほうが。
その方が、俺の大事な人達を悲しませずにすむのではないだろうか。
しかし、そうやって大事な人達のことを考えるたび、手術に挑みたい、という気持ちも強くなるのだった。

病気に勝って、俺の大事な人達を、早く安心させたい。

そして。
早くテニス部に戻りたい、戻って、三年間一緒にいた仲間と、全国三連覇という目標に挑みたい。
その思いだけは、どうしても諦め切れなかった。

死にたくない。死にたくなどない。
だけど、俺は皆とテニスがしたい。
全国の頂点、そのたった一つの場所に、俺の大事な仲間と共にまた、行きたかった。

俺が倒れた時、無敗で俺の帰りを待つと叫んだ真田の気持ちに応えたかった。


…今。
今手術を受けないともう全国には間に合わない、その事実が俺の背中を強く押した。
もう、迷いは、ない。


麻酔から目が覚めると、側には母がいた。
母は、目を開けた俺を見るとみるみる目に涙を溢れさせ、そして俺の手をぎゅうっと握って
『成功したから…! もう大丈夫だからね…!』
と言って喉を詰まらせた。

ああ…
勝ったんだ。俺は…
目頭が熱くなる。ただ、ただ嬉しかった。

少しして、涙を拭った母は、俺がまだ眠っている間に真田達が病院に来てくれたこと、手術の成功を伝え
たら皆とても喜んでくれたことを話してくれた。

『お母さん、真田達は、今…』
『まだ目が覚めてないのなら、明日のお昼ごろ、また来ますって』
『…そう』

たぶん、部活の昼休みを利用してくるつもりなんだな。
真田は真面目なヤツだからサボって来るなんて考えたこともないのだろう。
こんな時くらい、サボってくれてもいいのに、寂しい…
とここまで考えて、俺もらしくなくはしゃいでいるなと思った。

でも、手術が成功して、今まで自分を重たく押さえつけていた問題が解決したんだ。
心の中で勝手にはしゃぐくらいは許して欲しい。
くすくす笑い出した俺を、母が不思議そうに見つめる。

『そうだ。関東大会のこと、何か言っていた?』
『そのことなんだけど、あなたに直接伝えたいから、って。だからまだ何も』
『そうか… 楽しみだな…』

あ、いけないと母がナースコールのボタンを押した。
目が覚めたら一度呼んで下さいと言われていたそうだ。
やってきた看護師は俺の様子を見て何も問題がない事を伝えて戻っていった。
先生はと訝しがる俺に、母は、目が覚めた時に異常がなければ、今日は疲れているだろうし退院やリハビリ
その他の詳しい話は明日ゆっくり…ということになっていると教えてくれた。

『だから、今日はもう休みなさい。
ゆっくり休んで、元気な顔で、真田くん達に会ってあげなさい』
『…うん』
『それから、明日はお父さんも一緒にくるから。仕事で、お昼過ぎてからになるけど、大丈夫ね?』
『だいじょうぶ』
『じゃあ、また、明日ね…』
そう言って、母はまた喉を詰まらせる。
また、明日。
…ああ、その言葉を口に出来る日が来て、本当によかった…


…いつの間にか、眠り込んでしまったのだろうか…

声が聞こえる。


……かなり重度の難病だからなぁ…

テニスなんて もう無理だろう………


あたたかい浅瀬をたゆたうような眠りの中からゆらと浮かび上がりかける意識にぱらりと降りかかった鋭利な
ガラス片のようなことば。

驚きに、勝手に目が見開かれていく。

無理?

