〜昭和52年3月(1977年)〜

生涯一度は生まれ故郷を尋ねたいとの想いは以前からあった。
明治38年5月25日、私は喜久太郎の長男として青森県東津軽郡一本木村字奥平部字綱知らず村に生まれた。明治43年3月、5歳の私は父母と弟と共に春の漁夫輸送船に乗せられて浜益に連れられてきた。それ以来長い間、仕事仕事で生きてきたが、昭和47年、浜益村役場を退職した時、望郷の念が強くなった。しかしそのときは、建設会社に再就職が決まり、旅行は実現しなかった。
 昨年5月の連休の際は、昇(四男)が車で青森まで連れて行くと言ってくれたが、年老いた母を置いて行くわけにもいかないので断念した。
 今年は建設会社を退職したことだし、かねてからの希望のとおり旅行に出かけることにした。
 
 3月14日、昇が滝川経由で札幌に行くと言うので、昇の車に乗せてもらい浜益を出発した。午後1時に札幌に到着した。澄子(三女)に「今日は札幌に泊まって、明日出発したほうが良いのでは?」と言われたが、一旦行こうと思った以上、一刻でも早いほうが良いと思い、早速札幌駅に向かった。切符を買いに行ったら、特急は全部売切れだった。急行ならあるというので、札幌発午後6時の列車で小樽・倶知安を経由し函館へ向かった。
 50余年ぶりの津軽海峡。乗船時好天。夜の函館をあとにして青森に向かう。午後4時53分青森発みちのく列車にて八戸へ。3月15日午前6時、八戸駅着。下車したら中島君(四女の夫)が迎えに来てくれているはずなのに来ていなかった。駅前から電話で連絡したところ、実は時間に迎えに行ったが、列車の到着が2時間くらい遅れると言われたので、家に戻ったばかりだとのことであった。迎えに行くから待っていてほしいと言われ、駅で待っていると、美華ちゃん(中島の長女)を連れて迎えに来た。美華ちゃんはおじいちゃんが来るというので、今朝5時から起きていたそうです。住宅は丑鞍森(うしくらもり)という、八戸市の東部の盆地を開拓した新興住宅地で、八戸市を一望できる大変景色のよいところでした。

