覇王の孫
親が立派な国会議員だから、子供も立派な国会議員になれるとは限らない。二世議員三世議員が幅を利かせているが、国会議員は世襲ではない。苗字に知名度があるからといって安易に地盤・カバン・看板を子供に渡してもいいのだろうか。能力がなければ国民に迷惑がかかり、本人も重荷を背負うことになる。
同族企業も二代目三代目が、創業者の起業精神を忘れて辞任に追い込まれたり、時代の変化に対応できずに会社をつぶしてしまうことが多い。芸能人もいつのまにか世襲になってしまった。スポーツの世界も気がつけばジュニアと言われる人が増えている。お父さんよりも…という気持ちが逆にプレッシャーになっている人もちらほら。

鎌倉幕府を開いた源頼朝の長男で二代将軍頼家と次男で三代将軍実朝。頼家は幽閉され、実朝は殺されて、鎌倉幕府の実権は執権北条家に握られた。豊臣秀吉の子秀頼は大坂城落城と運命を共にした。十五代続いた室町幕府と江戸幕府も15人全員が将軍にふさわしい器量を持っていたわけではない。開祖足利尊氏と徳川家康が作った土台があったからこそ200年以上続いたのである。

1582年、天下統一目前だった織田信長が、本能寺の変で明智光秀に倒された。織田家の家督を継いでいた長男信忠も二条城で戦死した。織田信長亡き後天下を取ったのは羽柴秀吉、のちの豊臣秀吉だった。清洲会議で織田家の後継者に指名されたのは、信長の次男信雄でも三男信孝でもなく、長男信忠の嫡子で3歳の三法師だった。三法師の後ろには秀吉がいた。いつのまにか天下の主は織田家から豊臣家に移っていた。三法師は祖父信長・父信忠の居城だった岐阜城の城主になり、覇王信長の孫として特別な待遇を受けることになった。

1600年、秀吉亡き後の豊臣家の奉行石田三成率いる西軍と徳川家康率いる東軍が関ヶ原に向かっていた。そのころ三法師は元服して織田秀信と名乗っていた。秀信には東軍・西軍両方の陣営から誘いがきたが、迷ったあげく西軍に合流することに決めた。ところが出陣する前に東軍に岐阜城を包囲されてしまった。東軍は岐阜城を攻めようとしたが、相手は覇王の孫である。躊躇して誰も攻め込もうとしない。東軍から城に使者が送られ、秀信は降伏した。

関ヶ原の合戦が東軍の勝利に終わったあと、秀信は岐阜城を没収され、高野山に幽閉された。覇王の孫ということで切腹は免れたが、まもなく20代の若さで病死した。もしも織田家が天下を取っていたなら、徳川家光のような立派な3代目だったかもしれないが、戦国の世を勝ち抜いていく器量はなかった。織田信長という祖父の名前が重たかったのかもしれない。織田家は信長の次男信雄と信長の弟有楽斎の子孫が明治維新まで藩として存続した。