なぜ。

振り向いて、そこにいる誰かに問い質すより先に、耳に、部屋から出て行く足音が入ってきた。

さっきの言葉は現実なのか夢なのか。

心臓が速くなる。じわりと冷汗が滲んでくる。

なぜ?手術が成功すれば何もかも元通りではないのか?
そうだと聞かされてきた。そうだと思っていた。
長期入院による体力の衰え、そのことだろうか、今すぐに以前と変わらないプレイをするのは無理だとああ
でもそんなことは俺もわかって
それとも、本当は成功していなかったのだろうか、手術は。
それどころか、手術が成功すればほぼ確実に完治、あれも嘘だったのだろうか。
それとも、それとも全く予期していなかった何かが
何か恐ろしいことが起こりでもしたのだろうか。
原因不明の病気だ、何が起こってもおかしくないのだ。
それとも、それとも…
それとも、あの言葉。
あれも、本当だったのだろうか?
恐ろしい、夢では。
俺の、聞き間違いでは。
あれこれと疑い始めればきりがない。

今。
今すぐ主治医に問い質せばいい。

だけど、その答えすら本当ではなかったら?
テニスは無理、それは間違いですよ
そう答えてくれても、その答えが本当ではなかったら?

目の前が暗くなる。
怖い。
信じていたものが目の前で音を立てて崩れて壊れていく様に俺は驚愕し竦み上がった。

確かめればいい。
確かめれば。それだけで…

怯むな。俺らしくない。

だが…
数ヶ月の闘病を経て得た喜びが一瞬で暗い疑いに塗り潰される、そのことは俺が想像する以上に俺の
気力を奪った。
またあの生活に逆戻りするのかもしれないと思うと、心が押し潰されそうになった。
苦しい。苦しくて、動けなくて、ナースコールを押す指を伸ばすことすら出来なかった。

真田達が、学校が、遠くなる。
俺は、もう二度と、あそこへ戻れないのか…


空が白むまで、一睡も出来なかった。


朝方、わずかにうとうとしただけで、頭が痛い…
苛々する。
本当のことを言わない周りに。本当のことを聞かない自分に。
でも、怖いんだ。
少しでも疑ってる様子を見せたら、次の瞬間『バレてしまったのなら仕方がないですね』と言われてしまう
のではないか、それが恐ろしくて。
だから俺は、痛む頭で懸命に普段通りに…
いや、手術が成功して嬉しいと、殊更笑顔で振る舞った。辛かった。

確かめたい、確かめたくない、確かめたい、けど確かめたところでそれが本当かもわからない…
本当かどうか確かめたい、確かめられるのか…?
昨夜からずっと繰り返している。

控えめにドアを叩く音がする。
この時間は定期的な看護師の見回りではない。
今度こそ絶望的な何かを知らされるのだろうか。
「……」
返事できない。声に、ならない。

もう一度、今度はもう少し強めにドアが叩かれる。
「幸村…?」

真田。

「幸村?開けるぞ?」
ドアが開いて、真田が中に入ってくる気配がした。

真田…
きょろ、と目線をそちらに向けると、真田はその目線からまるで逃れたがるかのようにそっと顔を背ける。
まさか。
お前が
お前が俺に引導を渡しに来たのか?

「幸村、手術、成功おめでとう。
昨日、お母さんから伺った」
「…そう…」

そんなこと言って、喜ばせておいて、次はいったい何を言うつもりなんだ?真田。

「それで…
手術が成功したおめでたい時にこんなことを言うのもなんだが…」

待ってくれ。
待ってくれ真田。
お願いだからその先は言わないでくれ。
お願いだから。

「幸村、すまんな」

言うな。

「関東の決勝で、青学に………」

負けたのだ、と真田は言った。
真田は本当に申し訳なさそうにしていた。見ていて可哀相なくらいに。
いつもかぶっている帽子と俯きがちな姿勢のせいで気づかなかったが、よく見ると頬が少し赤い。
優勝できなかったこと、負けたこと、俺との約束を果たせなかったことに責任を感じて、ここに来る前、真田は
自ら制裁を受けたのだろう。
なんて、なんてお前らしいんだ、真田。

だけど、それがどうしたというんだ?