 3月19日、土曜日ではあるが、中島君が休暇を取ってくれた。私の生地に案内してくれるというので、美華ちゃんを連れて出発した。淑子(四女)もいっしょに行くと言ってくれたが、務ちゃん(中島の長男)が風邪気味のため、行かないことにした。
 青森市まで約130キロのところにある浅虫温泉に立ち寄った。学生時代修学旅行で一泊したことがある。まだまだ立派な温泉街だと思っていたが、今見る限りちっぽけな街のようで期待に反した思いだった。
 小山まゆ(母の妹)宅を尋ねた。ようやくにして探し当てた。「ごめんください…」。おばあちゃんが出てきた。この人が小山まゆさんだなと思い、「北海道からきた繁穂です」と告げると、「繁穂さんの子供ですか?」と言われた。「いやいや私が繁穂ですよ」と答えるとびっくりした様子で「ずいぶん若いですね…」
 小山の家は小間物店を開いていてとても多忙の様子であった。昔話をしながら昼食をご馳走になり、美華ちゃんにも土産をたくさんいただき、また寄るからと約束して立ち去った。
 それから、奥平部字綱知らずを尋ねるべく青森湾を西へ西へと急ぐ。浜益を出発する際、母に聞いた話では、約10里くらいあると言っていた。道幅は狭い。車1台ようやくの状態で、対向車が来るとようやくかわすくらいの道幅である。途中ところどころにかやぶきの家が見える。昔ながらの名残を留めている風景も見られる。海が時化で時々波が道路越しに押し寄せている。
 蟹田を経て平館へ。平館には燈台がある。この燈台も昔ながら、青森湾を出入りする船舶の航行の安全を見守っているのでしょう。
 1時間くらい走った頃から今まで荒れていた波も静かになった。綱知らずが近いのではないかと思い、道路標識に気をつけながらしばらく走ると、目的地の綱知らずの標識が見つかった。
 子供の頃の思い出どおり、入り口には滝があり間もなく学校がある。
 しめいち(屋号)の家が近いような気がして車から降り、通りがかりの人に「金兵衛さんの家はどこですか?」と尋ねたら、「二・三軒先の家がそうだが、今は誰もいない」とのことであった。このまま帰るのが残念でならない。三軒ほど離れたところに我が家と同じ苗字の表札の家があったので尋ねたら、町はずれに親類の家があるから行ってみなさいと言われた。尋ねたところ、50歳くらいの女の人が出てきた。
 「私は北海道から来たものですが、金兵衛さんは私の本家で、子供の頃2ヶ月余り世話になったことがある」と説明した。「ぜひ佛様を拝ませてほしい」と頼んだら、早速錠を持って案内してくれた。
 子供心で知っていることは、正面玄関から入ると中庭で、左側が離れ座敷、右側の方が道路に面していて、元呉服店をやっていたため、店のつくりになっている。奥の方の右側が一般住宅で佛間・座敷・台所などがあった。一般土間を過ぎ、奥には土蔵があったが、今この目で見る限り寸分変わってない。ただ、留守にしているので人の出入りが少なくさびれていた。
 佛壇は界隈では他では見られない立派なものだと母から聞いていたが、案内してもらったらそのとおりだった。記念にと写真を撮ったが、暗かったためうまく撮れただろうか。
 母がいつも「津軽の人達は何して暮らしているだろう?」と言うので、その人に聞いてみた。「今、この海でどんなものが取れるのですか?」と聞くと、昔からアワビ・昆布・ワカメなど何でも取れるそうで、特にこれから子女子(こおなご)が大漁だとのこと。子供さんたちが綱知らずを引き揚げて青森に来るようにと言うが、自分の生きている間はこの土地を離れたくないと末娘と2人で暮らしているそうだ。厚くお礼を述べて立ち去った。
 私の生まれた部落がこの部落より少し離れた奥平部というところなので、そこまで車を走らせてみた。私の育った家はよその人に売られてしまっていたが、屋敷だけはそのまま残っていた。思い出の地を偲びながら帰途につく。二度と訪れることのない土地になるだろう。
 小山さんの家に泊まることも考えたが、美華ちゃんも連れているし、中島君も温泉に泊まりたいと言う。明日、母の生まれた水沢を尋ねる予定なので少しでも近いところに宿をとろうということになって、弘前まで行くことにした。
 青森市を出て20分くらい走ったところで、道が二つに分かれる。弘前方面は左側へ、右側は板橋方面になっている。「板橋温泉にどうぞ」という標識があったので、そこに宿をとることにして、板橋方面に車を走らせた。相当時間走ったが、温泉らしいところが見当たらない。さらに走ったところにそれらしい宿が一軒あったが、満員のためと断られたので、やむなく引き返して弘前市へ向かいました。日暮れ近い頃となり、初めての土地でもあり、宿がどこにあるのか分らない。観光地であるから、弘前城のまわりに宿があるだろうと思ってグルグル数回まわってみたが、なかなか見つからない。ようやくにして一軒の宿を探し当てたら、泊めても良いということなので、泊まることにした。案内されて部屋に入ったところ、改装中でとても泊まる条件ではないが、今さらどうにもならないので宿をとることにした。

