●昭和53年
母は91才になる。健康体で別に病気らしい病気はない。何せ老体であるから足腰は弱い。歩行は達者でない。ただし朝は永年の習慣とでもいうか早起きで規律正しい。起きて床を上げ、髪をきれいにとき顔を洗い、佛様を拝んで朝食をとる。こんなことが朝の日課である。
テレビを見ることが何よりの楽しみで、ルンペンストーブの横に坐ったり寝ころんだり、それが只見るだけでなく理解しながら記憶力の良いのには驚くばかりである。夕食後もテレビを見る。よその年寄りなら早寝と聞いているが、うちの母はなかなか寝ない。午後10時過ぎまでテレビを見ている。たまに寝ないかと言うと、「早く寝ると小便に起きるのが大儀だからなるべく遅く寝るんだ」と言われると、早く寝るようにとも言われない。これが母の1日の日課である。
何か他人が物言うと、目が悪い耳が遠い世間話が知らないと言いながらちゃんと解っている。若い時からペチャペチャ他人と会話をかわすたちではないが、心の中ではチャンと考えをもっている。言うならば、たちが悪い方の型である。
こうした型に育って来たことには、それなりの理由がある。
青森県東津軽郡一本木村字奥平部は私の生家である。金兵衛は本家で、数代に亙り村長職を務めた家柄で、そのかいわいでは名家である。母の姑は婿取りで婿さんは秋田の杣(そま)人夫である。名前は松という。少なくとも土地の上流家族の育ちのためで体も余り丈夫な方でもなし弱かった関係もあり、働くことをしない人であった。子供は男3人に女1人で私の父が長男で次が女であったが、松前所課浜益に鰊の漁場を経営している澤谷に奉公に出し、弟も浜益に働きに出していた。末の男の子は小児マヒの状態であった。そして長男(私の父)も漁場の漁夫として浜益に働きに来ていた。
明治43年、澤谷の当主は姑の末弟にあたることから、津軽を引きはらって浜益に来るようにとのことで津軽を引き揚げることになった。私が5才と弟の瑞穂をつれて母は夫に連れられて浜益に居をかまえることになった。明治43年3月春の漁夫の送り込みの船でやってきた。これから浜益の生活が始まったのである。
母の話によると、澤谷の当主が姑の末弟で、生後間もなく母に死別してまだ乳飲み子で育てられた恩等があるため、浜益に呼んで土地をくれるからと言うので呼んだのだそうだが生憎実現しなかった。大正の元年ごろ、姑も内地を切揚げて浜益に来た。
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