負けた?それがどうした、そんなことを考えてしまう自分は部長失格だと頭ではわかっていた。
でも止まらない。真田の腫れた頬、申し訳なさそうな顔、もう遠い。
俺には勝つことも負けて制裁を受けて頬を腫らすことも何もかもが遠い。
真田、俺はお前が羨ましい、俺がもう二度と手に出来ないものを持っているお前が憎い。

「テニスの話をしないでくれと言ってるんだ!!」
「幸村…?」
「もう帰ってくれないか!!」
俺の剣幕に真田は驚いてなすがまま部屋から追い出された。
ドアを閉める瞬間ちらと見えた真田は泣きそうな顔をしていたがでももうそんなことはどうでもよかった。
俺はもう真田の何にも応えることは出来ないのだから。

こう思って初めて我慢できない耐えられないほどの絶望が重たくのしかかった俺は押し潰された。
身も世もなく叫んだ誰がどう思おうが構っていられなかった。






(サイド真田)

青学に負けてしまった。
準優勝で迎える表彰式など屈辱でしかない。
だが、それも自業自得。

一刻も早く幸村の元に向かいたかった。
まるで永遠に続くかのように思えた表彰式がようやく終わり、レギュラーで病院に駆けつけた時、手術はもう
とうの昔に始まって、そして終わっていた。

手術前に、幸村のところに優勝の知らせを持って行くという約束は、果たせなかった。
手術前に幸村を励ますことも出来ず、常勝立海の名に俺が傷をつけて。
これで、もし、幸村まで…
いいや、考えるまい。
本当のことを、自分の目で、確かめるまでは。

病室には幸村のお母さんがいて、俺達に応対して下さった。
見舞いへの謝辞と、そして、幸村の手術が成功だったということを知らされる。
よかった… 本当に、よかった…

飛び上がって歓声を上げそうになった赤也を、右と左から蓮二と柳生が押さえつけ、ふたりして口元に指を
当て、しーっ!とやっているのを見て、幸村のお母さんが小さくふきだす。

『皆さん、来てくれて、本当にありがとう。
だけどまだ、精市は眠ったままなの。もうそろそろだと思うんだけど… 待ってる?』

そうさせていただきたいのは山々だが…
赤也がうるさくするのではないか心配だ。
それに…
こんなおめでたい日に我々の負けを知らせるのは気が重かった。

『いえ、まだ眠っているのでしたら、今日は帰ります。また、明日の昼に…』
『そう?』
『はい。もし目が覚めたらよろしくお伝え下さい』
『わかりました。
…そういえば、今日は関東大会の…』
『そのことなんですが、幸村くんには我々から直接伝えさせてもらえますか?』
『はい、じゃあそのことも伝えておきますね』
『ありがとうございます。
…帰るぞ』

えー俺時間あるのにーと赤也がごねる。
そうやってお前がうるさくするのが心配なんだと耳元で凄むと、きゅっと体をちぢこませておとなしくなった。

次の日、部員全員で行うウォーミングアップが終わり、それぞれが自分の課題のメニューをこなすため
ばらばらに散っていこうとしたその時、俺はレギュラー全員を集め、自ら制裁を受けた。

幸村への報告が一日伸びた以上、彼に会う前にこれだけは済ませておきたかった。
そうしなければ、自分の気がすまなかった。幸村に会いに行く資格がないと思った。

夏の部活は午前10時から午後3時までは休みになる。
『では、今から3時まで休憩に入る!
自主練する場合はなるべく直射日光の当たらない場所ですること!
暑さへの注意と水分補給は絶対に怠らないこと!以上!』

その場を離れる部員達の波を避けながら、レギュラーが俺の周りに集まってくる。
『行きましょうか』
柳生の声に皆頷いて、着替えるため部室へ向かった。

病院に到着後、まず俺がひとりで入って報告を済ませたいのだがと皆に告げる。
いくら手術がうまくいったとはいえ、まだ万全の体調ではない幸村の前に大勢が一度に顔を出すのはどうか
と思えたし、それから… 皆の前で負けの報告をするのは正直恥ずかしかった。
そこら辺のことは口にしなくても皆察してくれたのか、特に何も言わず、黙って俺ひとり送り出してくれた。

