天下る男

3月31日、1人の男が退職した。
40年間の公務員人生だった。
4月からはある建設会社に入社が決まっていた。
いわゆる天下り。
建設会社の社長が「ぜひ来て下さい」と言ってくれた。

第2の人生が始まった。
とりあえず役所の元部下に会いに行った。
「おい、仕事くれよ」
「わかりましたよ」
と男はいきなり大きな仕事を取ることができた。

男は会社に戻って社長に報告した。
そしてアルバイトの女性が持ってきてくれたコーヒーを飲んだ。
他の営業マンも戻ってきた。
10万円の契約を取った人もいれば、1円も取れなかった人もいた。
男はダントツトップだった。

彼は毎日役所に顔を出した。
会社では新聞を読み、コーヒーを飲んでいた。
彼は役所の仕事を一手に引き受けるようになっていた。
週休3日、午前10時に出勤して午後5時に帰る毎日。
他の営業マンは1日中走り回っても男には遠く及ばなかった。

バブルの時代が終わり、平成不況の時代がおとずれた。
男の会社の経営も厳しく、リストラを進めていた。
でも、男には関係の無い話だった。
ある日、いつものように役所に顔を出した男に元部下は言った。
「もうだめです、厳しくなりましたよ」

仕方がないから隣町の役所に行くことにした。
男にとって初めての営業活動だった。
一番手前に座っていたのは若い男性だった。
「お忙しいところ申し訳ありません。○○会社の○○です」
席に座っている若い男性は「うん」とだけ言った。
机の上に置いた名刺を見ようともしなかった。

男はカーッと頭に血が上った。
これが目上の人間への態度か!
この役場は接客態度が悪い!
次の席に座っていた職員には無視された。
男はおもいきって話しかけてみた。
「ちょっと話だけでも聞いてもらえませんか?」

「今忙しいから今度にして」
振り向いてもくれませんでした。
次の席に向かおうとしたとき、男は見てしまいました。
さっきの若い男性が、男の名刺をゴミ箱へ捨てるところを見てしまいました。
男はその場に立ち止まってしまいました。

気が付いたら男は車の中でした。
悔しくて体が震えていました。
エンジンをかけることも忘れていました。
昔の職場は良かったなあ。
みんな親切だった。

自分は親切だっただろうか?
男の脳裏に昔の記憶がよみがえった。
営業に来た人に親切だっただろうか?
男は愕然とした。
あの若い男はカガミだ。
自分の昔の姿を映すカガミだった。

自分が一番威張っていたかもしれない。
今の会社の同僚にも同じような態度を取っていたかもしれない。
男は急に恥ずかしくなった。
会社に戻るのが嫌になった。
40年間、必死に人に頭を下げたことがあっただろうか?
屈辱に耐えたことがあっただろうか?

次の日、男は会社に辞表を提出した。
送別会もない二度目の退職だった。
余った名刺にライターで火をつけた。
灰皿の上で燃えていく。
タバコで突っつくと粉々になった。
やり直そう。

人生はいつでもやり直すことができる。
ボランティアってなんだろう?
近所のゴミ拾いでもしようかな。
家族ってなんだろう?
食器を片付けたらビックリするだろうな。
男の第3の人生が始まった。