浜益に残る義経伝説(源義経は浜益に来たのか?)
●浜益という名前の由来

浜益という名前の由来はいろいろあります。
いずれもアイヌ語で、「マシュキニ(ニシンの多いところ)」「マシケイ(カモメの多いところ)」「アママシュケ(穀物を炊く)」などのいわれがあり、そのうち「アママシュケ」が源義経にまつわる名前の由来といわれています。
かって、義経がたどり着いたときに、この地で飯を炊いて食べたことにちなんでいるそうです。

●義経、ゴキビルに到着(ゴキビルの岩燕伝説)

義経は奥州藤原氏のもとを逃れ、津軽海峡を渡り、後志の国に入り、やがて浜益の地へやってきました。
ゴキビルに到着した義経はアイヌの酋長「トミハセ」の供応を受けました。トミハセには美しい娘がおり、娘は義経のことを好きになってしまいます。やがて、疲れを癒した義経が出発するとき、老婆が娘の代わりにと2羽の岩燕を贈りましたが、燕はすぐに娘のところに戻ってしまいます。
ですが、燕が戻ったときには、娘は毒を飲んで死んでしまったあとでした。
娘の可愛がっていた2羽の紅い頭の岩燕が、娘の恩を忘れず未だにゴキビルの洞窟に棲みついているそうです。

●義経、トドを食べる(マラプトフンナイ)

ゴキビルを出立した義経一行は、群別のマラプトフンナイに到着。
マラプトフンナイは現在の室蘭沢だといわれている。
アイヌは義経に海馬(とど)をとってご馳走したといわれている。

●義経、モンゴルへ

雄冬岬のカムイチプトイは、義経が船でここまでやってきて、船を捨てて陸に上がり、山を越えて北に赴いた場所といわれている。
「カムイ」は義経を指し、「チプ」は船をいい、「トイ」は上るという意味で、他にも弁慶がここに住んだとも伝えられている。
ここで義経の伝説は途絶えており、義経は浜益からモンゴルに渡り、チンギスハーンになったという説もある。

今から約800年前、平安時代末期のアイヌ人が、源義経一行に出会ったのか?衣川で死ななかった義経は果たしてどこへ?