ドアを叩いても返事がない。
眠っているのか、どうしようかまたにしようかと思ったが、顔を見てちゃんと、ちゃんと幸村が生きているのだ
ということを実感したかった。
思い切ってそっと開けてみる。幸村はベッドの上に体を起こしていた。

幸村…
駄目だと思っても嬉しさで思わず顔がほころびそうになるのを押さえられない。
駄目だ、まだ。報告を済ませるまでは。
俺は笑っていい立場ではない。

「幸村、手術、成功おめでとう。
昨日、お母さんから伺った」
「…そう…」

いつもどんな時でも凛と顔を上げている幸村が、沈んだ表情で、ろくにこちらを見ようともしない。
まさか… もう、どこかから…?
部員以外の友人から試合結果を聞いた、ありえない話ではない。
俺は、病気の幸村をひどく落胆させてしまっただろうか…

「それで…
手術が成功したおめでたい時にこんなことを言うのもなんだが…」

幸村は体を硬くして目を伏せる。

「幸村、すまんな」

本当に、申し訳ない。

「関東の決勝で、青学に………」

負けたのだ、そう、告げた。
幸村は、黙っていた。
俺も、何も言えなかった。黙って下を見ていた。

低い、うめくような声がかすかに聞こえてきて、俺は顔を上げた。
幸村…?

「テニスの話をしないでくれと言ってるんだ!!」
え?耳を疑う。
「幸村…?」
「もう帰ってくれないか!!」
幸村は無理矢理といった体で立ち上がると、全身で俺をぐいぐいと押し出し、ドアを閉めた。

約束を守れなかったことを怒っていたのでは…、ない。
幸村は、『テニスの話はするな』と言った。
何だそれは。どういうことだ。
どういうことだ。何が起こった。

「おおおおおあぁぁ!!」
中から幸村の絶叫が聞こえてきた。
幸村…! お前は、お前は一体…!


「…手術は、成功したのではなかったのですか?」
柳生が誰ともなく尋ねる。
そうだ、昨日俺達は確かに手術は成功したと聞いた。幸村のお母さんが嘘をついているとは考えられない。
あんなに嬉しそうにしていたのに。あれが嘘だったなんて思えない。

俺は、俺達は、何を知らない?
知らない…
知らない、そうだとするならば。






(そして幸村と真田)

「幸村」
真田はドアを開けて、もう一度中に入った。
返事は、ない。
幸村は床に膝をついてベッドに突っ伏し、肩を震わせていた。
「幸村!」
真田が幸村の両肩にそっとを手をかける。強い声の調子とは裏腹に触れる感触は優しい。
だが有無を言わせぬ力強さで幸村をベッドから引き剥がすと、立ち上がらせた。

真田と幸村は正面から向かい合う形になる。
しかし、幸村は険しい顔のまま、真田と目を合わせようとはしなかった。
そんな幸村に業を煮やしたのか、真田が呼びかける。
「幸村」

真剣な声。呼ばれて思わず幸村が真田のほうを見、ふたりの目が合ったその瞬間。
真田の握りこぶしが幸村の左頬に飛んできた。
避ける暇もない、驚きと恐怖に肩を竦めることすら許さない速さ。
何も出来ず立っている幸村の頬に真田のこぶしがほんのわずか触れる、幸村の頬に真田の体温が感じられ
るか感じられないかというところで、真田の手はぴたりと止まった。


「諦めるな…!」
体中から、絞り出すような。

「何があったのかは俺にはわからん。だが…!
諦めるな、幸村…!!」

「……さ、な」

「お前は… 生きているのだから…!」

は、と静かに幸村が目を見開く。
(生きている。生きている。自分はまだ、生きている。生きているのだ。そうだ)


