浜益村開基130年目の試練

明治5年(1872年)、浜益に戸長役場が創設され、初代戸長に本間豊七が任命されてから今年(2001年)で130年目を迎えた。浜益村が誕生した当時の人口は813人だと記憶している。その後、鰊漁と共に村も発展しつづけ、昭和30年には人口も9000人を超えた。一方で昭和30年は鰊が凶漁に終わった年でもあり、浜益村の歴史の大きな転換期となった。以後、人口は減り続け、現在の人口は約2300人。25年後には1100人になると予想されている。
私の曽祖父で4代目当主の才助は明治27年(1894年)に青森を離れ、浜益村に来た。私の祖父で5代目当主の松と父で6代目当主の喜久太郎と私は明治43年に浜益村へ来た。我が家も浜益村に渡って107年の歴史を刻んでいる。我が家が歴史の舞台に登場したのが文化10年(1813年)なので、来年(2002年)で190周年を迎える。私の子供の世代(8代目)がもう社会の一線を引退する年を迎え、孫の世代(9代目)が社会を担っていく年を迎えた。ひ孫の世代(10代目)も小学校を卒業するくらいの年になった。私も安心して引退できる。浜益の墓も、孫の1人が役場に就職したのでもう安心だ。

しかしこれからの人達は大変だ。少子・高齢化が進み、人口が減少していくのに危機感がないような気がする。私は11人兄弟だったし、私も8人の子供を育てた。今は1人か2人しか子供を産まないらしい。「子供を育てるお金がない」「仕事を続けたいから子供はいらない」「家が小さい」「晩婚化・結婚しない人が増えている」など理由があるようだ。なかには今の日本の社会だったら産んだらかわいそうだと産まないひともいるらしい。これでいいのだろうか?
リストラも深刻だ。突然会社を首になる。会社が潰れると真っ先に行われるのがコレだ。江戸時代のように士農工商という身分制度があった時代は農家の子は農家だった。今は画一的な勉強を学生時代に叩き込まれ、農家の子も漁師の子もサラリーマンの子も一流企業を目指す。コレじゃ第一次産業の後継者なんて育つわけがない。サラリーマンの子が農家を目指したとしても、土地はない重機はないのでまずお金がかかる。漁師になりたくても船はないし、漁業権もないのでできない。建設会社で働くのならお金はかからないが、公共事業が見直されているので今は仕事が減っている。女性の社会進出で男性労働者が追い出されたのだろうか?妻が働きたいと言うなら男性が家事をすればよい。サービス残業をやめれば雇用が増えるのだろうか?8人からサービス残業を5時間ずつもらえば40時間になり1人雇用できるという党があるが、仕事とはそのような単純なものじゃない。どうすればいいのだろうか?

浜益村も人口がどんどん減っている。高校を卒業しても仕事がないから子供たちは出て行ってしまう。農業や漁業は魅力がないから親のあとを継がない。子供たちには罪はない。生きていくためには働かなくてはならないのだから当然の行動だ。しかし、人口が2000人を下回ったらもう自治体として存続できないのではないだろうか。浜益村という老舗の看板をおろす日は近いのではなかろうか。役場は市町村合併は住民の判断が大事だと言っているが、それはただの責任逃れ。だれしも進んで合併しようとは思わないはずだ。これ以上存続していてもいずれ破綻するのが目に見えているのに、役場の職員は議員さんとか住民に嫌われるのを恐れて、自分から合併しなければとは言わないで、サービスが低下してから住民に言わせようとしている。それこそ万死に値する。

浜益という土地は市町村合併で石狩市になったとしても残っているし、住民も強制移住させられるわけではない。一部の有力者の利益と村の名前にこだわることはない。今は住民が住む場所を選ぶ時代だ。これ以上住みづらい村になれば、誰もいなくなってしまう。私も子孫にいつまでもどんなことがあっても村から離れるなとはかわいそうで言えない。村から離れて幸せに暮らせるならむしろ喜ぶべきことなのだ。今、浜益村は大きな岐路に立たされている。130年目の大きな試練を乗り越えることが出来るのだろうか?