 翌日3月20日午前8時、宿を出て藤崎経由で水沢に向かう。二・三尋ねて吉田家(母の実家)を探し当てた。「北海道から来た田中です」と告げると、「さあどうぞ、あがってください」とのことであがらせてもらいました。出てきたのはお嫁さんらしい。さっそく佛様を拝ませてもらいました。拝んでいる間、私のそばに座って私をとっくり見ていましたが、「本当に家の人とそっくりです、よくもこんなに似ているものだ」と感心していました。実は昨日、青森の小山から私が尋ねる旨の電話があったという。夫が弘前に遊びに行っている姑を迎えにいって、もうまもなく帰るのでしばらく待ってくださいと言われた。まもなく孫を連れて3人で帰ってきた。
 姑さんは色々な昔話や当時の苦労話をしてくれました。姑さんの言うには、戦争が始まったとき夫が出征して、子供たちも小さいし耕作する人がいないため、水田を五反歩くらい残して手離したそうだ。戦争が終わってみたら、他に仕事もないことであり、何とか水田をほしいものと考え、少しずつ質戻しした。現在一町五反余り保有できたそうで、その間早く起き、青森まで毎日のようにかつぎ屋をやり苦労したそうである。7年くらい前に現在の家も新築できたそうで、今では裕福な生活をしているようにみえた。
 60余年振りで尋ねたのでほとんど顔など知らない仲であったが、よく来てくれたと大変歓迎されて、ごちそうになり、津軽米とリンゴなどたくさんいただいた。午後3時頃出発して青森市を経て午後6時過ぎに八戸に帰る。

 3月21日、十和田湖まで案内してくれるというので、淑子と美華ちゃん務ちゃんも連れて5人で出かけた。まだ本格的な観光シーズンでないためか、車はそんなに混んでない。道路は完全に舗装されて快適なドライブである。山道にかかる頃から道路の両側は樹木がうっそうと茂っている。まだ春先のため、木の芽がまだ眠りから覚めない時期なので、はだかのままの樹木である。やがて湖畔についた。湖水をわたる風は肌を刺すような寒さである。まだ本格的なシーズンに間があるので、土産店は開いているだけで客足もまばらである。いろいろな施設も冬ごもりのままで、これからのシーズンに向けてボートの手入れなどをしている風景が見られる。これから青葉が茂り、秋の紅葉の候ともなれば、すばらしい光景になるだろうと創造しながら十和田湖をあとにして八戸に帰る。
3月22日、八戸駅をあとに仙台に向かう。午後4時過ぎ、仙台駅に着く。昭夫(次男)、孫たちの元気な姿にほっとした。
 3月25日、仙台発横浜へ。西塔キヌ(妹)宅に泊まる。
 3月27日、章君(西塔の長男)が会社を休んで鎌倉見物に連れて行ってくれるというので、子供さんとキヌの5人で出かけた。初めは西塔家の墓地にお参りした。ハイヤーで出かけた。墓には監理する寺があり、お参りに行くとお花・お線香・お水などをそこで売ってくれる仕組みになっている。ハイヤーも心得たもので、お参りしているあいだ、きちんと待っていてくれる。
 墓地をあとに鎌倉に向かう。建長寺・円覚寺・鶴岡八幡宮に参拝して帰途に着く。途中横浜の外人墓地・海の見える丘公園を見てまわる。ここからはその名の如く横浜港がひとめで見える。とても素晴らしい。氷川丸も港に繋がれたまま横たわっている。中華街を通って西塔宅に戻る。
3月29日、午前10時30分発で仙台に向かう。
4月3日、午後から昭夫が松島見物に連れて行くと言うので、裕之(昭夫の長男)と友恵(昭夫の長女)を連れて出かけた。あいにく午後から雨になったが、陸からの松島をドライブした。無数の島に囲まれた湾のため、育てる漁業にはうってつけのところである。
帰途、塩釜神社に参拝。神社は荘厳そのもので驚きました。
4月4日、午後2時30分仙台発八戸の中島宅へ。
4月5日、午後10時八戸発フェリーで苫小牧へ。途中波静か。
4月6日、午前6時苫小牧港着、札幌へ。澄子(三女)宅に泊まる。
4月7日、午後6時家に帰る。浜益着。

旅行終了     25日間