「諦めるな。
諦めずに進むことが、辛くても、俺がお前の側にいる。
お前ひとりで行かせたりしない。俺がずっと一緒にいるから…!」
「…真田」
「だから、もう…」

「真田!」
幸村が真田にしがみつく。
驚いて少々よろめきながらも、しかし真田はその少し痩せた体をしっかりと受け止めた。

「…ありがとう…!!!」
(そうだ、俺はまだあれが本当のことかどうかすら確かめていない。
あれが夢なら、間違いなら…もしも夢や間違いではなくても俺はまだ大事なものを取り戻す方法を探すことが
出来る。だってまだ生きているんだ。まだ出来ることはあるんだ。そうだまだ諦められない。諦めたくない)

幸村の目から涙が溢れてきた。あとからあとから溢れ出て、止まりそうもない。
「…真田…!」
きつくきつく渾身の力でしがみつく。
「幸村、一緒に、がんばろう…!」
泣き喚く幸村の背を撫でながら、真田も声を上げて泣いた。


「…俺達は、帰ったほうがよさそうだな」
「そのようですね」
柳と柳生に促され、残りのメンバーはそっと退出した。

病院を出て、入るときオフにした携帯電話の電源を入れる。
「俺が弦一郎に先に戻る旨、メールを入れておこう」
「それがいいですね」

『邪魔をしては申し訳ないので我々は先に戻った。監督にはこちらで事情を話しておく』
(送信、と…)
真面目な真田のことだ、メールの着信音で自分達の不在に気づかれることはない。
これを読むのは、不在に気づいて病院の外で電源を入れてからだ。
そして真田はきっと律儀に返事をよこす。
(返事をくれてもよほど遅い時間じゃなければ部活中だから見られないんだがな…
でも、一体あの弦一郎がいつ俺達が帰ったことに気がつくか、楽しみだな。
いいデータが、取れそうだ…)

人の悪い笑いを浮かべてしまったのか、たまたま柳のほうを見ていた仁王が苦笑して肩を竦めた。


真田は午後の練習時間もだいぶ残り少なになった頃戻ってきた。
帰り道、興味津々といった体の丸井や切原にせがまれ、真田はあの後どうなったのか話し始めた。

「あの後、看護師や医師が飛んできて大変だった」
「そりゃあれだけ大声で泣き喚けば」
それでなくても副部長は声がデカいんだし、と切原が笑うのをひと睨みして黙らせる。

「やってきた主治医と幸村の会話から察するに、どうも幸村は手術が成功したと知らされたその後に、自分の
病室で誰かがテニスなんてもう無理だと話しているのを聞いたらしい」
ええ!と全員が驚きの声を上げる。

「私達は、手術が成功すれば、それはイコール元通りだと思っていましたが…
まさか、成功しても普段の生活には支障はないが激しいスポーツは無理、とか、そういった…」
「いや、そうではないそうだ。
俺達や幸村が思っていた通り、手術の成功、イコール元通りで間違っていなかった」
「よかった〜」
丸井がほっと胸を撫で下ろす。

「でも… ならなんだったんだ?その、テニスは無理、ってのは」
ジャッカルが首を捻る。
「それなんだが… 幸村もその時ちょうど目が覚めるところで、声は聞こえたが顔は見ていなかったと…」
「結局、本当のところはわからずじまいか」
「ああ。幸村は、テニスは無理というのが間違いならばもうそれでいいと、そのことについてはそれで終わりに
なった」
「しっかし、テニスが出来ないって聞いてあんなに取り乱すなんて… 幸村部長も人の子なんですねえ」
「切原くん…」
柳生が眉をひそめる。

「赤也。わしは人の隠しておきたいところにつけ込む悪い子ぉが、嫌いでのう」
ニヤニヤ笑って仁王は切原の頭をぽんぽんと軽くはたいた。
「仁王くん!あなたがそれを言いますか!」
「俺先輩にだけはそーゆーこと言われたくない!」
「言われたくないかどうかはともかく、赤也。この件に関しては他言無用だということを肝に銘じておけ」
「へ、へーい。そんな、柳先輩まで…
つか全員で睨まないで下さいよう〜」

手術を受けなければ命が危うかった。
手術を受けても必ず成功するとは限らなかった。失敗したら最悪…
そんな中悩んで受けた手術、成功したと聞かされたあと、実は無理なのだと聞いた瞬間の絶望。
ここにいる全員、察するにあまりある。


(…幸村…
本当に、よかった…)
真相がわかった瞬間、寝不足と興奮による疲れで幸村はふらふらになってしまい、真田もやんわりと退出を
促された。
名残惜しそうに幸村がベッドから手を伸ばす。去り際、せめてほんのわずかな間でも手を握って安心させて
やろうとその手を取ったとき、幸村は
去年全国制覇したときですらこんなではなかったと思うほどの

美しい笑顔だったことは真田ひとりの秘密だ。






今日から幸村が戻ってくると、朝から部内は沸き立っていた。

「…幸村くんを直接知らないはずの一年生が一番興奮しているようですね」
「無敗でお前の帰りを待つ、あの鬼のような副部長がそこまでする部長というのはいったいどんな人物か…
それが気になるんじゃろ。実際見たことないだけによけいにな」

「あと、副部長がその部長の前ではどんな風におとなしくなるのか、それも気になってるらしいぜ」
「丸井くん」
「なんだかほとんど伝説になってんな… お、もうこんな時間か」
「何時?ジャッカル」
「9時半。そろそろ来るんじゃないか」
四人が門の方角に目をやったとき。
ちょうどその時、部室棟に程近い一角からわあと歓声が上がった。

「おや、もう来ていたんですね」
「アイツのユニフォーム姿… 久しぶりだぜい!」

幸村に気づいた部員達が次々と側に駆け寄り、退院と復帰を祝う言葉をかける。
幸村はにこやかにそれに応えながら、コート全体が見渡せる位置で練習を見ていた真田のところまで歩いて
きた。
「…真田」
「…わかっている」

「全員、集合!」
真田が大きな声で怒鳴った。
既に幸村を取り囲むようにかなりの人間が集まっていたので、あっという間に全員がそこに集合した。

「皆… いるね?」
はい!と全員が声を揃える。

「真田」
幸村が、真田のほうを向く。
「ああ」
真田が幸村の前に立って、ふたりは正面から向かい合う形になった。

二人の間にぴんと張りつめる空気に、いったいどうした?何が始まるんだ?と、集まった部員からごく控えめ
なざわめきが起こる。

だが、真田が幸村に向かって右手を振り上げた瞬間、ざわめきがどよめきに変わった。
どよめきの中、人の手が人の顔面に当たる音が、鈍く響く。
その時、一瞬でどよめきは消え、テニスコートはしんとなった。

幸村は、ぐらりとよろめくのを一歩で踏み止まった。
そうして、自分の口元に触れ、血が出ていないか触れた指先を見て確かめる。
そして
「…ありがとう」
と殴った真田に向け、微笑んだ。
それに、小さく頷いて真田は応えた。

驚き、そして幸村の次の言葉を待って声もない部員を、幸村は振り返った。

「皆。長い間留守にしてすまなかった。
既に副部長から連絡されていると思うが、今日から部長として部に復帰する」

「だが」

「その前に、俺は制裁を受ける必要があった」

「俺は、入院している間、一度だけ、負けそうになった。
生きることに、怯んだ」

「立海大付属中テニス部部長として、恥ずべきことだ」
幸村はそこで一度言葉を切り、大きく息を吸い込んだ。


「俺はもう、二度と負けない」


「皆。また俺についてきてくれるか?」
そこかしこから応の声が上がり、やがて大きなどよめきとなる。
そしてその中でも一際大きく、凛と、幸村の声が響く。

「我ら全員で成し遂げよう!立海大付属中、全国大会三連覇を!!!」

天を衝く歓声。
幸村が、戻ってきた。



(08/02/03)
(単行本派の方へ。本誌掲載時と単行本収録時で真田のセリフが一部異なっています。詳しくは、『talk』にある42巻感想をご覧下さいませ。)

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